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楽浪(ささなみ)と楽浪郡

2678(令和元)年4月24日(水)改稿
今日は平成30年6月22日(金)、カニの日。古事記にもカニは出てくる。
矢河枝比賣・蟹の歌
この歌は、敦賀からやってきた蟹が木幡まできて美少女と出会ったっていう歌なんだが、難解な句が多く、古来から学者同士でも議論がある。

まず、「蟹が酷い道(=敦賀から近江を経由する道)をやってきた」という前半と「我(天皇)がスイスイ歩いていったら木幡で美少女と会ったよ」っていう後半をどうつなげて解釈するかで説がわかれる。
小学館の日本古典文学全集の古事記(つまり荻原浅男だな)は「この歌の中の『ワ(我)』は表面的には蟹のことだが裏の意味では応神天皇で、二重性をもたせた『ワ(我)』だ」という。つまり「我(蟹)が敦賀から近江を経由してやってきて木幡で美少女と会ったよ」という意味と「我(天皇)が敦賀から近江を経由してやってきて木幡で美少女と会ったよ」という意味が二重になった歌だと。土橋寛(つちはしゆたか)は「蟹が難儀して歩くような酷い道を我(天皇)がスイスイと難なく歩いていくと木幡で美少女にあったよ」と解釈する説。つまり前半は天皇の歩く「道」を修飾している部分。蟹が陸あるいたらちょっとした凸凹でも難儀するだろうから、あまり難儀な道の喩えとしてどうなのかと思うが、この問題は後の方で自然消滅する(後述)。
一つの完結した作品として鑑賞する場合は、普通はこの土橋説か荻原説、どっちかの説で問題ないかのように思われる。多少の矛盾は「そこは文学なんで」。

だがそこで終わらせたら学者の仕事はなくなってしまうんで、いくらか踏み込んで議論してる説がある。
武田祐吉は、「蟹は北からきたのに、大和から佐々那美(ささなみ、近江の西南部)へ向かう道(佐々那美遅(ささなみぢ、ササナミ路)の途中で木幡の道で、というのは前半と後半のつづき具合がおかしい、前半の蟹の歌は「かづき息づき」までで、後半は大和から佐々那美へ行く途中木幡で少女にあうという別の歌であって、それに蟹の歌の一部が結びついて歌われたんだろう」という説。つまり武田は佐々那美遅(ささなみぢ)を「大和から佐々那美へ向かって行く道」と解釈している。佐々那美は神功皇后が忍熊王の乱を鎮圧するところでは「沙々那美」と書かれている。風土記逸文では「細浪」、万葉集では「楽浪」とも書かれている。今のどこなのかはいろんな言われ方があって正確な範囲ははっきりしないが、近江の南部または南西部だとも、志賀郡のあたりともいう。
この武田説に対し、岩波文学大系の古事記(つまり倉野憲司だな)は「土橋説も武田説も物語に即して解釈しようとするから矛盾があるようにみえるんで、この歌を物語と切り離せば、『難儀な道だが俺様(蟹)が難なく歩いていくと少女にあった』という歌で、自然な歌として難なくとける」という。「宴席における一般的な祝言の歌が特定の物語(=応神天皇の物語)に結び付けられたために多少の矛盾が生じた」のだと。こういう倉野憲司みたいな説は学者ウケするんで、おそらく通説になってるんだろう。だが一般的な歌を特定の物語に結びつけたというのなら、伝承化する前の段階で「創作」だった段階があるはずで、それなら伝承者を僭称する創作者がもっとちゃんと矛盾なく作り込んだんじゃないのか。そういう疑問に配慮せず、物語を事実として具体的な政治的事件にむすびつけず物語構造の問題に回収してしまう議論と同様、歌を成立の経緯で解体して文学性を不当に低減させる議論ではないかと思われる。

