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1古事記はなぜ敗北者にやさしいのか

2679年(令和元年)9月16日改稿 平成29年5月11日(木)初稿
福井と敦賀
ずいぶん前だが、後輩に誘われて福井に旅行したことがある。名物ソースカツ丼、鶏の唐揚げも美味かったし飲み屋も良かった。福井には五つの神社に祀られた「福偉神」(ふくいじん)ってのがあって福井出身の歴史上の5人の偉人、継体天皇・新田義貞・柴田勝家・橋本左内・松平春嶽で街おこししてた。この中ではもちろん古事記に関係あるのは継体天皇なわけで、継体天皇ゆかりの足羽山(あすわやま)には同帝を祀った足羽神社(あすわじんじゃ)や、同天皇の巨大な石像その他あれこれあって観光によし。福井での継体天皇についてもおもしろい話が無限にあるがそれは今回の本題ではない。ここの足羽神社の御祭神をめぐる諸問題については「阿須波神・波比岐神」の頁であれこれ論じる予定。
福井滞在中にちょっくら足を伸ばして敦賀の気比神宮にお参りにいってきた。ここはもちろん古事記にでてくる大神社で、応神天皇がいまだ皇太子だった時に、禊(みそぎ)のために武内宿禰(たけしうちのすくね)と二人でやってきたという神社だ。だから「禊の神様」なんだろうな本当は。今の気比神宮は、じゃなくて、今の神社はどこも、豊年満作・無病息災・交通安全・事業繁栄・恋愛成就・試験合格・健康長寿みたいなことばかりいってるけどさw まったくスルーするのもしらじらしいから言っとくと今じゃ敦賀といえば原発銀座の一角で「もんじゅ」も近い、原発問題までやってたらキリがないし古事記と関係ないからふれないが。関係ないこともないか、禊の神様だし。どこの地方都市もそうだが敦賀の街もなんかさびれた感じで昼間からやってる店を探すのがたいへんだった。けど、さすが北陸の港町、寿司は美味かったな。港には崇神天皇の時に任那からきた都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の銅像が立ってる。港を見下ろす城趾、織田信長に滅ぼされた朝倉氏の金ヶ崎城址もある。源平時代にもあった城で、南北朝の頃には恒良親王・尊良親王を奉じて新田義貞が足利軍を迎え撃ったのもこの金ヶ崎城だった。ふもとの金崎宮には恒良親王・尊良親王が祀られている。
廃炉になる実験炉もんじゅtsuruga_town_street.jpg←ツヌガアラシト像、じゃなくてメーテルと鉄郎。同じようなものではあるが。

香坂王・忍熊王の乱
古事記では神功皇后が香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)の叛乱を近江に鎮めたとの記事に続いて、次の気比神宮参りの記事も近江から若狭を経由して敦賀にいったように書いてあるので、反乱を穢(けがれ)とみなし、この穢れを祓うため反乱の現場だった近江から直接に敦賀をめざして禊をしにいったんだと解釈する説もある。が、反乱討伐の当事者だった神功皇后や将軍たちは穢れず、皇太子と武内宿禰の二人だけが穢れるというのはへんな話だ。日本書紀では、反乱の制圧が神功皇后摂政元年、気比神宮参詣が同十三年だから、12年も経ってからのことで鎮圧と気比参りは無関係な別事件にみえる。だから当然、近江や若狭の経由地もなんらふれることなく都(磐余稚桜宮)から直接に敦賀にいったかのように読める。これは時期に関しても、反乱とは別事件としていることも、日本書紀が正しい。がそれ以外の諸点については大筋で古事記が正しいだろう。古事記がどうしてそういう誤りを犯したのかっていうと近江から若狭経由で直接いったという伝承があったからだろう。実はこの時はまだ成務天皇時代の「志賀の高穴穂宮」(今の大津市)をそのまま使っており、磐余の稚桜宮(奈良県橿原市)はまだ無かったと思われる。古事記は年代を書いてないからあたかも反乱の直後であるような誤った印象を読者に与えてしまう。書紀は独自の歴代天皇フォーマットで宮都の奠定は元年であるはずというパターンで書いてしまったため十三年の気比詣では大和の稚桜宮から敦賀までの経路にわざわざ近江、若狭を記述する意味が不明になってしまうのでこの2国の名は削除したのだろう。