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任那日本府の滅亡と売国奴の陰謀

2679(R1)年06月19日(水)改稿
今日、H28年10月27日は任那(みまな)が滅亡した日。年代でいうとAD562年で、その年の10月27日は金曜日だった。この年は、ごろにゃんだ。ごろにゃんというのは何かというと高校の頃に「任那ほろんでごろにゃん」と年代を暗記した語呂合わせのことだ。
百済優遇から三韓平等へ
百済(くだら)という国は4世紀になって突然できたわけではない。この国の起源については学界の通説は実証主義に囚われすぎて十分に推定可能なことまでみないようにしている傾向がある。百済の始祖「仇台」と夫餘王の「尉仇台」は後漢書などからあきらかに同一人物で、別人とする説にはたいした根拠がない。遼東の公孫度(三国志の群雄の一人)が馬韓人を統治するために夫餘王国から移民を招いて作らせたのが百済で、その建国は2世紀になる。馬韓諸国のうち北方の国々(今の京畿道のあたり)は百済の宗主権下の国々だったろう。だから、通説のいうような「帯方郡楽浪郡滅亡の余波で百済が建国された」というわけではない。公孫淵が滅ぼされて楽浪・帯方が魏に接収されると公孫氏の配下だった百済の宗主権も否定されたので、三国志には馬韓がバラバラの諸国で宗主国もないように書かれているが、実態を反映していない。さて、『日本書紀』では神功皇后は高句麗(こま:高麗の旧表記)・新羅(しらぎ)・任那をさしおいて百済だけを贔屓していたように書いてあるので、これは百済人の捏造記事だという説があるが、なにも不自然なことではなく、事実だったろう。百済優遇の最たるものは比利(ひり)・辟中(へちう)・布弥支(ほむき)・半古(はんこ)の「四邑」といわれる地域をタダでくれてやったことだ。この時は新羅はさほど強大ではなく、高句麗との間に楽浪郡・帯方郡もあったので、新羅や高句麗を牽制するために百済を優遇したわけではない。百済は中国の文物を輸入する際の窓口にあたっていることと、この四邑が今のどこなのかを考えればわかる。四邑の具体的な位置については複数の異説があるが、その中では忠清北道から全羅南道にかけての沿岸部とする説がよい。南米のチリみたいに南北に細長い所領だったろう。この頃の百済の本土は今の京畿道だけの小国だが、楽浪郡や帯方郡が健在で高句麗と衝突することはなく、帯方郡とは密に隣接している。百済と大和の交通は海路だけで、大阪湾から瀬戸内海、玄界灘を渡って半島の西海岸を北上、帯水(今の漢江)を遡って百済王都に至る。半島側の海路は百済が管理しろということだ。そのための4つの港湾都市を含む地域が四邑なのである。この頃の百済は、島津氏と明国に両属していた琉球のように、公孫氏と倭国に両属していたんだろう。琉球と同じく交易で成り立っていた国なのである。神功皇后が百済に四邑を与えたという記事も、継体天皇が百済に四県を与えたという記事をもとに創作した話だなどと、へらっといっちゃうのが現代の学者で、記紀を架空視する時だけやたら軽くなるんだよな、あいつらは。継体天皇の時に割譲した四県、上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)とは地名も実際の場所もぜんぜん違う。ところで、神功皇后の百済支援策の数々は日本書紀の文面としてはたいてい神功皇后の言葉になっているが、実際は百済と日本の国交が開けたのは応神天皇になってからだろう。だから実は応神天皇の百済支援策なのである。だが、武内宿禰は百済への過剰な優遇策では任那・高句麗・新羅の心服を得られないとして「三韓平等策」を応神帝に進言して、途中から政策を変更することになった。その平等ぶりが徹底していたことは応神天皇の回で詳しく書いてあるのでそちらを読まれたい。この策は「我が国は百済や新羅より格上だ」と自負していた高句麗の自尊心をいたく傷つけ、高句麗の日本離れを引き起こしただけでなく、新羅と百済にはお互いに倭國からは平等に遇されるべきという思い込みを与えてしまった。

任那滅亡の遠因
さて、それから年月がたって、524年に任那を新羅が侵略した理由は、498~490年頃(?)に倭国が任那の西部いわゆる四県二郡を百済に割譲したので、それなら東部はこっち(新羅)に権利があるだろうと思ったから。二郡というのは四県割譲の翌年に割譲された土地で、四県と加羅諸国との間にある己汶(こもん)・滯沙(たさ)をいう。滯沙は加羅諸国が日本へ渡るための港で、己汶はその後背地。この二郡が百済領になると加羅の小国群は倭国との交流を百済に管理されるばかりか百済と直接に領土を接することになるので、当然、加羅からは猛反対が起きた。新羅もまたこれには不服で、新羅の言い分としては、百済だけを贔屓することはあってはならないはずなのだ。なぜ任那の西部を百済に割譲したのかというと、475年に百済が高麗(=高句麗の改名or新表記)に北部を奪われ弱小化してたからこれを補強するため。なぜ高麗が百済を侵略したのかというと、高句麗はもともと西の方、満洲平原に進出しようとしていたんだが、342年にそっちの出口を塞がれたので南へ方向転換したわけだ。なぜ西の方が塞がれたというと…この先は今回の結末にとっておこうw

