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倭国は「部族連合」ではない

2679(R1)・6・15 SAT 改稿
今日、平成29年1月24日は「邪馬台国の日」なんだよね。「邪馬台国の日」についての詳細は昨年の「薄れゆく邪馬台国」を参照。そっちにも書いてるが今年は邪馬台国ブーム50周年の記念すべき日なんだが、去年に予想した通り、格別なんのイベントもないよw いかにスタレたジャンルかっていうことだよなぁ。で、今日は去年かいた「薄れゆく邪馬台国」の続きがほったらかしなのでちょっと書こう。年に1回かよw 本当はもっと頻繁に書きたいのだが、余暇がなさすぎる…。

※この写真、桃の種にみえないね。一瞬うんこかと思った。きれいどころでアイドルディオのMOMO(森野文子&大山アンザ)の写真でも貼ろうかと思ったが、昔すぎてあんまりいい画像が見つかんない。うんこでがまんしてくれw
momonotane.jpg
平成元年の2月、吉野ヶ里遺跡で大規模な環濠集落が発見されてしばらく大騒ぎ。おもに騒いでいたのはマスコミで、吉野ケ里をズバリ邪馬台国だといってたのは古田武彦ぐらいしか浮かばない(本人は後で撤回している)が、それでも当時は雰囲気的に九州説の方が勢いづいた感じは否めない。それが平成の初め。で、平成の終わりには、平成30年5月、以前に纒向遺跡で出土していた桃の種が炭素C14測定法でAD135~230年、卑弥呼と同時代のものだと判明。つまり邪馬台国界隈の平成は「九州の吉野ケ里に始まり畿内の纒向で終わったのである。しかし桃の種の件、最近は畿内説で決まりのような空気もあったのでさして驚かなかったとはいえ、若干のニュースになっただけで平成初めの吉野ケ里の時のようなバカ騒ぎにはぜんぜんならなかった。時代は変わったんだなぁ。30年前の吉野ケ里の時は、出版界も便乗本たくさん出して大儲けしたのに。邪馬台国そのものが、日本人の関心のマトじゃなくなってるんだよね。そもそも平成の30年は日本の右傾化の30年でもあって、世の中にあわせて万世一系の天皇賛美の皇国史観の本でも出しゃよかったのに、時代に逆行して「古事記日本書紀はデタラメだーっ、天皇は侵略者で朝鮮人で、系図は捏造だから万世一系じゃなくて、正しいのはぼく(左翼爺はなぜか自称に「ボク」っていうよなw)のかんがえたさいきょうのこだいし」みたいな70年代からタイムスリップしてきたようなアホな本ばっかり出し続けてきたから、そりゃ普通の日本人は「邪馬台国なんか議論したがるやつは頭のおかしな非国民」だと思うようになったのも当然じゃないのかな。


「国」の字には二つの意味がある
もともと「國」という漢字は城郭都市の意味であって、現代人が考えるような「くに」の意味はなかった。現代人が考えるような「くに」の意味の漢字は「邦」だった。この字はさらに古くは「方」で、殷の時代には土方、虎方、鬼方、人方、井方、巴方、召方、羌方、印方、吉方、大方、危方、盂方、林方、箕方、𢀛方、苦方、龍方、馬方、蜀方、𠭯方といった勢力がでてくる。これらの「~方」は殷からみての異民族だが、現代風にいえば「フランス国、ドイツ国」という時の「~国」に相当し、諸外国の意味。この「方」の字が周の時代には「邦」になった。それが漢になって、漢の高祖劉邦の諱「邦」の字を憚って、邦の字の代わりに國の字を使うようになった。「邦家→國家」「相邦→相國」という具合。現在ふつうに使われる「国家」という言葉も、本当は「邦家」だった(古事記序文に「国家」の意味で「邦家」という表記があるがこれが本来の書き方。ただし「中国」はもともと「中国」であって「中邦」の換え字ではない)。似たような例は多く、唐の太宗李世民の「民」の字に代わりに「人」を使って「庶民」を「庶人」と書いたり、同じく「民」の字の代わりに「戸」を使って「民部尚書」を「戸部尚書」と書いたりしたことも有名だろう。
しかし國の字の本来の意味、本来の用法も消えたわけではないから、ここにおいて「國」の字には「國の字の本来の意味」と「邦の字の意味」の2種類の意味が出来てしまった。邦の字の代わりに國の字が選ばれたのは、封建領主が所領として都市を与えられる場合は「國」(=都市)が封建体制下での「領邦国家」(大名領とか旗本領みたいなもの)という意味で「くに」の意味にやや近くなるからだろうが、かえって紛らわしい。実際に魏志倭人伝をみると、邪馬台国だの伊都国だの投馬国だのといった国々がでてくるが、個々のそれとは別にそれら全体を「倭国」といっている。これは朝鮮半島についても同じで、狗邪国だの月支国だの瀆盧国だのでてくるが、それとは別に「韓国」という言い方も出てくる。邪馬台国だの伊都国だの投馬国だのの「国」は都市とか集落、都邑の意味であって我々現代人が思い浮かべるような意味での「くに」ではない。都邑・城邑・国邑・城市・都市・都城、すべて同じ意味で城郭都市のこと。細かいことをいうといろいろややこしいのだが思いっきり大雑把にいうと、中国では中央から派遣されてきた役人(県令)が治めている都市を「県」といい、県の集まりを「郡」といい、世襲領主(諸侯)が治めている都市(または都市の集まり)は「国」のままで県とか郡とかいわない。単純化していうと前者は中央集権的で「郡県制」、後者は地方分権的で封建制という。だから制度じゃなくて見た目の景色だけいえば県も国も同じものである。我々現代人が思い浮かべるような意味での「くに」は邪馬台国の国じゃなくて(これは都市の意味)、「倭国」とか「韓国」と書かれている方の「国」で、こっちは本来なら「倭邦」とか「韓邦」でもよかったわけだ。
で、次に、邪馬台国だの伊都国だの投馬国だのといった「個々の国々」は、その全体であるところの「倭国」に対してどの程度の独立性をもっていたのか、ということが問題になる。
記紀では、この当時、地方の国々を治めていたのは国造(くにのみやつこ)で、大和朝廷が国々の国造を任命していたことになってるが、神聖なる民族の大宝典である古事記・日本書紀の伝える尊い古伝承を信じない不敬な連中は、「国造」という制度をずっと時代が下がってからできたように思っている(せいぜい5世紀から、とするのが多数派)。なので魏志倭人伝に出てくる「国」を国造の「国」だとか県主(あがたぬし)の「県」だとかのことだとは彼らは思わない。しかし記紀を信じる限り、魏志倭人伝の「国の官」とは記紀でいう「国造」や「県主」に相当することは明白だろう。国造は、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では徐々にふえて最終的に144ヶ国もあったという。これは大化の改新以降、国司制に移行する直前の数だろう。『隋書』では「軍尼120人あり」といい、この軍尼(くに)も推古天皇の頃の国造のことだというのが通説。隋書の軍尼120人とほぼ同数で、時代が違ってるだけでどちらも国造のことだろう。それから『宋書』の倭王武の上表文にも自分の先祖の功績として「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」とあり、あわせて121ヶ国となる。これを時代順にならべると
・3世紀…100余国「分かれて百余国、国々に官あり」(『三国志』)
・5世紀…121ヶ国「東は五十五国、西は六十六国」(『宋書』)
・6世紀…120ヶ国「軍尼百二十人あり」(『隋書』)
・7世紀…144ヶ国「国造百四十四あり」(『先代旧事本紀』)
だいたい100ちょいで推移しているのがわかる。これ全部おなじものだろ。国造だよ。

