FC2ブログ

☆沈没した神仙島の謎【中編】~魏呉蜀×「邪馬台国vs狗奴国」の外交戦~

神の序章・「下町三山」は徐福の三神山だった!?
nihboriyama203.jpg蓬莱
doukanyama30.jpg方丈
asukayama22.jpg瀛洲
日暮里山(にっぽりやま:画像1枚め)は、古くは「新堀山」(しんぼりやま/にいぼりやま)とよばれた。「日暮里」と当て字されたのは、王維の詩が出典になっている。

「臨高台送黎拾遺」

相送臨高台 相送りて高台(かうだい)に臨み
川原杳何極 川原(せんげん)杳(くら)くして何ぞ極まらん
日暮飛鳥還 日暮れて飛鳥(ひてう)還り
行人去不息 行人(かうじん)去って息(や)すまず

日暮里山は、飛鳥山(あすかやま:画像3枚め)とセットになっていて、この王維の詩の中の「日暮」が新堀山に、「飛鳥」が飛鳥山の当て字に使われてる。その飛鳥山は徐福伝説で有名な熊野新宮の浜王子を勧請したという王子神社に隣接し、アスカ山という地名も、有名な徐福の上陸地として石碑も立っている阿須賀神社から勧請した社があったことによる。道灌山(どうかんやま:画像2枚め)には向陵稲荷神社があるが、もとは当地にあった佐竹氏の屋敷に祀られていた稲荷だという。しかし佐竹氏が邸内にとりこむ以前にも古くから祀られていたのではないか。道灌山の地名は室町時代の太田道灌、あるいは鎌倉時代の関道閑にちなむともいわれるが、コジツケだろう。地名学の通説としては稲荷(とうか)の訛りだと見られるからだ。その起源は古く、道灌山には縄文遺跡も弥生遺跡もあり、その太古悠遠なることが知られる。日暮里山には諏方神社があり、飛鳥山には前述の王子神社があるが、それらが勧請されたのも、もともとその地が聖地として太古から崇められてきたからではないだろうか。
道灌山は、薬草の採集地としても有名で、徐福が探し求めた仙薬の地とはここであろう。日暮里山は特産の名物「谷中生姜」の発祥地でもあり、生姜は漢方で生薬として使われることから、やはり徐福が探した仙薬との線が浮かぶ。大昔は関東の内陸まで海が入り込んでおり、日暮里山・道灌山・飛鳥山は3つの島だったのである。

【補足】
このブログを閲覧された方から、日暮里山も道灌山も区別なくそのへん一帯はすべて道灌山なのではないかと御指摘いただいたので、自分の考えを説明したします。
地名の範囲は時代とともに縮まったり広がったりしながらその範囲が移動することもあり、あるいはまた誤認がそのまま定着してしまった例もある。地名の乱れはこれを正して本に復すべきと考えるか、時代とともに変わっていって良いのだからすでに定着した地名はそのまま放置すべきと思うかは人それぞれ。俺の第一の関心は「古くはどうだったか」ってことであって、現状けしからんから名称を変えろともハラの中では思うしたまにそういうことを煽り半分で主張することもあるがそれはこのブログの第一の主旨ではない。その上で言うのだが、現在では日暮里山の西日暮里公園内に「道灌山」だという表示(案内板)が立っているように、日暮里山も道灌山もごっちゃに混同されている。この案内板のせいだと思うのだが、ほとんどのサイトでは道灌通りの北の山(向陵稲荷や開成高校がある方)も南の山(西日暮里公園や諏方神社がある方)もまとめて道灌山と呼んでいる。なので両方区別なくこのへん一帯がすべて道灌山だという認識は現状それで格別問題ない。
で「古くはどうだったか」って問題だが、現下においても「一帯がすべて道灌山」という認識とは異なる理解も少数ながら存在しており、あるサイトでは「北を日暮里山、南を道灌山」と俺とは逆にして紹介している。また別のサイトでは北を「諏方台」、南を道灌山としている。諏方神社も諏方台通りも無い方を諏方台というのはさすがに間違いだと思うのでこの人が南北を間違えているとすると北が道灌山になる。真相を探るべくネットで検索すると安政三年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では現在の西日暮里4丁目付近に「道灌山」と記されているという情報がいくつも出てくる。が、現在の西日暮里4丁目には向陵稲荷や開成高校がある北の山が含まれ、西日暮里公園や諏方神社のある南の山は西日暮里3丁目であって含まれない。はたして「根岸谷中日暮里豊島辺図」なのか失念してしまったが俺がみた古地図では北の山が「道灌山」、南の山が「日暮里山」と書かれ、はっきり区別されていた。またあるサイトでは南の山を二つに分けてこのうち西日暮里公園を「道灌山」、諏方神社を「ひぐらし山」として区別した上、北山を「日暮里山」だとしている。つまりこの人の認識では道灌山をはさんで日暮里山とひぐらし山が離れて別々にあることになるが、語源からいっても日暮里山とひぐらし山が別の山だなんてことがあるのだろうか? そのサイトでは特に根拠をあげてはいないがおそらく諏方神社の石碑に「新堀山」とあるからだろう(「新堀山」で検索すれば画像と情報がでてくる)。新堀山はいうまでもなく日暮里山と当て字する前の古い表記である。つまりこの人のいう「ひぐらし山」というのは本来の日暮里山そのものに他ならない。上述のごとく道灌山の語源は太田道灌でも関道閑でもなく稲荷山(とうかやま)の訛りであることは地名学的にも動かないと思うので、もし両山を区別するのであれば、向陵稲荷のある北山こそ道灌山であって、これは上記の「根岸谷中日暮里豊島辺図」の認識とも合致する。如何。


今日、平成30年9月28日(金)は台湾の「教師節」なんだって。教師節ってのは孔子の誕生日で、孔子が生まれたBC551年の旧暦八月二十七日をグレゴリオ暦に換算すると9月28日になるらしい。しかし孔子の誕生日は俺の知る限り『公羊伝』がBC552年の十一月庚子日、『穀梁伝』が同年十月庚子日とし、『史記』がBC551年とするだけで日付は不明、これだけのはずだが、『史記』がBC551年としたのは当時は十月から新年が始まる暦があったのでそれだと十月から翌年になるから。普通に正月から年がかわるという切り方でいえば、当然BC552年が正しくBC551年は誤りであって「現在の9月28日」説も根本から成り立たない。いったい「BC551年の八月二十七日」説はどっから湧いて出たんだろう? 

