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邪馬台への行程【その1】~一万二千里と春秋の筆法~

改稿:2679年[R01]10月19日SAT (初稿:2679年[R01]10月03日THU)
※【その8】までありますが、内容がつながってるので一気読みして下さい。
前置き
今回は邪馬台国問題の中でもいちばんくだらない、じゃなかった、いちばんメジャーな「帯方郡から邪馬台国へ」のコースをどう解読するかって問題に挑戦してみる。

韓地七千里の謎

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里

最初のこの文からもう謎だらけw
「循海岸水行」の意味は海岸にそって航行するんだから韓地の西海岸を南下し一回東に折れてから韓地の南海岸にそって東行するとしか読めない。よって「歴韓國」は韓国の海岸を経ていく意味になる。それなのに「乍南乍東」とあり、小刻みに南いったり東いったりすることだから、これだと「歴韓國」は北西から南東に向かって韓国の内陸をジグザグに進んだように読める。この文の解釈はこの二つの説が対立しているが決着はつかないと思う。なぜならどっちもその通りに書いてあるわけだから。
※これを途中まで沿岸航路で行って、途中から上陸してジグザグコースを陸行するような地図を作ってる人がいるけど実際にはそんな不便なコースはありえない。内陸の場合、南韓江と洛東江の水運を使うからだが、後述の魏略逸文には「乍南乍東」が無くこれが元ネタと思われるというのもある。

また「歴韓國」が上陸せず海沿いを水行する意味と、ジグザグに陸行する意味のどちらもありうるのならば、物理的にいって「韓国を歴ず」しては倭国に行けないわけだから、この三文字は要らないのではないか。簡潔を尊ぶ漢文においては無駄な文字は極力排される。ゆえに、なぜこの三文字が挿入されたのか、何らかの意味がなければならない。「韓国を歴て」は2つの解釈があり、「韓国を通過して」の意味であって海路は該当せず、「乍南乍東」と繋がって「陸行」を表わす言葉だという説と、上陸せず海岸に沿って進むんでも「韓国を歴て」という漢文は問題ないんだという説とがある。単語レベルの正否は俺には決められないし、これだけなら何とでも言えそうだ。その一方で、内陸ジグザグコースの場合、南漢江を最上流まで遡上し峠を歩いて越して洛東江を川下りしたんだから「乍南乍東」の方もたとえ内陸であっても「水行」なのだという説もあり、中国での水行といえば川をいうことが多いぐらいだから、それもありだと一見思える。が、本文には純粋な陸路なのか川を使ったのか明示がない。実際には川を使ったとしてもあえて水行だとはいってないのは、編者の陳寿としては内陸の川なので海路に対する陸路だということにしたいのだろう。そうすると、あくまで「この文脈では」という条件つきだが、「歴韓国」は陸行を示すという説の方がよさそうだ。つまり「循海岸水行」の「水行」と「歴韓国乍南乍東」の「陸行」を対称的に並べているのだ。
帯方郡から狗邪韓国までの行き方が海路と陸路の両方あるのは、まぁ別にそりゃそうだろってだけのことで問題はないし、狗邪韓国に着くことにはかわりないのでどっちでもいいっちゃいいんだが、なぜか魏志は二つの行き方をごっちゃに書いてる。これは普通ではない。おかしい。
あえてこう書いてる理由は、これから倭国への道を書くに当たって「二つの行き方をごっちゃにして書くよ」という前ふりなのではないだろうか?

二つめの問題は「其の北岸の狗邪韓国」。この「北岸」は

(1)「倭の北部にある沿岸部」と解釈する説
(2)「倭からみて北の方にある岸」と解釈する説
(3)「南の倭の海」と「北の韓の岸」が接してる意味とする説

がある。これ単なる地理情報としては「南岸」でないとおかしい(この場合「其の」は「韓の」の意味になる)。「韓の北岸」ではなく「倭の北岸」という意味ならあってるというのが上記の3つの説だが、そうか?「其の」が「韓の」の意味だろうが「倭の」の意味だろうが、普通は北側が海で南側が陸の状態を「北岸」というのであり、倭の北岸なら九州北部の沿岸部しか該当しないし、韓の北岸はそもそも地形上存在しない。このことは明治初期の学者から言われてることで、当時の人ほど漢文に精通してるとは到底思えない現代人が「いや北岸のままで問題ないんだ」といくらいっても説得力がない。だから現代人でも問題ありと認めて解釈説を立てるのが普通で、上記のような3つの説があるわけだ。北岸は「南岸」の誤記だとすれば話は簡単だが、そういう説はない。ということは、解釈で切り抜けられると思われているわけだが、実際うまくいってる訳ではない。(1)の場合「狗邪韓国」はつまり倭の領地(もしくは倭人居留地?)で(3)は韓地には倭の領地はないが海は倭の領分(領地?勢力圏?)だとみているわけだが、どちらもなぜそんなわかりにくい書き方をするのか、意味がわからない。もっとわかりやすく明示する書き方はいくらでもあったろうに、自然な解釈で切り抜けに成功しているとは思われない。(2)が明治以来の有力説だが、他が文章表現として不自然すぎるから比較的マシというだけのことで、なぜとつぜん「倭から見て」なんて視点をかえなければならないのか?
「倭からみて」ってことは韓から倭にいく時の視点とは逆に、倭から韓へ帰る時の視点だ。つまり往路と復路、二つの行き方がごっちゃになってる。これ先に「循海岸水行」と「乍南乍東」の併記によって「二つの行き方をごっちゃにして書くよ」とお知らせあったわけだが、その二つの行き方というのが実は「往路と復路」のことだと暗示しているのではないだろうか?w
ちなみに魏志の原資料になったともいわれる『魏略』には「乍南乍東」も無ければ「其の北岸」も無くて実にすっきりしている。