国々には「王」なくして「官」あり
後漢書東夷伝には倭について「百余国みな王あり」として、それら諸王の上に「大倭王」がいるとしている。だが魏志倭人伝によると、倭国には王とよべる者が3人しかいないことになっている。後漢書東夷伝はずっと後になってから魏志倭人伝の文面を杜撰にリライトしたものだから、両者が食い違っている場合は、通例、魏志が正しく後漢書が誤りとされるのだが、「いやいや後漢書にも正しいところがあるんだ」として自説を組み立てる人もいる。しかし両者のズレは後漢書東夷伝が魏志倭人伝に隠された「春秋の筆法」に対する解答として書かれたために生じたとするとすべて解決する仕組みになっている。このへんのこと(なぜ後漢書はそのような記述があるのか等)は今回のテーマではないのでいずれ機会があれば詳しくやりたいが、とりあえず今回は、通説どおり後漢書東夷伝は史料的価値が魏志倭人伝より数段も劣り使えないのだということだけ確認しておく。
魏志倭人伝のいう3人の王とは、1人は邪馬台国の女王卑弥呼、もう1人は伊都国王、3人目は狗奴国王の卑弓弥呼。この3人の王については後の方で詳しく論じるが今かんたんに説明すると、伊都国王は代々女王の属国で有名無実な存在だったし、卑弓弥呼は卑弥呼と対立しており互いに否定しあう関係だから、卑弥呼側の「建前」からいえば卑弥呼と伊都国王の2人しかおらず、中国からみた「実質」は卑弥呼と卑弓弥呼の2人ということになる。卑弥呼は邪馬台国にいたけれども、邪馬台国だけを支配していたのではなく倭国全体の王であり、邪馬台国は倭国の首都みたいなもの。天皇は東京にいるけど東京だけの天皇でなく「日本天皇」であり、「東京天皇」とはいわない。それと同じで、卑弥呼は邪馬台国王ではなく「倭王」なのである。だからその倭王の地位をめぐって、狗奴国にいた卑弓弥呼も狗奴国だけの王だと自称していたのではなくて、倭国全体の王、「倭王」だと自称していたのだろう。
それ以外の国々、対馬国・一支国・末盧国・奴国・于弥国・投馬国などには王はおらず、官がいたとある。「王」というものは存在せず「官」が治めていた。この事実は、はてしもなく重い。部族連合国家などと寝言をいってる連中はショックを受けてしかるべきだと思うが彼らは字が読めないのだろうか。官だからこれを任命して派遣したものがいることになるが、文脈上、それは倭王すなわち邪馬台国にいた卑弥呼にほかならない。倭国は分かれて百余国、そのうち狗奴国にいた卑弥弓呼の下についたのが何ヶ国あったのか不明だが、少なくとも30ヶ国は卑弥呼の支配下にあった(30ヶ国というのは文面上あきらかな最低限の数であり、多ければ百余国のうちほとんどが卑弥呼の支配下だった可能性もあるにはある)。これらの国々を支配していたのは「王」(=独立した地方首長)ではなく「官」(=卑弥呼が任命した役人)なのである。これは意味内容からいえば中央集権的な郡県制である。ただ、郡とか県というのは中国の制度の用語なので倭国の国々に伊都県とか奴県とかかくと中国の直轄領地みたいにみえてしまうので、ニュートラルに城郭都市をあらわす文字として「国」と書かれているわけなのだ。

記紀にでてくる「国造」の実態
参考までに記紀にでてくる国造(くにのみやつこ)も歴史辞典の類では大和朝廷から任命された地方官だとある。ただ、第一に、一代ごとに中央から赴任するのでなくもとから現地にいた現地の首長を任命するのが中国と違う(ただし記紀の伝承では初代は中央からいったケースが多い。「大和朝廷と無関係にもとから現地の首長だった」というのは現代人の思い込みにすぎない)、第二に一代ごとに都に戻るのではなく、世襲官僚であることが違う。世襲だから一度任官して任地に定住すると、土着化が始まり、勢い「封建制」の様相を呈する。したがって見よう考えようによっては、郡県制より封建制に近いともいえる。しかしそもそもの権力の源泉が、中央(=天皇)から任命された事実にこそあって、地生えの成り上がりではないのだから、国造氏族が交代したり県主に格下げされたりということが起こる。その身に帯びる地位も支配している土地も、本質的に「天皇から与えられたもの」だからである。これは例えば江戸時代の幕藩体制が形式上は封建制でも内実は徳川絶対王政といわれるように、どの部分に着目するかでなんとでもいえるわけだが、形式や名目でなく実質がどうなのかを問題にすべきだろう。国造でも時代によって氏族名が変わっている例があり、これは江戸時代の大名のように改廃された例と思われる。また国造は実際はみかけほど強大な財政基盤も動員力もない。なぜかというと「葛城部」だの「大伴部」だのの、「~~部」という、名代(なしろ:皇族の領地)や部曲(かきべ:中央貴族の領地)が全国に満ち満ちており(部民制)、それらの各地から中央に年貢が送られたり駐在員が往来するわけだから、日本全土と中央との結びつきは強固な上、国造が支配するのは名代や部曲といった「部民」を除いた残りのわずかな土地だから、国造は戦国大名のように一円支配をしているわけではないのだ。だから吉備王国だの毛野王国だの筑紫王国だのといった強大な地方勢力なんてのはそもそも存在のしようがない。魏志倭人伝の「国々」も国ごとの王はおらず官が治めていたのだから、その実態は記紀に描かれた国造や県主と大差ないだろう。つか魏志倭人伝の「国々」はまさに朝廷からの出先機関としての国造や県主のあり方を正しく書いているとすらいえる。魏志倭人伝のいう「諸国」とはズバリ国造や県主のことをいってるのである。