実際の日付を推定するにはどのような暦法を想定するかで計算結果がぜんぜん違ってしまう。例えば『公羊伝』が正しければBC552年の十一月の庚子は十七日で現在の12月25日(クリスマスだなおいw)という説や、十一月の庚子は十五日で現在の10月14日という説がある。また『穀梁伝』が正しければ同年十月の庚子は二十一日で現在の10月3日という説、十月の庚子は二十二日で現在の10月8日という説などがある。

で、キリストの墓や釈迦の墓が日本にあるぐらいなんだから、孔子も日本に来てて良さそうなもんだが、だからこそキリスト釈迦のネタ元の竹内文献では孔子も来てることになってるんだがそれはさておいて、とw まさにそういうことが『漢書』地理志にある。

・然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云

・然して東夷は天性柔順、三方の外と異なる。故に孔子、道行はれざるを悼み、海に桴を設けて九夷に居らんと欲す。所以あるかな。それ樂浪海中に倭人あり、分れて百餘國となす。歳時をもって來たり獻見すと云ふ。

孔子が海を渡って「九夷」に行こうとしたという話のネタ元は『論語』で、子罕篇 第13章に「子欲居九夷」(子、九夷に居らんと欲す)、公冶長篇 第7章に「子曰、道不行、乘桴浮于海」(子いわく、道行われず、桴に乗りて海に浮かばん)とある。

「九夷」というのは時代によって意味がちがう。
『三国志』では東夷伝に倭人を含む7つの民族が出ているがこれを九夷というには2つ足りない。そこで烏桓・鮮卑を加えて9にするか、三韓を3つに数えれば9になる。三韓を一つに数えた場合でも、貊(=高句麗)の他に「小水貊」というものがあり東沃沮の他に「北沃沮」があるといってるので高句麗と沃沮を2つづつに数えれば9になる。後漢の頃の李巡の説では、九夷とは「玄莵、楽浪、高麗、満飾、鳧臾、索家、東屠、倭人、天鄙」だという。ここの「高麗」は高句麗、「索家」(さっか)は蒼海郡(さうかいぐん)で「玄莵(郡)」「高麗」「索家」の3つはほとんど同じ場所を別名で三回だしただけの杜撰なものだ。「満飾」は靺鞨のことという説もあるが靺鞨は7世紀の民族でこんな古くに靺鞨の名はまだないから誤り。正しくは南満洲にあった地名で漢代の遼東郡の文県、『魏略』には「満」とある。今の遼寧省営口市。「鳧臾」(ふゆ)は舟山群島とする説もあるがそうじゃなくて夫餘(ふよ)だろう。「東屠」は烏桓(烏丸)のこと。烏桓は古くは東胡といい、さらに古くは屠何といった。「天鄙」は鮮卑。「倭人」は日本列島の倭人ではなく東屠(烏丸)と天鄙(鮮卑)の間にかかれているんだから満洲にいた倭人だろう。もしくは、日本列島の倭人だとすると韓国あたりが空白になってしまうから、初期の頃は朝鮮半島の住民を倭人といっていたので、その倭人だろう。しかしこの李巡の説は内容が杜撰で正史に書かれた東夷の情報とは食い違いが多く、当時どれだけマトモな説と受け取られていたのか、かなり疑問だ。さらに古くは「畎夷、于夷、方夷、黄夷、白夷、赤夷、玄夷、風夷、陽夷」のことをいったのだという。白だの赤だの観念的な名前なので創作だろうという説もあるが、創作ならもっと色なら色で揃えたはずで、不規則なのはなんらかの実態の反映と思う。やや強引な当てはめやコジツケになりそうだが、ムリにも推定してみると「畎夷」は犬戎、「于夷」(うい)は淮夷、「方夷」は方の字のつく地名が中国にはあちこちあるがこの場合は今の河南省禹州市のあたりにいた民族、「黄夷」は黄国で河南省潢川県にあった国、「白夷」は白狄、「赤夷」は赤狄、「玄夷」は『山海経』に出てくる玄丘之民で後の玄莵郡、「風夷」は山東半島の風姓の諸国、「陽夷」は陽国で山東省沂南県にあった国。ただし方夷と玄夷はなにかの誤字の可能性もありそう。こうしてみると後漢の頃や三国志の頃の九夷とはぜんぜん意味が違う言葉で、東西南北あちこちの異民族のことを言っており、特に「東の民族」に限った言葉ではない。このうち「于夷」(うい)のことを春秋時代には特に「東夷」というようになり、戎狄蛮とともに東西南北に割り振る発想が出てきた。戦国時代には東夷が東方の異民族という意味になったのでそれまでの東夷は「淮夷」と呼ばれるようになった。

したがって孔子の頃の九夷ってのは「東方の」異民族という意味ではないのだ。さらには九夷というのは特定の民族をさす言葉ですらなく、漠然とどこかの異民族ってぐらいの意味。まれに世界史地図で「淮夷」の位置に「九夷」と書いてあるのがあるがあれは間違いだから信じるなよ! まぁ公冶長篇 第7章の方は魯のあたりから近い海、今の連雲港から出航したらだいたい今の韓国の南端に行き着きそう。日本へ行こうとしたって解釈もギリギリできなくもないかもだが、子罕篇 第13章はムリなんで、孔子が日本へ行こうとしたって解釈に「九夷」をもちだすのは『漢書』を編纂した班固の独自解釈(もしくは創作)だぞw ただし、孔子もすったもんだあって結局、日本には来なかったわけだけど、いきさつ上、来なかったってことであって、物理的に来れなかったって意味ではない。だからそれよりずっと後の時代の徐福なんかなおさら日本に来れなかったわけがない。もし来てないとすれば物理的に来れなかったんじゃなくて、そりゃ、孔子と同じでなんらかの理由で意図的に来なかったんだろうなw ちなみに東京で月イチで『論語』の楽しい勉強会もやってるのであなたも一度参加してみませんか、興味あったらお問い合わせください。
※続き物です。必ず【前編】から見て下さい。リンクはこちら↓
沈没した神仙島の謎【前編】~夷洲・亶洲をめぐる大冒険~から続き

