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☆仏教公伝

H30年11月20日改稿 H28年11月20日初稿
今日、11月20日は仏教が伝来した日だ。年代でいうと538年説と552年説が有名で、受験勉強の時には俳句や川柳みたいに「仏教は午後に(552)なったらゴミ屋(538)行き」と覚えた人も多いだろう。後述のように日付は十月某日説、十月十二日説、十二月某日説の3つあるが、3説を比較すれば十二月説は間違いだろう。十月十二日をユリウス暦に換算すると、538年説の場合は11月19日に。552年説の場合は11月13日になる。ところが、実は538年説も552年説も誤りで、正しくは546年なのである。俺の説だが。546年の十月十二日は11月20日(火)である(グレゴリオ暦への換算では11月22日)
公伝と私伝
民間交流を通じて私的に入ってきた仏教については性質上、記録に残りにくいため具体的にいつ頃どのように入ってきたのかは不明である。後述の鞍作達等(くらつくりのだちと)の例は、あくまでも記録の上での最古というだけで、実際はこれより古い時代に入っていた可能性はある。鞍作達等の例が記録に残ったのは本当に最初の仏教伝来であり当時の人々の好奇心を集め話題になったためなのか、それとも当時多くあった民間伝来の一つにすぎなかったのに、彼の孫が仏師として有名になったため、偶々これだけ記録に残ってしまっただけなのか、そのへんのことはよくわからない。これらの事件を後述の「公伝」に対し「私伝」とよぶ。「公伝」というのは客観的にはいろんな意味がありうるが、俗に日本への「仏教公伝」という場合には、国家間での公式外交の一部として仏教の推薦が行われたことをいい、具体的には百済の聖明王が欽明天皇へ経典や仏像を献上した事件をいう。

先行した事態
仏教は、新羅へは高句麗を通じて徐々に伝わっていた。新羅においてはその後、激しい崇仏論争を経てAD527年(法興王の時)に公認された(526年説もあり)。

552年説と538年説
日本への仏教伝来は『日本書紀』はAD552年、『元興寺縁起』等ではAD538年とされ、古来から両説がある。

『日本書紀』
(欽明十三年)冬十月 百濟聖明王 更名 聖王 遣西部姬氏達率怒唎斯致契等 獻釋迦佛金銅像一軀 幡蓋若干 經論若干卷 別表

『上宮聖徳法王帝説』
志癸島天皇御世 戊午年十月十二日 百齋國主明王 始奉度佛像経教并僧等 勅授蘇我稲目宿禰大臣令興隆也

『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』
大倭國佛法 創自斯歸嶋宮治天下天國案春岐廣庭天皇御世 蘇我大臣稻目宿禰仕奉時 治天下七年歳次戊午十二月度來 百濟國聖明王時 太子像并灌佛之器一具 及説佛起書卷一筐度

日付でいうと書紀が十月(日付不明)、帝説が十月十二日、元興寺縁起が十二月としている。これらからするとおそらく帝説の「十月十二日」がよさそう。戦後は国史への反発から記紀の価値をなるべく低めにみるという左翼的な空気によって、538年説が史実であるかのように扱われた時期が長かった。かといって538年説に説得力あるかというとそうでもない。80年代くらいから学界の中でも両説を同等ぐらいに信用できないとみる意見(これは同等ぐらいに信用できると遠まわしにいったもの)や、当時の国際情勢に照らして552説のほうを比較的マシにみる意見などがちらほら出るようになった。2010年代は出版界やネット言説に左翼的ゆりもどしが各所にみられるが、仏教伝来についても70年代に退行したような短絡的で無内容な言説がみられる。これは538年説は議論を二朝並立論にもっていきやすいため、反皇国史観をよころぶ蛆虫どもが538年説に固執しているのである。かといって552年説が正しいわけでもない。552年説は「三時説」と符合しすぎて偶然とは思えない。その不可解さが解決しない限り、無検討に採用はできない(後述の「三時説」を参照)。