「ササナミ路」とはどの道?
この歌、前半と後半のつづき具合がおかしいというのは、蟹が北からきてるのに、天皇は大和から近江に向かっていて、方向が逆だからなんだが、天皇の歩いている方向は二つの根拠から判断されてる。一つは歌の中の「シナダユフ ササナミヂ」(しなだゆふ 佐々那美路)という句、もう一つは古事記の地の文で「近淡海国に越え幸(いでま)す時」と説明があるから。

まず佐々那美は既述のごとく近江の西南部をいう地名というのが通説で、いま便宜的に通説を前提として話をすすめる。「佐々那美路」は「佐々那美の中を通ってる道」という解釈でも十分に許容範囲だとは思うが、普通に解釈すれば「佐々那美に向かって行く道」というのが語感的に自然。だから、大抵の学者は宇治や木幡のあたりから近江に続く道と判断してる。ただ、上述の荻原浅男の説では蟹と天皇は二重写しの存在で、歩いたコースも同じだから、荻原一人だけは「湖西の古道。湖南の佐々那美に通じる道」としている。岩波の日本思想大系の古事記(佐伯有清かな)は、「佐々那美路を湖西の古道とするとシナダユフがその地勢にあわないから、宇治から佐々那美にぬける道」とするのが正しいだろうとして、荻原説を否定している。

佐々那美路を修飾しているシナダユフという言葉について、本居宣長はシナは坂道、タユフは「たゆたふ」の意だといい、武田祐吉はシナは「級」で、段のある、高低のある意。ダユフは不明としつつも一案としてダは田、ユフは「結う」。シナダユフとは高低があって段のある田が連続している意ではないかと自信なさげにいってる。武田の方がちと苦しいが、荻原浅男は武田寄りの解釈でシナは階級、階段。シナダユフで高低のある意という。佐伯有清は、シナは高低のあるもので「坂道だ」として武田説を統合しつつもはっきり宣長支持、タユフについても宣長寄りで「たゆみ」「たゆたひ」と同根として‏いる。こまけぇことはさておけば実質問題ここまではどの説でも大差ないのだが、ただ、佐伯はタユフは「疲れ滞る意だ」と付け加えている。それで「しなだゆふ佐々那美路」とは、荻原説だと単に高低のある道ってだけのことにすぎないが、佐伯説では「歩き疲れて進まなくなるような坂道」なのである。おそらく荻原は高低があっても緩やかなもので、湖西の平原でもあてはまると考えているのだろうが、佐伯説だとそれだと「シナダユフという形容が地勢からいってあわない」、だから湖西の道ではなく宇治から近江にぬける道のことだ、となる。ここまで説明してきてこんなこというのもアレだが、以上の学者の議論はあまり水準が高いとはいえない。ほとんどコジツケの感があり、こんな手法でいいなら、なんとでも無限にいえるんだが。こういう憶測だらけの議論はわれわれアマチュアの古代史ごっこに任せてだな、学者は誠実に「語義未詳」で済ませとくのが学問的態度だぞw 「語義未詳」で終わらせると金返せって文句いわれるだろうから素人を喜ばす芸の一つも見せたくなるだろうが、そこをぐっと堪えるのも学者の矜持だろうよ。シナダユフの俺の解釈は後回しにするが、ただ、ここまでの議論をみる限り、宣長から佐伯までみな適当な思いつきのようなことを言っており、天皇の歩いた方向を決定づけるような根拠になるとはぜんぜん思えない。ついでにいうとシナダユフが語義未詳となると「酷い道、難儀する道」という解釈が消えるので、土橋寛の「蟹が難儀して歩くような酷い道を我(天皇)がスイスイと難なく歩いていくと木幡で美少女にあったよ」という解釈は「蟹がやってきた道を我(天皇)も歩いていったら木幡で美少女にあったよ」となり酷い道なのにスイスイ歩いたってニュアンスは消え、「目の前に料理として出された蟹、この蟹が歩いた道なんだなぁ」という感慨だけに変わる。
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このほうがいいだろう、酷い道の喩えに「蟹が難儀する」ってのは前述のようにへんだもの。