「瀛洲・方丈・蓬莱」はどこか?
今回はその徐福の話だよw 前編から引き続いてる「澶洲」の話でもあるんだが、『三国志』では澶洲に徐福の子孫が住み着いてるという珍奇な記事が目につく。
徐福来朝帰化の伝承地は青森県から鹿児島県まで日本各地に夥しくあり、古代史マニアにも大人気で、委細つくして調べあげた研究サイトがネットにはわんさかあるので適当に検索ドゾー。それらの中でも、富士山説は後周(AD951- 960)に書かれた『義楚六帖』に端を発しており最古のもの。紀州熊野説は1368年に絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)という日本の坊さんが明に渡って明の太祖に「熊野に徐福の祠がある」と吹き込んだのが最初。この2説は起源の古さという点で他の諸説より抜きん出ている。また各地の伝承といっても断片的なものや些末なものが多く、他愛もないコジツケで終わってるのもあれば、そうかと思うと富士山説や八丈島説などのように詳細な伝承もあって、落差が大きい。それら諸説のうち、冠絶して詳細なのが佐賀県佐賀市の金立山説(及びその周辺、西の八女市まで含む)で、日本中の徐福伝承地の中から、富士山説・熊野説に加えてこの佐賀説の合わせて3つが、特に注目される。3つといえばアレだよ、アレw 司馬遷の『史記』によると徐福は東方海上の三神山、「瀛洲・方丈・蓬莱」を目指したというw 徐福伝説の佐賀説・熊野説・富士山説の3説が、「瀛洲・方丈・蓬莱」に対応してるように思えてくる。誰でも思えてくるよな?w
kinryusan50.jpg金立山

江戸時代には熊野・熱田・富士を三神山ということが多かったが、これは画題であって具体的に瀛洲・方丈・蓬莱をそれぞれどれかに当てはめたわけではない。似たようなことを考えた人は昔からいたもので、二三例をあげれば、平田篤胤は蓬莱は九州の北、瀛洲は九州の西にあり、この二山は海底の幽郷で現実のものではないとしつつも方丈だけは現実の土地で淡路島のことだとした。『ホツマツタヱ』では瀛洲が琵琶湖の沖島で方丈が仙台あたり。仙台の太白山か栗駒岳かな。船体井上赳夫の説では瀛洲が隠岐島で阿蘇と群馬の浅間山が方丈と蓬莱だったかな? ネット上では「瀛洲が九州で方丈が四国で本州が蓬莱」だという説、「蓬莱は出雲で瀛洲は阿蘇で方丈が富士」という説もみかけた。他にも俺がいま忘れてるだけで大昔からいろいろな説がある。

だが、三神山の伝説は、徐福の頃にはすでにあったもので、徐福がらみで初登場したわけではない。だから、三神山について考察する際には徐福関係の情報にとらわれてはならない。六朝時代に書かれた『十洲記』によると中国からみて蓬莱の方が瀛洲よりいくらか遠く、方丈は東海の真ん中だというから「瀛洲・方丈・蓬莱」の三神山が日本なら、日本を3地方に分けるとしてとりあえず西から順に「九州・近畿・関東」のことじゃないのかと大雑把に把握される。 
「瀛」の字の原初の意味は「ふえる」とか「かくす」とかだったらしい。オキの訓は「水量が山のように多い、大海」か「波のかなたに隠れる」というニュアンスからきてるのだろうが、文字の原義からはズレてきているかも知れず、戦国期以前の地名として解釈するのは容易でない。「州・洲」は川や海で区切られた土地(島)の意だから日本だとすれば本州と途切れた九州のことかな。方丈は狭い部屋の意味があるから奈良盆地のことか。昔は奈良盆地の北半分は海だったので、横長の長方形の盆地だったろう。
蓬莱は雑草の生い茂った未開地の意味があり、関東平野だろう。関東平野も海だった時期が長く、本格的な開拓がかなり遅かった。蓬も莱も、薬草にもなるが雑草でもある。関東の聖なる山といってもいくらでもある。上州浅間山、野州日光、常陸の筑波山、房総なら麻綿原の清澄山w 埼玉県の秩父三山も有名だし、神奈川県の丹沢の大山も忘れちゃいけない、なんたってここには「ヨセフの塚」があるからなw いや、何でもないw しかしまぁ知識のない外国からの渡来人がパッと見で富士山に惹かれてしまうのはこりゃもうしょうがないわけよ。
方丈の候補を奈良盆地及びその周辺で探すと、大和三山の他、三輪山、葛城山、宇那手、飛鳥の神名備もあって、聖なる山には事欠かないが、山岳信仰といったらなんといっても背後の吉野山だろう。役小角の金峰山、談山神社の多武峰、水銀の神ともいわれる丹生津姫(にふつひめ)を祀るともいう丹生川上神社もある。80年代には電通に乗せられて天河弁財天でキャーキャーいってる薄らニワカもいたが、由緒正しいオタクの押しは玉置神社やろw
tamaki_machigata192.jpgtamaki_machigata152.jpgtamakisan184.jpg玉置山
「熊野三山」は三つの山ではなく三つの神社のことだけれども、玉置山は熊野本宮の奥宮だともいわれてるわけで、熊野三山を山岳信仰としてみる場合には、中心となる聖なる山は玉置山しかありえない。それはともかく、奈良盆地は広大な山々の北の一角にちょこんと付いてる感じ、熊野はその南側の玄関であり、黒潮ルートで海上から来た場合には、ここが入口になるわけよ。
そして瀛洲の候補、九州で聖なる山といえば高千穂だろう。実は延岡市の五ヶ瀬川の昔の河口だったあたりにも徐福伝説があり、「徐福岩」ってのが残ってる。こっから遡上すれば、有名な日向の高千穂峡に到達するし、金立山の東南、八女市の山内にも徐福伝説があり、ここは金立山と高千穂の中間地点でもある。
徐福の話はそれだけで一つの大きな問題系をなしており、議論は尽きないが、とりあえず「澶洲」をめぐる議論に必要なことだけ先に書いといた。他の面白ネタは後述。