しかし古事記では近江から行ったにしてももし直接敦賀を目指したのなら、わざわざ若狭を経由したことを書く意味あるのか。文面は何かを探すように近江、若狭をさまよっているうちに気比大神が皇太子の夢に現れたように書かれている。だから気比参りは夢での神示に導かれたもので、最初から敦賀を目指したわけではあるまい。では皇太子はなんの目的で近江、若狭方面をさまよっていたのか? これは武内宿禰だけがお供で、普段から一緒の母后と別行動なのが第一のヒント。皇太子(のちの応神天皇)は神功皇后摂政元年の前年の十二月十四日生まれだから、この時(神功皇后摂政十三年二月八日)は数え才では13歳だが満年齢では12歳、というのが第二のヒント。これは「としのほし」とも呼ばれる歳星(さいせい=木星)が黄道を一周する節目で、占星術でいうと木星リターン、ひらべったくいえば干支(えと)のめぐりでいう最初の「年男」(としおとこ)にあたる年齢で、現代なら小学校の最後の年。中学高校の修学旅行の予行演習的な、宿泊学習とかの行事のある学年じゃないか? おそらく何か年齢相応な、一種の通過儀礼みたいなものだろう。この頃の男児は数え才13歳か満12歳で、両親とは別行動で、宿泊旅行するならわしがあったと推測する。これは神話に伝わる須佐之男命の冒険譚をなぞるもので、冒険だから目的地が決まっていてもいいが、あらかじめ決めずに放浪の旅でもいいわけなのだ。そういえば、ものごころついてからずっと婆さんと二人暮らしだった俺が、田舎を飛び出して東京に住む両親の元に移ろうと決心して一人列車に飛び乗ったのは小学校6年生だったなぁ。俺のことはどうでもいいが。

生きていた忍熊王
記紀では忍熊王は死んだことになってるが、琵琶湖に落ちて水死しようって時にもノンキに歌なんか詠んでることになっておりちょい不自然。日本書紀だと忍熊王は琵琶湖の南端、有名な「瀬田の済し」で水没したが遺体がみつからず、数日後に宇治川で発見されたという。これはニセの遺体じゃないのかとは誰でも妄想することで、だからなのか、後世の福井県越前町の劔神社(つるぎじんじゃ)の社伝では、忍熊王は応神十三年二月に都(大津?)を脱出して敦賀から海路北上、敦賀郡伊部郷(今の越前町)の梅浦から上陸、伊部臣(=忌部臣:いむべのおみ)が座ヶ嶽(くらがたけ)に祀っていた神剣を得、現地(越前町一帯?)の悪者を退治したという。座ヶ嶽ってのはgoogleマップで見つからず近所に似たような名前の烏ヶ岳(からすがたけ)だろうかとも思ったがそうではなく、劔神社の北300mほどのところの小山だった。山としては表示されないが頂上に「座ヶ岳社」という祠がありこちらで検索すれば出てくる。記紀では垂仁天皇皇子五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこ)が鳥取川上宮(今の阪南市のあたり)で千本の剣を作ったとある。この剣はその千本の剣のうちの一振りという。忍熊王は郷民から都留伎比古(つるぎひこ)と呼ばれて土着したという。明示はされてないが御公儀から何のお咎めもないのは要するに反乱については裏でひそかに御赦免されたってことで、建前上は反乱の首謀者だから表向き御赦免にはできないが、何者かに騙されてのことで、本人には情状酌量の余地があったと判定されたか。まぁ応神天皇が生まれるまでは、次の天皇は誰しも香坂王か忍熊王のどっちかだと思ってたんだから、新羅征伐の留守番役やってる時に「合戦のさなかに天皇陛下が戦死して次の天皇が生まれたばかり」なんて速報をきいても「え?どういうこと?俺の立場は?」となるのもわからなくはない。そこで熊襲か新羅に心を寄せる者がいてあることないこと吹き込んだら、謀反といわずとも武力に訴えても真相を問いただそう、という気にならんでもない。
仮にこれ本当だとすると、首都に10年以上も潜伏してたことになるので、武内宿禰が匿っていたのだろう。それに十三年二月は皇太子(応神天皇)と武内宿禰が気比神宮にお参りにいった時。つまり都から脱出といっても、おそらく皇太子のお供に身をやつしてのことだろうから、皇太子の気比参詣は表向きは13歳の通過儀礼でも、裏では忍熊王を越前に逃がすための隠密作戦だったわけだw 近江~若狭を彷徨っていたのも「逃亡した忍熊王を捜索している」という建前でのカモフラージュか。越前で退治した梟賊ってのも、もしかしたら香坂王・忍熊王を唆して謀反させた黒幕で、そやつを追いかけてのことだったのかも知れんねw そやつの正体が熊襲なのか新羅人なのか、熊襲派または新羅派の日本人なのかはわからんが、越前に逃げたのは海路で新羅に逃亡しようとしていた可能性が高いだろうな。