もう一つの根拠、古事記の地の文で「近淡海国に越え幸(いでま)しし時」と説明がある。だから大和から近江に向かう途中なのだ、というのだが、これは成り立たない。日本書紀でも、近江に行幸したとあり、その時に通り道の宇治で詠んだ「国の秀も見ゆ」も出てくる。だが書紀はそれっきりで終わり、蟹の歌がない。古事記は続けて「木幡に到りませる時」として蟹の歌の話になるので、うっかりすると「大和→宇治→木幡→近江」というコースを脳内に描いてしまい、すべて近江への往路と思ってしまうが、本当にそうか? 書紀によれば「近江行幸」が本務のはずだが。和邇氏の姫とのお見合いが真の目的だから近江には形だけちょこっと入っただけだという説は採れない。都によびつければ済むんだからw 応神天皇のバックボーン、息長氏の本拠ってことや、少年時代の敦賀行幸のことなどを考えても、お見合いが本題だったかお見合いはあくまでオマケだったかに関わらず、近江行幸はそれとしてきっちりやったに決まってるだろう、わざわざ行ったんだから。当然、琵琶湖一周ぐらいしたろ。そしたら、宇治での「国の秀も見ゆ」の時は往路だとしても、木幡での蟹は帰路だったってこともありうるんでないのカニ? こうなると、学界では少数派のような印象のある荻原説&土橋説が全俺の中で脚光を浴びてくる、つまり蟹の歩いてきた方向と天皇の歩いてきた方向が一致してるわけよ。だから武田説のように前半と後半とで矛盾してるとは思わないし、倉野説のように二つの別々の歌をくっつけたんだと考える必要もない。

じゃ、荻原説が正しかったのかというと、それで終わる話でもない。土橋説では蟹は道の険阻をいうための喩えとして出てくるので、天皇とは関係ないが、荻原説では蟹と天皇は同一行動をとっているのでいわば同一存在。ところが歌の途中で突然カイツブリ(鳰鳥)にも喩えられている。カイツブリのように水に潜ったり息つぎしたり、というのだ。荻原は「蟹の生態としては奇妙だから海人(あま)の動作を蟹に投影したんだろう」と言ってるが、なんでそんなものを投影しなければならんのか? 倉野は息をつくのが主で潜るのは軽く添えただけというが、それならカイツブリもってくるのはおかしくないか、文学表現として意味がわからない。どうも蟹とカイツブリは別の何かではないか? 蟹はイチヂ島、ミ島に到着したと詠ってるが、この島はどの学者も不明としている。荻原浅男は「竹生島や沖島ではあるまい」というが薄々そう思ってるから出た言葉で、島というからにはそれぐらいしかない。

