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天磐船(あめのいはふね)、巨石文化の一つ

2679年(R01)09月18日改稿(H28年7月18日初稿)
今日は「海の日」
今日、H28年の「海の日」(第3月曜)は7月18日(祝)。「海の日」は「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」日ってことになってる。もとは、1876年(明治9年)明治天皇の東北地方巡幸の際それまでの軍艦ではなく灯台巡視の汽船「明治丸」によって航海をし7月20日に横浜港に帰着したことにちなんだもの。

日本人は縄文以来の海洋民族
日本は海に囲まれた島国であり、従って日本民族は海洋民族である。…といいたいところだが、本当に海洋民族として世界に出たのは最近では明治以降と、その前は鎌倉時代〜安土桃山時代の「倭寇」の頃と、その前は半島を支配下においていた大和時代と、その前は縄文時代には太平洋を渡っていたという説もある(この説にはいろいろ問題もあるが今回はふれない)。

磐船伝説
全国各地の巨石文化の中には、「磐船」(いわふね)と呼ばれてる巨岩がちょいちょいあるんだが、だいたい地元の伝説では饒速日命(にぎはやひのみこと)の神話にこじつけられてることが多い。饒速日命については後日、機会を設けて詳しく論ずることにして、今回は天磐船(あめのいはふね)の話をしたい。
饒速日命が天之磐船に乗って大空から降りてきた話それ自体は簡素ながら『日本書紀』にも一言だけ書かれているから、関係はあることはわかるが、しかし『古事記』には邇藝速日命はでてくるが天からおりてきたとかいう話はまったく無い。これは空飛ぶ船の信仰ではなく海上の船なのである。また、巨石文化は通常、新石器時代の遺物とされるが日本では新石器時代は縄文時代に相当する。縄文時代以来の信仰伝統なのである。

「磐船」の具体例
天磐船でいちばん有名な巨石は大阪府交野市の磐船神社の磐船、それに次いで大阪府河南町の磐船神社の磐船がある。大阪府内にはこれ以外にも、磐船伝承がまた2ヶ所ある。一つは大阪府天王寺区味原町のあたりに磐船山という丘があって、そこにあった磐船が天長三年(826)の洪水で丘が崩れて埋没してしまったという。今はその磐船山も平地にされて消滅、住宅地になっている。すぐ近くに阿加留比賣(あかるひめ)伝説で有名な比売許曽神社があり、もともとは比売許曽神社に属する磐座だったらしい。もう一つは東大阪市岩田町の石田神社(いわたじんじゃ)でこの神社の北の方に欽明天皇の頃までは二つの墳丘と巨大な岩船があったがその後、埋もれてしまい、墳丘も徐々に小さくなって今では完全に消滅してしまっている。この2ヶ所は饒速日伝説の地に比較的近い。さらに遠方だと、宮崎県都農町の尾鈴山には「天の磐船」とよばれる巨石があり、日南市の潮嶽神社(うしおだけじんじゃ)には海幸彦が磐船に乗って流れついたという伝承がある。滋賀県東近江市の猪子山の岩船神社にも磐船とされる巨岩がある。新潟県村上市(旧・岩船郡)の石船神社には磐船そのものはないが様々な磐座(巨石)があるのでいずれかが磐船だったのではないかと思われ、また茨城県城里町の石船神社は全国でも珍しいことに鳥石楠船命を御祭神としている。この神を祀るのは東京だと墨田区の隅田川神社がある。山梨県にも複数の石船神社と「磐舟」の地名がある。長崎県の五島列島、茨城県の磐船村、静岡県などその他にも全国各地に磐船があるという。巨石の磐船そのものでなくとも栃木県に岩船山、福井県に磐船神社があり、これらは地名だけだが探せば伝説なり磐座(巨石文化)なりみつかるのではないか。
岩船山
↑栃木県岩舟町の岩船山。特撮番組のロケ地で有名。コスプレイヤーが爆発をバックに撮影会したりするところ。岩舟町は新海誠の『秒速5センチメートル』の舞台としても有名w

船なのに山にある理由
ところで磐船とされる巨岩は山の中に多い。だから空から降りてきて山頂に降り着いたという話になるんだろうが、前述の大阪府天王寺区味原町の磐船山や、東大阪市岩田町の石田神社の墳丘は、地形からみてすぐ思い出すことがある。それは、往古には大阪平野はかなりの部分が海だったということだ。当時なら、味原町の磐船山や、石田神社の墳丘は、航行の目印にちょうどいい島か岬だったはずである。大阪平野も奈良盆地も海だった時代には生駒山地と葛城山地は南北に続く巨大な岬というか細長い半島だった。交野市の磐船神社の磐船街道を通って南に山岳地帯をぬけた平地部(生駒市の一部)は大昔は港だったのだろう。次に河南町の磐船神社は葛城山地の中で、この山を降りた西側(大阪府側の太子町や河南町)の平地も港だったろう。ここの磐船石は全体の形が船なのかどうか疑問もなしとしない。ここには48個もの磐座があるといい、明らかに眺望のよい巨石もあるので、なにか別の岩を誤って磐船とよんでいるのであって他のいずれかの岩が本来の磐船ではないのかとも思われる。福井県の岩船神社も、栃木県の岩船山も、大昔には海に面していたことは地形を一見して想像できる。つまり磐船とされる巨石のあるところや、岩船という地名が残っているところは太古には海辺だったところで、どれも原始時代の港の跡だろう。巨石文化はもちろん神の依り代としての岩を祀るのだが、船をかたどった岩というのはいわゆる「船魂」(ふなだま)信仰だろう。山の中で船魂とは一見おかしく思われるかもしれないが、後世でも三島神社や大杉神社、安波信仰など、山の神が航海の守り神として信仰されることが多い。これは山が航海の目印になることと関係している。磐船伝説とは船魂信仰なのである。

