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英雄・崇峻天皇殺害の真相

令和2年6月3日改稿 H28年2月17日(水)初稿
(※この頁は「浮屠の乱(用明天皇)」からの続きです)

まえおき(読み飛ばして可)
崇峻天皇も在位が極端に短く、そのため古事記に物語が載って無くても不思議はないが、似たような「在位の短い天皇」は欠史十代の中でいうと武烈・安閑・宣化・用明天皇がいる。しかし、拙ブログの読者ならお気づきのように、別に在位期間が短いから物語がない、という理屈はないのである。短い在位でも大事件というのはありうるし、長い在位でも天下泰平でたいした事件は起きなかった、なんてこともありうるわけで。その天下泰平というのは継体天皇の崩御で終わり、その後は激動の時代が始まったことはこれまでの回で述べてきた。だから欽明天皇以降にかんしていうと物語が載ってないのは、古事記の原資料を伝えた語部(かたりべ)にとって不愉快なネタしかなかったからである。もっと正確にいうと、語部の物語は今でいえばミュージカル風に歌い踊って上演するものなのであり、古事記の原資料はその台本なのである。そのような台本の最後に作られたのが武烈天皇物語(現存の古事記は誤って顕宗天皇物語になってるが)であり、欽明天皇以後の歴史は語部的な価値観が否定されていくような事件ばかりなので、上演の新たな演目は作られなくなったのである。崇峻天皇は古事記では2行くらいで終わり。欠史十代の中では安閑天皇と同じぐらいの分量で、綏靖天皇から開化天皇までの欠史八代でもこんな短い記事はない。しかし安閑天皇は実は内容豊富で書ききれないほどの人だったことはこのブログで書いてきた通りで、従って崇峻天皇も実は書くべきことは多いのだ。

1年遅れの即位か?それとも譲位か?
例えば、崇峻天皇は、書紀は在位5年としているのに古事記では4年という。しかし崩年は記紀で一致している。
一つの解決案としては、即位元年が書紀は1年前倒しに編年していると考えられる。崇峻元年は書紀だと戊申(588年)だが古事記では己酉(589年)が元年で、戊申(588年)は空位ってことになる。この説の問題点は、推古天皇の在位が日本書紀は36年とするのに古事記は37年としており1年長い上に、崩年は記紀で一致しているから古事記に従えば推古元年は崇峻天皇の末年(崩年)とかぶってしまう。通常は「踰年称元」といって即位の翌年を新帝の元年とするのだが、実際は先帝の崩年は新帝の最初の治世でもあるのだから即位のその年(=先帝崩御の年)を元年とすることもありうる。これを「立年称元」という。推古天皇だけが、なぜか珍しく「立年称年」だったということになる。そんなことあるかね?
別の解決案としては、推古天皇も通常とおり「踰年称元」だったとするとその即位は書紀でいう崇峻四年のことになり、そうすると崇峻天皇が崩御した壬子年(592年)を崇峻五年とするのは日本書紀の誤りであり、正しくはこの年はすでに推古元年で、崇峻天皇は前年(崇峻四年)に譲位していたことになる。

立年称元と踰年称元
即位したその年を元年とする方法を「立年称元」または当年称元、エジプト式、アンチデートシステム(antedate system:時前制)などという。これに対して即位した年の翌年を元年として数えるのを「踰年称元」または越年称元、メソポタミア式、ポストデートシステム(postdate system:時後制)などともいう。『史記』をみると中国では古くから「踰年称元」だったが、平勢隆郎の説によると古くは「立年称元」だったのが戦国時代のあたりから「踰年称元」になったという(ただし一時期は有名だった平勢説もいろいろ問題点が指摘されているのでそのまま真に受けるのもアレだが)。日本書紀を信ずる限り日本は昔から一貫して踰年称元でやってたってことになる。現在の日本は皇室典範の規定により、大正以降は立年称元になっている。バカげたことだ。これで令和が4月からという意味不明な議論をするはめになったが官僚や政治家に教養があればこんなバカげた議論はなかったはずだ。