「刺史」の如きもの、とは?
魏志倭人伝には「国中に刺史の如きものあり」という。この「刺史の如きもの」は「一大率」(いちだいすい)の説明のようにも読めるし、一大率とは別に「刺史の如きもの」があるようにも読め、両方の説があるが、普通は前者の解釈が行われている。
(一大率の「率」はソツと読む説とスイと読む説があり前者が通説だが個人的にはスイが正しいと考える。理由はいずれかの機会にゆっくり説明します、長くなるので今回はふれない。一大率は「一人の有力者」ぐらいの意味で、特定の官職ではなく称号でもない。官名としては後の方で出てくる)
刺史というのは皇帝が地方に派遣する査察官で、これが巡回にくるとなると、普段は王様のようにふんぞり返って独裁者のように怖れられている郡の太守が青くなって狼狽し、街中をきれいに掃除して美女と珍味を揃えあらゆるおもてなしの準備をし、土下座してお迎えする。何事もなく刺史が無事に帰っていくと、緊張の糸が切れた太守様は血の小便が出るという。何がいいたいかというと刺史というのは生殺与奪の権をもつ絶対権力者で、諸国の首長が震え上がるほどのものである。だから一大率には「諸国これを畏憚す」(おそれ憚っている)とある。諸国がもともと対等の者同士で「倭国」という連合体をつくったのならば、こんなことはありえない。江戸時代の大名にとっての御公儀からの使者、将軍御名代みたいな存在である。この権威はどこからくるのかだが、一つには一大率を派遣している卑弥呼の宗教的な権威が考えられるし(わかりやすくいうと皇室や朝廷の「御威光」のこと)、もう一つは武力や財力といった具体的な力が考えられる。それも他を圧倒している力でなければ成り立たない。

「一大率」と「卑奴母離」の役割
諸国の「官」(=首長)は「卑狗」(ひこ)といい、「副」は「卑奴母離」(ひなもり)という、とあり。王とも侯ともいわず「官」というのは前述の通り、中央への従属の強さ、独立性の無さをあらわしているが、副は単なる副官とか単なる次長ていどの意味ではない。ヒナモリのヒナは田舎とか辺境の意味、モリは防人(さきもり)のモリと同じく防衛軍、武官。つまり「卑狗」と「卑奴母離」はただの長官と次官ではなく、内政を担当する文官と軍事を担当する武官であり、権限を分けて牽制しあう制度だろう。これは記紀の伝承でも初期の頃は派遣軍のトップが二人以上の複数であることが多く、一人の大将軍にすべてまかすことがないのと共通している。諸国の卑奴母離は一大率から派遣されてそれぞれの兵力を率いて北九州各国に駐留していたのだろう。つまり内政の卑狗と、軍事の卑奴母離は指令系統が別々だったと思われる。そうすると、ある一ヵ国を文武両面こみで一人で一元的に支配している地方首長は存在しなかったことになる。投馬国と邪馬台国を除く北九州域内の諸国の長官はいろいろな名称なのに副官はすべて「卑奴母離」。伊都国だけ卑奴母離じゃないのはそこは一大率の本部だからだろう。末盧国に官名の記述がないのは省略で、実際は対馬国・一支国と同じである、「対馬・壱岐・松浦」の3地域はセットだから(後述。ただしなぜ末盧国だけ官名が省略されてるのかという話は道程論を解明する機会に譲り今回は触れない)。北九州全域の兵力はすべて一大率の一元的な指揮下にあった(逆にいうと北九州だけが一大率の権限が及ぶ担当範囲)。
次にその強大な軍事力を支える財力だが、「国々有市、交易有無」に続く「使大倭監之」の読み方は平野邦雄の「便ち大倭のこれを監するに」と読んで一大率の説明とする説が今の通説ではないかと思う(「大倭」とはよく言われるような「官名」ではない。じゃ、何かという議論もあるが今回は省略、また別の機会に詳しくやります)。そうすると一大率は軍事機構ではあるけれども、商業行為を監督していたわけだが、近代の三権分立以前には世界どこでも軍事権と警察権が分離しておらず、日本でも律令以前には兵隊さんもお巡りさんもごっちゃに「物部」(もののべ)と称されていた。ただし一大率が市場監督官でもあったからといって、これが財源だったわけでもないだろう。軍事と財源を一元化するとそこに独立勢力のようなものが生まれ、中央集権がうまくいかない。市場(バザール)は自然状態のまま放置していると暴力団が仕切るようになるので国家の武力が駐在して治安と公正な取引を監視するんだが、給料は他から(国から)でるのであってミカジメ料で食ってたら民間組織になってしまい国家機関ではなくなってしまう。中国の軍管区が軍閥として自前で企業経営しているのが連想される。具体的には奴国王が財政を負担したと思われるがそのへんの詳細は後述。
王金林も「魏志倭人伝の文章からは倭国の実態が自立した国々(部族)の連合体だなどとはぜんぜん読み取れない。まったく逆で、強力な中央集権国家だ」と書いている。

「共立」という言葉は部族連合を意味しない
倭国が連合国家とか部族連合のような体制で、絶対的な天皇など存在しなかったという考え方の原因は他にもある。魏志倭人伝には、卑弥呼は自分で勝手に王になったわけではなく「共立」された(卑弥呼をみんなで立てて王とした)とあるので、なにか強大な王権がまずもって存在したわけではないのだ、と解釈して、中心になるような王に統一されてないのなら、なにか連合体のような体制なんだろうと短絡してしまうのだ。だが、「共立」の2文字だけからそこまで妄想を膨らますのは飛躍のしすぎ。「共立」というのは魏志の高句麗伝で高句麗王の二人の子のうち兄ではなく弟を立てた時や、夫餘伝では夫餘王の嫡子でなく庶子を立てた時にも使ってる言葉で、まず異民族の王の歴史を語る際に初代の王が即位することを「◯◯、初立」(初めて立つ)と表現し、その後の歴代を「次、△△立、次、××立、次、●●立…」(次に誰それ立つ)というように「次立」または「立」で表わす。ただ、なにか異常事態が起こって嫡子でない者が後を継いだ時は、「自立」(みずから立つ)とか「共立」(ともに立つ)という。自立は、既存の支配勢力の力を借りないで(あるいはそれに武力で反抗して)実力で王位についたことをいう。共立は、イレギュラーな人選だけど次善の策で王様になってもらったことをいう。こういうことは山尾幸久や上田正昭も彼らの自著の中でいってることなんで、今では通説的な理解の仕方だろう。が、山尾だか上田だか忘れたが、それをいう本人が舌の根も乾かぬうちから部族連合体制がどうの言いだすってどういうことなんだ? 魏志倭人伝とは無関係に「所与の事実」になっていて(要するに思い込み)、文字は読めてもその意味が歴史像に矛盾するので脳が拒否してるんだろうね。まぁ、少なくとも魏志倭人伝の文面は部族連合国家の根拠にはなっていない。
さて、みんなから要請されて王になるのは秀でた実力者がいない、責任をとれるリーダーがいないからこそ選択されるもので、「全体責任は無責任」って仕組みにも聞こえるが、そういうこととも限らない。嫡子でない者が後を継ぐといってもいろいろな情況があってとても一概に「こういうこと」とズバリ特定の実状をあげることは不可能なのだ。自立といっても勢力が分裂してしまい、小勢力の王にしかなれないような「自立」もあり、この場合は実力がないのに自立したケース。共立といってもそれは形式だけのことで実力のあるキングメーカーが裏で情況をあやつってることもありうる。なので自立にせよ共立にせよ、表面的な決まり文句に近い表現というか決まり文句なのである。きわめて形式的な用語であって、その2文字だけからは何ら背後実態を推測できず、「共立」の2文字から、女王が立つのは倭国としてはイレギュラーな事態ですよってことがわかるにすぎない。
ただし「共立」の2文字を離れて他の記述をみると女王を「佐治」する男弟がおり、これが実質権力者(=実際の王)で、女王は祭祀だけやってたって説も大昔からある。女王は宮殿の奥深く武装兵に守られその姿を見た者は少ないという。これはご神託を受けるためにはお籠りして精進潔斎しなければいけないからだというのだが、疑問もあり、一種の「二重王制」だとしても、政治の実権は「男弟」で、卑弥呼は祭祀だけ、と短絡してはならない(詳しくは別の機会に譲る)。