『魏略』 從帯方至倭 循海岸水行 暦韓國      到   拘耶韓國 七十餘里 
『魏志』 從郡 至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

あきらかに陳寿が「わけのわからない謎かけ」を意図して文字を追加しているのだ。

第三の問題は出港地である狗邪韓国はどこなのか?
狗邪韓国は韓の東南といい、通説では慶尚南道の金海とされる。金海は釜山の西に隣接してるので確かにパッと見、東南の隅にあるように見える。だが魏志は「東南だ」とはいってるが「東南の隅だ」とは言ってない。
帯方郡から韓の東南「狗邪韓国」まで七千里。このコースは西海岸を南下すること4000里、そこから東に折れて南海岸を東行すること3000里で計七千里とみる説にしろ、内陸をジグザグに進むという説にしろ、どっちのコースでも狗邪韓国は東南は東南なのだが「東南の隅」ではなく東南の隅から1000里てまえの地点になる(内陸ジグザグコースの場合も同じ、定規で図面つくってみればわかる)。韓地は方四千里だから「東南の隅」なら七千里ではなく8000里になる。「狗邪韓国」が金海なら東南の隅で8000里になりそうなものだが。そこで「狗邪韓国」は「弁辰狗邪国」と同じものというのが通説なのだが、両者を別の国だとして、今の金海は「弁辰狗邪国」であり「狗邪韓国」はそこより1000里ほど西にあったのではないかという説も出てくる。別の国だという説では「弁辰狗邪国」は弁韓の中の一国だが、「狗邪韓国」は馬韓・弁韓・辰韓のどれでもなく、魏志に「其の北岸狗邪韓国」とあるのは「倭の北岸」で倭国の領土だという。国名に韓とはっきりついてるのに倭だというのはちょっとどうなのかと思うが…。ともかく仮にこの説でいくとどうなるか。

魏志には「弁辰瀆盧国は倭に接す」とあり、まるで瀆盧国だけが倭と国境を接しているかのような書きぶりだ。上記の前提でいくとこの場合の倭は海の向こうではなく韓地内の倭だろうから、「狗邪韓国」のことだと考えるのが普通の流れだろう、あくまで狗邪韓国と弁辰狗邪国を別とする説の場合だが。で、瀆盧国は今の釜山市東莱区という津田左右吉の説が通説になっており、他に巨済島説があるがこっちは有力でない。

『三国史記』地理志によると巨済島には東西南北4つの郡県があり、うち北が「裳郡」、西が「買珍伊県」というのが知り得る最古の古地名とわかる。李朝末期の儒学者丁若鏞(丁茶山)は『我邦疆域考』の中で「鏞案、瀆盧國者、今之巨濟府也。本裳郡、方言裳曰斗婁技。與瀆盧聲近」(自分が思うに瀆盧国は今の巨済府である。もと裳郡で、朝鮮語で裳を「斗婁技」という。瀆盧と発音が近い)といっている。裳(呉音:じゃう/現韓:san)の訓斗婁技は "tu-lu-ki" だというがグーグルで現代韓国語の発音を調べたら "dulugi" という。これはローマ字表記の問題で同じ発音だろう。裳は韓国語でチマ(チマチョゴリのチマ)というのではないかと思うんだが、 "dulugi" で通じるのかどうか俺は知らない。やはり裳郡の裳は普通に考えると土着語の音写であって漢字に意味はないと思うのだが。これに対し、任那日本府の研究で有名な末松保和は買珍伊(呉音:めちんい/現韓:mae-jin-i/古韓:mai-tor-i/古和:めとり?)が瀆盧と同音だという。

東莱だと「倭であるところの狗邪韓国」との間に「倭ではない弁辰狗邪国」が挟まり、倭と接することができない。巨済島だとすると「倭であるところの狗邪韓国」が北でその南に「倭ではない弁辰瀆盧国」があることになり、「東西は海をもって限り南は倭と接す」という韓の地勢にあわない。そもそも島だからどこにも接してない。東莱説にしろ巨済島説にしろ「倭と接す」というのは土地が繋がってるって意味じゃなく海を隔てて交通していることだという説もあるが、それなら瀆盧国に限る意味はないし、語彙としてもむりやりな解釈で学界の中でも外でもほとんど相手にされてないと思う。現実の地形はそりゃそうだろうが、それを魏志が正しく認識してたなら「接する」とは書かないはずで、なんの謎解きにもなってない。巨済島説に対し、釜山市東莱区(新羅時代の「東莱郡」)の東莱が瀆盧の地名の痕跡だという通説の方がはるかに説得力があり、瀆盧国は今の釜山市のうち洛東江の東側の大部分を占めていたと思われる。狗邪国は釜山の近くではあるが釜山でなく、釜山の西にある金海というところであって、釜山とは別である(洛東江の河口を挟んで東が釜山、西が金海)。さてそこで「弁辰狗邪国」はどこか内陸にあって、金海にあったのは「倭であるところの狗邪韓国」だとすれば、瀆盧国問題だけは一応辻褄があう。しかしこの場合は「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」が通説どおり同じ国だとしても結局その位置つまり倭への出航地は金海ということに変わりはない。
この話は「出航地が今の金海なのかそれとも他のどこかの場所なのか」という問題なわけだが、なんでそんな問題があるのかというと以下の対馬海峡での謎解きに続く。