気比神宮がむすぶ古事記と南北朝
建武の新政がつぶれた時、後醍醐天皇らは京都から逃げて比叡山に立て籠もったが、尊氏と和議を結んで(事実上の降伏だが)尊氏の支配する京都に戻ることになったが、下山する前に恒良親王に皇位を譲って、上皇の資格で京都に還幸した。恒良親王(つか天皇)は新田義貞らとともに北陸平定のために敦賀に向かった。この頃の気比神宮は北は佐渡に至るまでの北陸諸国に領地をいくつももっていて、南朝側の大勢力でもあった。大宮司の気比氏治・斉晴の父子は金ヶ崎城を築いて恒良親王(つか天皇)御一行を迎え、足利軍を迎え撃った(金ヶ崎城の戦い)が、気比氏治の一族含めおもだった武将の多くが討ち死に、恒良親王(つか天皇)は捕らえられ、京都に護送された。この恒良親王は実際に天皇だったことは三種の神器も継承していただけでなく、多くの綸旨などが残っていることからあきらかだが、歴代に加えられていない。明治になって弘文天皇や長慶天皇が復活したのに、まったく筋が通らないが、結局明治の判断基準ってのは水戸学であり太平記史観なんだよね。恒良親王の即位を公式に認めてしまうと「後醍醐天皇が建武中興の時から吉野朝を開いた時まで一貫して天皇だった」という理屈が成り立たなくなる。だから後醍醐天皇の知略つまり足利軍への目くらまし作戦だったという後醍醐天皇賛美に回収しておきたいわけだろう。失礼にもほどがあるだろう、恒良親王に対して、そして皇位の重み、皇位の尊厳に対して。南北朝の正統論をどう整理するかは細かい話がいろいろあるが、世間でよくいうのは明治天皇の勅裁で南朝の正統が決まったといわれているが詔書も勅書も勅語もあるって話をみたことがない。ただの閣議決定だったんじゃないのかって疑いもある。正統性の議論は簡単でなく今回は議論の詳細にふれないが、塩焼王、北白川宮(東武天皇)とならんで恒良親王が天皇として認められていないことは、日本人の正義とは何かという哲学の営みに重大な障害を及ぼし、ひいては日本文化の思想的欠陥の根本原因になっている。大日本帝国臣民たるもの、すべからく恒良親王を天皇として今すぐ崇敬奉賛しなければならないし、尊称をもってするに仮に「金ヶ崎天皇」「越前天皇」「敦賀天皇」「気比天皇」等とせば如何。なんでこんなことを言ってるのかというと本日平成29年5月11日(木)は本来なら「越前天皇正辰祭」の日だからだっ! 崩御の建武五年四月十三日(1338年5月11日)から数えると「679年祭」となる。
気比神宮はかように、上代では記紀の応神天皇、中世では南北朝の争乱に関係してる。記紀に描かれた時代には、皇族が地方にくだって土着して地方勢力になるというパターンが多いんだが、後醍醐天皇も皇子たちに兵をつけて全国各地に派遣、南北朝の争乱が長引くと、結局その皇子たちは各地に土着して南朝伝説を残したり、地元の武将たちの先祖になっていく。後醍醐天皇は上古の皇族のありかたに復古したのだ、ともいいたくなる。
が、そうするとしかし、記紀のは統一中央政府から平和的に派遣されてきて土着するんであって、日本人同士殺しあい実力で土地を奪ってた南北朝の内乱と同じパターンとはいえない、という反論もあるだろう。しかし記紀では、平時に中央から派遣されて地方に土着する通例のパターンだけではなく、内乱で滅ぼされた側の皇族の子孫(つまり朝敵の子孫)が御赦免になって地方貴族の先祖になっている例がかなり多い。つかほとんどこれ。こんなことをいうと一部の人には拒否されてしまいそうだが、実は案外、南北朝時代こそが記紀に描かれた時代(というか古事記の下巻)といちばん似ているのだ。

謀反した皇子たちのリスト
誰しもご存知のごとく、記紀には反乱だの戦争の話がそれなりに出てくるんだが、書紀にはない古事記の著しい特徴として、反乱の敗北者にひじょうに同情的であるというようなことがよく言われる。本当かね? 以下に列挙してみよう。