倭王卑弥呼・狗奴国王卑弓弥呼・伊都国王某の関係
こういうして一つ一つ潰していくと、魏志倭人伝には、当時の倭国が連合国家だったという話はぜんぜん書かれてない。それどころか強力な中央集権国家とさえ解釈可能な話がでてくる。いってみりゃ「統一国家」だよ、3世紀にすでになw 神武天皇の昔から、最初から統一国家だったという古事記・日本書紀の建前に一致してるんだよ、魏志倭人ですらも。だが、そうすると「王が3人もいる」っていう分裂気味な事態はどう説明つくのかってことだが、伊都国王「名無し」と狗奴国王「卑弥弓呼」はどちらも一般からはかなりの誤解があると思うので後半はその話をしよう。

伊都国王はいなかった。いたのは奴国王
狗奴国王卑弓弥呼については後回しにして、まずは伊都国王の件から片付けよう。前述のように、伊都国王は代々女王の属国で有名無実な存在だったから実質は無い。
伊都国は「世王あるもみな女王国に統属す」(代々の王がいるが女王の属国だ)というのだが、たとえ名目だけ形式だけの王であるにせよ、なぜ伊都国にだけ王がいるのか? 奴国ならわかる。金印で有名だもの。北九州の勢力分布をみると、奴国だけで2万戸あり、対馬国から于彌国まで全部あわせても1万戸でありやっと奴国の半分。つまり奴国だけが飛び抜けて超大国であり、あとの諸国はザコばかり。伊都国は1000戸しかないんだから奴国の20分の1の国力しかない(伊都国は『魏略』では一万戸になっているので1000戸は間違いという説への批判は後述)。だから奴国にだけ王がいるというのはわかるが伊都国にだけいるというのは筋が通らない。この王はもともとの伊都国の王ではなく、金印の奴国の王の子孫だろう。中国人が「世王」(代々の王)という時、後漢時代の金印の奴国王が念頭になかったはずはない。一つの解釈としては中国からの使節が駐在するのは伊都国で、ここには一大率も駐留してるから、事務の都合上、奴国王も伊都国に出向してただけでこの王は伊都国にいるからって伊都国王というわけではない、とも考えられる。もう一つの案としては、原文に錯簡があってもともと伊都国とは無関係な記事で、奴国について書かれた文だったとも考えられる。伊都国の記述は魏志倭人伝とその原資料となったと思しき『魏略』とで違いがある。まぁ原資料ではなく同時代に並行してできたんだって説もあることはあるが、一般的には魏略が先行して魏志倭人伝はそれを参考にしたといわれている。

(魏略逸文)
東南五東里、至伊都國。戸萬餘。置曰爾支、副曰洩渓觚・柄渠觚。其國王、皆屬王女也。


(魏志倭人伝)
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
※魏略の「東南五里」は「東南五百里」の誤り、「皆屬王女也」は「皆屬女王也」の誤りというのが通説。