倭人伝のありえない逆行コース
まず韓の東南の狗邪国から渡海して対馬国、一支国(壱岐)を経て、九州の北西にあたる末盧国(松浦、場所は諸説あるがとにかく九州の西北部)に上陸、そこからまた行程は続くわけだが、実際にはこんなコースを取ったはずがない。対馬海峡は強い潮が西から東へ流れており、船が流されてしまう。なので古代では(前近代では)、韓国から九州に南下する時は、もっとずっと西寄りの港から出て、対馬、壱岐を経て、九州の東北部に入港するし、逆に九州から韓国へ北上する場合には九州北西部(松浦郡のあたり)から出発して、壱岐、対馬を経て韓国の東南部(それこそ狗邪国、今の金海、釜山)に着岸する。これがお決まりのコースなのだが、魏志倭人伝では奇妙なことに潮の流れに逆らって、本来なら九州から韓国へ行く時のコースを逆行している。当時はこれは物理的に不可能なんで、これを知ってる人は狗邪韓国を釜山よりずっと西の方だと考える人もいて、あるサイトでは慶尚南道の固城半島だといってるが、さしたる根拠はあげられてない。また別のサイトではさらに西の、全羅南道の光陽だという説を主張している。

光陽(クヮンヤン)は狗邪と発音が似てるが百済時代に「馬老」といったのを統一新羅の時代に「晞陽」(きよう)と改名したもの。現代韓国語だと晞陽はシーヤン、馬老はマーナオ、狗邪はクサに聞こえる。古い発音は、狗邪は日本語読みの方が近く、馬老は正確な発音は不明だが子音をみるかぎりとても狗邪と似てるとは思われない。

また船舶考古学や航海術に詳しい人は、上陸地の末蘆国は九州の東北部にあったという珍説をいう羽目になる。例えば坂田隆『卑弥呼と邪馬台国』は福岡県遠賀郡岡垣町の波津、吉木あたりとし、小説家の高木彬光や東京商船大学名誉教授の茂在寅男も宗像市神湊だとする。

茂在寅男は、壱岐対馬の現在にも伝わる船の下に帆を張るという変わった帆の使い方=潮帆(しおぼ)に注目して、当時の帆船もそうであったと推定する。潮帆は、潮夕と海流が強いための工夫から生み出された帆船であり、壱岐からの黒潮の分派の流れに乗って辿り着くところを比定すれば「神湊」は自然推力で辿りつく事のできる場所になるという。

こういうふうに理系の人は文献に物理的にありえないことが書かれていれば文献を否定して物理的にありえる方を採る。しかし俺は文系なんで、物理的にありえなくても、地名比定の上からは末蘆国は松浦郡でしかありえないと思うし、宗像あたりにもってくのは史料に現われた残存古地名の分布からして無理矢理な違和感を抱く。
このコース逆行は明らかに現地の実情を知らない者が簡単な地図だけ見ながら頭の中で組み立てたコースだ。もとの資料には正しくコースを進んだという記述があったろうが、わざと距離数をかせぐためにこんなことをしたんだろうとはすぐ気づく。帯方郡は北西にあり、倭国は南東にあるんだから、この対馬海峡を渡るところでは行きは「\」だが帰りは「Z」字型になる。渡海だけなら「\」でも「/」でも距離に大差ないが「Z」の場合、九州側の陸行と韓国側の陸行「二」の部分が加算され、それだけ距離が余計に長くなるわけだ。行きは「\」だけ。帰りは「/」+「二」=「Z」。普通に考えると「\」のコースだと邪馬台国まで一万二千里に不足したので「Z」コースを採用して数字を水増ししたのだろうと考えやすい。実測ではそんなに遠くないのだが、曹真の「親魏大月氏王」に対抗するという司馬懿の政治的な都合で「一万二千里」という数字が要請されたってのは、ほぼ通説で、もう超有名なネタなので詳しい説明は省略する。
つまり魏志は「わかっててあえて逆コースを進んだかのように書いてる」。
ここであの「其の北岸」問題ですよw 普通は「南岸」とあるべきに「倭からみて北にある岸」だと書いてる。視点が倭からの視点になってるのは、いうまでもなく韓地から倭に渡る時の視点ではなく「倭から韓に渡る時の視点」なわけで「其の北岸狗邪韓国」と書かれている段階で「これは実は韓から倭へいくコースじゃなくて倭から韓にくる時のコースなんですよ」とさりげなく示していたのだとわかる。これも「春秋の筆法」ですなw(「春秋の筆法」については後述)

【壱岐の西南】倭からの出航地点
では「Z」の四隅(「\」と「/」を重ね合わせた「X」の四隅)は具体的に今のどこなのかというと、左下の出航地点である末盧国は『古事記』に末羅県(まつらのあがた)、『日本書紀』に松浦県、『先代旧事本紀』では末羅国造(まつらのくにのみやつこ)として出ており、穂積氏の流れという。穂積氏は饒速日系の物部氏の分流という系譜伝承があって一般にはこれが信じられてるが、カバネが連でなく臣なので、饒速日系の物部ではなく和邇氏系の物部だろう。国造に昇格したのはかなり後で、県主(あがたぬし)だったと思われる。倭人伝では対馬国・一支国・末蘆国の3ヶ国だけが「海洋民族」であると強調していることは中世の倭寇を思い出させる。16世紀に松浦党の倭寇は長江の上流まで攻め上り、対馬・壱岐・松浦は中国と朝鮮から「海上の三島」と呼ばれて怖れられた。倭寇の本拠地だったからである。3世紀においても倭国の水軍の先鋒はこの3ヶ国だったとみて間違いない。末蘆国の場所は遺跡がいくつかある唐津説が有力だが、西彼杵半島説、佐世保説、伊万里説、呼子説、名護屋説もある。潮流から考えるとおそらく平戸のあたり(陸でつながってないといけないというなら対岸の田平町)が末盧国だと思うが、領域の広がりを考えれば唐津の遺跡地帯が中心で港はそこから離れていたとしてもいいし、さしあたり九州西北部の沿岸地方なら他のどの説でもよい。