だが書紀の編集方針として「譲位はありえない、崩御してからの即位のはず」という前提で編集しているので、書紀は推古朝を1年遅らせている。

もし崇峻天皇即位が1年遅かったとした場合
書紀をみると戊申(588年)には百済から仏舎利と仏教建築の技術者などが献上されてきたこと、蘇我馬子が百済僧に授戒について質問したこと、尼らを学問僧として派遣したこと、法興寺(飛鳥寺)の建立に着手したこと等が書かれている。『元興寺縁起』でも大枠同じような話が崇峻元年=戊申のこととして出て来る。元興寺も法興寺(飛鳥寺)も同じ寺のことで、この年は元興寺の建立の年でもあるわけだが、天皇空位の年では天皇の統治下での建立ではないことになってしまい格好がつかない。日本書紀では用明二年(587)八月二日に炊屋姫尊(かしきやひめのみこと=額田部皇女)と群臣が泊瀬部皇子(=長谷部王)に即位を勧めて即位させたとある。それで翌年が崇峻元年となるわけだがこれは「踰年称元」だ。この場合、日本書紀は『元興寺縁起』等の仏教系資料に基いて崇峻元年を決めたのだろう。炊屋姫尊と群臣が勧めたからって長谷部王がほいほい天皇になったかといえばそんなことはない。そもそも長谷部王は物部側の人間なのである。それなのに本心を隠して蘇我の側につき崇仏派のふりをしていた。ただし皇族の中では最上位に近いため、物部と蘇我の合戦では形式上は蘇我側の総大将(最高司令官)の地位に祭り上げられていた。むろんその合戦では、自軍を裏切り、工作をしかけて物部に内通して蘇我を総崩れに追い込む計画だったのであるが、いろいろあって巧くいかずチャンスを逸してしまった。そうなると形式上はこたびの合戦の勝利者のトップに立つ人間ということになり、炊屋姫尊でなくともとりあえずまず今回は長谷部王が天皇に、となるのは自然の流れであり、蘇我馬子は内心では少々あやしい(実は物部派では?)と思いつつも表向き反対しづらい。炊屋姫尊の本心としては当然我が子である竹田王を天皇にしたいのだが、日子人大兄王を除けば、自然な順位としては長谷部王が天皇候補であり、竹田王はその次になる。ここで長谷部王が即位してしまうと長谷部王が長生きした場合、竹田王の出番がなくなってしまうので、炊屋姫尊の策としては、この戦では多少でも竹田王に武功を立てさせ、それを長谷部王が針小棒大に褒め称えて辞退すれば、竹田王が即位してもなんとか格好がつく。その空気を察して他の皇子たちも目立たないようにしていた。厩戸王も表向きの武功ではなく裏方の工作をしかけていたのは用明天皇の回で説明した通り。しかし血気はやった竹田王は局地戦で敗れて重傷を負ってしまったらしい。炊屋姫尊にしろ馬子にしろ、物部が壊滅してしまった今、仮に長谷部王が排仏派だったとしても今更なにができようと見くびっていたのかもしれない。長谷部王にしてみれば事やぶれて死ぬはめになることは覚悟していたとしても、まさか自分が蘇我側のトップとして勝利者の栄冠を受けるとはまじめに予想していなかったし、今ここで即位しても用明天皇がそうであったように蘇我馬子の傀儡にすぎないことは理解していた。このたびの勝利は形式上のトップである長谷部王の力でなく蘇我馬子の力なのであるから。だから長谷部王は皇位を辞退して他の皇族、例えば日子人大兄太子(ひこひとのおほえのひつぎのみこ)か竹田王を一旦は推挙したに違いない。だが日子人大兄太子は完全に隠遁気分でシャットアウト、その上、彼の即位は蘇我の利益にも反するから実現はしない。ただ建前上は正統の家系だから推挙してみせることが可能というだけ。竹田王はこの戦の後は歴史から消えてしまうのでこの戦で戦死したのではないかという説も根強いが、前述の通り、おそらく竹田王はこの戦で負傷して瀕死の重傷だったのであろう。長谷部王にしてみれば大歓迎されての即位ではなく「しかたなく選ばれた」次善の策みたいな天皇では、権威も権力もたいして望めず、用明天皇と同じく傀儡になってしまうことは目に見えているから、ここは逃げたい。だから長谷部王からの提案は「竹田王の回復を待ってから竹田王に即位してもらおう」というものだったと思われる。これが逃げを打つ最後の手段だったのだ。そうやって一年間は先延ばしにしたが、しかし竹田王は回復が遅れ、現時点では見通しが立たないと判断されたんだろう。それでもう逃げられなくなってやむなく天皇になったのが589年なのだとすると、その前年の588年は天皇不在の空位の年なのである。ただ絶大な権威をもった炊屋姫尊と絶大な権力をもった蘇我馬子が「長谷部王が天皇です」と勝手に決めつけ宮廷の内外にもそう吹聴していたから世間的にはなんとなくそう思われていたので、またそのほうが都合のよい元興寺(飛鳥寺)でも『元興寺縁起』にある通りこの588年を崇峻元年としている。日本書紀はそれに依拠して編年したのである。あるいは、後付けで「587年は長谷部王の称制だった」ということにした、とも考えられないこともない。
しかし以上のことは考えすぎであろう。もし「一年間の先延ばし」もできなかったとすると、書紀のとおり、やむなく天皇になったのが587年で、崇峻元年は588年でよいことになる。これをムリにも否定して新説を立てなければならないような矛盾はとくにない。

崇峻天皇の戦い
よって、ここは『日本書紀』のいう通り、587年に即位して588年が崇峻元年だとして話をすすめよう。何度もいう通り崇峻天皇は本心では排仏派だったが、心ならずも成り行きで蘇我の傀儡天皇にされてしまった。しかしまだ諦めてはおらず、なんとか蘇我氏を打倒して物部守屋の仇を討とうとしていたのである。

崇峻二年(589年)・天皇のクーデター計画
近江臣蒲(あふみのおみ・かま)を東山道に、宍人臣鳫(ししひとのおみ・かり)を東海道に、阿倍臣枚吹(あべのおみ・ひらぶ)を北陸道に派遣して東国を視察させた。この3人は崇峻天皇の腹心かと思う。徴兵して軍事力を充実させるための下調べだろう。名目は後述のように任那復興(新羅征伐)のためである。この頃、任那復興は国家的な課題とされ、錦の御旗になっていたから怪しまれることはないが、実は天皇の私兵を密かに確保しようとしたのではないか。

三年(590年)八月
任那復興の詔勅。これは(少なくとも建前上は)朝廷あげての共同課題だからどこからも文句が出ない。別な言い方をするとこれを表向きの理由にすればなんでもできる。