これを比べると魏略には「郡使往來常所駐」がない。また「其國王、皆屬女王也」とあった部分が魏志倭人伝で「世有王、皆統屬女王國」に書き直されている。だが魏略では、伊都国の後は狗奴国の説明に続いているので、魏志倭人伝はこの間に投馬國・邪馬台国・偏旁二十ヶ国の説明を後から割り込ませたものだという人もいる。井上秀雄らが昔からいってるように、魏志倭人伝は魏略をも含めた5~6種類の系統の異なる資料の切り貼りなのでこういうことが起こる(むろん正確を期すための編集作業であって、誤ってそうしたのだとは限らないが)。伊都国の後に出てくるはずの奴国と于彌国の部分は散逸したままなんだろう。むろんそれとは逆に、魏志倭人伝が正しく、魏略はもともとあったはずの奴国と于彌国と投馬國・邪馬台国・偏旁二十ヶ国の部分が散逸しているために、伊都国の後にいきなり狗奴国が続くようにみえるのだ、という解釈もありうる。
「どこそこ国王」という言い方は南北朝の頃から一般化していくが、この時代は国の字を入れず「どこそこ王」という。魏国王だの呉国王だの言わず、魏王とか呉王というように。だから「漢委奴國王」も宮崎市定が「この時代に国王はおかしい」といっていたように、かなり特殊な事情を考慮しないと王号に込められた意図が解読できない。当時の語感では、もし奴国の王が倭国全体の王なら国の字を入れず「奴委王之印」にならないとおかしい。これは倭国全体の王ではなく奴国1国だけの王だから、わざわざ「奴國王」といってる。だからこれは「委の奴の國王」ではなく「委の奴國の王」と区切らないといけない(「漢」の字が上につくつかない、「之印」が後ろにつくつかないの話もあって面白いが別の機会に譲る)。だから『魏略』の「其國王」はわざわざ「國王」などと不自然な用語を入れずとも単に「其王」で文意は通じるのであり、「國」の字がどうも余計にみえる。これは「舊」(旧)の誤字ではないか。『魏志』の「世有王」と比較すれば、もと「有舊王」とあったのだろう。「皆屬王女」の王女は女王の誤というのが通説だが、さらに國の字も落ちており『魏志』の「女王國」と同文だったんだろう。ここの「女王國」は「奴國」の誤記で(正確には誤記でなく意図的なもの、詳しくは「邪馬台国行程論」でやります)、奴国に属するとは(戸籍や家系が)奴国に「所属する」ような意味で「有舊王皆屬奴國」とは、昔は王がいたが代々みな奴国の人つまり奴国王だったということ。『魏志』は「世々王有りしも」と過去形に読み、「統属す」と一語に読まず「統」は王統(王家の系統、血統)の意味。「統皆」の誤転かもしれない(「皆統」のままでもいいが)。あるいは通説どおり「統属す」と一語に読んで、(その過去の王が)奴国の支配を受けていたとしてもいいが、この場合はその王(の子孫、現在の奴国の大官)が奴国から派遣されている情況をやや不正確に伝えたものと解釈する。
奴国王は後漢光武帝から金印を与えられた(57年)あと、安帝の時(107年)にも「倭国王帥升等」の朝貢の記録がある。「帥升」が名で「等」は複数形の「たち」だが、王の字は主の間違いで、国王ではなく倭国の「主帥」で名が「升」という解釈が最近の通説じゃないのかと思う。この時の倭国主帥升を、かつては伊都国王や末盧国王に擬する説もあったが過去のものであり、奴国王(の子孫)とみるのが通説と思う。岡田英弘は後漢の当時の内部情勢を分析した結果、この時の朝貢は後漢の政局上の都合で、後漢の方から頼まれて行ってやったのであって倭国の事情は関係ないもので、中国側のための一種の政治ショーだったとしている。金印は帯方郡との交易(役所相手の交易)にだけ必要なもので、民間同士の交易や中国の民間人と倭国との交易には必要がない。帯方郡が赤字のせいで規模も機能も縮小し、対倭国関係の窓口業務を倭国側に委任したのが「奴国王」で、奴国王は倭国側の諸国の「主帥」たちの交易事務を中国のために取りまとめてあげる係である。だが完全なる政治ショーにすぎない107年の朝貢は賑やかしで多くの倭の有力者がきたって印象にしたいから、後漢書には倭国主帥升「等」と複数形で出ている。金印の奴国だけでなくいままで来なかった倭人たちが大勢きたってほうが都合が良いケースだから。
代表の「升」は倭国主帥たちの一人でもあるが同時に奴国王でもあるはずだが、明示されていない。これは誤字脱字があるのだろう。もともとここは誤字で有名な箇所で、文献によって「倭面土地王帥升等」とか「倭面土国王帥升等」など様々あり、岡田英弘などは「国王」を誤って二回書いたんだろうといってるが、原文は『通典』にあるような「倭面土地王師升等」が近い。これはもとは「倭国王他主帥升等」だろう。これも「倭国王他主帥等」(倭国王の升のほか主帥たち)だったのが「倭国王他主帥等」と升の字の位置が飛んでしまっている。
で、後漢代までは中国人にとって倭といえば窓口係の奴国しか直接にはしらないわけだから、魏志倭人伝でも魏略でも、伊都国の説明のところで、これがあの有名な(?)奴国王の国ですよ、という意味で「代々の王がいる」と書いてるわけなのだ。北九州きっての大都会である奴国の手前で、田舎の伊都国に使節が留められるが、文化や経済の中心と政治や軍事の中心が同じとは限らない。奴国が経済の中心なのに、一大率が伊都国に常駐するわけは、中世には対馬・壱岐・松浦が「海上の三島」と呼ばれ倭寇の本拠地として怖れられたが、卑弥呼の時代も三韓を睨む海軍の主力は対馬国・一支国・末盧国の海洋民だったんだろう。倭人伝ではこの3ヶ国だけに「海洋民族的な習俗」が書かれている。西には「海上の三島」の手綱を握り、東には経済の中心たる大都市「奴国」があって、その間に置かれた伊都国はそれ自体が総合司令部にして軍事基地であり、住民が千戸というのはすべてが軍人軍属とその家族だろう。『魏略』に「戸萬餘」とあるのは魏志の「有千餘戸」とは書き方が違うし、官名の前に入っており位置も違う。だから「戸萬餘」と「有千餘戸」は同じことの異説ではなく明らかに別のことを書いている。これは戸数のことではなく「萬餘」の誤記だろう。普通は一戸から兵一人を出すから、人口千戸の伊都国に万の兵がいるというのは万のうち1000だけが伊都国の兵で、残り9000は奴国で徴発された兵だろう(今回は触れないが倭国の1戸が房戸ではなく郷戸だという説を採れば1戸から5人の兵を徴発でき、万のうち半分の5000が伊都国で徴発できたとしてもよい)。あるいは特定のどこの国と限らず、北九州のあちこちの諸国から徴兵して1万の常備軍がいたと解釈した方がいいかもしれない。
これに対して、後世の太宰府があったあたりは奴国の遺跡と推定される須玖岡本遺跡のすぐそばで(ほぼ隣接)、奴国は後世の太宰府の役割を分有していたのではないかとも思える。奴国王(の子孫)はまったくの無力なのではなく一大率が管轄する軍事以外の内政と経済を司り、一大率を経済的に支えたんだろう。江戸時代に朝鮮との間を取り持った対馬藩のように、奴国王は239年(238年説でも可)以前は外交も担当していたかもしれない。239年の外交で活躍した大夫難升米の難は奴国の「ナ」で、3世紀の中国人が奴国と訳したのを奈良時代の日本人は儺県(なのあがた)と書いた。難升米の升は107年の倭国王升の升で、襲名だろう。つまり難升米が奴国王(の子孫)である。

奴国王もいろいろいる倭の主帥の一人だから倭国王升といっても倭国主帥升といっても間違いではない。中国からみて「主帥」というのは渠帥と同じで、政治勢力としての事実上の力の存在を認めただけで物理的存在としては認識してるよ、格付けはしてないが、という意味であり、中国からみて主帥でも日本国内では国造だったり県主だったりする。例えば室町時代の「守護大名」を李氏朝鮮は「巨酋」と呼んでいた。朝鮮にしてみれば「強大な野蛮人の酋長」だが日本国内では朝廷の官位ももってるし幕府の要職についていたりするのと同じ。王というのは上述のようにこれも中国側からみての話で、主帥の中からリーダーになりそうなの(もしくはすでにリーダー的なやつ)を選んで窓口業務を委任して他の主帥たちを取りまとめてもらう。それが王。ランクによって「邑君」だったり「侯」だったりするが奴国の首長は「王」とされた。だからあくまで「奴国だけの首長」であって実体も倭国全体の支配者ではない。中国の郡というのは自分で交易をやって稼がないといけないので民間を排除して貿易を独占しないといけない。それで日本でいう勘合貿易みたいに「金印」を使う。本当は郡で面倒な事務をぜんぶできるなら金印など発行しなくていいのだ(だから実際に郡に力のあった前漢の時代には倭人と楽浪郡の往来が盛んだったにもかかわらず金印など発行されてないのである)。公孫度が遼東半島で独立してからは金印など使ってないだろう。公孫淵が滅んで卑弥呼が魏と直接外交を始めたので難升米は王(中国が主帥を格付けした王)を廃業して「大夫」を名乗ることになり、外交の結果、卑弥呼が親魏倭王になった。

なお、奴国王は金印の文面からして、奴国一国だけの王ではありえず日本全体の王だったはずだと言い張る人がいる。だが印の文面からわかるのは中国側の理念であり、建前にすぎない。実際に倭国の窓口を取りまとめてもらってるのだから、中国からみれば事実上の倭国全体の王だってことには変わりない。ただ、それが倭国内の事実に一致してるなら『委奴王之印』か『漢委王之印』でよかったはずで、『奴國王』などという境域を狭く絞ったような言葉をわざわざ入れないのではないか。これは後漢の側も事実と理念の不一致を認識していたからだろう。

