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宇佐神宮の創建は欽明朝ではない

2679(H31=新年号元年)・1・15改稿 H28年2月17日(水)初稿
欽明朝のイントロ
欽明天皇は、この前後のあたりの天皇の中ではかなり有名なほうじゃないかな? それは「仏教公伝」の時の天皇だからだ。しかし若干ディープめの古代史マニアなら、もう一つ欽明天皇で強い印象があるはず。それは「任那日本府」の滅亡だね。欽明天皇といえば「仏教公伝」と「任那滅亡」ですよ、でかいトピックが二つもあり、どっちを取り上げてもかなりの長文になるし、また面白い。
それなのに、なぜ『古事記』には記事がなく、系譜だけの、いわゆる「欠史十代」なのか。もうおわかりですね、このブログでは何度もいってるように、語部(かたりべ)の演目にできないような話ばかりだから。「仏教公伝」については語部は基本的に中臣氏や物部氏のように排仏派なわけで、最終的に物部氏が敗れる話だし、任那の滅亡は無能な日本外交が右往左往する話であって、これらに起承転結つけて物語化しても、公の場所で上演してウケるようなものではない。興ざめにしかならない。中世以降には仏教の影響もあったりなかったりして悲劇を味わい楽しむ文化も生まれたが、当時はまだ語部の上演は「大御代を讃えるもの」という枠組みがしっかりあったんでしょう。

仏教の伝来
→「仏教公伝」を参照

任那の滅亡
→「任那日本府の滅亡と売国奴の陰謀」を参照

宇佐神宮が創建されたのは欽明天皇の時代ではない
一般的に宇佐神宮の創建は欽明天皇三十二年(AD571年)だというのだが(wikipediaもそうなってるが)、その典拠は『扶桑略記』である。この年に応神天皇の神霊が出現して名乗りをあげ、これが宇佐神宮の始まりだというのだが、まったく信用できない。現在の宇佐神宮は一般の参拝者のための里宮で、本当の「奥宮」は4kmか5kmほど南に離れた御許山の九合目にある大元神社で、この神社は山頂にある巨大な三個の磐座(いわくら)を御神体とする拝殿にあたる。磐座信仰は石器時代にまで遡る巨石文化で、たかだか6世紀に始まった等ということはありえないし、三個というのはつまりこの磐座が宗像三女神の神籬(ひもろぎ)に相違ない。ではこの欽明天皇三十二年(AD571年)の出来事とは何なのか? 本当に宇佐神宮の創建の話なのか、原文をみてみよう。

(扶桑略記 欽明天皇)卅二年辛卯正月一日甲子、天皇第四皇子橘豐日尊【用明天皇也】之妃、穴穗間人皇女、夜夢金色僧、容儀大艷。謂曰:「吾有救世之願、願蹔宿后腹」妃問云:「為誰?」僧曰:「吾救世菩薩、家在西方」妃答:「妾腹垢穢、何宿貴人?」僧曰:「吾不厭垢穢、唯望尠感人間」妃答:「不敢辭讓、左右隨命」僧懷懽色、躍入口中。妃即驚悟、喉中猶似呑物。自此以後、始知有賑。經于八月、言聞于外。又同比、八幡大明神顯於筑紫矣。豐前國宇佐郡厩峯菱瀉池之間、有鍛冶翁、甚奇異也。因之、大神此義絶穀、三年籠居、即捧御幣祈言:「若汝神者、我前可顯」、即現三歳少兒云。以菜託宣云:「我是日本人皇第十六代譽田天皇廣幡八幡麿也。我名曰護國靈驗威身神大自在王菩薩。國々所々垂跡於神明。初顯坐耳」。一云、八幡大菩薩、初顯豐前國宇佐郡馬城岑、其後移於菱形少倉山、今宇佐宮是也。【已上出彼緣起文】

欽明三十二年一月一日甲子の日(一月一日は己酉であって甲子でない。この年の甲子は一月十六日・三月十七日・五月十八日・七月十九日・九月十九日・十一月二十日)、欽明天皇第4皇子橘豐日尊(後の用明天皇)の妃、穴穗間人皇女の夜の夢に金色の僧侶があらわれていうには「この世に生まれ出てこの世を救おうと思うから、しばらくお妃の腹を借りたい。(中略)吾れは救世観音である」(中略)そうしてその僧が妃の口の中に飛び込んだという夢だった。この後、妃は妊娠に気づいた。この話は八月がすぎて(/8ヶ月後に?)から知られるようになった(それまで口外していなかった/胎児の言葉が腹の外に聞こえるようになった?)。話が変わってこれと同じ頃のことだが、八幡大明神が九州にあらわれた。豊前国宇佐郡の厩峯と菱瀉池(ひしがたのいけ)の間に(/厩峯の菱瀉池のあたりに?)、鍛冶屋の爺さんがいたが、これがはなはだ不思議な爺さんであった。
変な爺さん
それで大神此義(/比義?)(おほがこれよし/なみよし?)という者が3年間ひきこもって穀物断ちをして、しかるのち御幣を捧げ「もしあなたが神なら正体をあらわしたまえ」と祈ったところ、その爺さんは三歳児に変身し、託宣していわく「我れはこれ日本の人皇第16代応神天皇、広幡八幡麻呂なり。我が名を護国霊験威身神大自在王菩薩という」。八幡大菩薩は全国各地に垂迹しているがこれが初めての出現なのである。一説によると、八幡大菩薩は豊前国宇佐郡の馬城岑に初めて現われ、そののち菱形少倉山に移ったが、これが今の宇佐神宮である。以上は宇佐神宮の縁起文に出ている(この縁起文というのは現在の宇佐神宮の社伝のことではなく失われた書物である。現在の宇佐神宮の社伝ははこの扶桑略記に基づくもので、ここでいってる縁起文のことではない)