【壱岐の東南】倭への着岸地点はどこか
次に右下の着岸地点だが、これはおそらく不弥国だろう。人口の説明に「戸」を使ってるのに一支国と不弥国だけが「家」の字を使ってる。これを社会構造とか家族制度がこの二国だけ他と違ってたとか言ってる説もあるがいくらなんでも深読みのしすぎだろw 確かに、「戸」と「家」の使い分けも漢文にはちゃんとあって、例えば現代中国語での話だが、一人の男性がかかえてる自分の全家族が「戸」だとすると、その男性に三人の奥さんがいた場合「三家」という場合があるそうだ。これから推定すると「戸」と「家」を使い分ける場合には「戸」の方が大きな単位で「家」はそれを構成する下位の単位のようだ。律令時代の日本では平均25人からなる「郷戸」とそれを構成する平均5~10人の「房戸」の二層構造があった。それはあくまで律令時代のことで三世紀には関係ないという説もあるが、三世紀にすでにそのような社会構造の原形があったことが倭人伝から推測できる。すなわち魏志倭人伝には

有屋室、父母兄弟、臥息異處。

とあり。考古学でわかってる弥生時代の普通の民家というのはせいぜい5~6人しか住めない。当然、家屋(建築物)は核家族のためのものと考えざるをえない。魏志がいってる「父母兄弟」とは既婚の成人男性からの視点だから、核家族は「屋室」(独立した建築物)に住んでいたという意味。複数の「屋室」が集まって大家族を構成してるわけだろう、つまり律令時代の「房戸」が倭人伝でいう「屋室」にあたる。わざわざ「屋室あり」と断ってるのは倭人伝でいう「戸」とは別の話をしてる。倭人伝でいう人口単位の「戸」が中国の戸(これは郡県の平均から5人くらいと判明してるので核家族でしかありえない)と似たような核家族なら「有屋室、父母兄弟、臥息異處」(住宅ごとに、自分の親夫婦や自分の兄弟の家族がそれぞれ分かれて住む)なんて当たり前のことはわざわざ書かれるはずがない。つまり中国の「戸」は核家族だが倭国の「戸」は大家族であり、律令時代でいえば「房戸」ではなく「郷戸」にあたる。これを漢文の「戸」と「家」の使い分けにあてはめれば郷戸が「戸」で房戸が「家」になるが、先にいったように中国領内の郡県(中国人居住地域)では「戸」は核家族の単位であるから、「家」と同じで変わりはない。つまり漢文では「戸」と「家」を使い分けることもあるが、同じように「戸」と「家」をまったく同義に使うこともちゃんとある。意味のある使い分けの時はその使い分けの意味が表面的に読んでもわかるように書かれる。だが、漢文によくありがちな、ただの同語の言い換え、別表現の場合も当然ある。今回は根拠のない勝手な深読みをしない限り、意味の違いが読み取れないのだから「ただの同語の言い換え」に該当する。しかしその上で(それに反してでなく)これは一支国から直接に不弥国に渡ったことを示すのではないか、という説も昔からある。一方、末盧国には官名が出てない。伊都国と隣接して伊都国の一部だから実際に役人がいなかったんだという説もあるが、五百里とあるんだから末盧国は伊都国とかなり離れてないとおかしいし、人口が伊都国の4倍もあるんで、役人はいたはずだろう。中世には対馬、壱岐、松浦は倭寇の本拠地で「海上の三島」といわれセットにされてた。なので末盧国も対馬国や一支国と同じく「卑狗」と「卑奴母離」がいただろう、これが省略されたのは実際には魏使が立ち寄らなかったことを示すのだ、という昔からある説が妥当。「家」の字と末蘆国に官名が出てないのはどちらも「文(ふみ)の錯(たが)え」であり、両方セットで一つの「春秋の筆法」なのである。官名が無いのは官に会わなかったから、なぜ会わなかったかといえば行ってないから。通常「戸」で人口を表わすのに一支国と不弥国だけ「戸」でなく「家」になってるのは、この二国が密接な特別の関係にあることを示すため、それは一支国から渡航して末蘆国に向かわず直接に不弥国に上陸することを示す。つまり「行き」の正しいコースを暗示してるのである。
これで「\」コースの右下の着岸地は不弥国だとわかる。
潮流から考えるとおそらく遠賀川の下流、遠賀町にあったとされる「岡県」(をかのあがた)が不弥国だろう。『日本書紀』に出てくる岡県主熊鰐(をかのあがぬし・くまわに)が周防の海から筑紫の海までを采配していた話があり、遠賀町のみならず北九州市の全域が岡県だったと思われる。この岡県主はおそらく、安曇氏と並んで古代の「2大総合商社」といわれる宗像氏の一族で、当時は遠賀郡と宗像郡は分離せず一つの圏域だったろう。当時は遠賀町は海の底で遠賀川は深い入江というか南北に長い巨大な内湾だった。これは地質学者は「古遠賀潟」といっている。これの東隣りの洞海湾は今は埋め立てで細長くなってるが昔は「クキの海」と言ってやはり巨大な内湾だった。神武天皇が立ち寄った「岡田宮」の旧跡地も洞海湾のすぐそば。「古遠賀潟」と「クキの海」は奥の方では江川と堀川という二つの川で繋がっており往来も可能。この二つの巨大な湾内に、本州から韓に渡る船と韓から本州へ行く船とのターミナルとして大量の船が停泊していただろう。まさに「海の国」だから不弥国は于弥国の誤記なのである(馬韓の不弥国とはコジつかない。つか馬韓の不弥国は「不弥支国」の誤記というのが定説だから「于弥」と「不弥支」ではぜんぜん別になる。もし「不」の字を活かすなら古遠賀潟と洞海湾の「二つの海」だから「二海」(ふみ)の国といったのかもしれないが、まぁ「不」は「于」の誤写とする方が穏当だろう)。于弥国の長官は「多模」(たも)、これをタマ(玉?魂?)あるいはトモ(伴)と解する説もあるが、船を泊める意味の動詞「とむ」(泊)、物資を確保、保管する意の「たもつ」(保)、支給する意味の「たまふ」(給)、ものを運ぶ意味の動詞「たむ」(回・運)、蓄積する意味の動詞「たむ」(留・蓄)等と関係ありそう。これらの動詞の名詞形の古い形で、物資の流通を管掌する長官の意味ではないか。以上の北九州市説は、于弥国の範囲が西は宗像、東は洞海湾まで含み巨大な2つの湾を「海の国」と称したのだという説。