『魏略』の「其国王、皆属王女也」の国王は普通に読めば伊都国王だが「皆」とあるので複数いたと勘違いする。だから対馬国から末盧国までの国々にも官である卑狗の上に「皆」王がいたと誤解する人もいるだろう。『後漢書』がそれで「百余国みな王あり、その大倭王は邪馬台国に治す」と書いたが浅薄だ。各国の卑狗の上にその国の王がいたんだという説をなす者がたまにいるが、それはありえない。なぜなら、卑狗(ひこ)は記紀や風土記にでてくる地名の下に付けてその土地の神や土地の首長らの名とする「○○(ツ)ヒコ」のヒコだから、これより格上の存在というのは考えられない。もし王がいたら卑狗こそが王に相当するだろう。だから(もし後漢書の認識が正しかったら)「国王は卑狗と称す」とか「其の王、号して卑狗と曰ふ」とか「卑狗と号す、華言王也」とか書かれたはずだ。『魏略』は逸文だから文字の欠落があるのだろう。陳寿は「世有王、皆統属女王国」と書き直した。つまり代々の王のことだとして、代々の王が「皆」という意味に解釈している。陳寿は文字が欠落する前の『魏略』をみていたので正しく解釈できたのかもしれない。ただし、おかしい点が一つある。この国王が伊都国王にしろ奴国王にしろ先祖代々、女王国に属したということは物理的にありえない。卑弥呼の前は男子をもって王としていたというから卑弥呼は初の女王ってことだ。すでに先祖となっている卑弥呼以前の先代の者たちが、当代(その時代の現代)にしか存在しない卑弥呼の国に属することは物理的にありえない。今は女王がいるが昔は男王がいた邪馬台国に属するという意味なら「世々王あるも皆倭王に統属す」となるか、「世々王あるも今の王は女王国に統属す」とならねばおかしい。ところで魏志に「自郡至女王國萬万二千餘里」とあるところ魏略には「自帶方至女國萬万二千餘里」とあり、「自女王國以北其戸數道里可得略載」は広志逸文では「百女国以北其戸數道里可得略載」になっている。これらの「女国」は普通は「女王国」の誤りとされているが、この「女国」は「奴国」とも誤りやすい。『魏略』の「皆属王女也」は「皆属奴也」で伊都国に駐在はしてるけど(籍は)奴国に所属している、という意味になる。

話を戻すと、魏志倭人伝が書かれている段階では伊都国王はおろか奴国王という地位や名目もすでに存在せず、中国に対しては王ではなく「大夫」と称するようになっている。ただ奴国の首長というのはあいかわらず続いてるわけで「王の子孫だから王家」というぐらいの意味で「世々王ありしも」と過去形に読めば、意味は整合させられる(そこまでせずとも奴国王と卑弥呼の歴史上の関係が認識されず曖昧な書き方になったってことでもよかろうが)。
難升米が奴国の首長なのであれば、リアルタイムでは奴国の王ではなく「官」だろう。官でないと他の国々と比べて一貫しない。そう思って改めて官名を見直すと、奴国の長官は「兕馬觚」、伊都国の副官が「泄謨觚」で大昔からどちらもシマコかシメコの音写だろうとされている。同音だからこれは同語で、同格者ではないかな。さらにいえば難升米の「升米」もシメかシマと読める。日本書紀引用の文では「難斗米」(なとめ)になってるが升の字でいこうw 兕馬觚・泄謨觚・升米の三者は、もし固有名詞なら同一人物、もし役職名なら同格同一の役職だろう。(いろんな当て字があるのは何人もの中国人がその都度、自分なりに音写したからで、当時は文書行政ではなく口頭政治の時代だったから、特定の言葉ごとに決まった書き方はなかった(インカ帝国の実例があるように文字がなくとも大帝国の運営は可能)。かなり後世の奈良時代になっても固有名詞などは同一人物でありながらいろいろな当て字をしている。奴国ではこのシマコが長官だが、伊都国では副官に相当し、伊都国では長官が「爾支」という。この「爾支」の解釈は以下の3説がある。
 ①稲置(いなき
 ②主(ぬし
 ③禰宜(ねぎ
だがこれ、どれも間違いと思う。「支」の字が倭人伝では[k]音に対応してるので[s]音に読むのはつらい。「主」説は成り立たないだろう。「稲置」じゃ徴税官だから拡大解釈しても経済官・農政官っぽいし、「禰宜」では祭司・神官らしくなる。いずれも伊都国にいたであろう軍事色の強い役職とイメージがあわない。これは
 ④和(にき
だろうと推定する。「和」(にぎ)は、3世紀の発音なら「にき」だったろう、「安らかにくつろぐ。なれ親しむ」の意味の古語「にきぶ」という動詞がニギの古い発音がニキだった痕跡である。饒速日命(にぎはやひのみこと)のニギと同じで、「和合させる者、平和にする者」つまり平定する者。平定とは軍事的に平定するのだから要するに将軍のことである。これ伊都国に常駐していたという一大率そのものに他ならんだろう。伊都国の官を「爾支」といい副を「泄謨觚」という、とあるところに、伊都国の一大率と元奴国王(正確には奴国王の子孫)難升米のコンビで北九州を差配していたことが端的にあらわれていると思う。伊都国のもう一人の副官、「柄渠觚」の解釈が難しい、ざっと見たところ以下のような諸説があった。
 ①日槍(ひほこ)
 ②彦子(ひここ)
 ③日置子(へきこ)
 ④関彦(せきひこ)
このうち①②は岩波文庫の注釈にあった。③は水野祐の説、④はネットの拾い物。①については風土記の伝説で伊覩県主が「天日槍」(あめのひぼこ)の子孫と称したことが出ている。そうすると柄渠觚は伊覩県主そのもので、この場合は官名というより敬称か通称のようだが、祖先の名を襲名してるうちに官名か称号のようなものに転化していたとすればいいか。そしてそれなら「日槍の子孫」という意味のヒホココ(日槍子?)の音が落ちたのだろうか、しかし伊都国だけが固有名詞由来というのは面白くない。他の官名と同じくなんらかの機能を表わした言葉だとした方が蓋然性が高そうに思う。②は泄謨觚を「妹子」として「妹子/彦子」で男女のセットとする説。③は泄謨觚を「島子」として浦島伝説の「浦島子」がもと首長の称号だったとし、島子というのは占有者の意だとする。浦島伝説には「日置里」という地名が出てくるが、「日置」は灯台や烽火などの火を管理する者とする。④は泄謨觚と柄渠觚を別々の官とせず同語の別表記とする。関彦は関所の管理者。伊都国(または一大率)の機能と関係ありそうな点で③④は①②よりはかなりマシに思える。ただ同一語の別表記を連続して書いたというのは奇異の感が否めず、通説どおり二つの官とすべきだろう。泄謨觚と柄渠觚の間に「次」の字が無いのは、上下の格差がなく二人の副官が対等であることを示しているのであり、同一官名の別表記ということにはならないと思う。灯台の管理者にしろ関所の管理者にしろ、どちらも面白いと思う。そこで、あるいは
 ⑤率子(ひきこ)
という説も一度は考えてみた。諸国の卑奴母離たちを統率する武官のことだ。ここまでは③④⑤はなんらかの機能を名詞化したものだという面白さにおいては同等ぐらいかと思うのだが、優劣はつけにくい。そこで俺の最終案は
 ⑥引替(ひきこ)
という説。これについての詳しい説明は長くなるので、いずれ機会があったら。今回は省く。なので説明なしでは納得いかないという場合は、便宜的(暫定的)に⑤を俺の説とみなしてもいいです。
「爾支」は一大率=「刺史のごときもの」だろうから、国造でも県主でもなく、中央から派遣されてくる「宰」(みこともち)で、葛城氏・平群氏・毛野氏・和珥氏・紀氏・的氏などの中央の大貴族または皇族であり現地人ではない。1,2年とか長くても4,5年とかで交代したんだろう(律令時代の太宰帥は任期5年)。
(※不彌国についても一般的な邪馬台国論では重要な点が見落とされてるが今回は直接関係ないのでふれない)