「任那四県」割譲の真相
任那は朝鮮半島の南部、かなり広範な領域を占めていたが、継体天皇の時に西半分を百済に割譲したので半分になってしまった。西半分というのは四県二郡というように王がおらず、倭国から派遣される国司(みこともち)が治めてした。しかし東半分は加羅(から)の諸国で、この諸国は旱岐(かんき)という称号でよばれる現地の世襲首長(つまり王)たちが治めていた。
継体天皇の政府は百済の求めに応じて任那の西部、いわゆる「四県二郡」といわれるところを割譲した。これは当時も問題になり、執政の地位にいた大伴金村(おほとものかなむら)が賄賂を受けたと非難され失脚するほどの政治問題だった。大伴金村を非難する側の表面的な主張としては、第一に金村が百済から賄賂を受けた、第二に、神功皇后がきめた諸国の国境線は神聖絶対のもので安易に変更を加えることはあってはならないということ。百済にこの許可を与える使いだった物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の妻はそういってさらに「後世の人からどんな非難をうけるか」といってダンナに仮病つかわせ仕事から降ろさせた。徳川光圀の『大日本史』は烈女伝のトップに「物部麁鹿火之妻」として彼女の列伝を立てて絶賛している。現代人の目線で非難すると、自国の領土を閣議決定みたいな軽い決断で他国にほぼ無償で割譲するなんてもっての他だが、金村を弁護すると、第一に賄賂というのはこの時代は正当で合法な礼物との線引が難しい。こういうグレーゾーンは今も昔も、政敵を攻撃する都合のいい武器に使われがちなものである。第二に、百済は南下してくる高句麗に対抗するための北の防衛線だが、高句麗に王都を陥され、北部の領土を奪われ、弱小化していた。つまり百済を再び強大化させて北の守りを固める必要があったのである(それでも二郡まで渡したのは明らかに「やりすぎ」で何か裏はあったのだろうが)。神功皇后がきめた国境線というがそれを先に破ったのは高句麗であり、高句麗が命令に従わないのであれば対抗策をとらねば弱小化した百済はやがて完全に滅亡するだろう、そうなっては神功皇后の国境線どころではない。実際、百済の王都が475年に陥落した時は百済は一旦は滅亡したのであって、倭国は当時まだ任那の北部だった熊津(こまなり、今の公州を中心とした錦江流域)の地を与えて百済を復興させたのだった。この時点ですでに百済はそもそも任那から割譲された土地の上にしか存在しない国なのである。これも任那の地を割譲したということに変わりはないのに今回のような非難が起こった様子はない。つまり神功皇后がどうのって仰々しい非難はウヨ的な原理主義で、逆らえない正論をふりまわす「議論封じ」なのであって、最初から意味のある議論をさけて、政敵である金村を失脚させることに的を絞った蘇我稲目の陰謀なのである。勾大兄皇子(安閑天皇)も麁鹿火の妻も、蘇我の宣伝戦略に乗せられていたのだ。四県割譲を日本書紀は512年とするが、490年にこの地を所領とする八人の百済諸侯の爵号が南斉から授与されており、これ以前のはずだから実は489年か490年頃のことだろう(8人のうち5人の領地が四県の地とかぶってる)。この時期は俺の説ではちょうど武烈朝から継体朝への変わり目で武烈帝の大葬の礼から継体天皇の即位式までの時期である。代替わりの間は天皇不在のため外廷は停止する。政治の空白化をさけるため慣例では日頃から内廷をとりしきっている皇后がこの時期は外廷をも主宰する(短期の摂政のようなもの)。これはこの時の特例ではなく、代替わりの時は毎回こうであって慣例なのである。この時の故武烈帝の皇后は「春日娘子」(かすがのいらつめ:実は後に安閑天皇の皇后となる春日山田郎女と同一人物、詳細は宣化天皇の回を参照)であった。建前からすると最終責任としてはこの人の判断ミスだったのだが、金村の進言を却下するほど外交に明るくはなかったんだろう。名目上の政府主班である金村がまずは責めを負うのは当然である。それで槍玉にあげられてる金村だが、その時は大喪の礼の進行と即位式の準備に縛られて深い考慮が及ばず、稲目の息の掛かった官僚の切り盛りに任せてしまったんだろう。現代人の目線で弁護すると割譲というのは用語ミスで、百済は属国なので日本帝国の一部なのであるから、これは今でいう他国への割譲にはあたらない。いわゆる国有機関の「民営化」みたいなものである。ほら民営化っていったら急に良いことに聞こえてきたろw 第一の理想をいえば、高句麗を武力懲罰して国境線を北に押し返すことだが、物理的に不可能だったとは思わない。実際に過去にもこの後にも、高句麗の王都を陥落させたりもしている(後述)。瞬間風速的な成果で終ってるのは当時の日本が平和と繁栄といえば聞こえがいいが高句麗を含めた三韓諸国が格好だけ属国のふりをして崇めてくるのに気分よくして世界情勢を誤り贅沢に慣れて怠惰軟弱となり危機意識に欠け尚武の心を失っていた、要するに軍国主義精神が衰弱してたからなのじゃ~。まぁ儒教の綺麗事に溺れてたせいなんだけどね。儒教というのは「『武』の字は戈を止めると書くのだ、武官いくない、文官えらい、平和主義バンザイ」というトンデモ思想であり、軍国主義の敵なのだ。儒教の理想というのは、小国は忠のこころをもって大国に仕え、大国は慈愛のこころで配下の属国を守るのが立派でうるわしいというんだよ。だからむやみに新羅や百済に無理難題を言いつけるのは大国として恥ずかしいことだというわけ。そんなのに騙されるのかよ、と思うだろうが現代でも金に目のくらんだ経団連が中国共産党の平和工作にすっかり騙されて日中友好を信じてたじゃん。当時だって儒教の理想を真顔で振り回してたアホってのは実際には百済や新羅から賄賂とってる貴族どもだったんだがね。違うのは昔は三韓が倭国に朝貢してきたけど今は日本が中共に朝貢してるってのが逆なだけで、騙されるほうはいつも島国ってのは変わってない。当時の儒教というのは現代でいう憲法9条みたいなものなんだよ。現代でも左翼やリベラルを一掃するのは難しいから、そのために軍拡して北朝鮮や中共を征伐することができないわけだろ。当時も同じだとして、儒教信者どものせいで武力で今すぐ高句麗を北に押し返すことができないなら、次善の策としては、弱体化した百済を強化するために任那の一部をくれてやるんじゃなくて、百済そのものを廃止して百済領をすべて任那とすればよい。これが理想の第二案だ。百済王を廃止してすべて任那日本府の直轄にしろ。まぁこれもできないわけですよ、利権が絡んでるから。合理化したら効率よくなって、強くなって高句麗の南の土地を奪回できるんだが、合理化ってことはリストラされる連中が大量発生する。「儒教的に」それはできない。臣下たちのメシのタネを奪うようでは天皇陛下の帝徳を傷つけることになるからな。現代人にとっての人権だの民主主義だのと同じで、信じられちゃってるからどうにもならない。しかし人権も民主主義も嘘偽り虚妄であって実は人権屋とか政治屋が自分らの金儲けのために切り回してる、それは古代でも同じで、儒教の理想どおりにはなってない。任那四県の割譲には四県の役人も加羅(任那の東半分にあった国々)も猛反対したのに、結局通ってしまったのは、百済からの貢ぎ物(という名の賄賂)が加羅からの貢ぎ物より多かったから。百済は加羅の何倍も大きい国なので当然だろう。これのどこに儒教の理想がある? 後述のようにこれのしわ寄せはめぐりめぐって結局は倭国の首をしめることになる。