五瀬命(在位?)…那賀須泥毘古(ながすねひこ)
綏靖帝即位前…多藝志美々命(たぎしみみのみこと)
孝霊朝…?(吉備国の誰か)
崇神朝…?(高志道のまつろわぬ人ども)
崇神朝…?(東方十二道のまつろわぬ人ども)
崇神朝…玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)
崇神朝…建波邇安王(たけはにやすのみこ)
垂仁朝…沙本毘古(&皇后沙本毘賣)
景行朝…熊曽建(くまそたける)兄弟二人
景行朝…出雲建(いずもたける)
景行朝…相武国造(&東方十二道のまつろわぬ人ども&蝦夷)
仲哀朝…?(熊曽国)
神功皇后摂政期…新羅(&百済)
神功皇后摂政期…香坂王&忍熊王
仁徳帝即位前…大山守命
仁徳朝…速総別王(&女鳥王)
履中朝…墨江中王
安康帝即位前…軽太子(&軽大郎女)
安康朝…目弱王
雄略帝即位前…黒日子王&白日子王
雄略帝即位前…葛城都夫良意富美(&目弱王)
雄略帝即位前…市辺之押歯王
顕宗帝即位前…平群志毘臣(しびのおみ)
継体朝…竺紫君石井(つくしのきみ・いはゐ)

以上は古事記に記述のあるものだけで、日本書紀に書かれてるのに古事記にない分は省いてるので、史実の統計としては意味がないが、日本書紀は量が多くてめんどくさいからやめた。厳密な統計は各自でやって下さいw
この24例のうち、皇族…11例(上4、下7)、中央貴族…2例(下巻のみ)、地方貴族…4例(上3、下1)、土豪の類…3例(上巻のみ)、固有名詞も肩書もなく不特定多数と思われるもの…4例(上巻のみ)で全体でみても半分近くが皇族で圧倒的に多いがとくに仁徳天皇以降になると中央での皇族間の争いや、皇室vs貴族の内訌が主になるのがわかる。皇族11例のうち、黒日子王&白日子王はよくいえば巻き込まれただけ、わるくいえば愚か者扱いで悪役ではないがお世辞にも好意的とか擁護されてるとかともいえない。市辺之押歯王にもあからさまな好意は感じられないが悪役でもない。この二組は主体的に謀反を起こしたわけではなくただの被害者だから除外すると以下の9例が残る。

多藝志美々 × ◇…公式には殺されてるが民間伝承ではそもそも謀反してない人
建波邇夜須★  ●…公式にはないが[俺の説では]地方貴族として子孫あり
沙本毘古王★ 
香坂&忍熊△ ○ △…公式には殺されてるが民間伝承では御赦免になった人
大山守皇子▲ ◎
速総和気王▲ ○
墨江中津王★ ×
軽之皇太子☆ ○ ☆…討伐されたが処刑は免れた人
目弱輪之王★ ×
 ★…討伐され殺された人 
 ▲…公式には殺されてるが民間伝承では逃亡して生き延びた人
 ◎…地方貴族として公式に子孫あり
 ○…公式にはないが民間伝承では子孫と称する者あり
 ×…当人が滅ぼされて子孫なし

この9例を並べて眺めていると、乱の勃発情況と謀反人の子孫の処理に特色がある。
反乱勃発時に、現職の在位中の天皇に敵対した例は3例しかなく、その時の天皇を非難する理屈をもっていたこともあるにはあるが建埴夜須毘古王と隼総別王は情況に追い詰められてやむなく蜂起したという側面が強そう。目弱王は理屈だけ。沙本毘古の乱は書紀だと垂仁天皇在位中のことになってるが品智和気王の年齢から逆算するとやはり皇位の代替わりの時を狙った事件であることがわかり、書紀の編年は誤っている。沙本毘古を含む6例は先帝崩御と新帝即位の間に蜂起している。朝敵の汚名を回避するために当然だろう。

歴史書としての体裁にこめられた意図~記紀のちがい
ちょっと脇道の話。日本書紀は中国の正史の体裁に倣ってるので、先帝崩御と新帝即位の間の話は新帝の即位前紀とし、新帝を主人公に書いてる。これだとオチがわかってて勝つ側を最初から正義として書く他になくなる。でも古事記は厳密に例外なく、先帝崩御と新帝即位の間の話は先帝の話の続きとして扱っている。つまり新帝即位までは誰が正義なのかわからないという立場を堅持してるのだ。これを全編に渡って一貫させてるのは、要するに(すべてではないにせよ、一つには)日本書紀で謀反人扱いされる木梨軽太子を擁護するためなのである。だから日本書紀では「神功皇后摂政期間」が前代の仲哀天皇とも後代の応神天皇とも独立して設定されてるが、古事記では神功皇后の話はすべてあくまでも仲哀天皇の続きという扱いになってるのだ。