夷洲討伐と澶洲探索の政治的背景
AD222年に劉備が呉征伐に失敗してから、呉と蜀は友好関係に転じていた。その上で、魏蜀に遅れて229年に孫権も皇帝に即位すると、蜀と呉は同盟して天下二分をめざすことになった。これまでも三国はそれぞれに東西南北の異民族を味方に引き入れるための外交(戦争や同盟)を展開しており、例えば蜀は225年に諸葛孔明が孟獲を捕らえて異民族の居住地である西南地方を併合、呉は226年以降、交州の豪族士氏を滅ぼし扶南(カンボジア)・林邑(南ベトナム、後のチャンパ王国)・堂明(ラオス)に朝貢させたりしていた。そうした中で229年に魏はクシャナ帝国のヴァースデーヴァ王(波調)を朝貢させるという大成功を収めた。これが曹真の手柄で、敵対派閥の司馬懿が対抗するため倭王卑弥呼の使者を招いたというのも岡田英弘のおかげで有名になった話。だがそれは魏の国内の話であって、外からみれば、呉も、魏に対抗するため倭から朝貢してもらおう、となる。天下二分の盟約のもとでは倭や韓といった東夷諸国は呉に朝貢すべき国々であるとともに、同時に、大月氏などの西戎諸国は蜀に朝貢すべきものであって、偽天子の魏に朝貢すべきではないのだから。ちなみに呉には大月氏出身の支謙という坊さんが来ており孫権の保護下で仏教を布教していたし、呉と大月氏も東南アジア諸国を介して交流があった。ただ天下二分の建前では大月氏は蜀に朝貢すべき国だから呉としては朝貢を公式には要求できない(非公式・非合法にはできる)。タイ以西は蜀の領分とされたらしく当時繁栄していたビルマの「驃国」は呉の朝貢国とはなっていない。それどころか歴史には残ってないが蜀は西南夷を服従させた後、驃国との交流をもったと推測する説もある。230年、孫権は衛温と諸葛直の二将軍に兵1万を与え、夷洲・澶洲へ向かわせた。
illust4944thumb.gif富士山
翌231年、夷洲の原住民を数千人拉致して帰ってきたが、兵のほとんどを疫病で失っていた。また澶洲へは遠すぎて行けなかったという。衛温と諸葛直は責任を取らされて二人とも処刑されたが、これは処刑されるほどの失敗だったのか? また後漢書には一般庶民ですら澶洲から会稽にきて交易してるといってるのだから、「澶洲が遠すぎて行けなかった」なんてことは明らかに事実に反することで、言い訳にすぎない。処刑に値するような何か大きな失敗があったことを隠蔽するための言い訳だとすると、澶洲にはちゃんと到達したのだが、朝貢を促すための外交交渉に失敗し、それどころか敵対関係に陥って戦争になり、ほぼ全滅に陥ったのだろう。つまり疫病で兵を失ったというのも嘘。中華思想というのは異民族を蔑むことだと誤解してる人が多そうだが、そうじゃなくて異民族に尊敬されることが重要なのである。中華皇帝にとって異民族に背かれるというのはもっとも恥ずべきことであり、この二将軍の失敗で、即位したばかりの皇帝孫権の面目は丸つぶれになった。こう考えないと、単に遠征で敗北したわけでもなく探検隊の目的地が見つからなかっただけで死刑になるというのは不自然すぎる。
ではなぜこの外交は失敗したのかというと、呉の高圧的な態度のせいだろう。三国とも異民族に対してはアメとムチ、物資の贈与(国内では下賜と称しているが実際には献上)と武力討伐、友好と圧力を使い分けているのは当然だが、この時代の中国は国力が下がっており、魏は烏丸や南匈奴を配下に引き入れて騎馬軍を編成し、蜀は孟獲のような西南夷を登用したように、異民族の協力なしでは国が成り立たないから、敵対するよりは下手に出て融和策をとることが多い。ところが魏蜀と比べると呉は融和が少なく武力行使が多い。その理由はいろいろあるが一つには異民族(この場合は「山越」)が国内に多かったせいもあっただろう。また三国とも人口不足に悩んでいたが、呉は異民族狩りで人口を補っていたため、異民族との関係を魏や蜀のように円滑に運営するノウハウが無かったか、少なくとも巧くはなかった。で、衛温と諸葛直は澶洲に辿り着いたはいいが、上から目線で偉そうな態度をとったため相手の国王だか外交官だかを不快にさせてしまった。そこで頭を下げればよかったのに、あせった二人は武力で脅しをかけ、これが裏目に出て火に油ってことに。逆襲されて澶洲から叩き出されて逃げ帰ってきたのだろう。