四年(591年)十一月四日・クーデター失敗と天皇拘束
この日、5人の将軍に2万の兵を与えて九州まで進ませた。この5将軍のうち4人までは神仏戦争の時の武将で、蘇我馬子の配下だが、5将軍の1人、巨勢臣猿(こせのおみ・さる)は崇峻天皇の腹心かと思われる。おそらくこの時、崇峻天皇のクーデター計画の一部が漏れてしまったのだろう。崇峻天皇はのちに暗殺されてしまったので未遂に終わったが、裏では着々と蘇我打倒のクーデターの準備をしていたのである。未遂に終わったので計画の全貌は不明だが、任那派遣軍の一部がかかわるものだったかと思う。任那復興軍が玄界灘を渡る前に反転して、当時に東国軍も西上、中央で蜂起した天皇のクーデターに呼応して蘇我政府を撃破するという計画だよw そこまでうまくいかないとしても少なくとも脱出できるだけの私兵を確保すれば、あとは全国に檄を飛ばしてなんとかはなる。(※このうち北陸道に派遣された阿倍臣枚吹は今の羽黒山のあたりまでいったか(後述)。和銅5年(712年)に出羽国ができる前には、山形県沿岸部は北陸道の越後国に属し、山形県内陸部は東山道の陸奥国に属していた。近江臣蒲も少なくとも今の福島県川俣町までは行ったんだろう(後述)。川俣町は昔の伊達郡鍬山郷のうちだが伊達郡は10世紀に信夫郡から分置され、その前には信夫郡は一時、石背国に属していた)蘇我打倒といったが要するに排仏派の武力決起であり、神仏戦争の再開である。
それで蘇我馬子・額田部女王・竹田王・厩戸王の崇仏四天王が血相かえて、天皇を拘束・監禁し譲位を迫った。こうなっては崇峻天皇も無力なので従うほかないが、要するに皇位からひきずり降ろされるのだ。崇仏派は次の天皇として当然竹田王を立てようとしたが、崇峻天皇は最後の抵抗を試みた。事実上監禁されているといっても、譲位の発令には譲位の儀式が伴うのでどうしても朝廷に出御がなくてはならない。つまり貴族たちが大勢いならぶところ、公的な場所、人前にでるということだ。そこで事前の段取りとしては、彦人大兄皇子ではなく、竹田王を指名するようにと強制されていた。崇峻天皇もしおらしく服従したふりをして「けして彦人大兄王の名はださぬ」と約束していた。しかしこれは崇仏派を油断させる芝居だった。

崇峻天皇の譲位
で、崇峻天皇は段取りを無視して、竹田王ではなく厩戸王を指名したのである。わずかでも崇仏派に内訌を生じさせようという苦肉の一手だったが、これは予想外の出方で崇仏派は大慌て。「しばし待ち給え」といっても「厩戸王ほど聡明な皇子はなく、次の天皇にふさわしい」と天皇自身がいえば、並み居る群臣たちも「ごもっとも」としかいえない。確かに竹田王よりは優秀だったのだろう。だが厩戸王は「毎度ありー」とはならない。最高権力者の馬子と最高権威者の額田部女王は一説に愛人関係といわれるほど密着しており、その額田部女王は息子の竹田王を天皇にしたいにきまっているから、ここでは皇位を辞退しないと孤立してしまい、あとあと始末されないとも限らない。しかし当人が辞退したところで、崇峻天皇の素晴らしい人選に並み居る群臣たちも盛り上がってしまいいくら辞退しても場の空気は収まらない。この段階ではほとんどの貴族たちはまだ内心では排仏派であり滅亡した物部氏の勢力に同情的だったのであり、崇峻天皇の意図もただちに理解したから、その采配には喝采を送った。厩戸王にしてみればここでウッカリ天皇になったら悲惨な未来しかみえない。なので必死に知恵を絞って生き延びようとした。そこでまず額田部女王を上に立てたまま竹田王は正式な天皇ではないが事実上の天皇とする「称制」を提案したのではないかと思われる。先例としての神功皇后や飯豊女王の先例に鑑みても、神功皇后の場合は次の皇子として品陀和気皇子(応神天皇)、飯豊女王の場合は意祁命(仁賢天皇)がいた。むろん崇峻天皇も粘って、それなら額田部女王を上に立てたまま厩戸王が称制皇子でもよいではないか、となる。群臣もそれに賛成する。称制だなんだいっても事実上の天皇で、その後は本物の天皇として即位するはずとみられるのである。これでは妥協にならない。逃げ道をふさがれ万事窮した厩戸王は、ここで前代未聞の提案をすることになる。称制皇子は竹田王か厩戸王か曖昧にしたままでよいのではないか、どうせ実権は額田部女王が握ってるんだし、称制皇子はあくまで形式上は皇子であって天皇じゃないんだしいなくていいじゃん、と。そこでツッコミが入る、それはつまり、額田部女王が天皇ってことか、と。ここで厩戸王が「まぁそうでないような、そんなような…?」と曖昧なことをいうと話がまた混迷するので「まさにそのとおり!」とスパッと解決できたようなことをいってみせるしかない。で、話の行き先にハラハラしていた竹田王・額田部女王・馬子の3人も、「それ!それ!それでいこう!」と強引に決定して会議を打ち切るほか選択の余地がない。日本最初の女帝、推古天皇=豊御撰炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)はこうして誕生したのである。
(※ちなみに崇峻天皇の譲位(=推古天皇の即位)は崇峻四年(591年、この年の十一月四日かそれ以降)にあったのか、推古元年(592年の十月四日かそれ以前)にあったのかはわからない。もし前者なら踰年称元であり、後者なら立年称元である。書紀の通例からいえば前者のはずだが、今回は初の女帝出現ですったもんだがあったと推測できること、先帝崩御を承けての即位でなく譲位であること、等の異例の事態なので後者の可能性も高かろうと思われる。)