「大山守命の変」も「乱」でなく「変」というべきだろう。これも仁徳天皇への反乱ではなく、空位の期間で起こった皇族同士の戦いって扱いになってる。反乱を起こす側の気持ちとしてはあくまで正義の蜂起なのだから謀反人にはなりたくないわけで、だから11例のうち7例が空位の時に起こっており、天皇在位中の反乱は「建波邇安王・沙本毘古王・速総和気王・目弱王」の4例にすぎない。とはいえ、建波邇安王と速総和気王はままならぬ情況に追い詰められての挙兵であり、沙本毘古王も伝承を精査してみると天皇代替わりの空位の期間を狙っての挙兵だったんだが計算違いがあって戦争が伸びてしまいそのうちに相手方が即位してしまったケースだとわかる(沙本毘古王の乱については垂仁天皇の項で書いたのでそちらも参照)。建波邇安王ぐらいか、完全に悪役とされるのは。多くは淡々とした記述であって擁護もしてないが悪意まるだしな感じでもない。沙本毘古王の場合はその上垂仁天皇と沙本毘賣のカップルを主役とした物語の中での脇役の扱いだからこれも好意にしろ悪意にしろ熱意が感じられない。

首謀者本人は大抵殺されてるのは当然として、その子孫の扱いはどうか。沙本毘古・山守命は、本人は処刑されても子弟が助命・御赦免され子孫が確実に名のある地方貴族として存在した(2例)。隼別・軽太子は、民間伝承による異説では当人の子孫の家系が存在したという(2例)。埴夜須王は俺の個人的な説で子孫に該当する氏族の存在をつきとめた(1例)。この4例は子孫が根絶やしにはされなかった(≒できなかった?)ことになる。残り5例では子孫が続かなかったにしても、忍熊王は前述の劔神社に伝わる伝承で助命・御赦免されたという(1例)、多藝志耳はそもそも謀反してなかったという異説もある(1例)。この2例は子孫が確認できないだけで地方に土着して住民に慕われた(忍熊)か、地方に赴いてそこに宮殿を建てて定住した(多藝志耳)ようには書かれている。つまり9例のうち7例までは地方に土着したという説があるのだ。
内乱で叛賊として敗れながらも地方に土着するというパターンは、足利軍に敗れながらも各地に散って伝説を残した南朝の親王たちと似てないか。
この7例のうち、隼総和気王・忍熊王・多藝志美々命の「地方土着説」の3例は古典史料とはちがう水準の、民間伝承や後世の偽書やらが出所なので、どこまで真実味があってどこまでウソなのか、本来ならこのブログでいつものように詳しく議論しなければならないが、時間がないのでいずれそれぞれの関係する項目でやるとして、ただ忍熊王の乱の解説だけは気比神宮がらみで今回ちょっとやっときました。
古事記と南朝の類似は、ただ「皇族が地方に散って土着する」という類型の話だけではおもしろくない。ここにもう一つ、判官贔屓(ほうがんびいき)の問題がある。よくいわれるように判官贔屓の起源は源義経ではなく、義経以前から日本人の感情に強く存在したもので、神話や民話の「貴種流離譚」が先行している。

判官贔屓と貴種流離譚のちがい
貴種流離譚が神話の類型だからといって、この類型に則った伝承が「史実ではない」とはいえない。古代人は「創作譚の類型」だという認識をもっておらず、無意識に自我のモデルとする。それを「神話がいまだ生きている社会」というわけだろう。貴種流離譚の背後には、律令制以前の時代に皇位を継がない皇族が地方に下って土着するという一般的な制度(ないし習俗)があったことと、律令崩壊後の古代末期には皇族・貴族の多くも地方民に迎えられ武士団の頭首になっていったことがある。これらの実例のうち悲劇性が伴う例は、あったことはあっただろうが、極めて少なかったと思われる。悲劇性が貴種流離譚の定義の一部なら「貴種のたんなるあまくだり」はもちろん貴種流離譚ではない。あくまで貴種流離譚を人々が忘却し難くせしめ、何かの事件に触れるたびにそれを想起せしめる社会的な背景、ぐらいの意味ね。
ちなみに判官贔屓は悪役、正確には悪の親玉を必要とするが、貴種流離譚では虐め役程度の端役の悪はストーリー上いたとしても本質的な悪を象徴するキャラはいてもいなくてもよい。また貴種流離譚はハッピーエンドが典型でそれを欠くのは完全型とはいえないが、判官贔屓は必ずしもハッピーエンドであってもなくてもよい、等の違いがある。