欽明天皇の任那トラウマとは
日本書紀では欽明天皇の即位したのは宣化天皇が崩御した539年で元年が540年ということになっている。しかし532年を欽明元年とする資料もあることは継体天皇だったか安閑天皇だったかの回でいった。安閑天皇の元年は534年で、日本書紀はその前の2年間を空位としているが、この2年は実は欽明天皇の1回目の治世だったのだろう。そしたら弟から兄への譲位になるが、それは顕宗・仁賢の両帝という前例がすでにあり別に非現実的なことではない(弟顕宗帝の崩御を承けての兄仁賢帝の即位ではないことはこのブログですでに説明済み)。これは倭国から派遣されていた近江臣毛野(あふみのおみ・けな:人名)が彼の不手際から巻き起こした任那大動乱のさなか、継体天皇の崩御を(戦争中だから)4年も隠したままでいたのだが531年三月には天皇が崩御したという噂が流れてしまったのと十月に百済新羅連合軍が解散して事態が一応沈静化したので、継体天皇から譲位されたということにして翌532年を欽明天皇元年とした。ところがその年の4月には金官國(任那諸国のうちもっとも主要な国、今の釜山あたり)の王族たちが新羅に投降したので、新羅は金官国(そなら)・㖨己呑國(とくことん)・卓淳國(とくじゅん)およびその周辺一帯を併合してしまった。以前に任那の西半分(四県二郡)を割譲したことで倭の直轄領はなくなっていたが、それは少なくとも名目上は朝廷の自己判断で百済に下賜した土地ということになっている。しかしこの532年(欽明天皇の第一治世の元年)には東部の加羅諸国のうち新羅に接していた諸国が新羅に強奪された。この「金官国・㖨己呑国・卓淳国」というのは今の大邸と釜山を結ぶ線を中心とした一帯のこと。つまり新羅と任那の国境線が大きく西に移動したことを意味する。翌533年九月、近江臣毛野が率いる倭の大軍数万の兵は新羅軍を迎撃したが大敗、十月には査察官として派遣されていた調吉士(つきのきし)が日本に帰国して近江臣毛野の無能と暴虐ぶりについての報告が公式に朝廷にあがった(531年の新羅百済連合軍の解散からここまで書紀は誤って530年の出来事としている)。つまり新羅の任那侵略を問責するはずの大軍の派兵が、百済や任那に散々意味不明な迷惑をかけた挙げ句、逆に任那の一部を新羅に奪われるという結果となり、欽明天皇は即位以来、面目まるつぶれの連続だった。これは神功皇后以来、大国として三韓に君臨し続けた大倭王にとって、アメリカにとっての「9.11」のような衝撃的な事件だった。これ以降、三韓諸国は倭國への信頼を失って面従腹背になっていく。自信喪失した天皇は退位を希望。継体上皇(実は勾大兄皇子)も、今回の情況は齢若い欽明天皇には荷が重すぎたとして、改めて翌534年二月七日、勾大兄皇子を即位させ、この年を安閑天皇の元年とした。同日、継体上皇崩御(ただしこれは公式発表で実際はずっと前に崩御していた。新羅派兵のタイミングがよすぎるから新羅または磐井による暗殺の可能性もある)。つまり日本書紀のいう空位2年間は欽明天皇の1度目の在位期間なのである。本当は近江臣毛野の無能無策が原因なのであるが、近江臣毛野は生き恥をさらし続けたあげく進退窮まって野たれ死んでしまったので、さすがに日本人のセンスとしては哀れであって、あんまり口撃もしづらい。そこで無能なこの男に大役をやらせた人事がまずかったのであってむしろ毛野本人は可哀相だろうとなるわけだが、実は近江臣毛野を抜擢したのは継体天皇の情実人事だったから、今度は継体天皇への非難になりかねない。継体天皇は庶民あがりではないものの地方豪族あがりで庶民に近いので勾大兄(安閑)・檜隈高田(宣化)の2皇子ともども人気があり、庶民感情としても今さら手のひらを返しづらい。むろんこの情況を救ってめでたく解決しようとしながら最悪な結果を迎えたのは欽明天皇のせいではない。むしろ故き継体天皇を含め勾大兄皇子(安閑天皇)と檜前高田皇子(宣化天皇)を始めとする群臣貴族たちが一致して欽明天皇を奉じようとして、即位のタイミング、つまり動乱の鎮定を待っていた。だが鎮定したかにみえた任那情勢は一瞬で最悪の事態を迎えてしまった、つまりタイミングを誤って、欽明天皇の即位に花をそえたつもりが完全に裏目にでてしまった。その時に在位してたんだから何も知らない世間の庶民は欽明天皇の手腕に疑念を抱く。しかし欽明天皇は継体帝の最愛の息子で安閑・宣化の両天皇からも最愛の弟なのは有名だったから、欽明天皇のことを悪くもいいづらい。そこで不満のはけ口、スケープゴートが必要になる。それが大伴金村だった。任那四県二郡の割譲がすべての原因だというのは庶民も知っていたが、これを主導したのが金村で、しかも百済から賄賂をとっていたというのは蘇我馬子が漏らしたスクープだった。金村は、武烈天皇の平群討伐が歴史へのデビューでどっちかっていうとアンチ平群の経歴をもっていたので庶民人気も高かったと思われる。なのに今では打って変わって、上は物部などの同僚貴族から下は町の小学生にいたるまで散々に悪態をつかれて天下に身の置き所もない有様だった。まぁロッキード事件がばれた後の田中角栄みたいなもんよ。しかし欽明天皇ただ1人が金村をねんごろに見舞って励ましている。そりゃそうだ、欽明天皇にしてみれば、金村は自分のかわりに非難の的になってるようなもので、金村への非難の言葉をきくたびに天皇自身も針のむしろだったろう。ここまでが欽明天皇の第2回めの即位の前後の情況である。

秦大津父(はたのおほつち)と2匹の狼
皇太子(後の欽明天皇)は幼少の時、「秦大津父(はたのおほつち)という人を寵愛すれば大人になってから必ず天下を治められるだろう」と告げられる夢をみた。そういう名の人を探したら確かにそういう商人(あきんど)が山城国紀伊郡深草里(のちに伏見稲荷大社が建てられた地)にいた。で、なにか変わったことがあったか聞くと、ある時、伊勢に商いにいった帰り、2匹の狼が血みどろの戦いをしていたので「あなたらは貴い神でありながら、そんな荒っぽいことをするとは。猟師からみたら漁夫の利、2匹とも狩られますよ」と喧嘩を仲裁して、親切にも血で汚れた体を洗ってあげて2匹とも生かしたまま逃してあげた、という。皇太子はまさにこのことと喜んで彼を召し使い寵愛は日々深まり、彼が商人であったことから皇室御用達の看板を得て莫大な富を築いた。即位してからは大蔵卿に叙されたという。

秦氏というのは古くから有名な氏族でこれ以前から大蔵の出納を担っていた氏族だから、捜さねばわからないような大津父という人物は秦氏の中でも傍流の末端の無名な人物だったろう。夢にでてきたのは姓はなく「おほつち」だけだったと思われる。これは古事記に出てくる「大土神、またの名は土之御祖神」でウエツフミによれば猿田毘古神の別名であり、猿田毘古神は天皇・皇室を導く神だから、皇太子がそのような夢をみるところまではいかにもわかりやすい話。オホツチなんて名は当時は太郎や花子と一緒でどこにもザラにいた名前だったのか逆に珍しい名前だったのかはわからないが、前者なら誰も名乗り出はせんし捜しようもない。一方、秦大津父という名はむろん大土神とはまったく関係ない。オホツチを「大雷」と解けばカミナリみたいな声のデカイ豪傑であり、「大槌」と解けば巨大なハンマーを持ち歩いてる危ないやつ。だからオホツチというアダ名で呼ばれていたのだ。商人といっても底辺の人足頭(にんそくがしら)から成り上がったタイプだろう。だが皇太子の夢の話をきいて素で「あれ?俺のことかな?」と思うような図々しいタイプは実際いるんだよなぁ。そういうやつが運をつかむ。で、ダメ元で秦氏の氏上(うぢのかみ:本家の族長)に頼み込み、売り込んでもらったんだろう。それで皇太子殿下とのコネができたわけ。信憑性の薄いものではあるが後世の系図だと「丹照」と「国勝」の兄弟が大津父の同世代にいて、その兄弟の父が「宇志」。この3人のうち誰かが氏上だったか。宇志からみると大津父は甥で、丹照・国勝とは従兄弟になってるが、そんな近い親戚のわけないだろう。

さて話を戻すと、皇太子殿下が夢にみるほど神の導きを欲していたのは「天下を治められないかも」という悩みがあったからってことになる。それで、2人の兄である安閑天皇・宣化天皇と、腹違いの欽明天皇との間で皇位継承争いがあったのではないか、秦大津父の話にでてくる2匹の狼というのはこの両陣営の戦いの暗喩ではないのかと推測する説がある。しかしその説の場合、『百済本記』の天皇が后や太子・皇子ともども変死したという話を宣化天皇の一家のことと解釈した上で、それによって欽明天皇が即位しえたとするので、大津父のいう「2匹の狼を両方とも助けた」という話では喩えとして成立していない。第一に、欽明天皇が生まれた時点で、皇位を継承していくのは「旧・仁徳王朝」の血を母系でひく欽明天皇に確定していた。第二に、2人の兄と欽明天皇では年齢が違いすぎて争いになりようがない。安閑・宣化の両帝は最初から、欽明天皇が成長するまでの中継ぎの仮天皇だった。
そうすると欽明天皇の即位は確定事項で、皇太子の地位にあるのに「天下を治められないかも」という悩みは何のことかというと、前章まで読んでくればもうお分かりの通り、半島情勢でしかありえない。2匹の狼ってのは百済と新羅のことだろう。両国とも自国の国益確保にやっきとなっているが、生き残りがかかってるので必死、傍若無人ぶりは豺狼のごとしだ。だが、大津父はそんな狼をやっつけろとは言わず、やさしく教え諭して放置してしまったという。欽明天皇はそれを聞いてどう思ったのか明記されてないが、のちの寵用ぶりからすると、「なるほど」と感心したのだろう。はたして狼のような戦国時代さながらの両国に、そんな「おめでたい平和主義」が通じますかね? どうなることやら、おなぐさみ。おなぐさみも何も、我々が知ってるように任那はどんどん酷いことになっていくわけだが、大津父の立場は当然わるくなったはずだ。もし巧くいってたら、代々大蔵官僚として宮廷貴族の地位に留まったろうが、欽明天皇が崩御して後ろ盾がなくなって居づらくなっていったんだろう。孫の伊侶具(いろぐ)の代に伏見稲荷を創建して宮司になったのは、この一家がその頃すでに朝廷から出ていたことをあらわしている(秦氏の本家は聖徳太子に仕えた河勝(かはかつ)の流れだが大津父は本家とは血が遠く、まったく無名な人だった。河勝は上述の丹照または国勝の子ということになってる)。