日本書紀の岡県主(をかのあがたぬし)の関係する神社が洞海湾側には岡田宮、古遠賀潟には岡湊神社があり、古代の岡県は二つの海を包括していたことが想像できる。ヲカは陸地をいう一般的な言葉で、浜田遺跡のある若松区などは、洞海湾と古遠賀潟に挟まれた巨大な中洲だったんだろう。船から降りることを「ヲカにあがる」というように、陸からみれば不弥国(海)、海からみれば岡県(陸)なのである。東の洞海湾と西の古遠賀潟をつなぐ北の江川と南の堀川に囲まれた八幡西区大字浅川のあたりが不弥国の中心と目される。ここに日ノ峯山という火山があり、頂上には三つの巨石と、宗像の沖ノ島遺跡と同系の5世紀に遡る祭祀遺構が発見されており、巨石信仰はそれよりさらに古くに遡る。付近の日峯神社に伝わる伝説ではここの神が火を灯して遭難船を導いたという。日ノ峯山の3つの巨石のうち一つは付近の神社に移されて今は2つ‌になってしまっているが、3つの巨石は宇佐神宮の奥宮である御許山の山頂の3つの巨石と共通し、あきらかに宗像三女神の神籬だろう。不弥国の多模(=岡県主:をかのあがたぬし)は宗像氏だと推定する理由の一つがこれ。上臈岩日峯神社の境内に移された「上臈岩」。あとの2つ「琵琶岩」と「国見岩」は日ノ峯山山頂に残されている。写真は神社公式ページより。

他の説で日本海沿岸部にみる説では、博多湾説、津屋崎町説もある。北九州市説でなくても、さしあたりは九州東北部の沿岸地方なら他のどの説でもよい。ダメなのは宇美町や穂波、太宰府など内陸にみる説や、国東市とか行橋市とかの瀬戸内海沿岸にもってくる説で、これらは不弥国が対馬海峡を往来する通常航路における北九州への常用の上陸地点だということに考慮が及んでないのでアウト。

【対馬の西北】韓からの出港地点
で、次に左上の出港地だが、「春秋の筆法」で邪馬台国業界に一世を風靡した孫栄健の説で、魏志韓伝の馬韓・辰韓・弁韓に重出国名がそれぞれ2回づつあるのは「春秋の筆法」であり、倭人伝に国名重出する「奴国」に注意を払えという合図なのだという。ちょい正確にいうと、弁韓の国名重出というのは弁韓と辰韓に一つづつ跨っており、「三韓それぞれに一つづつ」とキレイにまとまってない。これは孫栄健の理論でいうと「春秋の筆法」であり「文の錯(たが)え」であって、特別な意味があるはずなんだが、なぜか孫栄健氏はそこまで指摘しながらスルーして、特に意味のあることは何も言ってない。まず馬韓では

有、01爰襄國 02牟水國 03桑外國 04小石索國 05大石索國 06優休牟涿國 07臣濆沽國 08伯済國 09速盧不斯國 10日華國 11古誕者國 12古離國  13怒藍國 14月支國 15咨離牟盧國 16素謂乾國 17古爰國 18莫盧國 19卑離國 20占離卑國 21臣釁國 22支侵國 23狗盧國 24卑彌國 25監奚卑離國 26古蒲國 27致利鞠國 28冉路國 29兒林國 30駟盧國 31内卑離國 32感奚國 33萬盧國 34辟卑離國 35臼斯烏旦國 36一離國 37不彌國 38支半國 39狗素國 40捷盧國 41牟盧卑離國 42臣蘇塗國 43莫盧國 44古臘國 45臨素半國 46臣雲新國 47如来卑離國 48楚山塗卑離國 49一難國 50狗奚國 51不雲國 52不斯濆邪國 53爰池國 54乾馬國 55楚離國、凡五十餘國