日本神話では大国主や山幸彦も貴種流離譚に入れられることが多いが流離のタイプが異世界モノになっててやや厳しいかもしれない。典型的なのは須佐之男命だが、世界各地の神話が相互に相似である以上、民族文化形成に及ぼす神話の影響力は限定的であって、これら神話がただちに日本人の判官贔屓の起源だとはいえない。やはり神話類型を神話としてでなく、具体的なディティールを伴った現実の歴史として体験しなければならないとすれば、人代の日本武尊(やまとたける)の存在がはてしもなく大きいだろう。ちなみに日本武尊は実在の人物なw 宝賀寿男先生もそうおっしゃってたろw 判官贔屓現象そのものである中世以降量産された義経の物語は史実ではないが、しかし源義経は歴史上の実在の人物である。まったくの神話の中で完結する話ではダメなのであり、感情が憑依するための「歴史的事実」を必要とする。そういう意味では、記紀に描かれたヤマトタケルの物語に事実ではない要素が混入していたとしても、それを理由に日本武尊が架空の人物だったということにはならない。義経物語の多くが史実でないことを理由に、源義経が架空の人物だとはいえないのと同じこと。まぁ義経はジンギスカンになったんだけどさw なってもならなくても、義経の実在はゆるがないよ?w
後世の、完成してしまった判官贔屓ってのは、客観的・中立的で冷静な理性での思考判断を無視し、盲目的・直情的に弱者や敗北者の肩をもつ気持ちのことだが、起源において最初からそうだったということはありえないわけで、弱者・敗北者が実は正しかったという理屈は神話類型の段階ではちゃんと備わっている。歴史的体験の段階では倭建命(やまとたける)だが、これは二つの側面があり、一つには父帝から虐められて辺境に追いやられた(個人的にはそれ史実とは思わないが)のと、あとはただの偶然の不運が原因なので、後述のような深刻なイデオロギー問題がない。二つめには「未完の王権」という形で逆説的に王権のあるべき形を示すことになっていく。後者は雄略天皇以降に回顧されながら形成された「ヤマトタケル観」かもしれないが、ヤマトタケルの再来としての雄略天皇、武烈天皇そして(中略)大化の改新での天智天皇や承久の変での後鳥羽上皇、南北朝の大塔宮護良親王、戊辰戦争での北白川宮などへとつながっていく。前者のイデオロギーというのは皇位の正統性の理論のことだが、それについては後述。
いずれにしろヤマトタケルの段階では貴種流離譚とはいえても、盲目的直情的な衝動としての後世でいう判官贔屓の段階にはまだ成ってない。忍熊王も後世の伝説ではハッピーエンドだから貴種流離譚としては完成しているが、情状酌量の経緯を読むとこれも悪人の出てこない話になっており、古事記の上巻まではまだ判官贔屓の類型にはあたらなさそう。では下巻はどうか。

下巻には一貫したテーマがある
古事記の下巻になるとまた情況というか枠組みがかわる。
一人め、大山守命は地の文では観念的・建前的に悪役認定されてるが、物語の中の歌の解釈では逃されてるようにも読める。
二人め、隼総和気王。古事記は、速総和気王と木梨軽太子という二人をとくに擁護してるようでもある。軽太子と比べると速総和気王は在位中の天皇への反乱だからか、さすがに控えめで、逃亡中の二人の悲哀を歌物語にしてるだけで、必ずしも反乱を正当化しているとは理屈の上ではいえないかもしれない。しかし謀反人の境遇を美しい文学に仕立て上げるのは遠回しの擁護といわれても仕方ない。だから婉曲な表現になるわけで、在位中の現職の天皇(つまり今上陛下)に対する謀反はやはり堂々とストレートには擁護できないのは大日本帝国臣民として当然だろうw 
三人め、墨江中津王。民間伝承まで探しても子孫がみつからないのは目弱王と墨江中津王だけだ。目弱王は7歳で処刑されたので子孫がないのが当然だが、墨江中王についてはもしかしたら俺の探し方が足りないだけかも知れない。この人は他の反乱者たちに比べてあまり同情されてない感じがする。歌物語もない。その理由として、文学方面からの発想だと、女性を騙して(婚約者になりすまして)媾合したという話があるから、女性が多かった語部(かたりべ)の評判が悪かったのか、女性を力で強奪するタイプの男だからロマンチックな歌物語にしづらかったのか、等とも考えられるが、そうではなくて、実は皇位の正統性にかかわる別の問題がある(後述)。もっとも墨江中王の乱では履中天皇の陣営のやりくちも隼人を騙して使い捨てにするなどホメられたものではなく古事記が天皇の側を擁護しているともいいにくい。