推古元年(592年)十月四日(書紀は誤って崇峻五年としている)
崇峻上皇(書紀は誤って現役の天皇としている)は、猪をさして「いつの日か猪の首を切るように鬱陶しいやつを斬ってやりたいもんだ」といった。宮殿の衛兵は通常より厳重な武装をしていた。この宮はこの段階では仙洞御所(上皇の宮殿)となっていて朝廷ではないが、厳重な監視下におかれていただろう。上皇はここから脱出する計画を密かに練っていたに違いなく、武装兵の増強はその一環だった。

同月十日
嬪(ひん/みめ。妃の階級の一つ、面倒なので以下「妃」と書く)の大伴小手子(おほとものこてこ)は寵愛の衰えてきたのを恨んでおり、このセリフを蘇我馬子にちくった。馬子は上皇(書紀は天皇とする)が自分を嫌っていることを知り大いに驚き、手下を集めて上皇暗殺計画を練った。…と日本書紀はいうのだが、本当かね? 皇子と皇女が生まれているから、おそらく大伴小手子は即位前からの奥さんであり、即位にあたって炊屋姫尊と馬子から押し付けられた妃というわけではないだろう。しかし大伴氏は蘇我についていたから、実家からは監視役みたいな役割も期待されてはいたんだろう。妃としては上皇が血気はやって危険な行動に出て今の幸せをブチ壊しにしないようにと、良かれと思って積極的に監視に務めていたのだろうが、上皇自身にとってはそれは敵対行為なわけで、いまさら寵愛が薄れたも糞もないはずだが…。あるいは上皇様は、妃にも内密に、危険なクーデター計画から妃の身を避けようとしていたのを誤解したのかな。すでに3人の腹心によって東国に準備ができており、万が一の時には妃や皇子たちを落ち延びさせる段取りも着々とすすんでいたのではないか。

皇子たちが逃げ延びた件についてだが。後世の説では崇峻天皇の宝算72歳とか73歳とかの説があるが、岩波版書紀の注釈もそれほど高齢ではあるまいとしている。異母兄弟の用明天皇は36歳説から69歳説までいくつもの伝承があるが、最も古い『水鏡』は36歳としており、これは552年生まれ。用明天皇よりは若いとすれば、どんなに年長でも552年より前に崇峻天皇が生まれたということはありえない。崇峻天皇の皇子、蜂子皇子は出羽三山の伝説では562年に生まれて崇峻天皇が暗殺された時31歳だったことになっているが、これだと父の崇峻天皇が11歳の時に生まれたことになり信じられない。おそらく生まれたばかりの赤ん坊だったか、蜂子皇子本人ではなくその次の世代じゃないのかとも思われる。それから蜂子皇子が黒人またはインド人だったんじゃないのかって話もあって、いろいろ面白い想像が花開くわけだが、この謎解きは次回に譲る。結論からいうと、出羽の羽黒山を開基して「能除太子」と呼ばれたという人は蜂子皇子ではなく、別の皇族である(詳細は次回)。蜂子皇子が出羽に逃げて生き延びたという伝承は、崇峻天皇が東国に腹心を派遣して兵員調達をさせたという史実と関係している。その際に、兵員調達以外にも様々な調査や工作を命じて万が一に備えさせたのだろう。なお小手子郎女と錦代皇女、小手子の父の大伴糠手の3人も奥州に逃げたという伝説が、今の福島県川俣町(昔の伊達郡鍬山郷のうち)に残っており、現地では「小手姫」(おてひめ)と呼ばれているが、『上宮記』に「古氐古郎女」とあるから「小手子」の読みは「こてこ」が正しい。で、「小手姫」は現地で養蚕の指導をしていたというが、最後は蜂子皇子にあえないのを悲嘆して入水自殺したことになっている。養蚕の指導をするほど時間があったのに蜂子皇子に会えないというのはおかしな話だが、これは伝承が崩れて半分は各地にありがちな民話のパターンが混ざってるのである。出羽の羽黒と福島の川俣町ではずいぶん離れているが、狩猟民の文化の色濃い当時の奥羽では往来や通信に不自由はしなかったろう。ただ別々に住んでるのは、羽黒の能除太子が蜂子皇子と別人なら何も不自然ではない。
小手姫像小手姫像(Wikipediaより)

それより馬子が驚いてるのもおかしい。上皇に嫌われてるのは当たり前であって、今更それを知ったからって大いに驚くわけがない。しかも「やらねばやられる」と思って逆に上皇を暗殺したにしては、知ってから暗殺まで20日以上も空いている。こんな呑気な反撃はありえない。密かに脱出の準備を進めている上皇が、スパイも同然の妃の前で不用意な発言したとも思えない。「首を斬ってやりたい」という上皇のセリフは馬子や厩戸王や推古帝や竹田王の4人、あるいは自分を拘束している周囲の全員を漠然とさしているのであって特定個人をいってるのではないのではないか。また特定していない上に、現代の日常の会話でもそうだが、殺してやりたいというのは願望であって「殺す」ではないし口でいったからって本気とも限らない。死ねっていったからって実際に殺すことは現代人ではまずない、それと同じことなのである。馬子が驚くならそんな気分的なことではなく、第一に宮殿内の武装兵に驚いたはずで、小手子妃の通報内容も斬ってやりたいとかのどうでもいいセリフではなく、この武装兵の目的についての情報だったはずだろう。馬子の反応から逆推すれば、武装兵の目的は蘇我殺害ではなかった。馬子にとっても、少なくとも20日間も放置する程度のことにすぎなかった。要するに小手子妃が馬子に通報することを見通していた天皇によって、小手子妃はなんらかの偽情報をつかまされたのである。だから驚いたといっても急に馬子の身が危なくなるようなことではなく、表面的には「上皇様が神功皇后よろしく任那派遣軍を自ら率いて海を渡り新羅を征伐する」と言い出したとか、そんなとこだろう。しかし裏では脱出計画ではないかと疑いもしただろう。

