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・沈没した神仙島の謎【前編】~夷洲・亶洲をめぐる大冒険~

2679(R1)・4・23 TUE 改稿
今日、平成30年6月23日(土)は沖縄慰霊の日だというのでツイッターみたら左翼がはりきってるなぁ。左翼のほうがネトウヨより声がでかいのは珍しい。ウヨからするといろいろネタがある中の一つにすぎないから意欲がさほど湧かないんだろうけど左翼の特徴の一つでイベント性が重視されるので(「この日だけはここに集まれ」みたいな意識)、瞬間風速的な「一点突破」みたいのでは左翼が勝つことがありますw まぁそんな話はこのブログとは基本的に関係ないのでさておいて、沖縄の話だが。古事記には沖縄は出てこないので、直接には関係ないわけだけど、柳田國男とか折口信夫といった民俗学者が何度も訪沖して、日本古代の社会や文化を考える材料にしてきた。そういう流れで「古事記」にまつわる研究でも沖縄の久高島に伝わる神事、イザイホーをとりあげたものもあって、このブログでも記事にしたことがありました、そういえば。(「イザイホーhttps://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-72.html)。そういうわけで今回は沖縄を入口にして古代史の話をしよう。
日本側からみた沖縄 ~「掖玖」とはどこか?~
古事記には出てこないといったが、日本書紀では推古二十四年(AD616)に掖玖人30人が来て定住したとあり、この掖玖人(やくひと)の「掖玖」を今の屋久島のことだと通説ではいうのだが、なぜ種子島をさしおいて屋久島だけ登場するのか? あるいは種子島と屋久島をあわせて「掖玖」といってるのか? 下野敏見は「いろいろおかしい」といって考察を加えた結果「掖玖」を南西諸島の総称だとした上で、「掖玖」はもともと屋久島のことだったのだが屋久島が重要な島だったので西南諸島の総称になったと中途半端なことをいっておる。以下に述べるように他の島と併記されてるのだから一概に総称だとも決められないように思うがどうだろう?
AD657(斉明三年)に覩貨邏人(とからひと)が漂流したため「海見嶋」(あまみしま)を経由して来朝。この覩貨邏人とは、丸山二郎は南西諸島のトカラ列島とする説、岩波版日本書紀の注(井上光貞?)はタイの吐和羅(ドヴァラヴァティ)とする説、竹内理三はビルマの驃国とする説だが、どれも古い説で、今では中央アジアのバクトリアの吐火羅(トハリスタン=大夏)だというのが通説になっていると思う。ともかくこの時点で「海見嶋」(あまみしま、今の奄美大島)が認識されてるのだから、そこより手前の吐噶喇列島・屋久島・種子島は当然しられていたはずだ。しかし記録には「掖玖」だけが先行し、吐噶喇列島も種子島もこの段階では出てこないのはどういうわけか?「掖玖」は屋久島ではなくて、人口も国力も大きな「別の島」のことじゃないのか?
AD677(天武六年)に多禰島人等(たねしまのひとら)を饗応したとあり、多禰島は今の種子島だろうからこれが種子島の初登場。多禰島人「等」とあるから複数で、種子島の他いくつかの島人の意味だろうから、少なくとも「奄美大島・吐噶喇列島・屋久島」の人々が含まれていたはずだが、それなら先行してメジャーな「掖玖」が代表になって「掖玖島人等」と記述されそうだが? つまり「等」の中に「掖玖」は含まれなかったと考えるのが妥当だろう。しかし種子島にもっとも近い屋久島を含まずして「種子島など複数の島々」という海域は想定しにくい。つまり「掖玖」は屋久島ではなくて、もっと南の別の島ではないのか?
AD682(天武十一年)に、多禰人・掖玖人・阿麻彌人それぞれに禄を賜るとあり。通説では種子島の住民・屋久島の住民・奄美大島の住民のことだが、吐噶喇列島が無視されてるのは微細な島々で人口が少なかったか、もしくは無人島だったんだろうか。さっきから言ってるように掖玖というは今の屋久島でないとすれば、ここでいう「多禰」というのは種子島だけでなく屋久島も含んでいるということだろう。現に、のちに多褹国司が設置された時は「多褹国」の名の下に今の屋久島も含まれていた。
AD698(文武二年)文忌寸博士(ふみのいみき・はかせ、博士というのは人名)が南島に派遣され、翌699年(文武三年)に多褹・掖玖・菴美・度感等人が役人に連れられて来て土地の産物を献納し、官位や禄を賜っている。度感島との交通はこの時が始めてという。度感島は今の徳之島という説と吐噶喇列島(の宝島)という説とがある。掖玖を今の沖縄本島とした場合、徳之島に上陸せずとも奄美大島から沖縄へ航海することはできるし、吐噶喇列島に上陸せずとも種子島や屋久島から奄美大島へ航海することは可能だから、どちらにせよAD699年になって始めて「度感島」の住民がきたというのは別に不自然ではない。
大宝二年(AD702)多褹国司が創設された。能満郡(のまぐん)・熊毛郡・馭謨郡(ごむぐん)・益救郡(やくぐん)の4郡からなり、前2郡が今の種子島、後2郡が今の屋久島ということになっていて、すでに知られていたはずの吐噶喇列島や奄美大島が含まれてない。その理由がいまいちピンとこないんだが? その4郡の中に奄美大島も含まれてるんじゃないの?
和銅七年(AD714)奄美・信覚および球美等の嶋人52人がやってきた。信覚は今の石垣島、球美は今の久米島というが、沖縄本島が未登場なのに久米島や、はるか先の石垣島が出てくるのはおかしくないか?これより前の段階で、沖縄本島は別の名ですでに登場してるのではないか?
『唐大和上東征伝』によると天平勝宝五年(AD779)鑑真が「阿児奈波」に漂着したとあり、これがのちに訛って沖縄になったんだろう。「阿」の字は推古遺文など古い例ではアでなくオにあてる用法がある。「児」(兒)は何かキ音をあらわす別の字の誤写(忌貴几鬼其只癸など、どれもありうるが鬼の字が近いかな?)。とすれば「阿鬼奈波」はオキナハと読める。吉川弘文館の『日本史地図』ではオキナワとルビがあるが、同書の昔の版ではオチナハになっていた。「児」をチと読むのはウチナーグチとかなのかな? ネットではむりしてオコナワとルビふってるやつがいるが1字だけ訓読みもおかしいだろ。
天長元年(AD824)多褹国が廃止になり大隅国に合併された時、能満郡も熊毛郡に合併吸収され、益救郡は馭謨郡に合併されて、熊毛郡(種子島)と馭謨郡(屋久島)の2郡体制になったとされている。しかしそれなら屋久島は益救郡という名前になるのが普通だろうに、おかしくないか? 昇曙夢の『大奄美史』ではもともと熊毛郡は種子島のこと、馭謨郡は屋久島のことで、能満郡と益救郡はそれより南の島々のことだったとしている。これが正解だろう。おそらく能満郡が奄美大島、益救郡が沖縄本島だったが、この2郡は書類上の企画段階に留まり、実現する前に多褹国自体が廃止になったってことじゃないのか。
つまり日本書紀や続日本紀にでてくる「掖玖」ってのは屋久島じゃなくて沖縄のことではないだろうか?

