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応神天皇はなぜ大雀命(仁徳天皇)を後継に指名しなかったのか

2679年(R1年)年7月3日(水)改稿 H30年6月22日(金)修正 H25年7月17日(水)初稿
2応神帝の諸皇子の母系ルーツと陵墓」から続き

大山守命と大雀命
この質問の意図は、宇治皇子(記:宇遅若郎子)に皇位を譲りたいと思っていたからだという記の解説は説明不足でこれだけだと腑に落ちない。「大雀命の意見が朕と同じである」といったところで、皇位の譲り先は天皇自身が決めることで、大山守命や大雀命が何をいったとてどうにもなるものでもあるまい。
応神天皇には多くの皇子がいたが、その中で有力な後継者候補が大雀命だった。大雀命は他の記事では実際に「太子」と書かれており、この時もすでに「太子」とされていたと考えられる。根鳥・若沼毛二俣・隼別の3皇子はこの時まだ生まれていないか幼すぎて問題外とされた。最年長と思われる額田大中彦と次兄と思われる大山守命が外された理由は不明。単に出来の良し悪しで選ばれただけかもしれないが…。なので実際には大雀命から宇治皇子(記:宇遅若郎子)への「太子の変更」の問題だったのであり、大山守命が有力後継者「三人の中の一人」だったわけではあるまい。ではなぜ大山守命が出てきたのかは後述する。
(※古代日本の「複数太子制」については別のところで詳論する)
応神天皇も年少の宇治皇子に譲ろうと考えていた。ところが、後述するがこの頃、日本には儒教が入ってきており、大雀命と宇治皇子(記:宇遅若郎子)は帰化人の王仁博士を家庭教師につけて『論語』を学んでいるほどだった。儒教では兄をこえて弟が立つのは「長幼の序」を乱す行為であり、礼にかなっていないとされる。従って、大雀命と宇治皇子がもし儒教原理主義者だった場合、最年長の額田大中彦、なんらかの理由で額田大中彦がダメなら次兄の大山守命が太子となるべきと考える可能性が高い。そこでこの二皇子の考えを問いただしたのが今回の謎かけだったというのだが、それなら大雀命一人に問いただせばすむ話なのに、なぜ大山守命まで引っ張りだされたのかというと、それは、大山守命は儒教の存在はしっていただろうが格別信者というわけではない。だから弟が皇位を継ぐことになんら疑問はないはずで、伝統的習慣に従って皇位を辞退するだろうというのが父帝応神天皇の予想だったろう。そうなれば、儒教かぶれの大雀命もまさか兄に皇位を強要することも出来ず、折れて、宇治皇子の立太子に納得せざるをえない。これが応神天皇の計算だったと思われる。こう考えないとなぜ大山守命が同席しているのか説明できない。
ところが、二つの計算違いが起こった。一つは、大山守命が父帝の意図を察知できず、「上の子のほうがかわいい」と答えてしまったこと。「年長の子とより幼い子とではどちらが可愛いか」という質問は、つまり大山守命にも大雀命にもそれぞれすでに二人以上の子供をもっているという前提での質問だろう。普通に考えれば幼い子のほうが可愛いのではないかとも思えるが、知恵が回るようになってきた頃の子供はまた反応が面白くただ可愛いだけの幼児とは異なった愛くるしさがある。どっちが可愛いといってもいずれも一般論ではありうることで正常の範囲から逸脱することではない。確率としては大山守命の子のほうが大雀命の子より年長であり、わんぱくで面白い盛りであるのを父に報告がてら弟にも自慢したいという他愛もない気持ちだったのかもしれない。しかしこのリアクションは父帝を大いにがっかりさせたろう。「こいつは政治家に向かない」と。そこで大雀命が儒教原理主義を発揮して、兄を立てるような発言つまり「わたしも上の子が可愛いと思います」と大山守命に同意したら、父帝の目算はすべておじゃんになってしまい、不穏な空気のまま宇治皇子の立太子を強硬することになったであろう。だがここで第二の計算違いが起こった。記によると大雀命は宇治皇子を後継者にしたいとの父帝の意図を察知したのだといい、紀によると、大雀命は父帝のがっかり顔をみてすべてを察知したことになっているが、さて…? おそらく、父帝の表情から何かおかしいと気づいて「下の子のほうが可愛い」と大山守命とは逆のことを言ってみたまでのことであり、本当に宇治皇子の立太子という意図まで気づいていたのかどうかはわからない。しかし、とにもかくにも、大雀命の発言が父帝の立場を救ったわけで、当然「大雀、汝の言葉こそ我が意の通り」と陛下は大喜び。
しかし大雀命が儒教を捨てたわけではないことは後々あきらかになる。儒教はまだこの段階では国教でもなんでもない「外国のちょっと変わった教え」ぐらいにすぎないので、天皇の意志に背く正当な理由にならなかったのである。大雀命は単に「下の子が可愛い」とだけいってるのではなく「上の子は成人してるから安心だが下の子は未成人だから心配だ」という奇妙な言い訳のようなことをいってる。これは逆にいうと上の子も下の子も成人してしまえば条件は同じだともとれるし、未成人で心配な者を天皇にすべき、ともとれる。大雀命がもし父帝の意図を理解したのならこんなへんな話はしないのではないか? 大雀命はともかく「下の子が可愛い」と答えるのが正解だとまでは察知したが、その意図まではサッパリ量りかねていたので、念のため「あくまでこういう意味においては、ってことです」と逃げ道を用意したのだろう。応神天皇からみれば、大雀命に対しても「こいつは何を見当ちがいなことを言ってるんだ?」と思ったはずだが、同時にまた自分自身の情況がみえてないことを自覚して慎重な言葉選びをした大雀命を、大山守命よりは多少は評価したと思われる。