狗奴国王と卑弓弥呼は別人だった
中学生の頃、魏志倭人伝を初めて読んだ時、狗奴国の記述でまっさきに違和感があったのはその官である「狗古智卑狗」と王である「卑弓弥呼」がかなり離れたところで別々にでてくることだ。普通はある国の説明をする時にまず元首である国王、その次に総理大臣の説明と続くのではないかw なんだかなぁとは誰も思わないのかね?
で、原文の卑弥呼弓(ひみここ)を卑弓弥呼(ひこみこ)の誤転であるとし、彦御子=「皇子」の意味だとする説が大昔からある。Wikipediaは佐藤裕一の説(2006年)だとか言い張ってるけどそんな最近の説なわけねーだろw これ本人が宣伝で書いてるのかね? そんなこたどうでもいいとして、「倭国全土の女王である卑弥呼と争ってる皇子」ということは、これはつまり卑弥呼と卑弓弥呼が倭王の地位をめぐって争ってるのであって「王位継承争い」ってことだ。もしも、卑弥呼が記紀にでてくる皇族女性の誰かだとしたら、卑弓弥呼も皇族男性であり、記紀によくありがちな「皇位継承争い」であって、卑弥呼と卑弓弥呼はかなり血縁が近い皇族同士である。皇子ということはまだ勝手に即位して天皇だと称していたわけではなく、「俺が即位すべきだ」と主張してるだけで地位は皇子に留まってたようだな。しかし記紀では、皇位継承争いは男性皇族同士の間で起こるのであって、女性と男性なら起こらない。だからこの争いは実際には「卑弥呼の男弟」と「男王卑弓弥呼」との争いなのである。正統性において一歩劣っていた「男弟」が、姉を擁立することで実質的な倭王の地位を手に入れた。それを不服とする「卑弓弥呼」も自立し、倭国を2つに割って争いになった、と。さっきもいったが「卑弓弥呼」とは「彦御子=男皇子」の意味で、正統の天皇たるべき皇子は自分だと自称していただけで、まだ即位しておらず、すでに天皇だと自称していたわけでもなさそうだが、魏志倭人伝ははっきり「男王」としているのは、事実上の独立勢力の首長という意味で王といってるのだろう、中国からすれば実質的な政治勢力の状況を把握することが目的であって、倭人の内部のよくわからない建前はどうでもいい。そうすると女王というのも、中国人からみると、卑弥呼あっての「男弟」であって、「男弟」が卑弥呼を擁立したようにはとても思えなかったんだろう。だから姉の方を女王とみなして弟の方は「姉を佐治している」と叙述した。だが、倭国内部の建前では、弟の方が当時の天皇であって、姉が女帝だったわけではない可能性がある。「卑弓弥呼」もその名からする限りまだ皇子の反乱であって南北朝の対立みたいにはなってない。なのに三国志が二人の王がいて分裂していると書いたのは、この「王」は実質的な二大勢力のトップという程度の意味らしく見える。実際、卑弓弥呼も中国に向けては倭王と称したかもしれない。説明が面倒だろうし、中世には日本国王と称した懐良親王の例を思えばこれも外交戦術だろう。

卑弥呼は倭国全土の王であって、邪馬台国だけの女王ではない。邪馬台国はただそこを首都にしているだけ、という話はすでにした。そうすると男王卑弓弥呼も倭国全土の王、大倭王(に俺がなるべき)だと自称していたはずで、狗奴国王ってわけではないのではないか? みんな卑弓弥呼といえば狗奴国王だと思い込んでるでしょ。魏志倭人伝には「卑弓弥呼は狗奴国に治す」とは一言も書いてないので、どこにいたかはわからないのだ。百余国のうち、卑弥呼に属する国々(女王派)と、卑弓弥呼を支持する国々(男王派)に分かれていたんだろうから、狗奴国以外にも卑弓弥呼が本拠地に選べる国はいろいろあったろう。倭人伝には「有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗」とあり「男子をもって王となす」は男王を推戴しているって意味だから、狗奴国は男王派だといってるだけで必ずしも狗奴国内に卑弓弥呼がいたという意味に限定できないぞ、この文は。「その官に狗古智卑狗あり」も「その」が男王をさしているなら卑弓弥呼に仕える配下という意味しかないから、必ずしも狗奴国にいなくてもよい。どこかに派遣されていてもよいわけだ。狗奴国に常駐してそこを治める官でなくても意味は通じる。つまり卑弓弥呼と狗古智卑はぜんぜん別の場所にいた可能性もあるし、どっちの人も狗奴国にいたとは限らず、へたすっと二人とも狗奴国にいなかった可能性もある。この卑弓弥呼と狗古智卑狗を別々の場所にいたとする説も大昔からあって、狗奴国を熊県(肥後の球磨郡)とした上で狗古智卑狗は菊池郡にいた、球磨郡が本拠で菊池郡は北九州勢力に対峙する前線基地なのだという説。あと最近うるさい東国説。この場合、狗奴国の比定地は近江、美濃、尾張、遠州、駿河と諸説あって範囲もいろいろ考えられるが、狗古智卑狗の持ち場は遠江の菊川か。球磨[k-m]よりはクナ[k-n]に近い地名が多いのも東国説に有利。東国説は記紀の伝承との対比や考古学からみた場合にも魅力的だ。一方、魏志倭人伝の原資料を復元すると南方系習俗の記述がすべて狗奴国に関わっているという水野祐の説や、狗奴国は女王国の南という魏略に照らして(この女王国は実は奴国の誤記なので)、魏志の文は「女王国を中心とした諸国の南」でなく最後の「奴国の南」と解釈するのが文献からは(論理上は)正しいだろう。つまり九州説と東国説はどちらも正しい。おそらく原文の「其南有狗奴國、男子為王」と「其官有狗古智卑狗、不屬女王」の間に脱文があり、「次有狗古智國」の6字が抜けてるんだろう(倭の国名のわかってるのが29国で「三十国」に1ヶ国足りなかったのがこれで三十国になる)。卑狗が地名の下についてその地の首長をあらわすのだから、狗古智卑狗は当然「狗古智国」の官なのである。東海地方の「狗奴国」も熊本県の「狗古智国」もどっちも男王国で、両方あるんでよい。それは邪馬台国も奴国も伊都国もみな女王国だというのと同様なのである。当時の中国人は、狗古智国に代表される南九州の勢力を、誤って狗奴国という東国の地名で呼んでいたのだろう、なぜそんな混同をしたかというと、どちらも卑弓弥呼の支持勢力(=反女王派)=「男王国」だったからである。東国の方が主力だから狗奴国の名だけは聞こえるが、魏からの使節は北九州にいるので、どうしても具体的な情報は南九州の勢力の話ばかりになる。東国と九州では方角が真逆であり、そうすると男王派の勢力は東西に分裂しているようだが、その中間の連絡ポイントとして熊野や紀伊が浮かぶ。狗奴国は熊野だという説も昔からあるが、音韻の類似は肥後の球磨と同等だから今回はそれを根拠とはしない。だが、ここらも抑えておかないと男王派は東西の連絡が途絶してしまう。卑弓弥呼の勢力圏は紀伊を含んでいたとすると、太平洋沿岸部の黒潮文化圏、黒潮経済圏び諸国が男王派だったと推定される。最盛期には倭国の百余国のうち30ヶ国ぐらいは男王派だったのではないか?
(※邪馬台国が魏と友好だったように狗奴国は呉とつながっていたのではないかという説に対してのあれこれ面白い議論もあるが今回は省略)