「任那復興会議」がぐだぐだに終わった理由
だから欽明天皇はこれに責任を感じてなんとしても任那を取り戻そうと悲願した。で、そのやり方なのだが欽明天皇のみならず当時の日本人は現地の事情を無視する近江臣毛野を派遣して任那のみならず三韓全土を大混乱に陥らせたトラウマがある。それで例の儒教病に磨きがかかり、兵員・武器・兵糧・物資などは出すが、細かいことには口をはさまず、現地人を「信じて任す」ことにした。大東亜戦争もそうだけど日本人はたった一度の失敗にすぐに懲りて「羹を吹く」からな。この場合、現地人というのは任那日本府の役人のことで、日本府は日本の出先機関とはいえ、そこに常駐している者たちは現地のベテランなのだから信用できると踏んだんだろう。ところが『日本書紀』みると肝心の現地(任那)の連中はなぜか売国奴ばかりで新羅と通謀して連日の会議をかき回すばかり。新羅はむろん凶悪な敵性国家、百済だけがまともでまじめで天皇に忠実なように書かれている。これは実は日本書紀が百済側の資料に基づいてるからで、公正でない。新羅が悪なのはその通りとしても、百済が善意の塊みたいな話はウソだし、任那日本府の役人が売国奴なのもそれなりの事情があったのである。つまり朝廷が「信じて任せた」つもりの相手が一枚岩でなかった。新羅と対抗するには任那諸国のような小国でなく、どうしても百済が主力とならざるを得ないが、百済は北に強大な高麗と対しているので新羅と戦うにはどうしても倭国の援軍が必要。しかしヤマト朝廷は前述のトラウマがあるため、現地官僚である任那日本府の太鼓判がないと絶対に派兵などしない。ところが任那日本府と百済はめちゃくちゃ仲が悪いから、任那はあーでもないこーでもないと屁理屈をこねて会議を先延ばしにする。

三者三様の立場
用明天皇の回や崇峻天皇の回でやったように『日本書紀』の記述にそいながら事件の流れを追っていくと面白いが、今回ちょっと時間がないのでかいつまもう。新羅としたら任那を形式上は侵略していないつもりなのである。百済への割譲は合法的なものであって侵略ではなかったが、倭国が同じように新羅へも割譲してくれないのなら、任那(この場合は加羅諸国)がみずから進んで新羅に投降し合併されるという形式をとるしかない。実際に、三国史記によると新羅は524年に「王みずから南境を巡って地を拓いた」とあるがこれが日本書紀でいう金官・碌己呑の2国併合という事件に該当し、三国史記は続いてこの時に「加耶國王が来会した」とずいぶん穏便な書き方をしているが、実際に敗北者を併合するという形式でなく極力「対等の合併」という形式をとったのだろう(加耶国王とは金官の旱岐と碌己呑の旱岐)。とはいえ任那諸国(&倭国)からすれば事実上の新羅による加羅侵略だったから、これが近江臣毛野が率いる6万の大軍が新羅征伐に向かってドタバタの大混乱になっていく直接の原因となった(この中で新羅は一旦は2国を手放し再独立させているが、532年にこの2国に卓淳国を加え3国を併合した)。新羅は他国を併合した際、その王族らをとてつもなく優遇してみせたことは金官国の王族のその後の大出世と大繁栄からあきらかにわかる。それをみた加羅諸国では、身分や地位が保証されるのなら、いつ滅ぼされるかと怯えながら小国のトップでいるより大国の貴族でいるほうがマシと思ったろう。百済は「百済と任那は兄弟も同然」と口ではいうが、任那の西半分を自分のものにしたばかりか、任那を新羅から守るためと称して、加羅の諸国に郡領(郡令とも書く)と軍主を派遣していた。郡領というのは内政の顧問官で、軍主というのは駐留百済軍の将軍。つまり百済は任那の東半分も実質支配下に置いていた。これでは百済がいかに美辞麗句(天皇への忠誠とか任那復興とか)を並べても加羅諸国はついていかない。天皇も加羅の陳情を容れて百済に「郡領と軍主をひきあげろ」と命令しているにもかかわらず百済は無視していた。百済にしてみたら「そんなことしたら新羅が攻めてくるし百済兵ぬきで任那は新羅の侵略に抵抗できないだろう」ということだ。実際は加羅諸国が勝手に新羅に投降しないように武力で抑えているわけ。日本が勝手にソ連や中共と同盟しないように米軍が駐留してるようなもんよ。ちなみに日本府の役人のトップに「吉備臣」なる者がいるが、吉備氏の一族は百済に割譲された任那四県の国司を勤めていたことが知られている。このことから角林文雄は四県が百済領になった結果、四県の国司が失職して(利権を失って)、阿羅國(東半分の加羅諸国の一つ)に寄生していたのが「任那日本府」だと推定している。四県割譲よりもずっと以前から日本府は存在しているのでこの角林の推定は間違いだが、どっちにしろ四県割譲は加羅諸国にとっても日本府にとっても不愉快なことに変わりないから、彼らは「百済憎し」で凝り固まっていたことは大いに有り得る。彼らは新羅と通謀して、高麗に百済を攻めさせたりしていた。百済からしたら「陰謀」なのだが彼らにしてみたら百済を懲らしめてやったのであり「正義の鉄槌」のつもりだろう。そんなことをして任那が新羅に滅ぼされたら自分もオシマイだろうに、と思うかもしれないが、一つの可能性としては彼らは百済も新羅も見下しており、新羅ごときに任那を滅ぼせるはずがないとタカを括っていたか、もう一つの考えとしては任那が新羅に併合されたら、ヤマトの朝廷に顔のきく自分は新羅王のもとで重用されるはずと傲慢にかまえていたのだろう。実際に当時の新羅は「多民族合衆国」の様相を呈しており、日本での出世を諦めた負け組の中には、再チャレンジを目指して新羅に帰化した日本人も多かったろう。百済も新羅も日本府の役人も自分のことしか考えてない。しかしヤマトの朝廷には外交センスがまるでなく、加羅諸国はヤマト朝廷が自分らを守る意志も能力もないと諦めていた。そこで任那の永存がむりなら、すべてが百済領になってしまうと新羅と百済のパワーバランスが大きく崩れるし、せめて任那を東西にわけるというビジョンがありうる。加羅諸国は過去の経緯で仲の悪い百済に併合されるぐらいなら、待遇のいい新羅領になることを選ぶ。