呉と同盟したのは狗奴国ではない!
しかし呉としてはここで終わるわけにはいかない。記録は残ってないが、その後も呉は交渉を試みて、ある程度うまくいったのではないかと思われる。それは呉の年号が書かれた二枚の鏡から察せられる。山梨県の古墳からでた赤烏元年紀年銘鏡と兵庫県宝塚市の高塚古墳からでた赤烏七年紀年銘鏡だ。
さてその二枚の鏡からどう考えるかだが、女王国が魏の属国になったと思い込んでる徒輩の発想では、少なくとも呉へのシンパシーを表明するような振る舞いは卑弥呼からみて反逆を疑われかねない程度にはヤバイことだったろうから、当時の兵庫県宝塚市と山梨県にはアンチ卑弥呼の勢力がいたと予想するわけだ。そしてそれは、魏志倭人伝をみるかぎり、狗奴国のことであり、卑弥弓呼を中心とする男王国(男王派の諸国)以外にありえんだろう、だから、邪馬台国と敵対していた狗奴国が、呉と同盟していたのではないか、というわけ。こういう説は大昔からあるんだが、今ひとつ力をもたないのは歴史書の裏付けが弱いから。が、呉の年号の鏡が2枚もあったら考古学方面からの補強は十分すぎると、普通なら思われる。しかし出土地が…。山梨県のは、最近うるさい「狗奴国東国説」を援用すれば辻褄はあうが、兵庫県宝塚市のは、邪馬台国畿内説だと親魏反呉派の中心であるはずの邪馬台国に近すぎる。邪馬台国九州説で畿内に狗奴国があったすればよいが高槻市と和泉市から魏の年号鏡がでているから畿内では狗奴国より邪馬台国の方が勢力ありそう。第二に兵庫県と山梨県では離れすぎてるので説明が難しい。鏡の配置からすると親呉派は東西に分断されていたことになってしまう。そもそも狗奴国の位置については畿内説もあるが肥後(球磨郡~菊池郡)説もあり東国説もある。男王卑弓弥呼は狗奴国一国で孤立してたのではなく、最少でももう1ヶ国「狗古智国」という男王傘下の国があったろう。それは対馬国・一支国について「その大官(長官。つまり太守、知事のようなもの)を卑狗と曰ふ」とある通り、対馬国の大官は「対馬卑狗」、一支国の大官は「一支卑狗」となるわけで、当然「狗古智卑狗」というのは「狗古智国」の大官だろうと推定できる。魏志倭人伝には狗古智卑狗が卑弓弥呼に仕える官だとはあるが狗奴国の官だとは書いてない。九州(肥後菊池郡)の狗古智国も、東海道(静岡県袋井市)の狗奴国も、どちらも女王国と敵対する男王派(卑弓弥呼派)なのである。これを三国志が混同してるのは、ちょうど隋唐の中国人が台湾と沖縄を混同して琉球と呼んでいたのと同じようなことなのであるw ただ肥後菊池郡と静岡県袋井市では離れすぎているので、中間地点の熊野あたりも中継基地として押さえていただろう。内藤湖南の畿内説の継承者で、最初に箸墓を卑弥呼の墓だといったり最初に日本海航行説を出した天才、笠井新也は、狗奴国を熊野地方だとする説を唱えていたのである。南九州・熊野・東海道は海路で結ばれている。四国から房総までの海は忌部氏の海上移動ルートであり、駿河を中心に熊野から茨城県までは常世(とこよ)信仰の分布圏、茨城県沿岸から三陸岩手県までは安波信仰(大杉信仰)の分布圏でもある。これらはどれも「黒潮文化圏」の一面なのである。そして、この勢力配置は、室町時代の南北朝の争乱の南朝勢力に似ている。南朝は吉野の山奥に本拠を置いて、東の奥州は鎮守大将軍北畠顕家が率い、九州は征西将軍懐良親王が治めた。女王卑弥呼と男王卑弓弥呼の争いも「倭王」の地位をめぐる王位継承争い、南北朝の抗争のようなものなのである。
しかし、魏の紀年銘鏡も呉の紀年銘鏡も、どちらもちゃんと古墳から出てくるということは、一方の派閥が完全には滅ぼされず、和解した上で統合したってことなのか? もし一方が滅ぼされたなら、そんな反逆罪に問われかねない不穏な鏡を副葬品になんかできないのではないか? 親呉派=男王派が滅ぼされたなら、そもそも呉の年号の入った鏡自体がうやうやしく埋葬されて平穏に存在の許された古墳から出てくる、なんてことはなかったと思われる。それこそ金印みたいに畑を耕してたら土中から出てきた、というならわかるが…。狗奴国&男王卑弥弓呼がどうなったのかは魏志倭人伝に書かれてないので、狗奴国が邪馬台国をほろぼして大和朝廷になったっていう説もあるのだが、『晋書』では邪馬台国の卑弥呼の倭国がそのまま倭の五王の倭国になったように書かれており、これが当時の中国人の認識だったことがわかる。『晋書』の記述に従えば、女王と男王が「和解して平和裏に統合した」可能性も必ずしも排除はされないが、普通に考えれば男王派は女王によって完全に滅ぼされたか、屈服して女王に帰順したか、いずれにしろ敗けちゃったって可能性が一番高いだろう。そうすると、どうもこの呉の年号の入った鏡ってのは「男王派(狗奴国派)のものではない」のではないかと思われる。
卑弥呼を中心とする倭国の勢力(=女王国)は当時は魏と連帯してたとはいえ、だからって倭国が国内で公式に魏の年号を採用してたとも思えないし、カン違いしてる手合が多いが、波調(ヴァースデーヴァ)本人にしてみれば「親魏大月氏王」の金印もらったからって魏の属国や魏帝の臣下になったつもりは無かったろう。倭国も同じで、魏の属国になったわけではない。岡田英弘がいうように、倭国が魏に朝貢したのも卑弥呼が親魏倭王になったのも、すべて魏の側の内部事情、司馬懿の都合なのであり、倭国にしてみれば「頼まれたから行ってやった」んで、こっちが頼んだわけではない。だから倭としては呉から使者がきても「来るものは拒まず」だろう。呉が澶洲にいって失敗したって話は男王国との交渉に失敗したんだろう。ということは澶洲とは男王国(男王派の国々)のことだとも思われる。そうすると夷洲が女王国(女王派の国々)か(夷洲ってのは、台湾も夷洲だが沖縄も夷洲だし、日本も夷洲なのである。その時々の文脈によって解釈がかわる。固有名詞化する前の「夷洲」という言葉は本来は「東方の異民族の島」という普通名詞なのだから)。で、呉と男王の交渉が失敗したと卑弥呼が聞けば、男王への対抗上、女王としては「なんならアンタの国(呉)はウチで拾ってあげてもよくてよ、はぁと」ということになる。岡田英弘が詳しく解析しているように、魏志倭人伝は司馬懿の功績を顕彰せねばならない経緯があるので魏が倭国からの支持をとりつけたかのように書いてある。実際には魏と呉は倭国からみて等価値、両者同等の扱いだった、なんてことは、陳寿としては死んでも書けない(実は陳寿が使った原資料の段階で手が加わっていたのだがその件は今回はふれない)。だから夷洲も澶洲も会稽の東として倭国と同じ場所のように匂わせるだけで、ズバリ倭国のことだと明記はされてないのである。