これをみると欽明三十二年の出来事は、聖徳太子の母である穴穗間人皇女がの夢に観音様がでてきて「おまえの腹を借りてこの世に産まれたい」といったという、つまり聖徳太子が観音様の生まれ変わりだという伝説であって、応神天皇の神霊が宇佐に出現したという話はそれに続けて「同じ頃」の出来事として書かれている。同じ頃というのは数日差なのか数ヶ月差なのか数年差なのかも漠然としていて何ともわからないので、応神天皇の出現が欽明三十二年の出来事とは必ずしもハッキリとは決められないだろう。しかも本文では応神天皇の神霊が出現したというだけでこれが宇佐神宮の創建の起源だとは書かれてない。あくまで「一説として」八幡大菩薩が宇佐に初めて出現したのが宇佐神宮の始まりだという説を参考までに追記しているだけ。しかもこの一説のほうはその出現がいつなのか書いてない。ここに追記したのはあくまでも『扶桑略記』の作者(皇円という坊さん)の判断にすぎない。というか欽明天皇の頃に八幡大菩薩だの護国霊験威身神大自在王菩薩だのというわけがないので話自体が全体的に平安時代の創作だろう。「救世観音」ってのも11世紀以降にでてくるものだし。ただ、聖徳太子の出生譚と同じ頃としているのが気になる。聖徳太子は敏達三年(AD574年)元旦の生まれだから、欽明三十二年(AD571年)に妊娠ということはありえない。だからこの話があったとしたら敏達二年(AD573年)の二月頃でないと計算があわない。それがなぜこの年にこんな話があるのかというと、一つのヒントは応神天皇のご神託がたまたま「同じ頃」だっただけなのかということ。もしかしてこの2つの事件はセットで、連続した一つの事件なのではないか。救世観音の生まれ変わりが妃の腹に宿ったと言い出したのが八月。九月に大葬の礼が終わっているので八月はまだ殯(もがり)の期間中。蘇我馬子は皇太子である訳語田皇子(をさだのみこ)をさしおいてもずっと一貫して池辺大兄皇子(いけのべのおほえのみこ)の擁立を望んでいただろう。しかし皇太子訳語田皇子の継承は欽明天皇在位中から確定していたばかりが事実上の摂政として数年も政務を執っているほどなので、今更どうにもならない。せめて訳語田皇子(=敏達天皇)の次の天皇とすべく池辺大兄皇子を皇太子にするように運動をしたのではないか。池辺皇子は斎王を犯した前科があったためさすがに仏教派にも人望がないので、その子が救世観音の生まれ変わりというのは池辺皇子本人から目をそらして次世代の希望をかかげて仏教派を取り込むための宣伝だろう。仏教派だけが団結しても敏達天皇の即位は阻止できないが、「神道派の天皇が即位するのだから次は仏教派の天皇で」という雰囲気の醸成には使える。
さて、それに対して宇佐神宮のご神託が出て来るのは、わかりきった話で、八幡神は孝謙天皇と道鏡の事件でもご神託を発したことで有名な通り、皇位の守り神なのである。なぜ八幡が皇位の守護神になったのか。その起源はおそらく仁徳天皇の時代の「隼総和気の乱」だろう。その件の詳細については仁徳天皇の頁(「速総別王の乱の登場人物」https://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-55.html)でやるとして、ここでは触れないが、ともかく蘇我馬子が敏達天皇即位にむけて、その際には池辺皇子を皇太子にとかなんとか申し出てきたのではないだろうか。扶桑略記の話は伝承の断片に粉飾してただの示現譚になってしまっているが、この時に宇佐八幡からの神託として敏達天皇の正統なる即位を言祝ぐ神勅がでたのだろう。むろん蘇我馬子は今回の敏達天皇の即位を阻めるとまでは最初から思ってないのではあるが、世間一般は宮中奥深いところでの政局政情までは知らんわけで、ともかく蘇我はいずれ池辺皇子を擁立する気満々だと庶民は見ており、訳語田皇子が排除されて池辺皇子が即位するかもしれぬと危ぶむ声がさぞかし多かったんだろう。だから八幡神の神勅という形で蘇我に釘をさしておくのは大いに国民感情を安定させたと思われる。
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