イチヂ島は市杵島姫のイチキ島や厳島と同じく「斎(いつ)く島」(神を祀ってる島)「著しく神聖な島」の意で、ミ島(御島)はその言い換え、具体的には竹生島や沖島や多景島を想定されてるんだろうが、浦島伝説の蓬莱島のような架空の島であり、海底異界である「わたつみの宮」(竜宮城)を海上の島に見立てたもの。蟹はそこまでしか行ってない。そこでカイツブリが潜ったり息継ぎしたりってのは、海底の竜宮城に行こうとして潜るんだが、竜宮城は島として海上にあるので潜ったつもりが同時に頭が海面に出てしまうという空間の歪みの表現でもある。海外の神話では脱皮を繰り返して成長していく生命力から蟹を成長を司る水の精とみなされていたが、日本でも『古語拾遺』に掃守連(かにもりのむらじ)の祖天忍人命が、豊玉姫に鵜萱葺不合命が産まれた際に、産室にいた蟹を箒で追い払ったという。なぜそんなところに蟹がいたのか神話では不明だが、蟹は出産を終えた豊玉姫本人の姿で、箒というのは掃除の道具ではなく、玉串(お祓い棒)のような神官が祭祀で使う神具(実際には木の枝)であり、「追い払った」のではなく「お祓いをした」んだろう。豊玉姫は蟹じゃなくてワニじゃなかったか、というだろうが、ワニの正体についてはいろんな説があって爬虫類の鰐とは限らない。豊玉姫の場合はどれが正しいというのでもなく、鰐でもあり鮫でもあり海蛇でもあり亀でもあり龍でもある、海の精霊のようなものであって、具体的な生物学的な意味でのなんらかの生物という話ではない。蟹座の蟹も古い時代のエジプトでは甲虫(スカラベ)、シュメールやインドでは蟹でもあり亀でもあったし、縄文土器では月を兎や蛙であらわす。中国では兎は雨期に亀となり亀は乾期に兎となるという言い伝えがあり、兎と蝦蟇と蟹はすべて月の精として同一だった。これらの生き物は神話上の概念としてはどれも互換可能な同一の精霊、生命を育む水の精霊をあらわしているのである。国つ神がドラゴンや蛇など爬虫類であらわされるのに対し、本智和気皇子の鵠(くぐい)やヤマトタケルの白鳥のように、天つ神や皇族男子は様々な鳥をシンボルとしている。浦島太郎の物語では乙姫の正体は亀で、浦島太郎は鶴に変身してしまう。浦島太郎の物語の元型が海幸山幸の神話だから、豊玉姫のワニとセットで山幸彦もなんらかの鳥でありうる。つまり蟹とカイツブリは豊玉姫と山幸彦の物語を暗喩しており、同時に矢河枝比賣と応神天皇を暗示している。蟹とカイツブリが出会うイチヂ島は架空の竜宮城的な存在だから、文学的に(ご都合主義的に)実質どこをさしてるかはなんとでもいえるが、明らかにこの歌は「木幡での宴席は竜宮城のように楽しく夢のような世界だ」といっており、カイツブリと蟹の喩えは天皇自身と矢河江比賣をさしている。

「シナダユフ」の新解釈
で、蟹とカイツブリ(鳰鳥)が揃ったところでシナダユフが出てくる。似た言葉に「級照るや」(しなてるや)という言葉がありこれは「鳰の湖」(にほのうみ、琵琶湖の別名)にかかる枕詞。琵琶湖を「鳰の湖」というのは野洲郡邇保郷の「邇保」からきたらしい。今の近江八幡市の「十王町」と同市内で隣接する「江頭」のいずれかもしくは両地をあわせたあたりらしい。もっとも、琵琶湖を「鳰の湖」というのは中世から起こったことで古代には無かったことといわれるが、記録がないから無かったというのは学問的ではあっても、絶対の根拠でもない。「級照るや」とシナダユフ、無関係ですますには似すぎてないか? 関係あるとすれば、もともと「鳰鳥」がすでにシナダユフを導き出す縁語だったんだろう。もしくは「息づき」に続いてすぐシナダユフなのだから、「息」と「シナ」が関係ありそう。岩波日本書紀の「級長戸辺命」(しなとべのみこと)の注釈みると「シは息とか風のことでナは長い、シナは息長の意」とあるから、息とシナが縁語であるのは間違いない。また「トはツの訛りで変化しやすい音」ともあり。シナダユフのシナダはシナトの意味(もしくは訛り、もしくは古形)で「風」の意だろう(あるいは風の古語か雅名)。ユフがわからないが、第一案として「呼ぶ」かな。シナダユフは「風をよぶ」の意味。第二案として、万葉時代の「通ふ」(かよふ)の東国方言「かゆふ」の意か。これだとシナダユフは「風かよう」の意味。第三案として、「寄る」に継続反復の助動詞「ふ」が付いた「寄らふ」が縮まって「寄ふ」になって「ユフ」に訛ったか、ユラフに訛ってからユフに縮まったか。正確にはユフがもともとの形で、後世(奈良朝)の文法だとヨラフになるってことだろう。そんな文法ないというのは反論として無効。国語学の射程は奈良時代までしかフォローできないので、奈良時代にすでに文法違いの古語になっていた言葉は国語学の理論では解釈できない。で、ユフが「寄らふ」と同義だとすると「段々に近づいてくる、徐々に寄ってくる」の意だから、シナダユフは「風が(息が)徐々に近づいてくる」の意味となる。これ何のことかと思うだろうが、この場合の風というのは単なる風ではなくて、第一に気候のこと、第二に風は風でも西から吹いてくる風、西風のこと。この二つの意味が同じ言葉になるってのは意味わかるよね? 北緯30度以上の地帯では偏西風が吹いてるわけで、古代文明のおもだったところではエジプトとインドを除く全地域に共通の現象。だから、世界各地の神話や習俗、迷信などでは風は西という方角と強く結びついてるのだ。中国では八門八風といって8つの方角から吹いてくる8つの風にそれぞれ名前がついてるが、甲骨文字の段階では4つしかなかった。西から吹く「折風」または「不周風」だけが古い神話に出てくる元祖で、後は後世に付加されたものだ。で、天気予報みてれば誰でもすぐわかることだが、日本では気候は、九州から関西へ、関西から中部、関東へ、というように西から徐々に移動している。つまりだよ、シナダユフ、「風が徐々に寄ってくる」というのは西から徐々に東へ天気が変わってくる、雲が流れてくる現象のことではないのかな。まぁ第二案の「風かよう」でも、風といえば西に決まってるので結果的にほとんど同じであり、第一案の「風をよぶ」でも呼べば近寄ってくるんだからこれも結果的にほとんど同じだが。
「みほどりの かづきいきづき しなだゆふ ささなみぢを」は「鳰鳥が潜ったり息継ぎをしたりしながら近寄ってくる、その息が近寄るという佐々那美の道を」と訳せる。「風が寄ってくる」にしろ「風を呼ぶ」にしろ「風かよう」にしろ、シナダユフという言葉は地形をいうものでは無かった。だから佐伯有清がいうような「地勢にあわない」などということにはならない。