従って、前の方で書いたように陳寿は三国志で「夷洲・澶洲」を倭国と同じ場所だと何度か念押ししてるのは、場所が同じらしいとは思っても呉の歴史資料が十分でなく確信がもてなかったのだ、というわけではない。あるいは、夷洲と澶洲ならべてる記述者の気分としては、澶洲の人々もエスニシティとしては夷洲(=沖縄を中心とする西南諸島)の人々と同系の南方民族ってことで、北九州や畿内の「倭種」とは別民族ってことだと考えたわけでもない。倭人伝の習俗記事は前後に分断されているため重複している項目があり、一方は女王国のもの、他方は狗奴国(実際は狗古智国)のものだ(早大教授水野佑の説)。どちらも広義の倭国の一部として出ている。だから倭であるかないかということはエスニシティの問題ではなく政治的な所属の問題なのである。呉が倭国と交渉をもったということが明記されると、「大倭王に朝貢させた=魏を支持させた」という司馬懿の功績が無意味になってしまうから、ボカして書いてるのだ。倭の女王は実際は呉とも交流してるんで、魏だけを正統だと認めたわけではなかったのである。
『肥前國風土記』松浦郡値嘉島條に「此の島の白水郎の容貌は隼人に似て恒に騎射を好みの言語俗人に異なれり」と、五島列島のあたりの人の習俗が隼人と同じだったようなことが書いてあり、律令の定めでは毛人(蝦夷)・肥人・阿麻弥人(奄美人)も「夷人雑類」とされている。これらはエスニシティーとしては隼人と同一民族だろう。この「肥人」の読みはクマビト、ヒビト、コマビトの3説あり、このうちコマビトが誤りだとは容易に推測できる。長らくクマビトと読んで肥後国球磨郡にいた種族と思ってきたが、詳しい議論は省略するがあれこれ考証した結果ヒビトと読むのが正しいというのが現段階の結論だ。五島列島のあたりは肥前国に含まれ、そこの住民は肥人といえる。そして「正倉院文書」天平五年の右京計帳に阿太肥人床持賣と見え、同十年の駿河國正税帳に遠江國使肥人部廣麻呂があり、「肥人」は京都にも遠江・駿河にもいたことがわかる。西の肥前・肥後、東の遠江・駿河の組み合わせは男王卑弥弓呼の勢力圏と重なる。

後漢書は澶洲について「人民時に会稽に至りて市す」(澶洲人は時々会稽まで交易にきている)と、「所在絶遠にして往来すべからず」(遠すぎて行ったり来たりできない)と、まったく逆のことを二つ並べて書いてる。「所在絶遠にして往来すべからず」は三国志での呉が澶洲探索に失敗したことをいってるんだろうが、言うまでもなく日本と中国の間で「行ったり来たりできない」なんてのはありえない話で、「人民時に会稽に至りて市す」が真相をあらわしている。

徐福伝説と狗奴国の関係
ここまできてようやく徐福の話に戻れる。徐福伝説の金立山・熊野・富士のうち、まず肥前佐賀の金立山は、男王国の西の拠点である狗古智(肥後菊池郡)とは目と鼻の先でほとんど隣接しておる。男王国の東の拠点、狗奴国は静岡県袋井市にあった「久努」が遺称地だが、静岡市の久能山のあたりまで広がってたんだろう。久能山なら、富士山への登山口まで60kmぐらいしかないし(1日7時間歩いて2日の距離)、徐福伝説の地である三保の松原ともほぼ隣接している。つまり徐福の3大伝承地「金立山・熊野・富士」というのは、ちょうど男王国の3大拠点に一致しているのである。
そしてようやっと澶洲の話に戻れるが、三国志は澶洲に徐福の子孫が住んで人口数万家もあるという。これは伝聞の形でかかれているから本当かどうかは当時は未確認情報だったわけだが、岡田英弘は「当時の中国は人口減少に悩んでいて洛陽ですら7万戸はなかったろう、邪馬台国の7万戸がホントなら驚異的な大都市だ」といっている。もし澶洲の人口数万家が本当なら奴国でも二万戸しかなく、投馬国の五万戸、邪馬台国の七万戸に匹敵する大勢力ということにならないか? つか三国志の東夷伝全体からみても、当時(3世紀の段階で)数万家もの人口を抱え込んだ国なり勢力は倭国を除くと「夫餘の(国全体で)八万戸」という話と、「馬韓全体で十余万戸」「弁韓、辰韓あわせて四、五万戸」という話が目立つぐらいで他はぜんぜんたいしたことない。人口不足を解消するため異民族を「人狩り」していたほどの孫権なら、魏に対抗するため澶洲を探したくなるのも道理だろう。しかし男王卑弓弥呼からすれば、異民族政策で良い噂のきかない呉より、同盟相手にはより強大な魏の方が望ましい。しかも安徽省亳州市の曹操の一族の墓から「有倭人以時盟不」(倭人時を以て盟するや)と書かれた磚(せん:レンガ)が出土し、曹氏の一族が倭人と関係をもっていた可能性が高まった。
honpenmap2.jpg
磚には建寧三年(AD170年)の年号を記したものがあるので、墓の主は曹操の父曹嵩(そうすう)とは同世代だろう。この墓の主は「会稽曹君」といい、会稽郡の太守だったらしい。それなら当然、夷洲人や澶洲人を知っていただろう。AD170年ということは、倭国ではまだ男王と女王の対立が起こるよりずっと以前のことになる。つまり男王か女王か問わず、倭人なら呉に比べれば魏と最初から近い関係があった。当初、呉の澶洲探索隊が失敗に終わったのはこういう背景があったわけだ。