この後、大山守命には「山海之政」(うみやまのまつりごと)が命じられた。同じことを紀には「掌、山川林野」とあり。これはなんのことかというと、応神朝では記紀ともに山守部・海部(紀:海人)を設置とあり、記ではさらに山部・伊勢部の設置があり、これら4つの部民が関係するのは明らかだろう。山部は山林の産物を貢納する部民、海部は海産物を貢納する部民。海部は普通はアマベと訓むが、ウミベまたはワタベと訓んでもさしつかえないと思う。アマベは漁労水産業としての一面が、ワタベは海軍または海上運輸業の面が強調されると思う。山守部というのは山部と同じものとする説や、大山守命の私領地とする説もあるがそうではなく、山林の保守管理をする部。山部は産物を収穫する部で山守部とは別だが、山守部は山部に付属ないし所属していたらしい。伊勢部は伊勢国の海部のことという説があるがそうではなく、磯部・石部・伊西部とも書き、海部の一種。浜辺での産物を担当するだけで通常の海部ほど多角的な活動はしない。山部・山守部・海部・伊勢部はいずれも関東から九州まで全国各地に設定された。
大山守命が任じられたのはこれらを統括するポスト。
この時期にこのようなポストが必要とされたのは、神功皇后以来、半島や大陸との貿易が活発化した結果、輸出品の開発や各地の物資の流通を管理する必要がでてきたからだろう。海洋民や山岳民というのは交易民でもあり物資の流通を担っていた人々でもあった。いわばこのポストは今でいう経済産業大臣であって、極めて重要な地位であったろう。
このポストはおそらくかなりの膨大な事務作業(むろんその多くは下っ端の役人がやるんだがその管理と情況掌握だけでも)忙殺されるポストであって、応神天皇父帝の言葉を表面通り受け取ってしまう大山守命の性格は政治家より堅実で地道な官僚向きだと判断されたのだと思う。
ところでこれによって大山守命は全国の山岳民と海洋民の首領となったともいえるのだが、定住農耕民に比べると、山の民・海の民の文化は保守的因習的土着的であって、容易に大陸の漢文化を受容しなかった。漢文明は定住農耕民を前提とした文化で、狩猟採集の文化は「夷狄」とみなすのでもともと山人・海人にはなじまない。さらにいえば弥生文化の後継者である平野部の農民よりも、はるかに縄文文化を色濃く残していた人々だともいえる。大山守命が自分の使命に忠実に邁進すればするほど、大山守命を「我らが殿様」と仰ぐ人々の利益代表と化していかざるを得ない。三韓征伐以来の大陸文化受容政策に反対する守旧派の頭領に押し上げられていく(この話は次回の「大山守命の乱」に続く)。
大雀命は次期天皇の地位はお召し上げになったが、「食国之政(をすくにのまつりごと)を執りもちて白したまへ」と命ぜられた。紀には「太子を輔け、国事を知らせ」とあり、どちらも宇治太子(=将来の天皇)の補佐というより、摂政に近いようなニュアンスになっている。だがこれは大雀命が天皇になったという事実からの後付けバイアスがかかっている。不当な即位を少しでも合理化したいという気持ちから出た表現だろう。当時はまだ、天皇自身の身の上になんの問題もないにもかかわらずわざわざ実権のない名目上の天皇と、実際に政治を行う摂政に分けるという発想はなかったろう(天皇の身の上に問題がある場合は当然摂政もありうるがここはそのケースに当たっていない)。大雀命がそんなに優秀なら太子に留任させればいいのであって、応神天皇が宇治皇子を太子と定めた以上は、「食国之政」や「知国事」は宇治太子の専権でなければおかしい。