中国からみた沖縄 ~「琉球」とはどこか?~
琉球は『里見八犬伝』に「『琉』と『球』の2つの玉」って話がでてくるが、もちろん作り話で、『隋書』流求国伝に「流求」とあるのが最初。その他には流虬、留休とか流求とか留仇とか書かれたので「琉」も「球」も当て字だとわかる。新唐書には流鬼とも。宋代には「幽求」、元代には「瑠求」とも書いた例がある。吉川弘文館の『世界史地図』では隋代の「流求」も唐代の「瑠求」もハッキリと今の台湾の位置に書かれているが、不正確でたいへんよろしくない。隋唐の頃の「流求」については沖縄説と台湾説があって公式には論争は決着していないことになっている。が、ネットであれこれ読んでみたぶんには、沖縄説のほうが良さげだなw ただ、議論が混迷する原因としてもともとの史料が沖縄と台湾を混同していたという指摘もあって、その混同した認識が歴史上の概念になってるのなら、沖縄と台湾を分ける意味が薄いようにも思える。隋唐の頃には沖縄か台湾のいずれだったにせよ、宋元の頃には情報が混乱してきて、沖縄も台湾もごっちゃに含めて漠然と「流求」「幽求」「瑠求」などと呼んでいた。明代には沖縄に建国された新王国が公式に「琉球」を名乗ったため、ようやく「沖縄を大琉球、台湾を小琉球」として区別するようになったという。だが、その頃には今の台湾はすでに「台員・大員・大円・台湾・大湾」等と呼ばれていて江南の沿岸の辺民には認識されていたので、「沖縄と混同されていた」というのはずいぶんとまた妙な話じゃないか? だから混同されていたのではなく、沖縄も台湾も含む広大な範囲がもともと琉球だったのではないの? まぁ、そこらのことはずっと後の新しい時代になってからの謎だから、このブログでは時間を惜しんで謎解きはせず、すっとばしていこう。

「琉球」と「掖玖」の関係
『隋書』流求国伝によると大業三年(AD607)、煬帝は朱寛に命じて東海の異俗を探らせ、朱寛は流求国にいたり国人を拉致してきた。翌大業四年(AD608)流求は国交を拒絶、朱寛は「布甲」(鎧の類い)を持ち帰ったが、それをたまたま来朝していた倭国使に確認したところ倭国使は「これは『夷邪久国』の人が用いている物です」と答えた。隋書には明記がないが前後の流れからしてその時の倭国使は蘇因高(小野妹子)で間違いない。この「夷邪久国」というのは日本書紀でいう「掖玖」と同じものだろうから、書紀では推古二十四年(AD616)が「掖玖」の初登場だが、大業四年(AD608)の段階でもすでに日本人は「掖玖」(=夷邪久)をよく知っていた(「邪久」の前についてる「夷」の字については後述)。そののち(大業四年=AD608より後)煬帝は再度流求を討伐し、流求国の王宮を焼き数千人を捕虜にした。中国を統一した隋が勢力を外に広げようとした一環が流求侵略であり、これを大業四年(AD608)に知った日本も西南諸島を防衛線として意識せざるをえなくなり、推古二十四年(AD616)から始まり天長元年(AD824)多褹国廃止で終わる200年間に渡る南方政策の歴史となる。国内を統一した中国は強大な敵がなければ四方を侵略して膨張政策をとる。日本からすると、日本と中国は朝鮮を通る「北の道」と琉球を経由する「南の道」とでつながっているのであって、統一帝国の登場によって日本はただちにこの「二つの道」を警戒しなければならなくなる。これは地政学的パワーバランスという端的な「事実」だから、時代を超えて何度もくりかえす。現在の日本が置かれている環境も…。いや、やめておこうw
さて、日本書紀の「掖玖」は他の島々との併記ででてくるから一見したところ沖縄本島をさしているようにも思ってしまうが、沖縄本島には「阿鬼奈波島」という固有名がある。本来は「掖玖」は西南諸島の総称だが、必然的にその中心たる沖縄本島も含まれるので、周囲の島々は詳細を明らかにするために名を列記されるが沖縄本島の島名(阿鬼奈波)は略されるのが通例になっていたんだろう。この「夷邪久」を屋久島のことだと決めつけて日中間(倭隋間)のカン違いだといってるブログがあったがそうではなく、日本語のヤク(掖玖=夷邪久)は沖縄を中心とした西南諸島のことだろうから、結局、中国からいう「流求」と日本からいうヤク(掖玖=夷邪久)はまったく同一地名で、中国語か日本語かの違いにすぎない。実は中国語の流求と日本語のヤクは語源も同じらしいのだがそれについては後述する。