十一月三日
馬子は群臣を騙して東国からの貢を進上するとして、その場で東漢直駒(やまとのあやのあたへ・こま)に天皇を暗殺させた。…と日本書紀はいうのだが、さて? 「東国からの貢」というのは上皇を油断させるためだろう。宮殿の武装兵は東国兵で、近江臣蒲・宍人臣鳫・阿倍臣枚吹が集めてきた連中にちがいない。むろん蘇我馬子に警戒されないような何らかの名目もあり、事前に馬子も了解した上でのことで、馬子も当然、上皇が脱出計画を抱いてる可能性に警戒はしていただろうが、世間の目もあるので完全隔離というわけにもいかない。「東国からの貢」も「3人の腹心とのいつもの会合」として事前に決まっていたことで、蘇我馬子はその機会を利用したのである。むろんこの日以前のある段階で上皇の脱出計画の全貌をつかんだ。その情報を最初につかんだのは蘇我馬子か厩戸王か推古帝か竹田王かはわからないが、この4人はツーカーの仲で一味なので、誰かに入った情報は他の2人にもすぐ伝わるのである。日本書紀は蘇我馬子1人を悪役に仕立てようとしているが、厩戸王と推古帝の2人がまったく関係ないということありえない。4人が共犯だろう。権威と権力をもった朝廷の重鎮が4人とも共犯なんだから、上皇暗殺というとんでもない事態にもかかわらず、さしたる紛糾も起こらなかったのである。むろん群臣百官、貴族たちには心理的な動揺はあったろうが、ここで崇峻上皇の一派だと認定されたら命がないので静かにしてる他ない。ただし4人組も、最初から上皇を暗殺するつもりだったわけではあるまい。現代人は「天皇」というのは地位や役職のように誤解しているから、即位前の皇子や退位した上皇ってのは天皇じゃないただの人に近いように思ってるかもしれないが、胎中天皇の例でわかるように、天皇というのは産まれる前から天皇であり譲位してからも、崩御の後も天皇であり、天皇になったり天皇でなくなったりはしないのである。神はずっと神のままであり、人間はずっと人間のままであり、動物はずっと動物のままであるように、天皇はずっと天皇なのである。それが魂の実態であり、即位したり退位したりというのは社会制度上、同時に天皇が複数いるとややこしいから便宜的に交代してるってことにしてるだけ。それを折口信夫が「天皇霊」が継承されと解釈したのは現代風の考え方に引きずられた誤った説である。だから大昔の人にとっては上皇も天皇となんらその神聖さに違いはない。いくら大臣と太子と女帝の命令でも天皇と同格同等の上皇を殺せといわれて「はい」というやつはこの時代にいない。この時代は反天皇思想なんてまだなくて、天皇は神だと思われていたんだから。しかも崇峻上皇は格別に庶民にも貴族にも人気がないわけでもない。むしろ皇位から引き降ろされてからはアンチ蘇我の旗手として人気があった可能性が高い。だからもし東漢直駒が犯人なら、彼れには上皇を暗殺せざるをえないような何らかの「個人的で特殊な事情」があったか、または駒はスケープゴートで真の下手人は別にいたかだろう。崇峻上皇より権威のある上位者といえば敏達天皇の皇后だった炊屋姫尊しかいない。先帝の皇后は皇位継承問題についても決定的な発言権をもつことは以前にも書いた。用明天皇は中継ぎ的な存在で正統性も危ぶまれるような天皇なので除外される。崇峻天皇を天皇にしたのも事実、炊屋姫尊の意志だった。用明天皇も崇峻天皇も、中継ぎの天皇と見られており、最近の天皇で本物の天皇は敏達天皇である。その皇后だった炊屋姫の権威は用明天皇や崇峻天皇より格上だったろう。ただし、荒事(あらごと)の現場に女帝みずから出てくるのも考えにくいから、推古天皇の勅命を奉じて竹田王がやってきたのではないかとも思われる。竹田王は順当にいくと(日子人大兄王を除いて)崇峻天皇の次の天皇だった。竹田王といえども上皇殺害には正統性がないのではないかといわれそうだが、崇峻上皇が脱出を計画してまたも排仏派を滅ぼそうとしているということは、蘇我と一心同体の推古天皇も標的になっているという解釈が可能である。ならば形式的には逆賊の烙印も押すことができる。一説では蘇我馬子と額田部女王は愛人関係だったともいう。そこまで極端には思わないまでもそれなりに親密な仲だったことは事実だろう。竹田王は推古天皇の実の子なのだから儒教的には崇峻上皇は親の仇であり、親を守るためには上皇に歯向かうこともやむをえない。しかもその親は現役の天皇なのだから、忠でも孝でも理屈は成り立つ。竹田王だけでなく、熱心な崇仏派である厩戸王も「仏教を守る」ために同行した可能性が高い。仏教では王侯だろうが乞食だろうがあらゆる人間は平等無差別で死ねば無になるのであって身分差など認めないから、天皇の死も奴隷の死も等価値なのである。この頃の厩戸王は年齢も若く、理屈をそのまま信じて観念的な理想に燃えてしまう若さゆえの傾向があったろう。仏教原理主義的にいえば天皇の尊厳など否定するのが中二病的でかっこいいのである。まぁ左翼が天皇制廃止を訴えるのと同レベルの話だが。じゃ、政治はどうするんだっていえば、そこは中華式の皇帝制度という合理的で近代的なやり方でやればいいと思ってるわけだよ。本当は儒教と仏教は原理的に両立しないんだが、今も昔も外国の思想については一知半解で「浅い」のが日本人で、「適当に日本式で取り混ぜてればうまくいく」と思い込んでるんだよ。そんなわけないんだけどね。梅原猛の本みたら「十七条憲法」ってのは仏教・儒教・法家思想の三者を組み合わせた構造になってる。つまり日本人のなんでもごちゃまぜにして「各宗教はお互いに矛盾しない」という悪しき曖昧主義は、聖徳太子が元祖だったってこったw ともかく話を戻すと、竹田王や厩戸王がでてくるシナリオの場合、東漢直駒は竹田王や厩戸王の手勢の1人にすぎなかっただろう。