※わかりやすく番号ふりました

とあり「莫盧国」が18番目と43番目に重出している。合計が「五十余国」とボカされてるので、この重出が同名の別国なのか、誤って2回書かれたのか、これだけではわからない。仮に重出だとすると54ヶ国。不弥国のところで言ったように「37不彌國 38支半國 39狗素國 40捷盧國」のところは「不弥支国 半狗国 素捷盧国」と改訂する内藤湖南の説が定説で、こうすると不弥支が『日本書紀』の布弥支(ほむき:忠清南道の新豊)、半狗が『日本書紀』の「半古」(はんこ:全羅南道の羅州)と現地比定できる。なので1国へってしまうが、李丙濤の説では「48楚山塗卑離國」を「楚山国」と「塗卑離国」にわけるので合計の国数はかわらないことになる(楚山国は全羅北道の井邑)。次に辰韓をみると

有、01-01s巳柢國 02-02s不斯國 03-01b弁辰彌離彌凍國 04-02b弁辰接塗國 05-03s勤耆國 06-04s難彌離弥凍國 07-03b弁辰古資彌弥凍國 08-04b弁辰古淳是國 09-05s冉奚國 10-05b弁辰半路國 11-06b樂奴國 12-06s軍彌國 13-07s軍彌國 14-07b弁辰彌烏邪馬國 15-08s如湛國 16-08b弁辰甘路國 17-9s戸路國 18-10s州鮮國 19-11s馬延國 20-09b弁辰狗邪國 21-10b弁辰走漕馬國 22-11b弁辰安邪國 23-12s馬延國 24-12b弁辰瀆盧國 25-13s斯盧國 26-14s優由國、弁辰韓合二十四國

とある。国名に「弁辰」とついてるのが弁韓の諸国、ついてないのが辰韓の諸国。で、数えると計26ヶある。馬延国が19番目と23番目に重出、軍弥国が12番目と13番目に重出している。馬延国は慶尚北道の孝令と杞渓で2ヶ所に比定地があるから重出でなく同名の二ヶ国あったんだともできるし、孝令と杞渓は割りと近いので両地域にまたがる一つの大国だったともできる。13番目は「弁」の字がついてるから弁韓だとすると、弁韓の軍弥国は慶尚南道の泗川で、12番目の辰韓の軍弥国は慶尚北道の金泉と、これも両所に比定地がある。なので現代の読者からすると26ヶ国でも良さそうに思われるのだが「辰韓も弁韓もきっちり12ヶ国づつで弁辰韓あわせて24ヶ国」と本文で念押ししてるんだから著者としては同一国の重出だとわかってほしいに違いない。少なくとも陳寿の意図はそうだ。馬延国が辰韓の重出分だから、軍弥国の方は弁の字もついてるし弁韓の重出分かな、と思ってしまうが、そうすると辰韓がまだ1国不足するので、軍弥国も辰韓に入れざるを得ない。これで、重出分を省いて「弁韓・辰韓それぞれ12国づつ」になる。「春秋の筆法」を最初にもちだした孫栄健が言うには、「馬韓・辰韓・弁韓」にそれぞれ一回づつ「国名重出」が出てくるのは、次の倭人伝にまたも出てくる「国名重出」の国、つまり「奴国」に注目しろというシグナルだというのだが、俺はそれだけじゃないと思うんだよねw 孫栄健はここまでしか言ってないが、これで解決したと思うと「春秋の筆法」を読みそこねてしまう。
数合わせの上では軍弥国は辰韓のはずなのに重出分はなぜ「弁」の字がつくのか? 軍弥国はあくまで辰韓の国だとすると「三韓それぞれひとつづつ重出」ではなく「辰韓にふたつあって、弁韓には無い」という偏ったことになってるんだから、これぞ「文の錯え」で「義例」を示すものだ。これは孫栄健の主張する理屈からいえば「軍弥国と弁軍弥国に注目しろ、注意を払え」というシグナルであるはずだ。そうすると不思議なことに気づく。弁韓の諸国は頭に「弁辰」とつくことになってるのに、2ヶ国だけ「弁」一字だけになってるのがある。それが「弁楽奴国」と「弁軍弥国」だ。弁1字の国も2ヶ国だから「重出」だ。そうするとこの「重出」現象というのは、最後にでてきた「弁楽奴国」に注目しろ、という意図なんだろう。昔の説ではこの2ヶ国が「弁韓」で後は辰韓と「弁辰」が11ヶ国づつ、つまり弁韓と弁辰は違うのだという説もあったが、それも誤りで、魏志の説明に従う限り、弁韓も弁辰も同じものと解釈せざるを得ない。かつてはなぜ魏志が「弁韓」と「弁辰」を書き分けているのか意味不明だったのだ。
魏志は辰韓と弁辰は雑居してて地域を分けられないようなことを言っており、だから国名も「二十四国」ごちゃまぜに並べている。岡田英弘なんかこれを真に受けて弁韓と辰韓はモザイク状に混在しているようなことを言ってるが、プロの学者にも素人マニアにも賛同者はいない。実際の諸国の比定地を地図でみると、多少の例外はあるが大雑把にいって洛東江の東北側には辰韓、西南側には弁韓とわかれており、なんらかの理由で意図的に魏志韓伝が嘘をついてるのが明らかだ。『後漢書』東夷伝では「西が馬韓、東北が辰韓、東南が弁韓」と修正されておりこれが正しい。なのに魏志では「西が馬韓、東が辰韓」とだけ言って、弁韓の地は辰韓に含ませている。だから「弁辰」という用語は「辰韓の中の一部であるところの弁韓」という意味で、ここだけの独自用語なのである。ところが例外的に「弁辰○○国」ではない「弁○○国」があったらどうなるか。それは辰韓に含まれない・辰韓からは独立した区域としての弁韓、ということになるだろう。『後漢書』の「西が馬韓、東北が辰韓、東南が弁韓」という正しい地理認識でいえば弁韓は辰韓の南にあり、従って弁韓のさらに南は、海に面しているか、倭と接しているかのいずれかでしかない。つまりこの「弁韓の楽奴国」というのは狗邪国と同様、南の海に面した港なのではないか、倭国への出航地なのではないか。弁辰瀆盧国ただ1国だけが格別に倭に接していると特筆されながら「弁辰」であって「弁」でないのは、建前上は海に面していないことになり、陸地でつながってる(接壌している)と言いたいのだろう。そうすると海に面しているのは「弁」の2国、弁楽奴国と弁軍弥国しかない。が、弁軍弥国は辰韓の軍弥国の重出であり、前述の通り、軍弥国が弁韓だと数があわなくなるからこの国は辰韓であり、従って弁韓の軍弥国というのは国名重出によってみえた幻、名前だけの虚構の国だ。すると弁韓つまり南の海に面してるのは弁楽奴国ただ1国だけとなる。
楽奴国を楽浪郡にあった楽都県にコジツケる説はぜんぜんダメ。「楽」の字は朝鮮語では古くから[ak]と[rak]の両方あり、前者は日本や中国では滅びてしまった古い発音の名残りと認められ、楽奴は「アナ」と読める。慶尚南道と全羅南道の境界でもある蟾津江の東沿いに岳陽という地名がある。新羅時代の岳陽県で、この岳陽(旧字体で「嶽」陽)は現代韓国語で[ag-yang]、[ag]の[-g]は鼻濁音[-ng]に近く、古代日本人の耳にはアヤかアナに聞こえたろう。岳陽県に改名する前は「少多沙県」といい、蟾津江に沿って南下するとすぐ南が慶尚南道の河東。ここは新羅時代には「韓多沙郡」があった。この「韓」は「大」の意味のカンという新羅語をあらわすための当て字であり韓国の「韓」ではない。「大多沙郡」というに同じ。県は郡の下部区域で「少多沙県」は「大多沙郡」に含まれる。楽奴(=岳陽)という名も、弁韓の全体を12ヶ国に分けたのなら少多沙も大多沙も「楽奴国」に含まれていたろう。ここは『日本書紀』では「滯沙」(たさ)と書いて、継体天皇の時に任那から百済に割譲した「四県二郡」の「二郡」が「己汶」(こもん)と「滯沙」。この時、加羅の諸国は「滯沙の津」は任那から日本へ貢ぎを運ぶための港だからといって百済への割譲に猛反対した。それほど重要な港があった。
※なおネットでみたある論文では魏略逸文の引用の中で弁韓を弁辰としているから、この春秋の筆法は陳寿の仕込みではなく『魏略』の段階ですでにあったことになる。しかし維基の中國哲學書電子化計劃で翰苑の全文を確認したところ魏略韓伝では弁韓となっており弁辰という語彙は出てこない。翰苑以外の引用魏略で弁辰となってる例があるのか、当該論文の誤植なのか不明。