四人め、木梨軽太子。速総和気王に比べると「木梨軽太子の変」(「乱」でなく「変」だぞw)は空位(天皇不在)の下での皇族同士の戦いだから、余計な縛りはなく、一貫して「太子」という称号で呼んでることからも安康天皇への皮肉を含んでいるし、文学的にはここが古事記のクライマックスといってもいいぐらい高く評価されていて、それほど古事記は木梨軽太子の物語を美化することに全力を注いでるのだ。
五人め、目弱王。情況的に追い詰められたわけでもないのに自分の意志だけで現職の在位中の天皇に謀反したのは目弱王だけ(暗殺だが)。目弱王の場合、安康天皇が神罰をうけてもおかしくない「悪の天皇」であることが、暗殺されるまでの記述の端々に暗示されている。これも目弱王に対して古事記が好意的だ、といっていいのではないか。
以前からいってる私説として、大山守命の乱・速総別王の乱・墨江中王の乱は無関係に起こったのでなく、一続きの、仁徳王系の正統性をめぐって続発的に起きた「一つの争乱」だと考えている。また目弱王による暗殺は、結果的に木梨軽太子のための報復にもなっていて軽太子の乱と目弱王の乱も安康天皇をめぐる一つの争乱ともいえる。そうすると下巻の5つの乱は実体としては「2つの乱」としてみることができる。2つの乱のうち前の乱を速総和気王、後者を軽太子で代表させれば、古事記(の下巻)は天皇側ではなく反乱側の立場になった書物だという一面すら浮かんでくる。とはいえ、結論を急がず、まずは落ち着いてあらためてながめると、明らかに擁護しているのは隼総別王と軽太子、逆に比較的悪役度が高そうなのは(上巻からだが)多藝志美々命と建波邇夜須王か。両極として2例えらんでみたが、総じて中立的に描いてるといってよいのではないか、と一見いいたくなる。しかし中立性、客観性を強調するのはだいたいの場合、自己の主張をもっともらしくみせるため、という演出であることが多いのではないだろうか。あるいは逆の言い方をするなら、自己の主張が偏りのない中立的で客観的な判定であると信じるがゆえに、全編にわたって中立的表現をしようという衝動が起こるのだともいえよう。伝承の内容の細部が確定していれば演出表現にも限界があるだろうから、文面上の擁護の度合いが内心での好意の度合いと必ずしも一致しないかもしれないがそれはともかく、ここには謀反人の擁護というタブーさえも踏み越えるほどの、何らかの確信をもった主張が読み取れる。
大山守命の乱から始まった争乱は、なぜ墨江中王の乱で終わったのか、大山守命の乱・速総別王の乱には無い特徴、乱を終わらせた原因があり、それが反乱に同情的な人々を興ざめさせたんだろう。今回はそれについて詳しい解説をする時間がないが、要するにそれまでは反乱者の正統性を保証する「あること」が体制側、つまりこの場合は墨江中王と対立していた履中天皇の側に移ってしまったからなのだ。「あること」ってのはこのブログを読んでる人には想像つくかもしれないがちょっと今回は時間がなくて詳しい話ができない。ともかくそうすると允恭宮家には正統性がないことになる(ただし允恭天皇自身は別。その理由は今回は省略)。だから允恭宮家の軽太子は正統な天皇として同情されてるのではなく、冤罪被害者として同情されている。冤罪事件が起こること自体や仇討ちのターゲットとなったこと自体が允恭宮家(具体的には安康天皇)への婉曲な非難にもなっている。

日本的正義の二類型「水戸黄門」と「忠臣蔵」
國體が萬世一系であって王朝交代がないということは、天皇の権威は絶対であり天皇は常に必ず正しいのだと短絡できる。しかし、ナマミの天皇は聖書のような書物でもなければハンコ押し機械でもないわけで、人格と個性をもった人間だ(現人神であることとは矛盾しない)。だから現実には「仏教に洗脳された天皇」だの「儒教に心酔した天皇」だのがぞろそろ実在したわけで、当然ながら「民主主義をうっかり信じちゃった天皇」だの(以下略)という問題が生じる。太平洋戦争で開戦する羽目になるまで国家運営が後手後手になったのは昭和天皇が民主主義の段取りを重んじてたからだし、終戦したのは民主主義の段取りを無視したからできたわけだし、今上陛下が遠回しな言い方しかしないのも民主主義を重んじてるからだろう。でも国民にまかせておけばうまくいくのか? そんなこと当の国民自身どこまで思ってるのか? でも天皇が民主主義だっていってる以上、俺らにはどうにもできない。