高麗の衰退と百済・新羅2国の逆襲
ネットで検索すると高句麗の最大領土の地図ばかりでてくるののと『広開土王碑文』の勇ましい誇大宣伝のおかげで現代人は高句麗というと強大な国というイメージがある。が、当たり前だが時代によって盛衰するわけで、この頃の高麗は広開土王の頃ほど強くない。広開土王の後を継いだ長寿王は膨張政策をやめて文治政治にうつり、427年に山奥の丸都から、中華文明かおる楽浪郡の中心、平壌に遷都した。これで文明開化はすすんだものの精悍な好戦民族は軟弱になってしまい、北方への睨みはきかなくなり469年には「勿吉」という本来なら高麗の属民のような狩猟民族が独立して百済とくんで南北から高麗を挟み撃ちにした。これは北方民族の雄としての高麗のアイデンティティーにかかわるばかりか高麗の滅亡に直結しかねない事案でもある。もはや勇猛な狩猟民族といえば勿吉のことであり、文明化して農民化した高麗のことではないのである。この問題を永久に解決するため高麗は475年に3万の大軍で百済を滅ぼしその地(ほぼ今の京畿道あたり)を併合した。百済が敗れたのは百済の蓋鹵王が暗愚で高麗からの間諜に騙され国庫がカラになっていたからという。これ以前の百済は高麗と五分五分の戦いのできる国で高句麗の中心部まで攻め込んだこともあったのだが、この後、百済人は南に逃げ熊津の地を任那から分けてもらってそこに国家を再建したのは上述の通り。ただし、滅亡経験というのは旧弊を一掃する機会となり国家目的に沿った改革を容易にするし新領土の面積、人口とも再建後の第二百済はかつての百済と比べて見劣りするものでもなく、なにか百済が弱小になったかのような印象をもつのは正しくない。だから新羅と百済が連合すれば、この時期の高麗から領土を奪還できるというのはぜんぜん空想的なことではなかったのである。そして実際のところ、百済と新羅は任那をはさんではライバルだが、北の高麗に対しては共闘関係にあり、しばしば同盟を結んでいた。
551年、百済新羅連合軍は高麗の南部を奪い取り、国境線を大きく北上させた。この時、高麗から奪取した土地のうち東半分は新羅が、西半分(今のソウルを中心とした一帯、京畿道)は百済の支配に戻った。これは任那四県を割譲した根本原因である「475年の高麗南進」以前の状態に戻ったということだ。以後、高麗がこの地を取り戻すことは永遠になかった。

百済の衰退と新羅の隆盛
と、まぁ、ここまでは喜ばしい話だった。ところが…。
552年、とてつもなく嫌な大事件が起こった。百済が新領地を手放し、新羅に奪われてしまったのだ。この結果、百済は北と東を新羅に覆われる格好となり、百済と高麗の間には直接に接壌する国境がなくなった。新羅が強大化し、大きくパワーバランスが崩れたといえる。これは将来、百済や任那が滅ぼされてすべて新羅に統一されることを予感させるにたる大事件だが、嫌なことから目をそらしたい連中は新羅と百済を同等にみて「二国が協力してこそ高麗に対抗できるのであって、新羅一国ではどうせ高麗にすぐ奪い返されるだろう」と予想したり、あるいは「合戦は勝ったり負けたり、領土は取ったり取られたり、毎度のことだ気にするな、ほれドンマイドンマイ」とお気楽なこといってたに違いない。しかし実際には「取ったり取られたり」にならず竹島や北方領土のように「取られっぱなし」になった。尖閣諸島もそのうちヤバイだろ。こうなったには、ある必然の理由があったのである。それは何かというと百済の場合は「人材不足」だったのである。百済は任那の四県二郡を貰い受けたが、それは倭國との取り決めであって、任那人にしてみれば自分らの頭越しに勝手に決められたことだから、喜んで百済人になろうとは思わない。日本の戦国時代でも同じだが、合戦して負けたからこそ勝者にひざまずき、その栄光の下に参加するのであって、戦ってもないのに頭を下げられるかっての。しかも任那人は天皇直轄領の民だったのであり、江戸時代でいえば「天領の百姓」で田舎大名の領民とは格が違うというプライドもある。だから百済政府は信頼できる現地人を採用して新領地任那を統治することができず、中央から人材を大量に投入することになる。そしたら北方の人材が不足するのは当然だろう、人間は増えないのに領土が広がったのだから。めぐりあわせの悪いことに、南方経営の便宜のために百済は538年に南方の泗沘に遷都して国名も「南扶餘」と称しており、北の経営にはますます便宜の悪い状態になっていた。北の新領地に人材を回すのにやや遅れが出て守りが薄くなったために新羅からの侵略に対応できなかったのだ。百済と較べて、新羅は前述のごとく外人歓迎・新人優遇の気風があって外国人からみると帰化の対象として魅力的なのである。新領地の人間も事前に新羅の評判を知っており、新羅からの占領軍がくるとすぐその場で新羅に仕官するから人手不足ということがない。こうなると江戸の仇を長崎で、ではないが、北の失地を南で取り返すべく、百済はますます任那侵略に執着し、そうなるとますます任那人から嫌われる。一方、新羅は遅くとも568年までに咸鏡南道までも高麗から奪い、朝鮮半島の大部分を占める大国に躍り上がった。

