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百済の朝貢、大山守命の乱

H30年4月23日(月)改稿 H25年10月16日(水)初稿
カミナガヒメの入内
髪長媛(記:髪長比賣)は諸県君氏の娘、この諸県(もろがた)というのは今の宮崎県の南部。古くは日向国というのは今の宮崎県だけでなく鹿児島県も含んでいた。諸県君(もろがたのきみ)というのは『先代旧事本紀』によると景行天皇が九州に御親征の折り、現地のミハカシヒメ(記:美波迦斯毘賣/紀:御刀媛)との間に生まれた豊国別皇子の子孫であるという。このミハカシヒメっていうのは別名「襲之武媛」(そのたけるひめ)といい素性不明で日向に熊襲退治してる景行天皇が突然召し入れたことになってるが、前後の経緯から察するに、熊襲梟帥(くまそたける)の娘で、天皇の命により父を殺した市乾鹿文(いちふかや)と同一人物だろう。書紀では市乾鹿文は父殺しの罪で処刑されたことになっているので、ミハカシヒメは別人とせざるを得なかったんだろう。市乾鹿文の妹、市鹿文(いちかや)がなぜか火国造にされてるが意味がわからない。火国は後世でいえば肥後、これは襲国造の間違いだろう。だから「襲之武媛」(そのたけるひめ)という別名も襲国の梟帥(タケル)という意味で辻褄があってるんで、この姉妹は姉妹ではなくもともと同一人物だろう。だからミハカシヒメと景行天皇との間に生まれた豊国別皇子を、記紀では日向国造の祖といっており、旧事本紀では応神天皇の時、豊国別皇子の孫の「老男」(おいを)という者を日向国造に任じたとあり、これは書紀の応神十一年に出てくる牛諸井(うしもろゐ)と同一人物だろう(後世の系図では老男と牛諸井を親子にしていてその可能性もなくはない)。旧事本紀が国造任命を応神天皇の時としているのはこれにこじつけたのだろう。もとは「襲国造」だったのである。襲国は今の宮崎県北部のことだが、ヤマトタケルの熊襲征伐が完了してからは「諸県」(宮崎県南部)に本拠を移して、宮崎県北部から鹿児島県下まで管轄し、豊国別皇子が生まれてからは「諸県君」と称した。生まれる前や皇子の幼児期は母の襲之武媛(=ミハカシヒメ)が記紀や風土記などによくみられる女性首長として取り仕切ってたんだろう。だから後世の系図類では諸県君も日向国造も同一氏族としている。書紀では景行天皇の時すでに諸県君の一族で泉媛という者と会見したという記事があることから、応神天皇の時の髪長媛と景行天皇の時の泉媛とを同一視することを疑問視する説もあるが、天皇が孫に会ったと思えば問題ないんじゃないかな?
で、この諸県君だが、皇室に近い皇族であるとともに九州きっての大豪族だ。皇族系とはいえ遠隔地の地方豪族から后妃が立つ例は多くない。神功皇后以来、半島との交通が活発化している折り、九州の政治が重要になってきて、諸県君氏の存在感も増していたのではないかと思われ、諸県氏は海の民として瀬戸内海の海上警備と海上輸送を担ったろうが、それだけではない。隼人族の領袖として、近習隼人(ちかつかのはやと)のリクルート(人員の調達確保)も担ったろう。近習隼人は皇族個人につく「ボディーガード兼召使い」で、政治上の機密や個人のプライバシーにも接することがありうるので、忠誠心が篤く純朴で意志が固い人材でなくてはならない。隼人はそこが見込まれたんだろう(ちなみに隼人と熊襲はまったく別の概念)。
紀をみるに大雀皇子は早くから政治に関与していて(現代風にいえば閣僚入りしていて)、髪長媛を見染めたのも大阪でのことでその頃は大阪(当時の言い方では難波)に常駐していたらしい。いうまでもなく大陸や半島からの使者に対しては表玄関であり、海外の物資が荷揚げされるところでもある。
応神天皇が九州の大豪族の娘をあえて大雀皇子に与えたのも政治的な背景があったのではないだろうか。とくに葛城氏との関係では大雀皇子は癒着しすぎて身動きがとれなくなっていくことを予想して、葛城氏を牽制する意味があったと思われる。だからカミナガヒメから生まれた大日下王(おほくさかのみこ)は、思想的にも、また支持勢力からいっても、葛城氏からみて邪魔物になっていき、後々の内乱の火種となっていく…。