(1)吉祥干支説
538戊午年も552壬申年も“ともに”「たんなるめでたい干支にあてただけ」として疑う説がある。戊午年や壬申年を「めでたい」とする思想が存在したのかどうかは未確認で正直いってよくわからない。しかし壬申年は、一説に釈迦の入滅の年だとされているので、仏教には関係があり、若干の議論が必要である。釈迦入寂が仏教徒にとってはちょっと「めでたい」年とは合わないように思われるかもしれないが、そうではない。壬申の釈迦入滅は、久遠の仏陀の本質にかえり涅槃に入ったわけで仏教的には「めでたい」のである。死去を「めでたくない」として忌避したり悲しんだりする気持ちは、仏教の立場からは現世への“執着”であって解脱を妨げるものなのである。ただし干支は中国のものだから、釈迦入滅の年が壬申だったというのは中国でできた説だろうと思われるが、インド天文学(占星術)の類似概念を干支に訳したものもあり、素人にはちょっと見で判断できない。しかしいずれにしろ後世にできた説。ただ、日本では中世以来みられるが中国やインドに同じ話があるのかどうかは情報不足。もし日本独自の説なら、紀の552年説に基づいて日本で発祥した国内オンリーの説となり、この説に基づいて552年説が生まれたというのは逆さまな話となる。もっとも、釈迦入滅の年がいくらめでたかろうが、なぜその干支を公伝の年にしなければならないのかは不明。記念すべき年だから?

(2)讖緯説
538戊午年も552壬申年も“ともに”「五行説に基づく干支革命説(讖緯説)」として疑う説がある。538年説は「戊午革運」説に基づくという説。しかし辛酉革命や甲子革令をあえて避けてまで戊午革運を取ったというのは、やや意図が読めない話で不審。紀をみるとAD538戊午年〜AD541辛酉年〜AD544甲子年のあたりは連年、半島情勢が激動しているが、格別に541年が革命で544年が革令にふさわしいような事件になっているとも思えない。また壬申をこの三革説と同様にみる説があるらしいが詳細不明。壬は「水の陽」で、申は「金の陽」で五行説としては「相生」の関係でむしろ安定を意味し、特に革命を暗示するものではない。五行説とは無関係に壬申革命説に近いようなものが存在したとすると、「壬申の乱」以降に発生したものと思われる(養老五年の詔に「庚申年は事故の多い年だ」とかの話は「壬申の乱」に引っ掛けた創作であって実在した諺ではないことについてはいずれ「讖緯説」について論じる際に説明するかもしないかも)。なので、壬申革命説によって仏伝552年説を説明することは時系列として不可能となる。

(3)公私別伝説
538年説をとる『帝説』をみると、552年説の紀とは同じ情況ではないように読める。後者は朝廷において公式の事件のように書かれているが、前者は蘇我氏の私邸での内輪の出来事のようで、登場する仏像や経典も一致しない。つまり両者は別の事件であり、「公伝」は552年が正しく、538年説は蘇我氏が本格的に仏教信仰はじめた記念的な年であって「公伝」の年ではない。この説も魅力的ではあるが、パズル解読の面白さがなくなるためが、ネット上の議論ではいまいちウケない。

(4)暦換算錯誤説
当時の朝鮮半島では複数の暦制が行われており、紀年にズレがあった。日本に仏教を伝えた百済の聖明王の即位には以下のように4つの説がある。

A『三国遺事』即位干支では癸巳年。最も近い癸巳は513年
B『三国史記』百済本紀では523年即位(立年称元なので同年が元年)
C『日本書紀』(おそらく原史料は『百済本記』)では継体十八年(524年)に即位
D『三国遺事』治世年数累積計算では527年が元年

韓国の忠清南道公州宋山里の武寧王陵から出土した買地券石によって、武寧王薨去と聖明王即位は523年であったことが判明しており、よって上記のうちではB説が正しい。またB説とC説は1年差だから、Cは実は523年即位で踰年称元法により翌年524年を元年とした表現があったのを、524年即位だと誤認した記事とも思われる。AとDは14年差であり、ちょうど仏教伝来の538年説と552年説の14年差に一致する。538年は上記のAでは聖明王二十六年、552年は上記のDでも聖明王二十六年となる。このことから百済側では仏教を伝えた事件が聖明王二十六年と考えられていたと推測した上で、聖明王二十六年はBの暦では548年にあたる。つまり実際の仏教公伝の事件があった年次は548年であろう、という説。この説が正しい場合でも、上記のような立年称元と踰年称元の錯誤によって、ある段階から549年とする誤りが流布していた可能性はある。