「夷洲」は台湾ではない?
隋より前の、南北朝時代には沖縄も台湾も知られていなかった。というか記録にない。が、三国志には「夷洲・澶洲」(いしゅう・たんしゅう)というのが出てきて、このうち夷洲というのが台湾だという説があるから、その後、隋代に再発見されるまで中国からは忘れられていたということになる。「夷洲・澶洲」というのは三国志の呉の孫権が、征服しようとして海軍を差し向けたが敗北、失敗したという島。これがまた邪馬台国の時代の日中外交と絡んで面白い話に展開するんだがそれは後回しとして、ともかく「夷洲」が今の台湾だというのが定説で、「澶洲」については諸説があったが(詳しくは後述)、今は種子島だとする説が最有力。

「夷洲」の「洲」の字は朱崖とならべて書かれる場合はなぜか氵が取れて「州」になるが、夷州という行政区画があるわけでなく、「洲」の字で書かれる方が多い。「洲」の字は「島」のことだが、なぜ「夷島」「澶島」じゃないのか? 氵なしの「州」の字にニュアンスを通わせたい意図があったのか、はたまた「洲」の字までが音写なのか? また「澶洲」の「澶」の字も氵なしの「亶」と書かれることもあるが、書き分けの法則性がなさそうなのでどっちでもいいんだろう。氵の有無で字書では微妙に意味が違うが、今回の場合は地名であり指すところに違いはない。「亶」が正しいならわざわざ氵つける意味がわからないから一見「亶」は略字にも思えるが、他の氵のついてる字についていえば、意味もなく不規則に略されるなんて聞いたことがない。人偏にはそういうのよくあるが…。後世の中国で「亶」の方がメジャーになったのは中国国内に「澶州」という行政区画ができて紛らわしかったんだろう。こっちの「澶州」は「澶淵の盟」という世界史用語で有名。だがそれはずっと後の時代になってからのこと。「澶」の氵は「洲」の字に釣られたかしてもともと間違いの可能性もある。なお、「澶」はセン、「亶」はタンと読まれる傾向があるが、正しくはどっちの字にもセン、タン両方の読み方がある。このブログでは「亶」でなく「澶」と書くことにするが、必ずしも「亶」が間違いで「澶」が正しいというわけでもない。

通説どおり「澶洲」が種子島だとすると、「夷洲」=台湾との間に存在している沖縄がすっとばされるわけで、これはちょっと不自然ではないかな? それで後述の「澶洲」沖縄説も出てくるわけだが、仮に「澶洲」が種子島で確定して動かせないのならば、「夷洲」の方を沖縄にもってこれないか?
「夷洲」については『三国志』呉志の孫権伝の他に、同時代の呉の武将沈瑩(しんえい)が著した『臨海水土志』がある。Wikipediaはこの両書をあげ「これらの場合の夷洲は台湾島の特徴に合致する。またこのような島嶼は中国南部の沿岸には台湾島以外に見当らないため、この時代には中国文明が台湾を認識していたと考えられている」と断言しているが無茶だぞこれ。確かに『臨海水土志』の中には後世の台湾先住民と共通する話もあるが、『隋書』流求国伝とも似ている。隋唐の琉球については沖縄説、台湾説、両者の混同説があるのは前述の通り。当時の記述のうち無前提で台湾か沖縄か断定できる記述などぜんぜん存在せず、比較のしようもないのに何が「台湾島の特徴に合致する」だ、アホじゃないのか。辰国と真番を同一視して「辰国錦江流域説」を唱えたことで有名な市村瓚次郎っていう大昔の学者が、「夷洲台湾説」の元祖でもあるんだが、おかしなことに『臨海水土志』には「夷洲は臨海郡の東南、二千里」とある。当時の臨海郡は今の温州と寧波の中間あたりで今も臨海という地名が残ってる。地図みればわかるが、そこから東南へ二千里だとズバリ沖縄本島、もしくは沖縄本島と宮古島の間を少し抜けるぐらいじゃんよ。誤差を考えても沖縄とするのが妥当じゃないだろうか(方角8分法だから22度30分の広がりがある)。台湾だと方角は東南ではなく真南になるし、二千里というには台湾は近すぎる。この二千里じゃ距離があわないってのは台湾説を唱えた市村瓚次郎本人が自分で認めてるんだよ(「東洋学報」1918所載『唐以前の福建及び台湾に就いて』を確認済み)。根拠あやふやな説が、さして疑問ももたれずいまだに継承されてるんじゃないのかと疑われる。だが、俺は「夷洲に台湾を含まない」といいたいわけでもない。西南諸島の西南端として台湾北部が認識されていた可能性は当然あるだろうし、なんなら台湾全島が含まれてもなんら差し支えない。隋唐の頃ですら根本史料が沖縄と台湾を混同していたなら、それより数百年前の『臨海水土志』の一部情報が沖縄と台湾を混同していてもおかしくないだろう。

「東鯷人」
「夷洲」は三国時代になって初めて登場する地名だが、それより古い時代となると「東鯷人」(とうていひと)というのがあり、『漢書』地理志の呉地条に「会稽海外、東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ」と出ている。『後漢書』東夷伝にもほぼ同文があるが、これは漢書からの孫引きだから史料的な価値は低い。ちなみに「東鯷人」の読みはトウテイジンじゃなくてトウテイヒトな。倭人もワジンじゃなくてワヒト。筑摩文庫の正史三国志は「倭人」に「わひと」と正しくルビがふってある。さすがだなw 岩波文庫の『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』の注釈には「鯷」の字はナマズだ、とあり。昔、これ読んで東シナ海に巨大なナマズが泳いでる怪獣映画みたいなシーンが浮かんで秘境ロマンな気分になったのを思い出す。
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さて、海洋冒険伝奇ロマンな気分になったところで話をすすめようw 三国時代以降にも「東鯷」とか「鯷海」という表現が詩文にはあるから、後漢代を通じて東鯷人・東鯷海・東鯷国などの概念が行われたことは確実と思われる。「東」の字は青海省の「西傾山」との対語で、詩的表現における東西軸の世界観になってる。もともと世界への夢想を含んでいた言葉だといえる。ある意味「東のはて」というニュアンスかな。