国栖
(土蜘蛛との関係など、後日加筆予定)

三韓の朝貢
「朝貢にきた『新羅人』に作らせたのが『百済池』なのだ」ってのは前後つながっていない。この文章はおかしく、途中の言葉が落ちている。紀では高麗人・百済人・任那人・新羅人がきて、彼らに作らせたのが「韓人池」だという。両書照合して察するところ、高麗池・百済池・任那池・新羅池があってそれらの総称が「韓人池」なのであろう。記の文章は単なる誤脱なのか省略表現なのかわからないがとにかく誤解を与える文章になっている。ここで注意すべきはなぜか四者が同時に居合わせていること、これは日本からわざわざ呼びつけたか、もしくは大使館的なものがあって多くの外国人が常駐していたかのいずれかである。農業用の貯水池を作らせたというのは徳川時代に幕府が伊達氏や島津氏に土木工事を課したのを連想させる。ただ、高句麗は任那のような小国と違い大国であるから、ここで見栄を張りたいところ。新羅と百済もお互いに対抗意識があったろう。しかしそこで各国に自由に作らせたら小国任那がいちばん不利になる。そこで武内宿禰が工事の総監督として、あれこれ調整したんだろうが、西川権の説では、各国の担当する池の大きさを厳密に同等にし、三韓平等主義を押し出したのだという。すると、工事規模を国力の小さい任那にあわせたろうから、高句麗にしたらさしたる苦役ではないが、見栄を張る機会を奪われたばかりか百済・新羅のような格下や、それどころか任那ごときゴミとも対等に並ばされるという屈辱だったことになる。(ちなみにこの頃はまだ楽浪郡や帯方郡が健在で、高句麗・百済・新羅の三国抗争が起こる前のことで、三国が倭国ぬきで直接外交することもまだなかった)
西川権の説では、神功皇后は百済だけを偏愛して過剰に恩恵を与えていたが、それでは朝鮮半島の国々をまるく治めることは出来ないと苦々しく思っていた応神天皇は自分の代になってから母后の外交路線を変更したというわけ。だが、俺の説では、百済と日本の国交が開けたのは実際は応神天皇からで、神功皇后の時代には百済はまだきてない。だから神功皇后の百済優遇というのは、実際は応神朝の前半の政策で、応神朝の後期になってから武内宿禰の主導で三韓平等策にきりかわったものと思う。この武内宿禰の方針=「三韓平等政策」は、後々朝鮮半島に大波乱を起こす火種になっていく。
百済池は奈良県広陵町百済にある池(池はあるがちょい検索しただけでは池の名は判明せず)のことだという説や、韓人池は奈良県田原本町(たわらもとちょう)唐古にある唐古池のことだとの説もあるが、どちらもさして確実な根拠のあることではない。広陵町と田原本町は隣り町でここらに4つ並んだ池が昔はあったのかも、とした上で、グーグルマップで見た感じだと、広陵町のが「百済池」だとして、田原本町立平野小学校の西に隣接する池が「新羅池」、田原本警察署の北西200mほどにある池が「高麗池」、唐古池が「任那池」ではないかとも思える。しかし、池は奈良盆地には大小無数にあって、長い間には埋められてしまった池、新しく掘られた池、拡大工事で複数の池がつながり一つになったり、大きな池が埋められて複数の池に分断されたり、いろいろあったろうから今ではどれがどれだかわからないっこないなぁ。どこそこが「なんとかの池」だというのはわたしの妄想で、これ以上は現地在住の郷土史研究家でないとむり(^^;)