楽浪郡との関係w
問題は、佐々那美という土地がなぜシナダユフ(風を呼ぶ/風かよう/風が寄る)といわれるのか、だが。まず佐々那美は、古事記の中で神功皇后が忍熊王の乱を鎮圧したところでは「沙々那美」と書かれ、『近江国風土記』逸文では「細浪」、『万葉集』では「楽浪」とも書かれる。読みはどれもササナミ。楽浪といえば今の北朝鮮にあった楽浪郡を連想するが、もちろん通説ではそれとこれとは無関係だという。万葉集では楽浪の他にも「神楽浪」とか「神楽声浪」と書かれた例もある。なので「楽」の字でササと読ませるのは、お神楽(かぐら)の合いの手のササ(さぁさぁ?さっさ?)という掛け声からとってるらしい。つまり当て字、文字遊びだ。だから楽浪郡とは関係ないという。地名の語源としては『近江国風土記』逸文では「淡海国者(中略)一名云細波国。所以目前向観湖上之漣漪也」(淡海国は一名を細波国(ささなみのくに)と云ふ。目前に湖上のさざなみを向かい観るゆえなり)とあるが誰でも思いつく言い方で採るにたらない。地名研究の方では海ではなく山並み、山地の地形からきてるらしいがこれもどうだろうねぇ…?
シナは風とか息のことだと岩波の日本書紀の注にあるのは前述の通り(この注釈は大野晋だろうな)。するとシナダユフは息をする、息継ぎをするの意でもありうる。「鳰鳥の かづき息づき」という句がシナダユフを導き出す縁語になってるんだから、ここは「カイツブリが潜ったり息継ぎしたりするように、息継ぎして発するササという声と同じ地名のササナミへの道」と訳せる。掛詞(かけことば)の序詞(じょことば)になってるわけだ。