なぜ西傾山が「西のはて」なのか
西傾山というのは青海省河南モンゴル自治県(青海湖の東南東、百数十キロ)に実在する山で、東南から西北に向かって斜面になってるので(傾斜しているので?)「西傾山」という名がついたらしい。この頃の中国人の世界認識では西域(中央アジア)も天竺(インド)も大秦国(ローマ帝国)も知っていたので、当然「西傾山」が西のはてだと本心から思っていたわけではない。にもかかわらず、詩文では東のはてを表わす「東鯷」とセットで象徴的に西のはてを表わす言葉として使われている。なぜか? 同じ青海省には古代民族「月氏」が居住していたという祁連山もあり、その西のとなり東トルキスタンには神話上の世界の中心である「崑崙山」の名をとってつけられた「崑崙山脈」もあり、特に崑崙山は西のはてに住む女神「西王母」がいるとされる。象徴的、文学的な意味での「西のはて」だから実際に西のはてでなくてもいいのだが、それなら「崑崙山」をもってきて「西崑」とか「西崙」とかいえばいいのではないかと一見、思われる。「西傾山」にはそれっぽい神話もないし、「傾」の一文字だけで「地のはて」という意味を表わすこともできない。しかし、普通、詩文で「山」のつかない「西傾」の2文字だと、太陽や月が西に傾くことで、日没、夕日、月の入り、等を表わすことが多い。天の川を別名「傾河」ともいうのは天の川が明け方に西の方に傾くからだともいう。壮大な話だよなw このことから「西傾」という言葉のニュアンスは理解はできるが、これだけでは崑崙山を差し置いてまで「西のはて」の代名詞になった理由とは考えにくい。
実は三国志の頃は「西傾山」のあたりは中国の領土でなく氐(てい)や羌(きょう)というチベット系の強盛な民族がいて、そのほぼ真東に百数十キロメートルのところに、魏の隴西郡と蜀の陰平郡との国境があった。氐や羌はある時は魏について蜀と戦い、またある時は蜀の味方となって魏を攻めた。つまり「西傾山」は三国志の登場人物にとっては「もっとも西の戦場」なのである。
するとそれと対になってる「東鯷」も三国志の登場人物にとっての「もっとも東の戦場」のことと察せられる。

岩波文庫の『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』はナマズ説しか出してないが、ネットみてたらナマズという意味の他にカタクチイワシの意味があるという。確かに漢和辞典で確認したらそうなってる。カタクチイワシなんて魚は知らんかったが、イワシの一種で「ヒシコ」、「シコ」、「ヒシコイワシ」ともいい、シラスはほとんどこれの稚魚でウナギの稚魚より多いらしい。ウナギだとばかり思ってたわw で、カタクチイワシは九州と韓国の周辺海域にしか生息しないから東鯷人は九州だって説をいってるサイトがあったが、Wikipediaには「西部太平洋に生息し、樺太南部から本州の日本海・太平洋岸、台湾・広東省まで分布する」って書いてるぞ。岩波文庫はナマズ説だがよく考えたら淡水魚じゃん、ちょっと海という状況にそぐわないんじゃないか?(和田清かな?) おかしいと思って念のため諸橋轍次大漢和全十三巻で確認したところ「ひしこ」(=カタクチイワシ)の意味で使うのは日本での話でもともとの漢字の意味じゃないw 道理で岩波文庫の注釈にはナマズ説しか出てないわけだw ネットみてたら中国語の字書サイトでもカタクチイワシの意味があがってるので騙されてたわw ちなみに中国語では「鯷」の字に「鮎」だとあるがこれは中国語でナマズ。日本ではアユの意味に使ったのでわざわざ「鯰」という字を創作した。いわゆる「国字」というやつ。しかし今では中国語でも「鯰」の字を輸入して「鯰」と「鮎」両方ともナマズの意味で使ってる。中国は自国の文化に関するものでも日本からの輸入癖がある。文化大革命以後、一切の文化は無くなってしまって現在あるのはその後に日本や台湾から逆輸入(もしくは丸パクリ)してるのばかり。字書のネタ元も諸橋轍次大漢和を粗雑にパクってるだけじゃあるまいね? 諸橋轍次大漢和の凡例として日本独自の意味を示す「国」の記号の意味を、データ打ち込んでた若い中国人プログラマーに理解できず機械翻訳でそのまま書いちゃったんだろう。おそらく今後、未来の中国人は日本での独自の意味だと知らず「鯷」はカタクチイワシだと信じていくことになる…。そうして自国の古典漢文も正しく解釈できなくなっていく…。そんなこたいいとして、なぜ淡水魚であるナマズの名がついているのか、あいかわらず大きな不審点ではある。他の意味ないのかもっと調べてみたら、「鯷」「鮧」「鮷」「䱱」 は相互に異体字だという。それならこの4字は発音も意味も同じはずだが、字書の説明ではやはり微妙に意味の範疇がちがう。

 [魚是] 
音:テイ・ダイ・シ・ジ 意味:なまず、大なまず、[国:ひしこ]

 [魚弟]
音:テイ・ダイ 意味:大なまず
(中国語サイトでは「大」ナマズではなく、普通のナマズ。あとネット字書」ではスケソウが追加されてる)

 [魚夷]
音:テイ・ダイ 意味:大なまず
音:シ・ジ 意味:なまず(江東語)
音:イ 意味:しおから、「鯸鮧」(こうい)でフグ(鯸だけでもフグ)、「鮧鯊」(いさ)でフカ(鯊だけだとハゼ)
(どの音に対応するか不明だがネット字書ではエソ(これも魚の一種)が追加されている)

 [魚帝]
音:テイ・ダイ 意味:なまず、サンショウウオ、黒魚
音:テイ・タイ 意味:大鱧(この「鱧」は日本でいうハモのことではなく、大ナマズ、ヤツメウナギ、ウナギ等のことらしい)