雄大なる海人の世界観
このことは太古の日本、特に巨石文化の全盛期(縄文時代)にも、日本人が海洋民族だったことを如実に示しているのではないか。その伝統は冒頭に書いたように現代まで断続的に続いていたのである。『延喜式』の祈年祭(としごひのまつり)の祝詞は、天照大神への決意を述べているが、海の民にふさわしい雄大な野心にあふれたものになっており、

(前略)…伊勢に坐(ま)す天照大御神の大前に白(まを)さく、皇神(すめがみ)の見霽(みはる)かし坐す四方(よも)の国は、天(あめ)の壁立(かきた)つ極(きは)み、国の退立(そぎた)つ限り、青雲の靄(たなび)く極み、白雲の墜坐向伏(おりゐむかふ)す限り、青海原(あをうなばら)は棹柁干(さをかぢほ)さず、舟の艫(へ)の至り留(とどま)る極み、大海原に舟満ち都都氣(つづけ)て、…(後略)
伊勢神宮に鎮座されます天照大神の御前に申し上げます。大御神様が天上界からはるかに見渡されます世界の国々は、天が海にくっついてみえる水平線のはてまで、たなびく雲が地平線に沈む彼方まで、船の櫂も舵も乾く暇のないほど航海を続け、船首の先が最後の未知の陸地に突き当たるまで、広大なる大海洋に無数の船を浮かべつらねて(以下略)

とある。草原の民がつまり馬の民であるように、海の民とはすなわち「船の民」なのである。『延喜式』は平安時代にまとめられたものだが、そこに採録された祝詞はそれ以前の古いものである。白村江の戦いから倭寇の発生までの期間は、日本が島国に閉じこもっていた時期だが、この期間でさえ海洋民族伝統は古式が残りやすい祭祀儀礼に残存していた。縄文の海洋伝統と平安王朝をつなげることを短絡的だと批判するのは当たらない。この祝詞は平安時代を遡るつい数百年前にゼロから作られたのではなく、縄文一万年の伝統の末端だったことは、天磐船が『日本書紀』にもはっきり書かれていることからも容易に推測できる。そしてその精神は倭寇の時代にまでつながっているだろう。インドの東端を含む東南アジア全域を股にかけた倭寇の活動圏は西洋の大航海時代の海賊にも劣らぬ世界最大の広がりをもっていた。
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「海の民」と「山の民」
問題は、倭寇の終焉から明治開国までのイメージが強すぎてここばかり注目すると「日本人は海洋民族なんて言い草は嘘っぱちじゃねぇか」という主張が出てくる。まぁ日曜日に家で寝てばかりの親父しかみてない子供が「うちのお父さん怠け者」と思い込むようなもんだけどね。
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しかし日本列島の面積の9割は険しい山々で、そこで育まれた「山の民」の文化もある。日本人は山岳民族だともいえるのである。さらには平野部では水稲工作二千年の伝統があり、この一面だけを強調すれば「日本人は農耕民族だ」という言い方にもなる。日本は「海・平野・山」の三重の文化構造をもっている。ただし強いていえばこの中では農耕文化はいちばん新しい最近に加わった要素で、根幹・基層にあるものは縄文以来の「海と山」の文化だろう。この「海の民と山の民」は異民族同士でもなく対立関係にあるのでもない。美濃や信濃の山の中に安曇部(あずみべ)という安曇氏(海の民の宰領)の部民がかなり多いのは奇異なこととされ注目もされている。むろん信州の数多の盆地も大昔は巨大な湖だったり、さらなる太古には海ともつながっていたから、海人の痕跡があってもいいんだが、さすがに超古代文明っぽい話になってしまうので、もう少し平凡な別の解釈としては、一つには安曇氏の海上輸送業が主要な物流ルートを担っていたため、内陸部の交易路も日本海と太平洋をつなぐ視点で安曇氏によって管理されていたことを示しているのである。まぁ超古代文明でもいいんだけどさw

海からきた邇藝速日命と天からきた邇々藝命
かように饒速日命伝説と磐船伝説が結びついているのは、饒速日命が船魂(ふなだま)に守られていたことを示し、むしろ饒速日命はふつうの船に乗って海上を渡って大和に入ったことの証拠なのであって、磐船に乗ったのでも天から降りてきたのでもないことになる。だから『古事記』には邇藝速日命が天から降りてきたとはぜんぜん書かれていない。邇藝速日命は天からおりてきたのではなく海をわたってきたのである(大和にかかる枕詞「そらみつ」が饒速日命が磐船に乗って空から大和をみたからだという話しがあるがこれも後から作った話で真実ではない。なぜそういえるのかという議論は大和(やまと)の語源と関係している。詳しいことはまた別の機会に「懿徳天皇」のページに書く予定。だがまだ書いてない、いつか書きます)。『日本書紀』では古事記と違って、饒速日命は「天磐船」に乗って天からくだってきたことになっているが、これは平地が広がって昔は海だったことが忘れられてから、磐船が山の中にあるから天からおりてきたのだと思い込んだ後世の俗説を取り込んだもので正しくない。
※「UFO(空飛ぶ円盤)と日本神話」もご参照あれ。
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どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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