「仏教で滅びた百済」と「仏教で隆えた新羅」の差とは?
新羅と百済の盛衰の分かれ目は、仏教の影響もある。仏教には「国家鎮護」の護国宗教という一面もあるが、それは方便にすぎず仏教の本筋ではない。なので仏教に心酔して理解が深まると、国家や氏族を軽んじ出家や解脱に憧れるようになる。
中国(梁)は、当時は南朝の梁で、その都である建康は、朝鮮半島や日本の崇仏派にとって憧れの、東アジアの仏教文化の中心であった。梁の武帝は「皇帝菩薩」と称され、出家して寺に入ろうとして臣下たちに引き戻されたり、寺に莫大な寄付をして財政を圧迫し国民を苦しめたりていたがその結果は5年も続いた「侯景の乱」(548~552年)で華やかだった帝都建康は灰燼に帰し皇帝も幽閉先で泣き言をいいながら死んだ。これは日本や三韓の仏教マニアには大きな動揺を与えたが、もとより仏教では「諸行無常」である、何をかいわんやw
高麗(高句麗)も仏教は栄えたが道教も人気があり、個人道徳としての仏教、護国のための仏教という傾向は新羅や百済と共通だが、しいて高句麗の特色をあげるなら、仏教は道教のために高麗(高句麗)国内では新羅や日本ほどの独占的な地位は占められなかった。高麗(高句麗)では道教が先に土着信仰と習合していたのではないか、そのため仏教の影響をある程度抑制したのではないかと思われる。
百済(南扶餘)では早くから儒教や漢字文化になじんでいたため早くから理知的な気風があり呪術離れしていた。儒教が根付いていたため仏教はすぐには受容されなかったが一度受容されるとその思想的な影響を受け、また人工国家(征服王朝)という特徴から儒教なり仏教なりが選択されると土着信仰が打ち捨てられる傾向が強かった。百済の支配階級(夫餘人)と庶民階級(馬韓人)とでは祭祀の形態はだいぶ違っても神話はおそらく似たようなもので、夫餘系による同化も難しくなかったと思われるが、漢人系の貴族も多く、支配階級はかなりの程度、漢化しており、あまり伝統的な信仰に配慮しなかったのではないか。漢化した人間の文明観からすると土着信仰では国家を統合できないのだ。百済仏教には戒律を重んじる山林仏教の特色があり、これは本格的に教義が理解されていた証拠である。倭国に仏教を伝えた百済の聖明王の「聖」の字は聖徳太子の「聖」と同じく仏教の篤信者、仏法の守護者を表わす。聖明王は梁の武帝を追うように554年、新羅の雑兵ふぜいにつかまり惨めに斬首された。日本にいた百済王子の餘昌は蘇我に「なんでこんなことになったのか」と泣き言をいったところ、蘇我は「百済では最近、祖先の神を祀ってないじゃないか。祖神ってのは遠い神代、草木がしゃべっていた大昔に天からくだってきて国を建てた神のことだ」といっている。本来の正しい仏教では祖先を祀らない。先祖供養をすることがあっても仏教の本題ではない。そしてここで蘇我がいってる神話は日本の天孫降臨神話であるが、馬韓の土着神話、あるいは百済が北方からもってきた夫餘系の祖先神話などもほぼ同じような神話で、当時の人々はみな同じ神だと認識していた。百済では理知的な思考のおかげで土着信仰と仏教が併信されず、取捨選択で考えられていた。が、社会統合のため土着信仰でなく仏教を押し付けるのも、土着信仰を押し付けるのも同じことではないか。百済仏教には弥勒信仰もあるが、これは新羅からきたんだろう。弥勒信仰は土着の太陽信仰と共通の土台があり、百済でも土着信仰の感性はまだ死滅しきってはいなかったと思われる。ここで重要なことは、日本で仏教派だったはずの蘇我が、いざとなったら仏の功徳など国家安泰の役に立たないと、仏教の価値観を正しく理解していることである。つまり蘇我が仏教派なのは日本のためではなく、自分が解脱して来世すくわれるためなのであり、腹の底では日本が滅びようが重要でないと思っているのか、もしくは仏教も信じてはおらず政治抗争の道具に使っているだけなのである。日本仏教の最大の擁護者である蘇我にここまでいわれながら、餘昌は目が覚めず、翌555年には新羅に殺された父王の供養のため出家しようと言い出し、臣下たちに引き止められている。インドの宗教思想や中国の政治制度といった「高度文明」に目がくらんでしまった人間はいまさら田舎くさい土着の神々などばからしくて信じられないのだ。ふつうは父の仇の新羅を征伐しようと言い出すべきところ、逆にあの亡国皇帝梁の武帝にならおうとは何事ぞ。こういうのをカルトに洗脳されているというのであって、上の者がこうではどうして下の者が国のため命を投げ出そうと思うだろうか。
新羅(鶏林)は高麗や百済よりもはるかに文化(中華文化)が遅れ、土着信仰を除けば儒教や道教の影響ももとから弱く、当初はともかく一旦公認されると仏教を妨げるものはなかった。が、仏教の受容は教義についての本格的な理解というよりも、どちらかというと高麗や百済に対抗するためという国家目的であり、そのため最初から仏法と王法の一致を旨とする「鎮護国家」、そして「弥勒信仰」という仏教の中では枝葉だが土着の太陽信仰と類似した部分が選択された。そのため新羅仏教は百済仏教とは逆に、国家を解体するのではなく、氏族的対立を超えて国家統合に向かわせる力として作用した。土着の太陽信仰は日本の天照大神とも通じるもので、日本支配から脱却するためにも土着信仰を世界普遍のものに昇華させようとして弥勒信仰が選ばれたのかもしれない。
任那(加羅)は、もとからの任那人と日本府の役人とで違いがあったろう。もとからの任那諸国では、仏教に興味をもつのがかなり遅れた。地理的に中国から遠いという理由もあったろうが、二大強国に挟まれて呻吟しており、国力に余裕がなくて、新羅仏教も百済仏教も有閑階級の道楽ぐらいにみていたのではないか。百済の圧力で仏像つくったりしているがこれは最初から日本へ贈るためのもので、任那の主体的な行動ではない。この任那の仏教への無関心は、長い間、日本を仏教の自然流入から守る防波堤となっており、だから日本に仏教が公式に伝来したのも「任那の頭越し」だったのである。それ以前、522年の司馬達等による仏教私伝も、彼は梁の出身とあるから百済からきたといっても「百済経由で梁から」きたのであり、任那は関係がない。ただし任那日本府の役人は蘇我氏と強い結びつきがあり、ほぼ全員仏教徒だったろう。個人的にみていけば、ミーハーなナンチャッテ仏教徒もいれば正しく教義を理解しているマジメな仏教徒まで、いろいろだったではあろうが、組織としてみれば百済への対抗意識と、百済への侮蔑意識があって、経文や仏像といった実物の入手には不利であり、百済の仏教を貢ぎ物にする点数かせぎを苦々しく思っていたことだろう(ちなみに日本府の役人が仏教徒になったのは蘇我の影響だから、日本への仏教伝来より後の話である)。
日本(倭)はまだこの頃、仏教を公式に受容するのかしないのか、もしするとしたらどういう形になるのかという国家的決断を先延ばしにしている段階で、崇仏派は蘇我氏とその近辺の皇族を含めてまだまだ少数派であった。それもほぼ百済仏教の思想である。新羅的な仏教というのは知られてはいたが、新羅を無教養な田舎者と蔑む百済人の影響で無価値と思われていた。無関心派や排仏派のほうがまだまだ多数であって、その中心はバラモン階級(神官階級)に該当する中臣氏や、「仏教の教えでは戦場で国のため命を捨てることができない」とするクシャトリア階級の物部氏がいて、仏教の扱いはこの先どう決まるのか渾沌としていた(百済では神官階級に該当するものが「学者」なので理論で仏教に論破されればそれまで。新羅ではこの頃すでに金氏が王位を独占していた。金氏はもともと巫覡の一族で、武門の朴氏、富財の昔氏とともに三権分立をなし本来の王というのはいなかったが、朴昔の二氏は364年に一度滅ぼされ解体されており、この時「麻立干」(ましゅうかん)という称号ができ、初めて国内王権が確立した。そのため王族自身が巫覡的な一面を担っており、王族とは別勢力となる力をもった神官階級(日本でいえば中臣氏のようなもの)がおらず、王家が崇仏にきまってしまえば「強大な排仏派」というものは形成されにくい)
しかし欽明天皇自身の判断不能とそれによる中立的態度、政治的な実力者である蘇我氏の崇仏運動は朝廷の政治的動向に大きく影響していたろう。こと任那問題に関しては軍部を除けばこの問題にかかわる文官(事務官僚的氏族)は吉備氏のような古来からの名門氏族だろうが帰化人系の下級事務官僚的氏族だろうがみな蘇我の影響下にあり、彼らに崇仏派が多かったろう。そして仏教というのはつまるところ個人主義思想であり、国家軽視してまで自氏族を優先する儒教(国益無視して省益優先する現代の官僚みたいなもの)よりも、輪をかけて私利私欲に論拠を提供しやすい(この時代の仏教というのは現在の我々の理解しているような「日本化した仏教」ではないことに注意)。日本は仏教伝来するや、ただちに受容した」などというのは無知をさらけだすデタラメな説であり捏造された歴史にすぎない。日本が最終的にどのように仏教を受容するのかが確定したのは、聖徳太子の時代ではなく、大化の改新の時なのである。聖徳太子はまだ試行錯誤の段階だった。そこらのすったもんだは今回のテーマではないのでふれない。が、ただ、仏教を遅れて受容したために(大化の改新の頃までには)後出しジャンケンのように百済の例、新羅の例を参考にできたとはいえよう。といっても鎮護国家仏教なら問題ないのかといえばそうはいかない。奈良時代の大仏大伽藍などは国富の浪費であって梁の武帝と何もかわらない。梁の武帝の仏教だって寺院は国家鎮護を売りにしていたのである。新羅や後世の日本がマシだったのは、仏教をあくまで文化や習俗や実用的な呪術として受け容れたのであって「教義を真に受けたのではない」、そして実際に信仰しているのはあいかわらず土着の原始的な部族宗教すなわち王権(≒伝統的共同体≒国家主義≒國體信仰)なのであって仏教ではない、という点が重要だろう。しかしそれであっても万全ではない。建前はやがて本音を侵食していくからだ。