※「鯷」の字の音について「東鯷人」と熟した場合のみだが、『漢書』地理志の音注に
・孟康曰音題晉灼曰音鞮師古曰孟音是也
・孟康曰く音『題』、晉灼曰く音『鞮』。師古曰く孟の音、是也。
・孟康の説では音は『題』(ダイ)、晉灼の説では音は『鞮』(テイ)。顔師古がいうには孟康の説(ダイ)が正しい。
とあるが、これを日本語で「東テイ人」でなく「東ダイ人」と読め、との意味では必ずしもない。当時の中国語の発音の推定音価は古い説ではあるが藤堂漢和(初版)によると
「題」…上古音:deg 中古音:dei
「鞮」…上古音:ter 中古音:tei
「鯷」…上古音:deg/der 中古音:dei
となってるから、この音注の意味はt音でなくd音で読めということらしい。上記の字書によるかぎり、ダイかテイかでは意味は変わらないので習慣どおり一応「東テイ人」と読むことにする。また顔師古は唐代の人なのでその説が正しいとも限らない。

こうしてみると、ナマズと大ナマズの違いがいまいち不鮮明だが、ともかくナマズ・大ナマズの意味だけが共通しているので、その意味の場合、相互に異体字だが、ナマズ以外の意味の場合は別の字ってことなのか? 異体字だとしてならべてみると、旁の部分の「是」「弟」「帝」はどれも同じ「テイ」の音を表しているのが明らかだが「夷」だけ異質にみえる。しかし篆書だと「弟」と「夷」は字体が紛らわしいので混同されたという説が大昔からある。もしそうなら、「鮧」は本来はイで「しおから・ふぐ・ふか」だったのに、「鮷」と混同されたがゆえに後からテイ・ダイという音と「大なまず」の意味が生じたことになる。だがそれだけではシ・ジの音が説明できない。その音は「是」を旁にもつ「鯷」の字のものだ。「鮷」の字が介在してはじめて「鮧」の字に「鯷」の音と意味がくっついたのか? ここで注目すべきは「鮧」がシ・ジの音で読まれナマズの意味をもつのは「江東語」つまり揚州の方言だとある。揚州は呉越の地、会稽を含む揚子江下流域のこと。ズバリ東鯷人と接触していた地域じゃないか。もしや東鯷人のことを現地では東鮧人といってたのか? だとするとなぜ中央では「鯷」の字にかえたのか? 「テイ」の音は「夷・鮧」を「弟・鮷」に誤記したから派生したんで元は「イ」だ、とは決められない。東鮧人が元でそれをまず東鮷人に誤ったのだとまではわかるとしても、それが今度は東鯷人に書き換えられた理由がわからない。あるいは現地では東鮧人と書いて東テイ人と呼んでいたので、中央の文人は鮧の字をテイと読むのを誤りと感じて「鯷」に修正したんだろうか。だとすると「東イ人(夷・鮧)ではない東テイ人」とはなんなのか? 音の問題さえなければ、「鮧」は「夷洲」の「夷」だから「東鯷人=東鮧人=東夷人=東夷=東夷洲=夷洲」でぜんぶ同じもの、で解決なんだろうが、問題は現地では「夷洲」をイ洲でなくテイ洲と呼んでいた可能性があることだ。その意味は是洲? 弟洲? 帝洲? 東夷も東テイと読むとするとその意味は東是? 東弟? 東帝? 「夷」や「弟」をわざわざ「是」に書き換える意味はなさそうだが、「帝」の字はあからさまに不穏当だな…。元は「東帝人」「帝洲」だったりして…? だんだん思考が危険水域に入ってきたかw
危険水域といえばだ、この岩波文庫の『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』は何がヤバいって、初版本だと参考文献の中に『日韓正宗遡源』が混ざっててあらららと思ったもんだが、新訂版では案の定削除されとったって話w この話を当時八幡書店の社員だった原田実氏に話したらあっという間に契丹古伝復刻版の解説に書かれてしまったのも良い思い出よ。
…なんて話はさておいて、穏当な議論に話題をかえようw 東鯷人の二十余国を魏志倭人伝の国名しかわからない偏旁二十国のことだという説もあるが、さすがに原資料の出所が違うだろう。で、まずは一応、夷洲と切り離して考えるとして、この東鯷人というのは会稽の海外なのだから、ちょい考える分には台湾か沖縄のいずれしかないと思われる。しかし五島列島を初めとする九州西部から東シナ海を渡って直接に江南地方と交流するコースもあったろうから、九州も考慮に入れられないこともなかろう。「二十余国」という字づらからは西南諸島の主だった島々が種子島から台湾の北端まで沖縄中心に20島が点々と連なっている様子が浮かぶ。しかしそれなら「二十余国」ではなく「二十余島」となりそうだが。この国々が地上で隣接してるなら、台湾が「二十余国」に分かれているということか? あるいはごっちゃに西南諸島の約10島と台湾各地の約10地域をあわせて「二十余国」なのか。ちなみに九州のうち、朝鮮の方が近すぎて直接に東シナ海を渡ることのありそうもない北部や東部を除いて、会稽郡まで行きそうなエリアを島ごとにあげると、五島列島・済州島・甑島・天草諸島・諫早半島(肥前三半島)、これに西南諸島とのつながりで薩摩半島・大隅半島を加えて7島。自然地理学の分類をしてるのではないから半島も中国への海に突き出ていれば島と同等のエリアとしてよい。西南諸島は種子島・屋久島・宝島・奄美・喜界島・沖縄・久米島・徳之島・沖永良部・宮古島・石垣島・西表島の12島、台湾も入れれば合計で20島。これでどや? 九州まで入れるのはどうかって声もありそうだが、前述のごとく「東鯷」には「東のはて」のニュアンスがあり、中国では歴代正史の注釈家たちも日本のことだという解釈が多い。要するに実体がどうこうではなく当時の中国人からどうみえていたかという問題だ。