ここで終わりにしてもいいのだが、普通すぎてつまらんなw オマケに俺の説、つまりは通説に反するネタを投下してみようw
実は佐々那美の地は楽浪郡とも縁浅からぬ土地柄なのである。佐々那美=滋賀郡には大友氏・三津氏・穴太(あなほ)氏・錦部氏などの帰化人系の氏族が住んでいた。これらの諸氏族は共通して後漢の献帝の子孫と自称しており、要するに東漢(やまとのあや)氏の同族である。東漢氏は大和国高市郡の檜前に本拠があったが、これは朝廷にお仕えする都合上、中央の都に移住したわけで、もともとは近江の滋賀郡にいたんだろう。日本では漢の字を「中国」の意味で訓読する場合はアヤと読む。これは「楽浪」の朝鮮語読みからきている。朝鮮語で「楽浪」は [lak-lang] と [ak-lang] の2種類の発音があり、李丙燾の有名な説では原住民語のアラという地名に中国人が漢字をあてたのが「楽浪」で、アは中央、ラは国土を意味する語尾だという。辰韓人が楽浪人を阿残とよぶのも「我が残りの人」という意味ではなく「阿良(アラ)の残賊」の意味だとも。そうすると、どうもアラってのは北朝鮮の原住民が「中国/中原」という漢字語を自民族の言葉に意訳して作った造語っぽいな。中国人も原住民が中国をアラと呼んでることを認識した上で、占領地を統治する出先機関を楽浪郡(アラ=中国)と名付けた。GHQが日本を占領してBeikoku州に改名するようなもんだな。で、東漢氏は楽浪郡に長くいて任那の阿羅(弁韓の安邪国)を経由してきたけれども、(自称だけかもしれんがともかく)後漢の献帝の子孫なわけで、アイデンティティーとしては朝鮮人ではなく中国人なわけだ。楽浪からやってきた漢氏の集団が住んでたからその地も「楽浪」と呼ばれたんであって、ずっと後になってから訓読してササナミという地名を作り出したんだろう。

で、これで終わりでもいいんだが、もうちょいゴリ押ししてみようw
何が気になるって、楽浪の読み方2つ、アラとササナミがあるうちの、ササナミの中にアラが含まれてる。朝鮮語では「徐羅伐」を「徐那伐」と書いたりするようにラ行とナ行が音通で交代しやすい。だからササナミも元はササラミだったかもしれんよ? 分解すれば「ササ・アラ・ミ」。もしかしたらササナミってのは近江の楽浪を訓読みしてできたんじゃなくて、もともと本家本元の楽浪郡のことじゃあるまいか? ササはサキ(先/前)の意で中国の出先機関だから「ササ・アラ」か、もしくはササは細かい・小さいの意だから中国本土の「大中国」に対して楽浪郡はそのミニ版「小中国」だから「ササ・アラ」か。ミは「ササラ海」で琵琶湖のことか、もしくは楽浪郡は中国に見(まみ)える、中国が見えるから「ササラ見」か。漢字文献の記録はあくまで記録上のもので、原住民の言葉を反映していない。高句麗は原住民の言葉ではコウクリじゃなくて「コマ」、百済もヒャクサイじゃなくて「クダラ」、モンゴル時代には北京は「カンバリク」、泉州は「ザイトン」だったけど漢文で記録するとそれはわからなくなる。中国の文献だけじゃいくら調べても百済の読みがクダラで高句麗がコマだとは絶対にわからない。記録上は「倭」でも、倭人たちは「ヤマト」と発音してたんであって自分たちが「ワ」だとは思ってなかった。中国では異民族と国境を接する郡は「辺郡」といって、事実上の植民地であって中国人と異民族が混在していた。そういうところでは、中国人が認識する漢字語の地名とは別に原住民語の地名が並行しただろう。だから楽浪郡の時代に、原住民語で楽浪郡を「ササナミの国/ササラミの国」と言ってたってことも絶対ないともいえないのではないか。

いや、百歩譲って楽浪郡がササナミだったとしても、朝鮮原住民の言葉が日本語なのはおかしくないか? というツッコミもあるだろう。だが、それが実はおかしくない。それについては2通りの考え方ができる。(以下、後日に執筆予定)
なお、6月22日は「ボーリングの日」でもあるのでこの動画をどうぞw↓

百済の朝貢、大山守命の乱」に続く
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Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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