倭国の外交戦略
さて、では女王国も最初から同盟相手として魏を選んでいたのかというと、そうとも限るまい。
蜀と燕(遼東半島の公孫氏)は東西に離れてはいても、相当はやい段階で協力を模索していたとしてもおかしくない。214年の夏に劉備が益州牧となり益予荊の3州をもって自立してから、221年四月に皇帝に即位するまでの6年間、『三国志』では諸葛孔明がずっと成都にいたようなことを書いてるが、詳細な記事は一切なく「謎の6年間、空白の6年間」とよぶ研究者もいて、孔明はこの間いったい何をやっていたのかと疑問を呈している。偶然にも倭王権が継承問題おこして男王と女王に分裂することになった最初の時期にあたっている。孔明はおそらくこの6年間に燕(公孫氏)の実力を見定めるために秘密の外交使節をやりとりしていたのではないか、むろん公孫氏は歓迎して実力のほどを示そうとして、公孫氏をバックアップする東夷諸民族の情報も(多少、盛ったりはしつつも)開示したに違いない。そういうわけで蜀もまた東夷の情勢については一定以上の知識をもっていたと推定できる。後漢が四分五裂してより燕(公孫氏)は夫餘と婚姻を結んで高句麗を牽制し、夫餘の分国を馬韓に作らせ(百済の建国)、高句麗の影響力を馬韓から排除しようとしたが、東夷の諸民族とは一般的にうまくやっていたようにみえる。それはつまり倭国ともうまくやっていたということだ。
倭国の内部では、大陸が統一されるとその矛先は異民族に向かうのがパターンだから、中国は分裂していたほうがいいという考えもあるし、大陸の戦乱がいつまでも続くと難民(=不法移民)が増えて困るというのもある。前者なら呉や蜀を支援して魏がこれ以上強大にならないようにしなければならないが、後者ならもっとも強大な魏にさっさと中国を統一してもらって中国人が安心して暮らせるようにしてもらうべきだってことになる。前述のように男王も女王も曹氏一族に親密だったのならば魏との同盟は自然な流れではあるものの、天下に縦横しようという大戦略としては燕(公孫氏)・蜀・呉の三国同盟で魏を牽制するという戦略になるのが普通だろう。だから卑弥呼自身はアンチ魏だったのではないかと思われる。それは倭人伝に卑弥呼が「鬼道に事え、よく衆を惑わす」とあることからもわかる。鬼道というのは、アニミズムや道教も含め「儒教からみて正統でない宗教や信仰」を漠然とさしている言葉だが、もし道教だったら「五斗米道」とか「天師道」とか「太平道」とかそのまま書けばいいんで、わざわざ「鬼道」なんていう、もってまわったウヤムヤな言い方はしないだろう。そうすると、アニミズムとかシャーマニズムとか原始宗教とか部族宗教とか、要するによくわからない未開人の宗教だということになるが、これもおかしい。別に、倭国は儒教という正しい宗教を知らぬ「異民族」って建前なのだからそんなの当たり前であり、普通ならいちいち書かれないことだ。それがわざわざ書かれてるのは「よく衆を惑わす」という言葉にポイントがある。斎藤忠は「惑わす」というのは(民や国を)「治める」の意だとして用例をあげていたような記憶があるが、普通に治めるだけならそう書けばいいのであって「惑わす」とはいわない。これは訳のわからない呪術をやってるという意味ではなくて「鬼道につかえ」ている、つまり儒教の大義名分にあわないことをしてるという意味なのだ。なんのことかというと、紀年銘鏡からわかるとおり、倭国は(というか卑弥呼は)呉とも通交しており、「正統な中華王朝は魏だけであり呉や蜀は偽帝であり僭主であり、要するに『悪』だ」ということを認めず、呉や蜀を支持するようなことすら時には言ってしまって衆を正しく導かない、呉や蜀にも名分があって三国が同等であるかのように衆が思ってしまう、だから「衆を惑わしてる」ということだよ。

外交史・同盟相手の変遷
では229年から時系列で歴史をたどってみる。
「呉・蜀・燕(公孫氏)と東夷諸国はみな大同盟して魏を包囲するというのが当たり前の大戦略」なのだが、なんでおかしくなったかというと、一つには蜀と呉には「天下二分の取り決め」とそれに基づく縄張り意識があって、建前上、蜀と倭は直接には交流できなかった(距離が遠く離れてたからできなかったわけではない)。二つには、倭国が内部で争ってたから。公孫氏の得ていた情報としては、今の倭国は女王卑弥呼派と男王卑弓弥呼(ひこみこ=男皇子)派にわかれてどちらが正統か争ってること、外交策としては昔からの縁で魏を支持してる派があるのみならず、女王本人のように呉や蜀と同盟して魏を抑える案もあって特に決まってはいないから、外交政策としては暫定的に公孫氏の流れに追随している、というところまで。ところが230年に呉の水軍が澶洲(倭国)を探索しにいって撃退されたらしい、という情報をキャッチした公孫氏は倭国の内部事情を探った上で、どうも呉を撃退したのは女王ではなく男王らしいと知り、男王派の軍事的な実力を認めて、対倭外交では女王派でなく男王派(つまり親魏派=反呉派)になることを決めたんだろう。だから公孫氏と呉はそれまでうまくいっていたのに233年の三月になって公孫淵が突然呉の使者の首を斬って魏に寝返ってしまった。この頃、倭国は激烈に新羅(当時の言い方では辰韓の辰王だが以下便宜的に新羅と書く)と戦争しており、有名な新羅の于老将軍のエピソードがある。233年の五月に卑弥呼の使者が新羅にきてるがこの年のこの月は倭軍が新羅に押し寄せた時でもある(卑弥呼の使者を三国史記は干支1運(=60年)誤っている)。新羅は倭に近く交流も頻繁で深いので、倭の国内事情を最初から知っていて、もともと男王派(狗奴国派)なのである。その頃の倭国は男王も女王も「来る者は拒まず」以外の世界戦略をとくにもっておらず、理想や観念はともかく実務的なことは現地まかせで、公孫氏は隙にやってたと思われる(自意識では公孫氏を管理または支援していたつもりだったろう)。そのため公孫氏が男王派になって魏につくと決めた以上、女王としては遼東半島に派兵して公孫氏を成敗するか、さもなくば当面放置するしかない。が、それは「公孫氏に対して」の話であって、大問題ではない。ただ、公孫氏を介在させた外交ができなくなったわけで、倭国の建前が中国に対してワンクッション置かれなくなるだけのこと。一方、本音をいえば、そもそも倭国は国内が割れているのだから対外的にたくましく合従連衡の戦国に乗り出していく余裕はない、という意見もあり、それなら中国の覇権争いでトップランナーである魏を承認しておけば、とりあえず当面はラクができる。もし実利だけいって不足ならば、魏こそが正統で呉や蜀はいんちき政権だっていう理屈だっていくらでもいえる。外交を担当した難升米や、卑弥呼の男弟らはそこらの細かいことはなんとでも繕っていくつもりだったろうし、女王本人も含めて意見の大きな対立があったわけでもなかろう。それというのも、中国の論理(つか司馬遷の論理)では、魏呉蜀のうち一つが正統であとの二つは存在すること自体が悪であり征伐の対象なのだから、日本がどれか一つに朝貢するだけで、もう、その一国だけを正統と認めたことと受け取られる。大陸の問題に日本が介入したとみなされるのだが、それは中国人の一人相撲で、こっちの知ったことじゃないからだ。だがこちらの態度が大きな影響力をもつなら無碍にもできない。だからもし難升米や男弟が本心から魏だけを支持していたのなら(そんなことはないが仮にそうだとしたら)、女王は最後まで納得せず「呉や蜀も認めてやらんと問題じゃろ?」とかいって渋ったり粘ったりしてたかもしれない。女王国政権が大陸の覇権争いに対して中立だったのは、考古学的にも推定できる。それが紀年銘鏡にある赤烏元年(AD238年)なのである。『三国志』は前述の都合で載せてないが、呉の使者がついに卑弥呼のもとに到着して、ウマいこと外交関係を取り結ぶことに成功したんだろう。
それと、それ以前に遡って、公孫淵がのちに滅ぼされてしまったので記録はないが、青龍三年(235)の紀年銘鏡があり、これは諸葛孔明が死んだ翌年で、魏が公孫氏へ軍を振り向ける余裕ができた頃。この年、危機を覚えた公孫氏が倭国に保護なり支援なりを求めたのだろう。むろん魏に対しては、倭国との仲介を担う気があることをアピールすると同時にバックに倭国がついてることもにおわせる、という外交もやろうと思えばできることになった。中華思想の建前に縛られてる魏がそういう情況を把握すれば、女王との国交樹立に道がついたともいえるわけで、もう魏にとって男王との結びつきはかなり軽いものになった。男王はそれで全然かまわない、卑弓弥呼としては「継続性」と「血筋」へのこだわりから、三国の中では蜀にシンパシーを感じていたのではないかと想像する。魏と女王国とが近づいたのは男王卑弥弓呼にとっては、「昔から義理があって切れない相手が向こうから手を切ってくれた」おかげで世界戦略がやりやすくなったってことでもある。ただ、呉と男王はどちらも自分が偉くて相手の方が頭をさげてくるのが当然という思い込みがある点で似たもの同士だったんだろう。実際には魏も蜀も異民族に対してある時は臣従してその力を借りたりまたある時は対等の同盟をしたりしていたのである(正史には異民族を臣従させたかのように書いているが文章表現だけ)。呉との関係がおじゃんになってしまったことについては、男王国は痛いともなんとも思ってなかったと思われる。上述のごとく、当時の中国は人口減少に苦しむ弱小勢力で、倭国は巨大な人口を抱える大国だった。現代とはちょうど逆なのだ。男王派としては大陸に友邦をつくらずとも、女王派に勝つことは十分できるのであって、大陸の友邦なんて、海を越えて援軍にきてくれたところでどれほど役に立つかすら疑問だったろう。むしろ、ちゃんころに媚びてる連中として女王派を蔑んでいた可能性すらある。呉にしてみれば澶洲探索の失敗(=男王との国交樹立の失敗)で東夷外交が全面崩壊した後なわけで女王国との国交樹立は最低限のメンツを保ったことにはなったが、それだけにすぎず、女王は魏と呉を同等に扱ってるのだから呉が魏に勝ったってわけでもない。なにより「呉・蜀・燕の対魏包囲陣」ができたわけでは全然ないのだから、三国間の外交戦では魏が勝ったってことだ。反魏の諸国が包囲網を作ることができなければ、各個撃破されるだけで、ここから大きく情勢が転換していく。
それより以前すでに高句麗も236年には呉から魏に鞍替えしていて、赤烏元年(238年)に卑弥呼と孫権の外交がなったものの、すぐ翌年(一説では同年)魏は倭王の使いを洛陽に招き(例の親魏倭王)一気に逆転した。公孫淵はあらためて呉に救援を依頼したが、孫権は公孫淵の変節に怒っていたので取り合わない…。という流れ。魏による各個撃破が始まり、まず燕が滅ぼされた。遣使が景初三年でなく二年だという説では、倭国は迅速な外交でパワーバランスの急変に応じたというのだが、どうだろうか? 案外、倭国は衝撃的な大事件だとは受け取らなかったのではないか。男王派か女王派か問わず、魏を支持する場合であっても、それは公孫氏を滅ぼすことを許容するという意味ではなかったろうが、緩衝地帯としての公孫氏を必要としていたのではなく単に自分の属国という程度の認識だったろう。その昔、漢の武帝が朝鮮を滅ぼして四郡を置いた時、三国志の時代とは比較にならないほどの全盛期の強大な漢帝国が玄界灘まで迫ってきた。おそらく当時の倭国は恐慌し社会不安も絶頂だったろう。その悪夢は男王国でも女王国でも伝承され記憶に刻まれていたはずだが、三国時代の魏だの呉だのは前漢とは比較にならならないほど弱い。だから男王国も女王国も、公孫には上から目線で、できるだけ支持と支援を与えてきたつもりだったのだが、両者が敵対していたため、どちらかにつかねばならないという中国式の発想に縛られた公孫淵の判断を狂わせた。だから元をたどれば倭国自身が悪いのだ。仲間割れってのはするもんじゃないね。