以上、「国名重出」を手がかりにした「春秋の筆法」によって「楽奴国」に辿りついたわけだが、これは孫栄健の中途半端な与太話を俺が完成させてあげただけだから付き合う必要がなく、国名重出じたいがただの誤記で「春秋の筆法」なんてものははじめから無いんだという立場であってもよい。それでも『日本書紀』によって出港地は「滯沙の津」だと最初に推定できれば、『三国史記』地理志の古地名から魏志韓伝の「弁楽奴国」は簡単に導き出せる。陳寿が魏志東夷伝を書いてた時には『日本書紀』だの『三国史記』だのという便利な書物はない。本文の中にヒントを隠したという説は昔からあったが、たいていは妄想半分のパズルごっこにすぎず、学者が相手にするようなものではなかった。1982年の孫栄健の『邪馬台国の全解決』はそれを漢文解読に必須な「春秋の筆法」であって、これを認めないやつは学者として失格だという脅かしで補強したところが新しかったw

【対馬の東北】韓への着岸地点
四隅のうち最後に残った右上の着岸地点だが、もちろん狗邪韓国のことだ。狗邪韓国は現在の金海(釜山の隣)という通説のままで異論ない。「其の北岸」という言い方が倭から韓にむかう時の視点であることも既述。すでに述べたごとく瀆盧国が巨済島とは考えにくく、瀆盧国は釜山つまり「東南の隅」(郡から8000里)の地点にあたる。そこより西の手前1000里(郡から七千里)の「狗邪韓国」が金海。「楽奴国」は河東。他に弁一字の「軍弥国」も辰韓の軍弥国とは別にあったとすると弁韓12国が13国になってしまうが、別に13国になってもいいとすれば軍弥国もまた弁の1字がついてる以上、南が海に面してたのは上述の通りで、既述だが今の泗川。楽奴国と軍弥国の、魏志の脳内設定での距離の離れ具合はわからぬが、西から順に「楽奴・軍弥・狗邪・瀆盧」と並んでいたと想像される。そうではなく、軍弥国は辰韓の方だけが実在で弁韓の軍弥国は存在しなかったと考えるのが穏当だろうが、まぁさしあたりどっちでもいい。(瀆盧国の位置問題については後半、「方角」のズレの議論で詳しく解析する、ここではやらない)
以上で韓側と倭側の、出港地と入港地、あわせて4ヶ所が確定した。

倭へ韓からの往路 … 弁楽奴国→対馬国→一支国→不弥国
倭から韓への復路 … 狗邪韓国←対馬国←一支国←末盧国

次に伊都国と奴国についてだが、その話にいく前に、「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」は同じか別かという問題を片付けよう。(それとなぜか瀆盧国だけが「倭と接する」という問題もあるがそれはずっと後の方で方角についての議論で一緒にやります)