地名語源
「琉球」の語源についてはネットで検索したら5つか6つ出てきたが、その中で興味を引くのは、ヤク(掖玖=夷邪久)が琉球の語源だという説で、それぞれ論証の仕方は違うが2,3人いた。「流・留」は隋唐の頃は[lieu]に近い発音だったらしい。子音を落とせば[ieu]、「ヤ」は開けば「イア」になる。が、これだけではちょっと恣意的で強引に聞こえるかもしれない。だが、琉球の語源説でもう一つ、検索してたらもとは「魚(うよ)の国」と言い、次第にウヨノク→ユークーへと変化して琉球の字を当てるようになったという説に出くわしたw 魚(うよ)ってのは琉球弁なのかな? 古語では「ウヲ」とも「イヲ」ともいうし、隋書に「夷邪久」とあり、夷の字も音写の一部とするとヤクは古くは「イヤク」だったことになるがこれはイアクからヤクへの移行過程の音。ゆえに初期に魚を「イウ」といった段階が想定できればイウク→イアク→ヤク(掖玖)という流れと、イウク→ユークー→ルークー(流求)、またはイウクに子音[l]がついてリウクー(流求)という流れが想定できる。そしてこの説のもう一つの魅力は、「魚の国」ってところ。「東鯷人」ももとは「鯷」が国名だろう。原住民が現地語で「魚の国」といったので、中国人は魚偏の「鯷」(もとは「鮧」か「鮷」か「䱱」?)で表わした。

おまけ:屋久島の古名は「コロ島」だった
「ヤク」は沖縄本島を中心とする琉球諸島全体の名前であって、もともとは屋久島のことでは無かったという前提からすると、屋久島を馭謨郡(ごむぐん)というのは、つまり屋久島の本来の名が「馭謨島」(ごむじま)だったという可能性を強く示唆する。しかしこの名はいろいろ不自然だ。第一に、濁音から始まる言葉は日本の古語としてかなりおかしい。この地名は「○○ごむ」だったのを和銅六年(713)の「好字二字令」で地名の前半が略されたのではないだろうか。あるいは「謨馭」(むご)だったのを誤って転倒したか。第二に、「謨」の字は呉音でモだが、どうしてここではムと読まれてるのか? ムは土地の訛り(?)で、モが正しいんじゃないのか。
これを解決するために古史古伝の登場だw 正しくは「超古代文献」なw そろそろこれ出さないと「金かえせ」って言われかねないからなw いわゆる古史古伝の一つである『神道原典』によると太古、九州の南にもう一つ「ツクシ島」というのがあり面積は九州の約2倍もあったという。普通は「ツクシ島」といえば今の九州のことだから『神道原典』の独自用語の「ツクシ島」とは混同しないように注意しなければならない。で、約8千200年前にツクシ島は沈没したが、その残りが屋久島で、当初は屋久島という名ではなく「オノコロ島」と称したという。ふと気づいたことに、馭謨郡の「馭」の字の読みはゴでいいが、オノゴロ島を古事記が「淤能碁呂島」と書くところ、書紀は「磤馭慮島」と書いており、やはりゴの音の当て字に使っている。むろん巨大な島が沈没したとか古事記の淤能碁呂島が屋久島にあったとかの与太噺を真に受ける必要はないが、屋久島の名前については興味深い情報ではある。一方『ウエツフミ』にはイザナギノミコトが大八洲を生んだ後で、大八洲とは別に、アメノヤスノカワラ(天之安之河原)のアマツマサゴ(天津真砂)を蒔いたところ8つの島が出来たといい、その8島の中の一つが「コロシマ」でその名を「イクツフキ」という、とあり。名前が2つあるのは、古事記で「隠岐島をオシコロワケという」等とあるのと同じで、イクツフキというのは神としての名だろうから、地名としては「コロ島」でよい。吾郷清彦はこのコロ島をインド洋及び東インド諸島のことだとし、田中勝也は今のどこだかわからないとしているが、『神道原典』をヒントにすれば屋久島のことではないだろうか。
「謨」の字を「髏・龍・蠟・轤・録」等のロと読む字の崩し字と誤ったとすると、屋久島のもとの名はゴム島(馭謨島)ではなくゴロ島であり、『ウエツフミ』のコロ島とほぼ同名。『神道原典』のオノコロ島の前半が落ちたものとも考えられる。またM音とN音は相通じ相互に転訛する例があるから、『神道原典』のいうオノコロ島は記紀の淤能碁呂島とは無関係で、元はオモコロだったのがオノコロに訛った可能性もある。馭謨が「謨馭」の転倒だったとするとモゴと読める。これは「オモゴロ」略して「モゴロ」といってたのを好字二字令により表記上は一字落として「謨馭」と書いていたものの、読みはモゴロのままだったのだろう(旧国名や旧郡名に例がある)。

琉球&沖縄についてのまとめ
以上まとめると、第一に日本からみた場合『日本書紀』や『続日本紀』で「掖玖」といってるのは今の屋久島のことではなく、沖縄のこと、もしくは沖縄を中心とした西南諸島のことである。「掖玖」が特定の島々の名と並んでてくる時は「それ以外の(沖縄を中心とするすべての)島々」という意味。第二に中国からみた場合、隋唐以降の「琉球」はすべて今の台湾のことではなく、沖縄を中心とする西南諸島のことである。「琉球」にはその西端部として台湾も含みうるが、台湾が中心なのではない。そして第三に「掖玖」も「琉球」も同一語源から出ている同じ言葉と考えられる。