古事記と書紀で崩御日が10日ズレてるわけ

同月十三日
上皇崩御。日本書紀は三日(つまり暗殺のその日)に崩御したとしているが、古事記ではその10日後の十三日に崩御という。古事記が正しいとした場合、上記の暗殺事件も10日後の話だったとすれば簡単だが、そうとも言い切れない。事件は三日にあったのだが三日に刺されて重体に陥り10日後に崩御とも考えられるし、三日に崩御したのだが前代未聞の事件なので10日間秘匿され改めて十三日に崩御したことにして発表されたとも考えられる。しかしおそらくはどれでもない。真相は、はじめから暗殺する予定ではなく単に脱出計画を阻止して上皇を再度捕縛拘束するのが目的だったと思われる。いきなり殺そうというのは考えにくい。ただ、相手が上皇なので竹田厩戸の手勢がが気おくれしてしまったのと、もともと脱出を考えていたぐらいの上皇だから、宮殿内で小規模な武闘になってしまった。崇峻上皇も自ら剣をとって抵抗し、上皇の身を害さずに捕らえるのは困難なため、戦闘が長引いた。自分を捕らえようとする者どもを前にして、上皇は自分の脱出計画が蘇我にバレてしまったことに気付いた。万事窮す、最期の時はきた。そこで上皇は、その昔、雄略天皇が葛城氏を征し、武烈天皇が平群氏を伐った故事をあげ、両天皇にならって蘇我を討つことを高らかに宣言したにちがいない。あとは味方の生き残りや敵兵の中の者らによってこのことが外へ伝えられるのを期待できるだろう。長谷部若雀命(はつせべわかささぎのみこと)という讃え御名(尊号)は上皇の決起の趣旨に賛同する庶民大衆によって誰からともなく捧げられたものなのである。本居宣長は武烈天皇の「小長谷若雀」という名と混同されたもので単に「長谷部命」というのが正しいとして、今もその宣長説に従う学者が多いが、そんなオタンコナスな説はぜんぜん認められない。さて、仮りに上皇のこの宣言がなかったとしても、乱闘なり異常事態なりが起こっていることが外に漏れると、普通に考えて、何も知らない者たちが上皇に味方しようとして続々集まってくるし、上皇陛下がまたしても蘇我征伐の狼煙をあげたことが広まれば、さらに上皇の思うツボだ。そこで乱闘開始以後の何日かめに、馬子か厩戸王か女帝のうち誰かの発案で、「上皇を殺せる事情をもつ稀有な人材」として東漢直駒に白羽の矢が立った。東漢直駒に上皇暗殺の任を引き受けさせる説得にまた何日かかかって暗殺まで計10日かかった、とも考えられるが後述のようにこの段階では駒はまだ出番でなく、この案は却下したい。別案では、初日から竹田王(か厩戸王?)が上皇の決起を鎮圧するために手勢を率いてきており即日もしくは何日かめ、もしくは10日めの十三日に上皇を逮捕、隔離。十三日になってやはり死んでもらわないと自分らの身は保てないと判断し隔離された空間で上皇を暗殺した。ただしこの乱闘を無かったことにしたい蘇我一派は、崩御はあくまで三日であって十三日ではないという立場を堅持し、後々も上皇の名の「若雀」をけして認めず単に「長谷部命」とのみ称えた。日本書紀は「昔は譲位というものがなく崩御するまで在位していたはず」という前提での編年になっているため推古元年を崇峻五年と書きかえ、その分、推古天皇の在位を1年へらして辻褄をあわせている。