卑弥呼から台与へ、女王の経緯
東国と紀州熊野、そして九州肥後。この勢力配置は中世の南北朝の争乱での南朝を思わせる。南朝は奥羽と九州に有力な拠点をもち本部を吉野に置いていた。卑弥呼と卑弓弥呼の王位継承の争いとは、中世の南北朝の争乱と似たような情況だったのである。

卑弥呼の先代の男王を仮に「男王乙」とよぶ。男王乙は王位についたものの、なにか正統性に問題があったんだろう。そこで皇族の一人、卑弓弥呼が男王乙に抗議を申し立てたが当然ながら話はまとまらず、内乱になった。もしくは卑弓弥呼は抗議もせずにいきなり謀反を企てた。卑弓弥呼(=彦御子)は固有名詞ではなく単に男性皇族の意味だ。固有名詞は魏志倭人伝からは不明。それで倭の百余国はそれぞれ男王乙か、卑弓弥呼かのいずれかについた。これが魏志倭人伝にいう「相攻伐すること歴年」という部分で、歴年とは三国志では5~6年をさすという説と7~8年をさすという説があるが、とにかく戦乱になった。ということはおそらく卑弓弥呼は男王乙のもっていない正統性かそれに近いものをもっていたのかもしれない。で、女王卑弥呼を立てて戦乱を鎮めたとあるから、卑弥呼は女性でありながら何か卑弓弥呼を上回る正統性か少なくとも同等の正統性をもっていたに違いない。正統性のない男王乙は卑弥呼を王に立てることで「正統性がない」という政権批判をかわすことに成功したんだろう。卑弥呼を佐治していた男弟というのがすなわち「男王乙」本人だろう。卑弥呼と先代の男王は姉弟ということになる。女王は例外的存在な上、古代日本では末子相続だったことを思えば、姉に正統性があり弟に正統性がないというのは考えにくいことだが、第一に異母姉弟なら姉の母は高貴な女性で弟の母は血筋の格の低い女性だったということが考えられるし、第二には「男王乙」の先代で、卑弥呼と乙の共通の父、仮にこれを「男王甲」とよぶ。男王甲が卑弥呼を後継に指名していた、あるいは乙は王位についてはならぬと遺言していた等が考えられる。ただ、女性を後継に指名していたというのは考えにくいから卑弥呼と結婚した王子に王位を譲るつもりだったのかもしれない。異母兄妹での結婚は当時はタブーではなく推奨されていた。そうすると男王乙は最初から卑弥呼と結婚すれば問題ないわけでなぜそうしていないのかがわからない。また卑弓弥呼の正統性というのも、男王甲からの後継指名があったか、もしくは卑弥呼と結婚したものが王にという遺言があったのなら卑弥呼と卑弓弥呼は夫婦だったのかもしれない。男王乙が卑弥呼をさらってきて王を自称していたのか…? そうすると卑弥呼と男王乙と卑弓弥呼は3人とも異母兄弟だろう。記紀でも皇位の争いはだいたい兄弟間で起こっている。共立という言葉は単にイレギュラーな継承をさす決まり文句であって男弟(=男王乙)が黒幕だろう(共立という文字にこだわって男王乙を含む有力貴族たちの相談で卑弥呼を王にきめたとしてもよい)。
ともかく卑弥呼が立って、戦乱は鎮まった。つまり卑弓弥呼の正義の挙兵が正統性のない反逆になってしまうほど卑弥呼には正統性があったんだろう。しかし卑弓弥呼は勢力が弱まっておとなしくなっただけで、卑弥呼が死ぬまで抵抗勢力として存在し続けた。魏志倭人伝の記述では卑弓弥呼の勢力が滅亡したのが卑弥呼の死の直前なのか同時なのか直後なのか、あるいは滅びずにその後も長く存続したのか曖昧でつかめない。一説では、魏の帯方郡から韓の叛乱に対して加勢してくれと救援要請がきたがそれを断るための口実として卑弓弥呼とことをかまえている最中だからとしたまでのことだともいう(この説はネットでみたw)。だとすると卑弥呼が死ぬ前に卑弓弥呼の勢力が先に滅んでいることになる。その可能性も高いとは思うがなんともわからぬ。卑弥呼の後を継いだ男王は男王乙の復権なのか、別の男王丙(仮名)なのか、卑弓弥呼なのか。丙だとしたらこれは乙の息子だろう。しかし「国中服せず」またも内乱で数千人も殺されたという。これは男王丙がその父の乙と同じく正統性に欠けるところがあって、乙に抵抗した卑弓弥呼のように、丙に抵抗した「王子丁」(仮名)がいたのだろうか。もしくは卑弓弥呼の勢力がまだ存在していて丙を攻撃したか。あるいは卑弥呼の死後に即位した卑弓弥呼に乙の子、丙たちが復讐したか。そこで卑弥呼の宗女(同族の娘、一族の女)である台与(13歳)を立てて王としたら治まった。卑弥呼の時とまったく似たパターンが二度くりかえされたわけだが、台与を立てたのはさっきの登場人物の中の誰なのかわからぬ。台与を立てた者が勝利者だろうが(正確には台与を立てたから勝利した)、まったくのダークホース、王子戊(仮名)ってこともありうる。

宗女の宗は宗族の宗で、漢語としては男系家族だが、皇族も男系原理でできているから、卑弥呼と台与だけでなくここでの登場人物はすべて同じ一族である。記紀で皇位継承争いをやってるのは同じ皇族同士であるのと同じ理屈。
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