「夷洲」は本当に固有名詞なのか?
ところで台湾にせよ沖縄にせよ「夷洲」という名には違和感を覚えないだろうか? 「夷」の字は東夷諸民族の総称だろう。固有名詞にふさわしくないような気がする。イヤクの頭音に「夷」の字を使うのも同じ意味で音写文字としてやや不適切な感じ。だからここは「夷洲であるところの邪久」という意味と「イヤクの音写としての夷邪久」を二重にした文字表記であるか、または「夷洲邪久国」(夷洲の邪久国)とあったのに洲の字が抜けたか、はたまた邪久の右肩に小さく夷洲と注があったのが本文に紛れ込んだかしたのだろう。いずれにしろ大業四年(AD608)の段階の段階ではかつて「夷洲」と呼ばれていたという過去は確定した知識だから夷の字にとやかくもなかったのはわかる。しかしそのずっと前の三国時代に「夷洲」と呼ばれたのはどういうわけだろう? 中央の知識人階級にとっては「東鯷」「東鯷国」「東鯷洲」「鯷」「鯷国」「鯷洲」でもよかったろうが、これは中国人からの名で本人たちの自称ではないので、実際に彼らと交易していた江南の辺民は彼らの自称「ヤク」に近い音でよんでいたのではないだろうか? 例えば「イヤク・イアク・イウク等の音写の頭音「イ」に「夷」の字を当てたんだ」といっても成り立たないこともないが、その場合「夷」でなく別の文字が当て字に選ばれた可能性が高いと思う。やはり音写文字に「夷」の字は違和感がある。大胆な発想だが「夷洲」とは実は「易洲」の誤記が定着してしまったものではないだろうか? 「夷」と「易」は音読みが同じ「イ」(中古音 [i] または [yi] )で、「平坦ででこぼこがない」等の同じ意味も共有している。それでもし「夷洲」が誤りで「易洲」が正しかったとすると、易の字はもう一つ別の音をもつ。漢音「エキ」呉音「ヤク」、意味は「変える・変わる」。そしたら「易洲」というのも「ヤク」(魚の国)の音写ってことになるだろう。まぁ「イヤク・イアク・イウク等の音写の頭音「イ」に「夷」の字を当てたんだ」という説にもし説得力があるなら最初から「易」の字には出る幕はないが。「東鯷」も「夷洲」も、「東夷」の字義からしてかなり広漠な東夷の島々を指す普通名詞と考えられるが、発音からすると「東テイ人」または「テイ洲」という音で呼ばれる固有名詞的な概念があったかもしれない。「夷洲」(東夷の島々)は観念上のものだが、現実の島は具体的にそれぞれ固有性をもっており、「テイ」(是?弟?帝?)の島々もあれば「ヤク」(掖玖=琉球=易洲)の島々もあり、さらに「澶洲」もあり、それ以外の島々もあったわけだろう。

東鯷人は「東鯣人」だった?
さて、鯷の字に「鮧」という異体字があったことから、「東鯷人=東鮧人=東夷人=東夷=東夷洲=夷洲」で東鯷人は夷洲のことだと思われるわけだが、夷洲がもし易洲の誤りだというなら東鯷人ももしかしたら東「鮧」人ではなく東「鯣」人だったのではないか、とすぐ思いつく。誰でも思うよな?w 「鯣」の字はスルメのことだけどこの字をスルメの意味に使うのは例によって日本人だけで古代中国でそんな意味はない。この字はウナギで、「鱺鯣」と2文字でいうこともある。そこでこの「鱺」の字を調べたら意味は「大ナマズ」だと。ウナギを意味する文字はまだあり 「鯣」と似たくさい字で「鰑」という字もあり、こっちはウナギの他にライギョの意味もある。ウナギの意味として「鱺なり」という引用がある。どうやら鱺は大ナマズだけでなくウナギの意味もあるらしい。「鰑」の字についてはさらに「鱺一作鱧或作鰑」とあり、鱺と鱧と鰑は同じ意味でどれを書いてもいいようだが、ウナギの意味の場合だけなのかウナギでも大ナマズでも共通なのか判然としない。しかしウナギの意味に限定しても「鱺鯣鰑鱧」の4文字はどれもイコールなのはわかった。ところで「鱧」の字には先程の見覚えがあるだろう、上述の「䱱」の字のところで「大鱧」のことだとあった。「鱧」の大きいのが「䱱」で、逆にいえば「䱱」の小さいのが「鱧」だといってる。「鱺鯣鰑鱧」の4字に共通した意味はウナギで、「鯷鮷鮧䱱」の4字に共通した意味はナマズ。そうしてみるとここでいってる「大小」の比較というのは「太いか細いか」ってことをいってるらしい。これつまり「エキ洲(沖縄を中心とする西南諸島)はウナギのように細く、テイ洲(日本列島)はナマズのように太い」ということを示しているのか、あるいはまた「大小」というのは「鯷=鮧」が「大」(東夷の島々、広義の夷洲だからエキ洲もテイ洲も含む)で、「鱧=鯣」が「小」(エキ洲、狭義の夷洲)だということか。