滅亡までの経緯(562年正月~八月)
562年正月、『日本書紀』によると新羅は任那の残っていた部分(加羅諸国のうち10ヶ国)を併合して任那は消滅した。欽明天皇の綺麗事にまみれた泣き言みたいな詔勅が載っているが、新羅は片田舎の小国で恩知らずだとちょいとだけ罵倒も入ってるが、日本は新羅に対して本当によくしてきたと自国の無能無策を棚にあげて人の良さを切々と語っており、日本人なら思わず同情してしまうような内容だが、当の新羅人・任那人・百済人は「こりゃダメだ」と思ったろう。日本書紀はどういうつもりでこんな編集してるのか。ある意味、大東亜戦争の開戦の詔勅(終戦じゃなくて開戦のほう)に似てる。我が帝国はなんの悪気もなく世界平和のためにがんばってきたんだが、英米支蘇蘭がわかってくれない、本当は開戦したくないんだけど趨勢のおもむくところやむなく開戦するよ、みたいなのが開戦の詔勅で、気勢のあがらないこと甚だしい。任那が滅ぼされたというけど、今回も新羅が暴力的に併合したのではなく、おそらく任那諸国がみずから進んで新羅に帰服したという形式をとったと思われる。ヤマト朝廷が無能で働かないのだから、現実にある百済支配から任那人が逃れるすべはこれしか残ってないのだ。儒教的にいえばヤマトに徳がたりないということだよな。
↓ありがちな歴史地図。ずいぶん古い説に基づいて描かれている。あまり真に受けないように、特に任那の西半分は間違い多し。
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で、今後の対策なんだが、もし倭軍が新羅を攻めて京畿道を奪回してしまうと流れ的に百済に与えることにならざるを得ないが、いまや新羅と任那は同一会派なのであり、新羅を攻めること自体が百済を益し、それはただでさえ爆発炎上している新羅や任那の倭国(&百済)への反感を増大させる。かといって任那を滅ぼした新羅を放免して百済を攻めるのは筋が立たない。任那から百済兵をひかせればいいのだが、そんなことは百済は絶対承知しない。新羅も百済も自分に都合のいい命令しかきかない。命令を強制するに派兵するしかないが、軍事行動は大伴氏や物部氏の手柄になって彼らの地位や権力の増大につながるから蘇我としてはなるべく戦争はしたくない。八方塞がりなわけだが、任那日本府のトップだった吉備氏は昔は平群氏の配下だったがこの頃は蘇我氏の配下だったろうし、任那利権の元締めはこの時代では蘇我氏だから新羅百済両国を手玉にとって任那を切り売りしていたのは蘇我氏なのである。蘇我の牛耳る政府としては八方塞がりでも腹は痛まないが、倭国の国内世論としては任那を滅ぼした新羅への憎悪で爆発しており、大伴・物部の率いる軍部も新羅征伐じゃぁ~と大騒ぎになっていたはずである。欽明天皇の思わず同情を誘うような詔勅の効果はその怒りを倍増させていただろう。だから蘇我大臣としてはしぶしぶではあるが新羅討伐軍を派兵せざるをえなくなった。
七月になって大将軍・紀臣男麻呂(きのおみ・をまろ)と副将軍・河辺臣瓊缶(かべのおみ・にへ)が率いる日本軍(おそらく正しくは日本百済連合軍)が、任那回復をめざして百済領内から出撃したが、河辺臣瓊缶が無能でそのめちゃくちゃな戦術のせいで新羅に散々に打ち負かされた。おまけに河辺臣は人情にも義理にもはずれたスキャンダラスなエピソードまで残してきた。この戦いは『三國史記』では「百済が攻め込んできたが逆襲して殺したり捕らえたりした者が千人にもなった」とある。今頃になってようやく援軍を出したんだろうが遅すぎる。この大敗で、天皇はじめ国民も大きなショックを受けたが、蘇我を始めとする現実派は、これで頭を冷やして理性的になってくれればいいと思ったろう。しかしそう都合よくはいかない。新羅は格下の属国で取るに足らない弱小国と長年みなしてきた日本が継体朝の末期に新羅に大敗して任那の東部を奪われてから、このところずっと押されっぱなしで、ついに任那が滅亡した直後の最後の決戦でまたしても大敗したのである。新羅は現地の民心を得ているので強い。任那人すればから敗北したから良かったのであって、もし新羅が負けたらまた百済の支配下に戻されるのではないかとヒヤヒヤものだった。そういう事情も国内ではようやく理解されてきたが、だからって怒りが収まるかといえばそれとこれとは別だ。軍事的な敗北だけでもプライドがずたずたなのに、加羅諸国の心も新羅になびいている、つまり「徳」の面でもまけているというのが絶対にゆるせない、認められない。思い込みの袋小路に入った人間はうまくいかないとますます意固地になるものよ。ちょうどいいことに敗北の直接の原因になった無能将軍の河辺臣ってのは蘇我氏の一族だから、これ実力を考慮しない情実人事をこの期に及んでいまだにやっていたってことだ。大伴氏や物部氏を将軍に起用しなかった点からも蘇我大臣は最初からマジメにやる気なかったろ。怒りの矛先は戦犯蘇我大臣に向く。あらたいへんw だが、ここは軍を立て直してもう一度新羅征伐を、とはならなかった。蘇我大臣としては戦争はうんざりなんで、戦ではなく「徳」の面で新羅に勝つべきだと主張しただろう。「おまえがいうな」と一斉にツッコミがきたろうけどな。次なるいくさは大伴氏や物部氏に出馬してもらうというのが世論の要求だろうが、さすがに蘇我とならぶ執政の地位にいる物部は蘇我が全力で却下した。これ以上物部の発言力や威勢が高まるのは蘇我としては断固許容できない。なので大伴金村失脚以来、低迷している大伴氏から将軍が出るはずだ。次に、徳にそむくいくさはできぬ、つまり任那の現地人の民心に背いてまで新羅を直接攻めることはできぬ。じゃどうするかだが、高麗と百済は直接に隣り合っておらず間に新羅領があるから、遠交近攻策に則れば、今後、百済は高麗に臣属する可能性がある。新羅に大敗したまま事態を放置すると、半島における任那領が存在しない今、百済への日本のヘゲモニー低下は免れない。新羅も百済も倭国を必要としなくなれば貢はこなくなり、半島における日本の権益は崩壊する。ゆえにこれ以上手を拱いてヤマト朝廷の無為無策をさらけておくわけにもいかない。こうなると高麗しか攻める相手がいないのだ。というわけで、いささか唐突ではあるが、今度は高麗征伐軍を派兵することになった。え?もろん高麗から何かを引き出そうというわけではないからやや意味不明な戦争ではある。ただ倭国の威力を示せばことたりるので高麗を滅ぼす気も領土を奪う気もないのだが、怒りに燃えてるので戦意だけは高揚して無駄に士気の高い軍はできる。高麗といえば、任那問題にしろ新羅問題にしろ、根本的な原因は高麗の存在につきるのだから、高麗征伐が可能なら話は簡単なのであり、本気をだせばそれが可能だということが証明される。もっとも問題の係争地はいまや新羅領なのだから高麗を攻めて領土を取っても飛び地になるばかりで、新羅には関係がないし、前述のようにこの頃はすでに高麗より新羅のほうが強大になっていたので、高麗問題は消えて新羅問題にスライドしていたのだが。本当は新羅を成敗しなければ任那の回復にならない。現地の親新羅派の任那人を虐殺しても新羅を滅ぼすか、さもなければ百済が滅びるのを無視しようとも断固として百済に任那から手を引かせるか、いずれかしなければ植民地経営などできないのだろうが、建前からいえば徳にそむくことは日本人にできないし、本音をいえばいちどまみれた利権の絡まりは自分では断ち切れず決断を先延ばしにする。そしてエネルギーを持て余して、首を切られた鶏みたいに国家の運命を迷走させる。
八月、倭国は、大伴連狭手彦(おほとものむらじ・さでひこ)という引退していただろう老将軍を引っ張り出して、高麗に遠征させた。任那が滅亡してドタバタな時になぜそれをほったらかして高麗なのか、それは後で説明するとして、狭手彦は百済側が提案した戦略を採用したというが、百済は何度も高句麗領内深く侵攻したことがあり地理に詳しかったのだろう、それとこの時点では百済と高麗は接壌していないので陸路だけで直接には高麗にいけない。一つの方法としては新羅に道を借りる手があるが、今回は任那紛争のさなかだからそれは考えにくい。そうではなくて水軍で海から高麗に上陸する作戦だったろう。これは大昔、404年に帯方(今の黄海道のあたり。京畿道も帯方の一部だがそっちは当時百済領になっていた)に急襲をかけたことが『広開土王碑文』にある。これも海上から上陸したもので、今回はその再現となる。狭手彦は倭国百済連合軍を率いて王都平壌に攻め入り、高麗王を撃退しその王宮から様々な宝物を奪取した。この時、新羅が高麗を助けようと南から攻める虞れもあったろうが、新羅は新領地の保全につくして出てこなかった。倭軍が大軍だったせいもあろうが新羅は高麗を同盟者として役不足とみたのもあろうし、狭手彦が新羅に対していくらかの援軍を出すように命令してたかもしれない。この戦いで高麗から奪取した宝物のうちいくつかは蘇我稲目に捧げられたというから、この戦争の企画者は蘇我稲目で、先月の河辺臣の失敗を挽回する意味もちょっとはあったのだろう。さて、領土の一片を取ったわけでもないが狭手彦の成果は話だけは華々しい。大伴の精鋭・物部の大軍を集め、国運をかけた遠征だったろうし、国内の賢人が出撃前の狭手彦に国家戦略を授けたか献じたかしていたと思われる。『日本三代実録』によると狭手彦は高麗にしばらく留まって敏達天皇の時に帰国したという。十年ちかくにもなるがその間ずっと戦っていたのではなく講和のあと国使として外交交渉していたのだろう。狭手彦がいたと思われる期間、高麗・新羅・百済の3国は戦っていない。狭手彦は高麗に十年もいたのだから奪取した領土を恒久的に確保できるほどの兵力はあったと思われるが、狭手彦のもくろみは高麗を無駄に苦しめて憎しみを買うことでなく、絶対優位な立場で交渉することなのである。これからの敵は中国や新羅になるとして高麗と百済の同盟を固めたものと思う。だから任那のことは狭手彦の眼中になかった。百済は新羅から差をつけられてしまいこのままでは滅亡が迫っているとあせっているから、任那から手をひくことは絶対にありえない。任那回復が欽明天皇の悲願であることは恐れ多いが、百済を排除するという決断ができない以上、現地の住民の民意に背いてまで任那を再独立させることは果てしもなく混乱を継続させるだけだ。これは崇仏派か排仏派か問わず、もののわかった連中には合意されていただろう。ただ、任那の中には前年まで百済の郡領や軍主がいたわけで当然、任那人にも百済派という一派も形成されていた。それで狭手彦が率いる倭国百済連合軍の威力を背景にして、一時的にだが加羅諸国のうち何ヶ国かが再独立したらしい。『三国史記』新羅本紀の記述からそれが推測できる。