実際には応神天皇が大雀命に期待した仕事は「韓国之政」や「知韓事」つまり「外交」だっと思われる(ちなみに、「食国之政」や「知国事」は「韓国之政」や「知韓事」とあったのを記紀がことさらに改竄したと強弁しなくても、和語の「くに」がそもそも日本列島内部だけをさすとは限らない。「我が国」「この国」といった時、何に対していってるのかによっては、当時は三韓諸国もわが帝国の一部だったのだから。ついでに米国も外務省を国務省っていってるしw)。大雀命は早くから外交に関与していたことは大阪に常駐していたらしいこと、武内宿禰と懇意であること、葛城氏の娘を妃としていたこと等から推測できる。大阪は海外の使節と物資が上陸するところで、検問所のような役所が北九州と別に大阪にもあったろう。武内宿禰は神功皇后の新羅征伐の時の功臣で、当時の三大臣とは、祭祀を担当した烏賊津臣と、軍事を監督した三輪大友主と、内政を総括した武内宿禰だった。この功績により武内宿禰とその後裔は、対外交易を氏族の利権としたが、貿易は莫大な富を生むのでそれを利権とする外務大臣は自ずから大蔵大臣を兼ね、その地位は葛城氏→平群氏→巨勢氏→蘇我氏と世襲されていく。そして大雀命の、未知の情況に対する慎重な態度は、父帝応神天皇の目からみて、半島や大陸の海千山千のスレた外交官や国際商人を相手にするに適していると思われたかもしれない。しかし大雀命の最大のバックボーンとなった葛城氏は、多くの帰化人たちを手下に組み入れ、あまりにも海外の文化に馴染みすぎ、贅を極め財閥化して、庶民の目にはハイカラ趣味ではあっても外国の手先のような存在と映り、国内ではあまり人気がなかった。
図式化していってみれば大山守命の下には守旧派・伝統派・土着派・国粋派の人々が集まり、大雀命の下には開明派・進歩派・漢文派・国際派の人々が集まり、自然と両者の対立の形勢となっていったものと思われるのだ。
(ついでにいうと宇治若郎子が分掌したのは「軍事」だったと思われるがそれについては前章で述べたとおり)
応神天皇
↑小室三兄弟(橋爪・副島・宮台)も実は仲が悪いって副島隆彦が言ってたな。なぜ仲良く出来ないのかw あの世で師匠が怒ってるよw

矢河枝比賣・葛野の歌
(後日加筆予定)

矢河枝比賣・蟹の歌
(※この記事は「楽浪(ささなみ)と楽浪郡」に移動しました)
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楽浪(ささなみ)と楽浪郡」に続く
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