御公儀(おかみ)が悪である場合、もしくは悪とまでいえないまでも正しくない(間違ってる)場合、庶民はどうすればいいのか。一つには最初から「上の者」には地位に見合った正義を要求することだが、上の者が目を曇らすことなく真実を見通すには「下の者」の世情に通じていなければならない。だから「上の者」が日頃からお忍びで俺らの身近にいるのだという願望が生まれる。それが文化類型「水戸黄門」だろう。これには仁賢・顕宗の両帝兄弟が庶民に身をやつし長い間、民間に暮らしていたという伝説からの影響も大きいだろう。また継体・安閑・宣化の三帝一家が、質素で貧乏な弱小田舎大名で庶民に近かったという考え方もあったかもしれない(実際には地方貴族でも弱小でもなかったのでこれはあくまで庶民の願望が混ざってる)。水戸黄門が江戸時代以来、現代までいかに根強い人気を誇ってきたかはここではふれない。しかし都合よく水戸黄門みたいな役人や政治家ばかりではない。そこで追い詰められた日本人の選択肢が「赤穂浪士」となる。文化類型としての赤穂浪士であって史実の赤穂事件とは別だから「忠臣蔵」といったほうがいいか。忠臣蔵には権力欲もなければ上昇願望もない。ただ身を捨てて正義を明らかにするだけだ。幕府には建前があるから最終的には謀反という扱いになったけれども、庶民は彼らの「自己犠牲の精神」に喝采し正義として称賛したし、公権力も庶民の行為を弾圧することはできなかった。水戸黄門と忠臣蔵、この二類型は実は別々でない。高貴な人物がお忍びで出歩くことは、もちろんあってもいいのだが、普通じゃないだろう。ところが高貴な人が必ずお忍びでなければならない情況というのもある。謀反に失敗して逃亡、潜伏中の貴公子。あるいは処断され追放刑や流刑になった貴公子。あるいは現在、劣勢ながらも追っ手の大軍と戦っている最中の貴公子。彼らの多くは天皇に背いたのでなく、不正に皇位を狙う悪の皇子と戦って敗れ、裁かれたのだ。彼らの物語が悲劇でなく終わればそれは貴種流離譚として完結するはずだが、南北朝時代には彼らの問題は個々の人生から生じているのではなく、日本全体の、天下国家の倫理の源泉、社会の統合原理にまで直結していた。つまり南朝善玉論を前提にする限り、勝ってる側=今の御公儀(おかみ)は悪で、落人(現に敗けてる人)はみな無前提に正義になる。判官贔屓の起源は実に南朝の勢力が敗北、地方に土着し民間に溶け込んだことから発しているのではないか。
当時の朝廷の公式な歴史観に反してまで『太平記』が読まれ人気を博したのはこのためだったのではないか、そしてこれに先駆けること数百年前に起こったのが記紀に描かれた皇子たちの反乱と、彼らに対する同情心であり、それを書き残した『古事記』である。これは実は天皇の権威をゆるがす一大事でもある。なぜなら南朝伝説の息づく里の庶民は精神的な「錦の御旗」を手にしたことになるからである。これは必ずしも法的に有効である必要はない。天皇がすべての価値の源泉である以上、レゾンデーテルだの実存だのアイデンティティーだのにかかわる問題だからだ。役人だの既存の権力に認定してもらってようやく効力をもつような「偽の錦旗」ではない、法の上の法、真の意味での「錦の御旗」ではないか。万民が天皇と一体であるという境地「一君萬民」の思想がこれだよ、だから楠木正成のような下賤の者でもすべてを超えて後醍醐天皇と一体の瞬間を得ることがある。この意味でなら、太平記は古事記の中世的展開であり、古事記は太平記のプロトタイプだった。
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2応神帝の諸皇子の母系ルーツと陵墓」に続く
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