ただしCの暦のように踰年称元法による表現もあったとすると549年説も論理上はありえなくはない。梁では548年に侯景の乱が起こって中国は552年まで大混乱に陥る。乱が勃発した翌年549年の十月、百済は侯景の乱を知らずに梁に使者を出したことが百済本紀に書かれている。使者は侯景に捕らえられて乱が終結するまで帰国できなかった。日本への仏教公伝の時の百済からの使者は『日本書紀』によると十月、『上宮聖徳法王帝説』では十月十二日、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では十二月としている。百済による仏教公伝は、梁が仏教によって栄えているという実態が売りなので、侯景の乱以降に仏教を伝えたということは考えにくいが、上述のように549年十月の段階で百済が乱の勃発を知らなかったとすれば、この時(549年十月)に日本と梁に同時に使者を出したことになる。仮りに549年説が正しかったとしても、上記のような踰年称元と立年称元の錯誤によって、ある段階から548年とする誤りが流布していた可能性はある。

この説は、もし「聖明王二十六年」という伝承が正しいなら問題ないが、そもそもこの年代の時点ですでに誤りを含んでいた場合には実際の公伝の年次ではないことになる。

公伝年の確定1~真相の検討~
学界では他にも、半島情勢からの推測とか、仏教史の方からとか、いろんな観点から様々な年代説が提案されてきたが、おそらく546年が正しい。上記の聖明王の即位年についてCとDは3年差となるが、当時の朝鮮半島では3年ほどズレが生じる2種類の暦が混用されていた。そこで上記の549年説に3年のズレがあったと仮定して修正すると546年となる。また仏教系史料(『元興寺縁起』や『上宮聖徳法皇帝説』等)が一致して主張する「欽明七年」説に信憑性を認めた上で、紀の編年にあてはめると欽明七年はやはり546年となる。紀によると欽明六年九月に、百済は丈六の仏像と願文をつくり、天皇とその属国が仏教によって祥福を得んことを祈ったという。これは仏教伝来の前準備であり、その翌年に仏教を伝えたのであろう。

公伝年の確定2~538年説・548年説・552年説の発生~
そうすると仏教史料の伝える538年説(欽明七年説)は、欽明元年を誤って532年としたために計算を誤ったものであり、「欽明七年」という伝承それ自体は誤っていなかったことになる。また紀の552年説(欽明十三年説)も、上記の549年説(欽明十年)の3年差のズレを修正するつもりで加減を誤ったため正解の七年でなく十三年(6年差)になってしまったものであろう。百済史料の聖明王二十六年(548年)も『日本書紀』によると百済から日本への遣使があった年である。なのでその2年前の546年の遣使(仏教公伝)と記事が紛れたのだろう(548年の遣使は任那をめぐる軍事問題の報告と請願のための遣使であって仏教とは関係がない)。

北方仏教
日本で初めての本格的寺院建築は飛鳥寺。この伽藍配置は高句麗の清岩里廃寺に類似するが、もちろん原型は北魏あたりだろう。

三時説と公伝年1/歴史背景
正像末の三時説はインド(或いは西域?)起源と思われるが、特に北斉(AD550-577年)の頃から浄土系の善導祖師などにより盛んに唱えられた。正法の期間については五百年とする説と、一千年とする説があったが、釈迦没年については漢訳仏教の伝承では周の穆王の五十二年(BC949年?)とされていたので、五百年説ではAD552年(北斉代)に末法に入りしたことになり、浄土系の祖師らにとってこの思想が都合良かった。支那で釈迦入滅がBC949年と信じられていたとしたら、正法千年説であってもAD52年には像法の時代に入ることになる。そして仏教が中国にもたらされたのは不明だが、後漢の永平十年(AD67年)の白馬寺の故事が有名で、この時期はギリギリではあるが既に像法の世に入っていることになる(ちなみに曹洞宗の越前永平寺はこの年号に由来する)。つまりはシナには正法は伝わらなかったことになってしまうのだけれども、そのような伝来時期が問題になった形跡は見られない。そのわけは、実際にはAD67の頃にはすでに中国の民間ではかなりの程度仏教が流布していたので、実際の伝来はもっと早かったのだということは知られていたからである。白馬寺の故事は後から回顧して記念的な事件とされたわけで、いわば「中国仏教発祥伝説」である。しかしそれなら、わずか数年の差しかないのだし、どうせ伝説なら正法の時期内に伝来したことにすればよかったのにとも思われる。そう考えてみると、この「三時説」というのは六世紀中頃以降に盛んになった浄土系のプロパガンダにすぎず、それまでは中国の仏教本流ではあまり相手にされていなかったのである。『日本書紀』で仏教公伝とされる西暦換算552年が、中国で主流とされる千五百年説での末法に入る年に当たるってのは一見したところ偶然とは考えにくい。百済の聖明王も、このことは当然知っていただろう。聖明王としては末法入りした仏教を献上しても賞味期限の切れた贈り物になってしまうので、当然それ以前に献上したのであって、『日本書紀』の552年説は史実ではない。新羅や日本に仏教が公伝された六世紀中頃は、像法も末法も一般には知られてなかった(あるいはさほど意識されてなかった)んだろうが、聖明王としては「三時説」を新羅派や反百済派に政治的に利用されては困るので気を使ったということだろう。

