FC2ブログ

・四道将軍、波邇夜須毘古の乱

H26年11月1日投稿 (H24年10月17日(水)初稿)
四道将軍
崇神天皇は国内治安の鎮静化のため、いわゆる「四道将軍」を派遣した。国内の疫病流行による治安悪化から立ち直ってない地方が多かったのだろう。『日本書紀』(以下、紀)に載ってるこの時の詔勅を意訳すると「政治の根本は教育である。畿内では神道復興によって問題は解決したが、畿外ではまたそうなってない。四道将軍を全国に派遣して『朕の憲法』を知らしめよ」と。これはすでに畿内で成功した「國體明徴運動=神道ルネサンス」(詳細は崇神天皇の前半の解説を参照)を全国に展開することでもあった。
「四道将軍」というのは紀による言い方だが『古事記』(以下、記)では吉備(山陽道)への将軍派遣は孝霊天皇の時代ってことになってるから、実際は「三道将軍」じゃないのかと言われそうだが、崇神天皇の時の吉備平定というのは大阪平定(河内平定)の間違いで、その時の将軍が吉備津彦だったので紀が混同してしまったのである。そしてこの河内平定というのは後述の埴安彦(ハニヤスヒコ、記:建波邇夜須比古)の乱の平定戦争の一部なのだから、別々に数えれば四道将軍ともいえるし、記は埴安討伐戦として一つに数えたから省略して三道将軍になっているわけ。言い方の違いでどちらが誤りでもない。

丹波の凶賊
このうち丹波(山陰道)に派遣した彦坐命(ヒコイマスノミコト、記:日子坐命)は、玖賀耳之御笠(クガミミのミカサ)という叛賊を平定するという具体的目的があった。
丹波というのは朝鮮と直接交流する日本海沿岸の中でも東国と西国をつなぐ要地で都にも近い。朝鮮からの渡来人は北九州や瀬戸内海ではなく、今も昔も山陰・北陸という日本海から直接くる。
丹波は日本海交通路のセンターであって、難民の巣窟でもあり、玖賀耳之御笠はその首領だったと思われ。クガやミカサをどこかの地名に結びつけて解く説もあるがあちこちに類似地名があって意味がない。クガミミというのは口が耳まで裂けているの意、これは悪口ではなく、当時の中国人マフィアの間で「清濁あわせ呑む器の大きさ・度量のでかさ」を誇示したもの。本名は張とか李のたぐい。但馬地方の民間伝承だと、けして取るに足らない盗賊の類ではなく、若狭湾一帯の大海賊でもあったらしい。
むろん丹波の中国人マフィアのボスがいきなり謀叛をおこしたのではなく、中央政界との深い癒着があったであろう。ミカサは貴人の傘に隠れるという意味で日本での通名。中央貴族の大物と結託しており、そのお墨付きで悪さをしていた。その黒幕とは、天皇の伯父・埴安彦である。

ハニヤスヒコの乱
埴安彦は山城国を根拠地としていて、ここは都と若狭湾や三丹をつなぐ経路にある。疫病の大流行により国民のほとんどが死滅しかかって全国の治安も悪化、これが神の祟りだともきいて、今の天皇には神の守護なく天命我にありと考えたのだろう。ところが配下の御笠が調子に乗りすぎ、埴安のコントロールがきかなくなってきて、その悪業が中央にも聞こえ、征伐軍がでることになった。御笠が捕まれば埴安の悪業も露見する。しかし、四道将軍の一環だったことは埴安にとって好機だったともいえる。帝都の防衛は手薄になるからだ。先手を打って一か八かのクーデターに出ざるを得なくなった。つまり埴安としてみれば謀叛の計画が早まってしまって十分な準備がない反面、千載一遇の機会が到来したともいえる情況だった。
埴安の戦略としては大彦(オホヒコ、記:大毘古)の率いる北陸方面軍と彦坐命の率いる丹波方面軍を何食わぬ顔で素通りさせてそれぞれの本来の遠征先に向かわせ、埴安の本軍は大和を直撃、妃の吾田媛(あたひめ、紀)は今回の四道将軍が関係しない西方から河内の軍勢を率いて攻め入る手筈だった(埴安の母は河内の出身で当時はここも埴安の勢力下だった)と思われ。しかし情報において先んじていた崇神天皇は大彦の率いる北陸方面軍と彦坐命の率いる丹波方面軍にわざと謀叛に気づかないふりして当初の目的地に向かわせ、それとは別に和邇氏の祖、彦国葺(ヒコクニブク、記:日子國夫玖)を将として埴安軍に向かわせる一方、大阪方面の吾田媛軍には五十狭芹彦(別名:吉備津彦)を向かわせた(紀はこのことを勘違いして四道将軍に数えたものと思われ)。吉備津彦はその名の通り、山陽方面に基盤をもっていたのでそちらからの援軍とで東西から吾田媛を挟撃できたものと推測する。また紀では彦国葺と大彦の両軍が埴安軍に当たったことになっているが、主軍である彦国葺の軍は寄せ集めの少数なので油断させつつ正面から当たり、本来なら北陸全土を平定すべく編成された精鋭大軍の大彦の軍は素通りして北陸に向かったと思わせておいて急反転して、南北から埴安軍を挟撃したのだろう。これは理屈で考えた戦略図であるが実際には何が起こるかわからないのが実戦で、大彦軍の到着を待たずして勝利が決してしまった。皇軍が少数なのを侮って、埴安彦がのこのこ前線に出てきた。開戦前の口説舌戦で士気をあげようとの算段だったろうが、ここで最初の矢合わせでいきなり埴安が射殺されるというハプニング、賊軍は総崩れとなり大彦軍が出る幕はなかった。