百済の朝貢
A)馬
百済が馬をもってきたってのがなぜ大事件かというと、神功皇后以来、新羅は御馬甘(みまかひ)、百済が渡屯家(わたりのみやけ)と定められてきた。渡屯家は紀には高句麗・百済・新羅を「内官家屯倉(うちつみやけ)」としたとあり、新羅の御馬甘は「飼部(みまかひ)」と書いてる。ミヤケというのは要するに皇室の直轄としたということで、貴族の諸氏族に与えないということ。記紀では朝鮮関係に貴族たちが関与してるけれどもあくまで皇室の代官であって領主ではないということだろう。ただ、大陸の文化を吸い上げるストローとしては古くから中華文明に親しんでる百済一国あれば事足りるんで、そうすると新羅の存在意義が薄れる。そこで騎馬文化にかんしてのみは新羅の担当とした。新羅は高句麗との交流が深く、高句麗はいわゆる騎馬民族ではないが、騎馬民族と接してその文化も早くから取り入れていたから、中国から間接的に輸入するよりよかった。しかし百済は新羅の役割も奪い取ろうとしたのだろう。牡牝一対の馬ということは、これは本番ではなくてあくまで見本ではないか?「ほら、新羅の馬より良いでしょう?」というアピール、セールス、宣伝、売り込みなわけだ。だがそういう他人の縄張りを踏み荒らすようなことをすると、新羅だって黙ってるわけにはいかない。新羅も中国の中華文化を直輸入して百済を通さずに日本に送ろうとするわけで、後々自分の首を締めることになっていく。
B)大鏡と横刀
紀では「七枝刀」と「七子鏡」になっている。石上神宮の神宝で有名な「七支刀」だ。書紀は神功皇后の時だとし、古事記は応神天皇の時だとしているのだから、書紀のいう「七枝刀&七子鏡」と古事記のいう「横刀&大鏡」は別のものとも考えられないこともないが、ともに目立って特筆大書されているのだから同一事件とみるのが自然であり、実際同じものとするのが通説のようようだ。だが七枝刀も七子鏡もかなり特異な形状でそれゆえに特筆したのなら、古事記が単に「大鏡と横刀」としか書かないのはおかしくないか? しかも七支刀は湾曲していない直剣に枝がついてるんだが「横刀」という文字には、後世の日本刀のように湾曲した刀ではないかという印象がある。石上神宮の「七支刀」の銘文の泰始四年についてはAD268年説、369年説、468年説の他にもまだあるが、それらの議論の中では宮崎市定の解釈に圧倒的に信憑性を感じる。宮崎の説はAD468年で、倭王興か倭王武の時代だとしていて、興と武の兄弟は通説だと安康天皇か雄略天皇にあたる。わたしは倭の五王についての通説には反対で、倭王興が安康天皇だとも倭王武が雄略天皇だとも思ってないが、神功皇后や応神天皇よりは後の時代の天皇のうち誰かではあるだろう。で、銘文の「泰始四年」については468年説以外にもいくつも説があるが、どれを採ってもわたしが考える神功皇后や応神天皇の時代に当てはまらない。だから「七支刀と七子鏡」は神功皇后の時代でも応神天皇の時代でもあるまい。古事記のいうとおり応神天皇の時代に献上されたのは「大鏡と横刀」であって、「七支刀と七子鏡」ではなかったのである。ちょいと想像をたくましくすれば、応神天皇の時以来、天皇の代替わりには百済から鏡と刀剣を献上するのが習わしになっていたのではないか? そして七代目の時の記念として造られ贈られたのが「七支刀と七子鏡」だったのではないか? 応神天皇から七代目というと雄略天皇になる。が、雄略天皇も七支刀銘文の示す年代にあわない。「応神天皇から七世代」を表わしたものとすると安閑・宣化・欽明の3天皇だがこれも時代があわない。ではいったいどの天皇の時なのかというと、ちょうど「応神天皇から七世代」で年代もぴったりあう天皇が一人いる。それは…(続きは後日に加筆予定)
C)韓鍛・呉服
(後日に加筆予定)

大陸系の二大氏族の帰化
A)秦造
(後日に加筆予定)
B)漢直
(後日に加筆予定)

酒の歴史
(後日加筆予定)

オホヤマモリの乱
(後日加筆予定)
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5息長王朝の由来」に続く
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Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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