滅亡の最終局面(562年九月十四日)
562年九月、三國史記によると伽耶(=加羅)が新羅に謀反を起こしたのでこれを鎮圧したとある。謀反が起きてから鎮圧までが九月中のことのいように書いてあるが、歴史書ではよくあることだが簡便に一行ぐらいの短い書き方をされている場合は往々にして省略があり、鎮圧されたのが九月という意味で、謀反が起こったのはそれ以前である可能性もある。高麗に遠征して高麗軍を撃破し、高麗王を王宮から追い出すほどの倭軍にしてみれば、新羅から任那を奪回するなど容易いはずだ。だから伽耶の独立派は狭手彦の高麗遠征からの凱旋軍の帰路にあわせて蜂起したのだろう。だが狭手彦は高麗に留まり、帰国したのは高麗から奪取した宝物を運ぶ輸送部隊だけで本隊ではなかった。伽耶の再独立のニュースは狭手彦にも届いていただろうが、狭手彦は独立軍を見殺しにした。おそらくヤマト中央政府からの指示だからでもあったろうが、建前で任那独立といいながら、その実は百済への帰属を主張する勢力だったからだろう。彼ら「親百済派」は任那の中では少数派なので、彼らを支援するのは任那の多数派に反することになる。大将軍狭手彦の方針が無視である以上、百済政府には独力で独立軍を支援しなければならないが、この時は百済の主力は狭手彦の指揮下にあったし、加羅に駐留していた軍主たちの率いる百済兵も、狭手彦の高麗征伐に参加させられたためにかなりの人員がひきあげられており手薄になっていたんだろう。現代人からすると「いや、高麗征伐してる暇があるならその軍をもって任那をさっさと再建しろよ」と思うだろうが、日本府の役人だった吉備臣らとつながっている蘇我稲目は、現地人=任那人の民意をよくしっており、彼らは独立したところで、骨の抜かれたぐにゃぐにゃな指導力しかない倭国の下でまたしても百済の実質支配下に逆戻りするしかないのをよく見抜いており、それならぶっちゃけ「復興されたくない」わけよ。で、再独立をめざした反乱軍は新羅の将軍・異斯夫に平定され、任那は最終的に滅亡した。この事件は九月十四日(辛巳日)、当時の西洋の暦(ユリウス暦)に換算すると「AD562年10月27日(金)」で、つまり今日(グレゴリオ暦だと10月29日)

…のはずなんだが、『三国史記』では九月とはあるが日付までは出てない。この「十四日(辛巳日)」という日付の典拠が不明。なんだっけ? まさか『桓檀古記』じゃあるないなw

この後、日本は任那復興という国家目的と儒教のきれいごとという二つの建前に縛られてますます迷走していく。これを両立できると信じれるのは「非武装中立論」みたいな阿呆陀羅経を信じれるのと同じで、そういう意味では日本人はあまり進歩してなかったともいえるが、これでも一応ウヨなので日本サゲしたいわけではない。カルトに洗脳されてる間は世界中のどこの民族でもこんなもんだろう。ただしカルトには洗脳「されてる」哀れな連中とは別に、洗脳「してる」側の主体がある。左翼の理論なんて机上の空論で本当は昔ならソ連、今なら特亜の都合にあわせてなんとでも辻褄あわせて変化してくる。この場合は、朝貢と称して賄賂をもってきて腰低くして揉み手で擦り寄ってきて日本天皇を賛美しつつ夢みたいな綺麗事をいう連中だ。重役は下に操られ放題のアホのままいてくれたほうが中堅管理職は万事やりやすい。ヒラはいい迷惑かもしれんが。

世界史的な意義
高句麗は342年に西の前燕(鮮卑の慕容部族)に国都を陥され壊滅している。高句麗が朝鮮半島を南下して倭国と衝突するようになったのはこの後で、つまり鮮卑族の勃興によって西方への進出を阻止されてしまったから。この鮮卑という遊牧民は、モンゴル高原から「北匈奴」を追い出し、その一部はフン族となってヨーロッパを支配した。ゲルマン民族の大移動はその余波で、これで西ローマ帝国が滅亡して中世ヨーロッパが誕生する。東アジアでは鮮卑族が中国を支配して隋唐帝国ができる。だから古代から中世への世界史の大変動は鮮卑族が起こしたのだともいえる。唐(=鮮卑)と日本が戦った白村江の戦いで、日本は半島の権益をすべて失い律令国家へと変貌したが、これも古代から中世へという世界史の変動(=鮮卑の膨張とその影響)の一部だったわけだ。400年、朝鮮半島において高句麗と倭國が激突したが、この時の高句麗軍は歩騎あわせて5万という。その背後には鮮卑からの圧力があったわけで、本当の敵は高句麗ではなく鮮卑だったのである。だから後には「高麗=百済=日本」の三国同盟ができて、唐に抵抗することになる。以来、663年の白村江の戦いまで続くわけだが、任那の滅亡はその長いすったもんだの一幕だったのである。
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