海外帰化
彦坐命は丹波平定後、その地に土着してその子孫は但馬公(たじまのきみ)として丹波・但馬・丹後にひろまった他、播磨・近江・美濃・甲斐まで勢力が広がった。しかし埴安彦の乱を平定して強大になりすぎたようで、日子坐の息子・サホヒコの代になって、次の垂仁天皇の時代には謀叛を起こす。
それはともかく、難民問題の根元をただすには、その通り道になる半島を統治しなければならないわけで、次ぎの垂仁朝になってから日子坐命は新羅に渡り、新羅王となったとの説もある(詳細は垂仁天皇の記事にて)。
高志(北陸道)に派遣された大彦と東方十二道(東海道)に派遣された建沼名河別は当初はこれといって討伐対象がなく、治安回復・教化宣撫の軍だったと思われ。大彦は突発した埴安の乱を討伐することになったが活躍の間もなく乱は鎮圧。
反乱平定の翌年(紀:崇神十一年)、四道将軍が全国を平定・教化宣撫し終えたが、この年「外国人が多く帰化して国内安寧となる」という注目すべき一文がある。また同十二年の、「税制創始の詔勅」には、「外国人が訳を重ねて来朝し、海外はすでに帰化した」(この場合の帰化とは外国が帰順して属国になることを意味する漢文表現)というこれまた注目すべき一文がある。

税制の開始
この事件についての解釈はいくつかありうる。
1)税制の最初の起源とする説
それまで日本には税というものが存在しない無税国家であり、官庁は有力豪族に分割民営化されていた。国民からの貢ぎ物は自由・任意であって、いわば、カンパとか、お賽銭のようなものだった。が、いったん国民道徳が退廃してしまうと「なんで俺だけが出すんだ?出さない奴もいるじゃん」と言い出す者もいるし「あいつがたくさん出すから貧乏な俺が肩身が狭い」とかの苦情もでる。そこで制度を定めて一律一定のきまりを設けた方が、皆が助かるというわけ。外国人の少なかった時代には細かいこといわなくても阿吽の呼吸でわかることだけど多民族社会=都市化がはじまると、規則なしには度合いがわからなくなってしまう。この税制創始から天皇王朝は徳治から法治へと変わりはじめた。もし国家とは制度であると定義するならば、崇神天皇こそ建国の始祖=初代天皇=ハツクニシラススメラミコトといってよいであろう。しかし制度としての国家以前から、文化的・精神的・社会的・物理的に我々の先祖は継続して存在していた。このへんの議論は「ハツクニシラススメラミコト」を参照。
2)税制改革とする説
税制はもっと古くから存在したのだが、国民に一律にかかるものではなかったか、または定期的なものでなかったか、とにかくあまり完備したものではなかった(この場合の税制とは国民側の自由意志ではなく政府からの強制という意味)。それを一定で公平な税制度として完成させたのであって、税制度が初めてできたという意味ではない、という解釈。記紀には「男の弓端調(ゆはずのみつぎ=皮革産品)・女の手末調(たなすゑのみつぎ=絹布産品)」とあって租(稲束)のことが出てないから、もとから租(稲などの作物)は税として取られていて、この時代から税の品目が増えただけとの解釈もありうる。だがそれだけではハツクニシラススメラミコトと称賛される理由として適当でないようにも思える。男女別になっているから何か家族制度にかかわることかとも思わなくもないが巧い理屈がみつからぬ。
3)改革ではなく単に一旦休止にしていた税制を再開しただけとする説
疫病の流行で国民が死滅しかかっていたのだから、一時的に徴税を減額したり停止したりしていたことも考えられる。その場合、税制が復活したのは国民の富が回復して国家が再建されたことを意味する。

ハツクニシラススメラミコト
(今日はもう時間切れ、後日執筆予定)

干支の使用と半島情勢
崇神天皇の崩御の記事で、はじめて干支で年を紀することが始まっている。それまで日本に干支はまかったと思われるが、紀によると崇神天皇の末年、大加羅(=任那)の使者「蘇那曷叱知(そなかしち)」なる者が朝貢してきたという。その頃すでに朝鮮半島には干支が使われていたので、この時に日本に干支が伝来してきたのだろう。
さてその朝貢の使者だが、新羅と領土紛争を起こしていて、我が国に救援要請にきたという。蘇那曷叱知=ソナカシチは、ソナは地名で今の釜山。カは干(カン)で貴族の称、シチは臣智(シンチ)で都市国家の首長。つまり蘇那曷叱知は今の釜山=後三世紀の狗邪国=六世紀の駕洛国(金官国)の首長だった。ただ、この使者は崇神天皇崩御のタイミングに遭遇してしまったので、続きの話は垂仁天皇の記事に続く(以下、そちらを参照)。
関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
プロフィール

道三(どうさん)

Author:道三(どうさん)
どこから見ても平凡な、一介の町人です

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
検索フォーム