東漢直駒が受けた密命は「天皇殺害」ではなかった

同年同月(日は不明)
この同じ月に、東漢直駒が蘇我河上娘(そがのかはかみのいらつめ)を誘拐した。wikipediaは岩波文庫の注釈を真に受けて崇峻天皇の嬪の一人だと決めつけているが日本書紀のどこにもそんなことは書かれていない。嬪だとはあるが誰の嬪なのかは書紀の文面からはわからない。ただし彼女は馬子の娘である。馬子は彼女が東漢直駒に誘拐されたのを知らずに死んだと思っていた。のちに真相がバレて、東漢直駒は馬子に殺された。…と日本書紀はいうのだが、おかしくないか? 東漢直駒は暗殺犯なんだからそのまま処刑すれば済む。それで真相もバレなくなる。日本書紀の書き方だと、東漢直駒は誘拐犯として殺されたのであって、上皇暗殺とは何の関係もないことになる。しかも、馬子はそれを知らなかったというのだから、当初、河上娘は1人で家出でもしてたと思われたのか? それなら捜索されてもいたわけで大貴族のお嬢様がどうやってゆくえを晦ましていたのか? おそらくは2人の仲は周知で、馬子もしぶしぶかどうかともかく黙認していた程度の仲だった。東漢直駒が天皇暗殺犯だと知られていたら、真っ先にその罪状で処刑されるはずで、誘拐犯として殺されるなんてことはありえない。だから、この段階では上皇は誰に殺されたのか不明だったのである。上皇暗殺の現場に誰もいなかったことになるが、そんなことありうるのかという疑問はひとまずおくと、この男はまず誘拐犯として処刑され、しかるのちに「実は上皇暗殺犯でもあったことが判明した」という順番になる。…これは胡散くさいw 大本営発表じゃないのか? 処刑した後でちょうどいいから濡れ衣きせて「こいつが暗殺犯」ってことにしとけっていう…。上皇殺害の現場に誰もいなかったなら東漢直駒に罪を着せるのは簡単だ。東漢直駒は10日もかかって上皇の決起を鎮圧できず、10日めに竹田王と厩戸王が加勢にきて捕縛できた。もしくは最初から竹田王が捕縛したのであって東漢直駒は手下の1人だった。崇峻上皇が再拘束された後なら、犯人は権力の上層の誰かなのだから誰もみていない隔離された室内で上皇を殺害することが可能で、しかも最後に部屋からでたのは東漢直駒だったと偽証すれば、簡単にスケープゴートにできる。ところで、この河上娘は、嬪(みめ)だとあるから崇峻天皇の妃とする説があるがそんなことは記紀のどこにも書かれていない。嬪は嬪でもこの人は厩戸王の嬪なのである。『聖誉抄』(太子傳聖譽鈔)によると聖徳太子の3人の妃の1人として「河上娘」とあり、その父は馬子とあるので、これは日本書紀でいうと厩戸皇子の正室、刀自古郎女(とじこのいらつめ)と同一人物となる。つまり東漢駒と河上娘は不倫で、厩戸王とは三角関係になる。で、河上娘は行方不明で馬子は娘が死んだと思っていたってのは後付けだろう。実際は厩戸王と分かれて東漢駒と同棲しており、それが長い間、黙認されていたのである。誘拐してすぐ駒が殺されたなら、「娘が死んだと思っていた」なんてことはわざわざ書かれないはずだからな。ここで現代人なら、厩戸王が東漢直駒を憎いと思ってこいつを暗殺犯に仕立ててやろうと思ったんだろうと推理するだろうが、そうはならない。皇族貴族の結婚ってのは多くが政略結婚で必ずしも熱愛が伴うわけではないし、大昔から明治以前まで日本では離婚や再婚についてのタブー意識も全然なかった。厩戸王ぐらいの皇族だとその気になれば嫁なんていくらでも手に入るんだし、仏教思想に夢中になってる中二病青年が女性との恋愛にうつつを抜かすとも考えにくいんだが。しかも他の男と相思相愛の女に? かように、河上娘にさしてご執心でもなかった場合、何か別の見返りと引き換えに河上娘と東漢駒の関係を認めてあげた可能性は高いだろう。もし厩戸王が大きな心で2人の不倫を許していたら? 東漢直駒は深く恩義を感じて、厩戸王の忠実な手先になっていたのではないだろうか。厩戸王本人が許していたからこそ、蘇我馬子もやむなく2人の仲を黙認してたわけだろう。むろん厩戸王は東漢直駒に上皇暗殺など命じていない。密室で殺害した後で権力にものをいわせれば誰にだって罪をなすりつけることは可能だからだ。崇峻上皇を捕縛、再拘束することまでは、推古天皇・大臣馬子・竹田王・厩戸王らの中で合意されており、捕縛の手柄も立場上もっとも風当たりのなさそうな竹田王が「母を守るため」、「厩戸王」が「仏教を守るため」やむなくしたことで、上皇陛下にご翻意を懇願するという形をとる予定だったのだろう。ここまで、東漢直駒の出る幕は実はない。だが乱闘中に崇峻上皇が打倒蘇我と排仏を諦めてないことが判明したため、捕縛の後には即刻死んでもらうしか推古女帝・馬子・竹田王・厩戸王らの選択肢がなくなってしまった。密室だから誰が下手人かはわからないが情況からいって厩戸王か竹田王のどちらかだと一般人は思うだろう。しかしここまで急展開だったため、具体的に誰に罪を着せるかはまだ考えられていなかった。厩戸王・竹田王にも名分があったとして2人の責任を軽くする一方、乱闘の中で負った傷が元で崩御したのだとして、下手人をウヤムヤにするつもりだったんだろう。だがこういう予想外の展開になってしまうと、崇峻上皇が蘇我打倒に立ち上がって返り討ちにあったという悲報はあっという間に全国を駆け巡り、上皇陛下への哀悼と蘇我馬子への怒りと殺害の下手人への憎しみは全国民に燃え盛ってしまった。推古天皇はただでさえ蘇我べったりと見られているので、どうしても下手人の特定と逮捕、処刑を急がねばならない。ただでさえ女帝なんてきいたことがなく、当初から偽天皇よばわりする者はいくらでもいただろうに、事件の後処理を誤れば、推古天皇は上皇殺害の一味とみられ、正統性に著しく傷がつき、ひいては偽天皇の烙印から逃れるため至急の退位もするはめになりかねない。でだ、さぁここで厩戸王の忠実な配下である東漢直駒の出番となる。東漢直駒が厩戸王から受けた密命は、崇峻上皇の遺体が発見された直前に密室から1人で出てきたのは竹田王だったという目撃証言を噂として流すことなのである。実際に庶民にこの噂が流れ始めて、推古天皇は仰天して、噂の出どころを極秘に調査させ、早急に東漢直駒を始末してしまったんだろう。そうすると今度はこれを捜査せずに放置すると東漢直駒を殺害した犯人は竹田王と推古天皇だろうと誰でも考える。そうなっては藪蛇なのでとっさに蘇我馬子が気を利かして自分が殺したことにしたわけだ。自分の娘をかどわかしたやつなんだから馬子が駒を殺してもこれなら一応は理由が立つ。が、庶民がそんなバレバレな嘘を真に受けたとは思われない。ともかくこれで推古天皇と竹田王は非難の的となり、即位元年にして日本初の女帝の権威も暴落、竹田王が天皇になる目は完全になくなった。すべては厩戸王が竹田王をとびこえて天皇の位に一歩近づくための布石だったのである。
ところが、にもかかわらず、皆様ごぞんじのとおり、厩戸王はついに即位できなかった。それはなぜか。