三時説と公伝年2/日本書紀が552年説を採用した理由
しかし後世『日本書紀』編纂時には552年公伝とされた。これをわざわざ末法の世にあわせるために改竄したというのは不可解である。末法に入る年(552年)に設定したのは排仏派(神道派か儒教派)の記録を紀が参考にしたからだという推測は否。排仏派はそもそも仏教の教義の一部である「三時説」を採用するはずがないからである。この紀の説が余りにも「三時説」と符合しすぎているのも確かなので、552年説は「三時説」を何らかの意味で意識した創作説(想像説)とみなすのが最も自然に思われるが、そうではないことは上述の通り。紀の編纂当時、仏教公伝は欽明朝という伝承が存在した上で538年説と552年説しかなかったとすれば、ともに暦換算の錯誤から生まれた説だとはいえ、552年説は真実の年次とは6年差で周辺に波及する矛盾も少ない。それに比べ、538年説は矛盾が大きく安閑朝と宣化朝が消失してしまうので紀の編集部としては552年説しか選択の余地はなかったのである。

三時説と公伝年3/仏教史料が538年説を採用した理由
しかしそれは『日本書紀』の都合であって仏教界の都合ではない。聖徳太子が隋と国交を開いて以来、最新の仏教思想である浄土思想とともに「三時説」も入ってきて、五百年説では公伝の時期(552年)が既に末法に入っていたことが判明して、大問題になったか、少なくとも些か都合が悪かった。仏教界としては末法入りしてからの伝来というのは好ましくないから実はもっと早かったのだといえるならそのほうがよいとも考えただろう。そこで、古くから保持してきた伝承(十年ちかく繰り上がった538年説)をあえて採り続けてきたのである。 

三時説と公伝年4/後世への影響
その後シナの「三時説」でも千年説が有力だと判明し、それならば552年は単に像法後期入りになるので我が国でも千年説を取って、AD552年はまだ像法中期だったとされ問題は静まった。その結果、1052年に末法の世に入るとの説が主流となった。AD752年の大仏造営は釈迦佛を基準とする末法到来を300年後に控えて、ビルシャナ佛による正法興隆を目指した…或いは末法到来に備えて像法であってもその威儀を末法期以降にまで伝えようとしたものとも言えるだろう。しかし仏教界の一部では繰り上げられたままとなった。ここにおいて、記録上は552年説と538年説が残されることになったのである。
(538年説が後世にもたらした「二朝並立論」については継体天皇の頁を参照)

継体朝の仏教伝来(私伝)
『扶桑略記』には『延暦寺僧禅岑記』の引用として、継体十六壬寅年(AD522)に司馬達等が渡来後に始めて仏像を礼拝し、蘇我氏と協力した、とある。ちなみに、司馬達等の孫は鞍作鳥(仏像技能工)。こういった私的な仏教信仰は渡来人を中心に当然に日本各地にあったろう。新羅でも公認(公伝)が526年で、私的には高句麗・百済とあまり変わらない時期に入っていただろう。鞍作村主司馬達等(祖父)。その子は司馬多須利(父)。その子が鞍作止利(本人)。『扶桑略記』によれば「大唐漢人案部村主司馬達止」とあり継体朝に入朝したというので、止利は帰化三世になる。司馬達等は『元享釈書』などでは南梁の出身で百済を経て渡来したといい、司馬という姓からしても純粋の百済人ではなく、普通に考えれば中国(梁)から百済への移住者の子孫ということになるが、中華式の姓は中国人以外でも名乗り得るので中国人だという決め手としては絶対ではない。ペルシア人という説もある。

「止」を「と」の当て字に使うのは和語の「とめる・とまる」の「と」ではなく、上古音の音読みである。寺・時・峙・持・待・畤は音読み「ジ」だが上古音はすべて「ト」。「社」も上古音は「シャ」でなく「ト」。寺の上の「土」が原意と原音を表わす。

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Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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