おまけ・景初二年か景初三年か
魏への朝貢は、景初二年(238年説)と景初三年(239年説)があって、有名な論争のネタになっている。普通に考えると景初三年が正しく景初二年は誤記で決まりなのだが、捻くれた考えをすると、景初二年はまだ魏と公孫の戦いの真っ最中だからありえない、というのはそれこそありえないし、景初三年だと先帝の喪中に外交のお披露目や親魏倭王の叙任など考えられないというのも一理ある。最大の根拠は戦争終結後の景初三年では外交戦略上の意味が薄れるという説で、これもごもっともだと思われる。が、景初三年の紀年銘鏡があっても景初二年のはないから、考古学からいっても景初三年が正しいだろう。国際関係の変化に素早く対応したわけでは全然なく、今回も向こう(司馬懿の手下である帯方郡の役人)から頼まれて行ってあげたのである。ただ『晋起居注』からの引用に「明帝」の字があり、何もないところにこの2文字が紛れるのも不自然すぎてただの誤りとも考えにくく、これを重視すると景初二年説も捨てがたい。思うに、記録にいちいちなくても「非公式」の使者のやりとりは常時あるので、当然景初二年にもあったのだが、ドタバタで献上品の十分な用意もなく、正式な使者は改めて三年になったんだろう。だから公式には景初三年で正しいのだが、それ以前に使者のやりとりが無いと考えて歴史を構想しては間違えるのではないか。

◆予告編◆
だが、もちろん話はここで終わりではない。
澶洲が日本なら、澶洲のタン(またはセン)の音はどこのなんという地名を写した音なのか? 徐福は本当に日本に来たのか? そして沈没した伝説の島とは…?
そういうわけで「沈没した神仙島の謎【後編】~いま謎は紐解かれた!(仮)~」に続くw(後編のサブタイは未定ですw)

タモリ倶楽部、「下町三山」を踏破!
なお日暮里山のすぐそばには世界的な観光地「谷中銀座」と「よみせ通り」がある。遊びにきてくれたらビールぐらいおごろうw

関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

最新記事
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブロとも一覧

新語拾遺
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
検索フォーム