エピローグ・竹田王の謎
竹田王は神仏戦争の後は歴史に登場しなくなるので、その時に戦死したんではないかという説がある。しかし、それなら崇峻天皇の後は厩戸王がそのまま天皇になればいいんで、女帝が登場する理由がなくなってしまうように思う。日子人大兄王と厩戸王の二人の天皇候補の争いを先延ばしするために女帝が立った、という説も比較的通説に近いが、それにも同意できない。日子人大兄王にそこまでの力があるのなら、そもそも用明天皇が即位せずに敏達天皇の後はすぐ日子人大兄王が天皇になったはずだろう。それを蘇我馬子の横槍で用明天皇を即位させることができたんだから、当時よりさらに権力の増大している蘇我馬子が日子人大兄王を無視できないはずがない。だから、女帝を立てて先延ばしにした問題というのは、日子人大兄王と厩戸王の争いではなくて、竹田王と厩戸王の争いなのである。ネットをざっとみてたら、推古天皇即位の直後から厩戸王が摂政になるまでの間(つまり推古天皇が即位してまもなく)に竹田王が薨去したと推測する説がある。この説のほうがややマシに思える。竹田王が薨去したのなら、そもそも額田部女王が女帝になる意味もなかったわけだし、即位しちゃった後であっても、すぐに厩戸王にまた譲位、という選択肢も十分にありえたし、実際にそうなると当時はみな思ったろう。
一つの考えとしては、厩戸王としては、いつでも天皇になれるという情況ができてしまうと、今度は急にあせらずともいいかな、という気分になった。なぜなら、天皇というのは年がら年中、神道の祭祀に追われて忙しいのと、いろいろ制約が多くて自由が効かない。厩戸王は仏教信者で仏教の儀式ならやりたいが神道の祭祀には興味がないのと、仏教の研究(それには書物を読むだけでなく仏教行事や仏教儀式も含まれる)に昼夜うちこみたいわけで、必ずしも天皇になればハッピーずくめということではない。額田部女王はもう即位しちゃったんだから当面は女帝としてがんばってもらって、自分は権力だけちゃっかり頂いて「摂政」という身分に留まった。…というのが真相ではないか。馬子にしてみりゃ同じ傀儡ならどっちでもいい。推古女帝は最愛の息子なき今、甥の厩戸王をもりたてていくことにした、と。だが儀式だらけで身動きがとれないほど天皇が忙しくなるのは平安中期以降で、当時の天皇がそんなキツ苦しいものだったとも思えない。
もう一つ釈然としないことがある。竹田王ほどの重要人物に死亡記事がなくていつの間にか消えてるなんてことあるかね? この人もしかして死んでないんじゃないの? 歴史から消えたというのは政局に出てこないというだけで、つまり政治から手を引いたってことだろう。だが一度でも皇位継承のライバルになった者が「俺は政治引退した」と言ったって安穏に暮らせるものでなく、厩戸王が天皇になったら暗殺の手が伸びるかもしれないし、謀反の疑いをかけられて処刑されるかもしれない。 額田部女王が女帝の地位に留まったのは厩戸王にブレーキをかけて我が子を守るためだったのではないか? なぜ竹田王は政治から足を洗ったのか、よりによってこの時期に。このタイミングだからこそ考えられるのは、要するに崇峻天皇暗殺の下手人は、厩戸王に唆された竹田王だったのか、実は厩戸王本人が下手人だったのか、どっちかはわからないが、いずれにしろ、厩戸王の策で、世間一般の認識では竹田王が下手人ということで世間の批判を浴びることになった。厩戸王の人間性にも絶望したろうし、本人は良かれと思って(あるいは、やむをえずと思って)やったことだから、自分の人間性を全否定してくる世の中にも嫌気がさしたんだろう。そこで家出だよw 竹田王は溺愛されて育ったからヤンチャでワガママだけれども素直で裏表がない。厩戸王のように過剰に知能が高いため人がバカにみえたり小細工を弄して情況を支配しようとするタイプとは違う。同時期にどうなっちゃったのか気になるのがは蘇我河上娘もそうだろう。彼女の情夫、東漢駒が殺されたのもめぐりめぐって竹田王のせい(少なくともその一味のせい)ともいえるわけで、贖罪の意識からなんとなくねんごろになって二人でどこか遠くに逃避行…。なんて筋書きはどうかね? 竹田王の人柄ならありそうじゃんよw 出羽の羽黒山を開基した能除太子というのは崇峻天皇の皇子、蜂子皇子だというが、蜂子皇子は当時30歳というのは伝説の誤りで赤ん坊か子供だったはずだから、彼を守って落ち延びたのは崇峻上皇の旧臣たちだったろう。そういうことがもし本当にあったのなら、竹田王と河上娘もどこか遠方に逃け避って辺境で暮らしたなんてこともありうるんではないか。
そう思って改めて『日本書紀』の推古天皇の巻をみると、実に不思議な、ある事件が目に付く。それは…。おっとここまでw それはもはや崇峻天皇の章で扱うことではないだろう。推古天皇の章で詳細に語りたい。
(※推古天皇に続く)

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どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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