「亶洲」をめぐる論争史
では澶洲はどこなのかw
「夷洲」が沖縄だとすると(あるいは屋久島を含む西南諸島だとしてもよいが)、この場合「澶洲」がどうなるか。ここは呉の孫権がなんとしても探し出そうとして、発見できなかった将軍を二人も処刑したほどの重要地なのだが。古く明代には、朱元璋や陳仁錫によって夷洲も澶洲も日本のことだと考えられていた。漢書地理志に「夷洲、会稽海中にあり歳時を以て来たり貢見すと云ふ」とあり、三国志に「(倭は)その道里を計るにまさに会稽東冶の東に在り」といい、後漢書に「(澶洲の)人民時に会稽に至りて市す。会稽東冶県人、海に入りて流移し澶洲に至る者あり」と。つまり澶洲も倭も、会稽の東方の海上に位置する。どちらも歴史に特筆されるほどの規模をもった国なんだから、中国の歴代正史しか読んでない昔の中国人が「倭国も澶洲も結局同じもの」と考えるのは普通だろう。ただ澶洲のみならず夷洲までも日本のことだとすると、夷洲と澶洲それぞれ日本国内のどこなのかって問題も生ずる。
…ところが、1918年に市村瓚次郎が澶洲は今の海南島だと主張した。海南島が「珠崖郡」一つに統合される前は「珠崖郡・儋耳郡」に分かれていたので儋耳(たんじ)のタンが澶洲(たんしゅう)のタンだという。これに対し1925年、白鳥庫吉が種子島説をだした。三国志では海南島に当てはまる場合はちゃんと「珠崖・夷州(夷洲)」と書かれる例なのだし、漢代に郡があった海南島を発見できずに引き返すなんてのもありえないので、種子島説の方がましだ。ここまでが戦前の流れ。
戦後になって1955年に徐徳麟が、1969年に手塚隆義が、それぞれ澶洲日本説を出して昔ながらの伝統的な解釈が再評価されるかと思われたが、日本説はウケなかった。この場合、問題があるとすればなぜ倭国と明記されないのか、そしてなぜ倭国でなく澶洲という変わった名が新しく出てきたのか。この謎解きは後の方でやるとして、ともかく澶洲が倭国だとすると呉と魏の世界規模の外交戦がみえてくるが、後述するようにBC230年に呉が夷洲と澶洲に出兵したのは魏や蜀の異民族対策と連動したことで、東夷をめぐる魏と呉の世界戦略の対立の一環とみる説がまともだろう。だが、戦後まもない頃は、古代人の世界認識能力を矮小化してみる傾向が学界にもあって、世界戦略を展開するようなダイナミックなデカい話はウケず、古代は万事素朴で質素でしたぁーっていうちまちました歴史観がよしとされた。今でも一部の爺婆はこんな古代史像から抜け出せてないだろ。岡田英弘はルソン島説だがこれはもともと1977年の内田吟風の説(騎馬民族畑の先輩の説そのまま)。ルソン島説は、澶洲の字はセンとも読める(氵つけても無くてもタンとセンの両方の読みがある)のでルソンの「ソン」が澶洲(せんしゅう)のセンだっていうのかな、しかしルソン島説もまた魏と倭の関係を睨んだ呉の東方戦略の話とリンクしない。1984年に江向栄・夏応元が済州島説を出した。この後、1997年に許永璋がインドネシア説を出したがぱっとせず、しばらくの間、種子島説と済州島説は2大有力説であり続けた。その後、種子島のなんとか遺跡から3世紀の中国製の食器だかが出土したとかで、種子島説が一躍最有力説に躍り出たもよう。学界では今はもう「澶洲は種子島」ってことで確定らしい。
なのにWikipediaでは沖縄説が書かれている(ただし出典不明。木村政昭のことかな? 宜野湾市の北谷(ちゃたん)のタンか、恩納村の谷茶(たんちゃ)のタンだっていうのだが、この人は人類の発祥もビッグバーンも沖縄起源と言いかねない人なので以下ry)。このうち海南島説・ルソン島説・インドネシア説は「夷洲が台湾だ」という前提があると思われるので却下してよいが、種子島や済州島だったとしても沖縄を無視した格好になり、台湾との間があきすぎるので、木村政昭が沖縄説を言い出すのも、気持ちはわかる。だがこのブログでは夷洲が広義の夷洲(東夷の島々)と狭義の夷洲(ヤクまたはテイをさす)に分けてみたい。そうすると沖縄は狭義の夷洲のうちヤクに該当するので、澶洲のもっていき先は日本説・種子島説・済州島説しか残らない。種子島説と済州島説は澶洲のタンという音を地名で説明できるが、しかし、どちらも呉が必死になって探すような価値があるとは思えない。済州島説のすぐそばには韓国本土があり、種子島のすぐそばには九州本島がある。経済規模ではるかに大きな地域に隣接してるのに、どうして韓国や九州の情報がなくて済州島や種子島といった特定の小島の情報だけがはるばる伝わるのか? 人間と物資と情報の三者の流通として、そんなことありうるのか? だから普通に考えれば現代の学者よりも、夷洲も澶洲も日本のことだとごく自然に認識してた明代の朱元璋や陳仁錫のセンスの方がまともなんだよ。『隋書』のセンスも同じ。『隋書』倭国伝によると倭国に「秦王国」というのがあり(豊前国京都郡?)そこの人は(習俗や服装が?)中国と同じである、だから(倭国を)夷洲だとしているけど疑わしくそれが本当かどうか明らかにできない、とある。岩波文庫の注釈は「夷洲は台湾のことだからここで疑ってることは正しい」とまたしてもアホな注釈つけてるが、『隋書』が編まれたのは唐代で、その頃までは修史官に任ぜらるほどの文化人なら「夷洲」といえば倭国のことだと一般的に思われていた証拠だろこれ。『隋書』は疑ってるけど、疑った結果なにかが判明した様子もなく、「夷洲=倭国」という認識は「夷洲=日本」となって明代まで続いたわけだよ。
…というと、夷洲も澶洲もごっちゃに日本だっていうのがまともなのかよ、と言われるかもしれない。しかしだよ、もう一度「夷洲」という名をよく考えてみよう。前述の繰り返しになるがこれは「東夷の島」という普通名詞に限りなく近いニュアンス、語感をもつ。固有名詞らしく響かない。東シナ海に浮かぶ島なら、台湾も沖縄も日本も済州島もすべて含まれる。ただ、実際の庶民同士の民間交易では中国からみて自国に近い台湾や沖縄を指していることが多かったろう。そんなこた当たり前で『臨海水土志』の射程が短くても、もって異とするまでもなし。たまたま『臨海水土志』の夷洲が沖縄と台湾(後世の琉球の範囲)を指しているとしても、「そこもまた」夷洲なのである。なんら矛盾しないのだ。東鯷人も同じく、観念上は台湾人も沖縄人も日本人も済州島人も、みな東鯷人なのである。「東夷」なんだから。

◆予告編◆
だが、もちろん話はここで終わりではない。
澶洲が日本だとすると、なぜ『三国志』には澶洲は倭国だと明記されてないのか?
第一に、歴史に詳しい人なら、澶洲が出てくる3世紀には魏vs呉、倭の女王国vs男王国の外交戦があったことが何か関係してるんだろうと想像つくだろうし、第二に、澶洲には徐福伝説もついていて徐福のネタだけで膨大な議論があるw これらの諸問題をそれぞれバラバラに扱ってる書物やサイトはあるが、実は相互に密接にかかわっているのだ。
すべての謎解きは「沈没した神仙島の謎【中編】~魏呉蜀×「邪馬台国vs狗奴国」の外交戦~」に続くw
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