「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」は同じか別か
「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」が別だとする説には、半島内に倭の領地(支配圏)があったという説と密接に結びついてる。この説の何が気に入らないかといって、半島内に倭領を想定する説の場合、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の外部に倭領(=狗邪韓国)があったようなことをいう。これは記紀の伝承と異なっておる。皇国史観に反するから却下w 高句麗も百済も新羅も大日本帝国の属国であり藩屏だろw 韓における倭国の勢力圏の議論した方が面白い話がたくさんあるのだが、ちょっと今回の話とズレるので、いつか任那日本府について議論する時にまとめてやりたいとは思ってます。ただ、「狗邪韓国と弁辰狗邪国は通説どおり同一国なのだがその国は倭国の一部だったのだ」という人もいるのだから、「狗邪韓国と弁辰狗邪国が同一国なのか別の国なのか」という問題と、「狗邪韓国が倭国の領土だったかどうか」という問題は一応は別の議論として分けなければならない。同一国だったからって「倭国の一部だ説」が不利になるわけではないから安心しろw
狗邪韓国と弁辰狗邪国が別の国だという人々は、「弁辰狗邪国」は弁韓(弁辰)の中の一国だが、「狗邪韓国」は馬韓・弁韓・辰韓のどれでもなく、馬韓・弁韓・辰韓とならぶ4つめの狗邪韓なのだ、そして魏志に「其の北岸狗邪韓国」とあるのは「倭の北岸」の意味で、4つめの狗邪韓は倭国の領土だから三韓の中に入ってないのだ、というのだが、本当かね?w
狗邪韓国の「狗邪」は韓国の中の一部で小名(下位区分)もしくは都市名、「韓」は広い範囲をいう大名もしくは民族名。こういう構造は他にも、魏の正始八年(247年)に冊封された「不耐濊王」という有名な県王がある。不耐は不耐県という一つの県城の名、濊は民族名でもあり広域名でもある。不耐城にいて周辺の濊族の王でもあった。江原道にいた「東濊」も東の方にいる濊の意味ではなく「東暆濊」の略だろう。臨屯郡の郡治所「東暆県の濊」だから「東暆濊」。沃沮も住民は濊人だったというから「夫租穢」の意味だろう。玄菟郡の最初の郡治所「夫租県の濊」ということ。高句麗も「高句驪県の濊侯」。これらの例では中心部の名が、それが仕切る圏域の全体の名に転化していくことに注意。もう一つ有名な例では、魏志韓伝では二郡に反乱をおこした国を「臣幘沾韓」(しんさくてん韓)といってる。これは馬韓の中の「臣濆沽国」(しんふんこ国)の誤記というのが通説で同じ国(今の京畿道の陽城)。これも「都市名+民族名」になっており、「臣幘沾韓」は「狗邪韓」と同じ表記法なのがわかる。では「臣幘沾韓」は馬韓・弁韓・辰韓・狗邪韓とならぶ「第5の韓」なのか? どうなんだ? そこのところどうなのよ? 漢籍史書を原文で読みなれた人は直感的にわかると思うけど、現代語のセンスで漢字みてる人はここまで説明してもまだ自分がへんな読み方してたって気づかないかもしれんね。だがここで狗邪韓国は弁辰狗邪国と同じもので「韓の一部であって倭ではない」ということをしっかり腑に落としてもらわないと、後々の謎解きが行き詰まってしまう。理屈がわかっても感覚的に納得できないという人の中には、あるいは「半島に倭国の勢力圏があった」って話を否定されたように感じるから直感的に納得できないって人もいるだろう。うんうんわかる、俺もウヨだものw しかし、そういうことには全然ならないってことを【その2】か【その3】でちゃんと説明するので安心してくれw つかむしろ期待してこのまま読み進んでくれw

さらにいえば、実は「馬韓・弁韓・辰韓」も同じ理屈でできている。「馬韓・弁韓・辰韓」の語源は大昔の古い説をいまだにふりまわしてる人がいるが、これは「乾馬韓・半跛韓・斯蘆韓」の略だ。馬韓の「乾馬国」(全羅南道の金馬堵)を中心とした諸国だから「乾馬韓国」=「馬韓」というともされるが、そうじゃなくて「乾馬韓国」も「乾馬韓」も「馬韓」もただ「乾馬国」のことで、後にこの名で54国を代表させるようになった。そのことは濊の諸例からも推測がつく。中心部の地名が全体の総名に転化していく。辰は「斯蘆」(シラ)を別の当て字で書いただけで同じもの、斯蘆国を中心とした韓の諸国が「辰韓」だというが正確にいうと「辰韓の斯蘆国」といっても「斯蘆韓」(=辰韓)といっても同じもので「斯蘆国」のこと。これが辰韓十二国の全体をさすというのは順序が逆で、「斯蘆国」で全体を代表させているのである。辰韓は12国全体の名になったのは後のこと、もとは「斯蘆国」=「斯蘆韓国」=「辰韓国」なのである。弁韓は「半跛国」の半だから半韓とあるべきだが『魏略』で王莽の頃の話として辰韓と牟韓というのが出てくる。この牟韓が普通は弁韓の誤記だろうとされてるのだが、もと半韓だったのを牟韓に誤記したのではないか。その牟韓をさらに弁韓に誤記した。半も弁も偶然にも発音がほとんど同じだが、うるさくいえば「半韓」がただしい。これは日本書紀にでてくる「伴跛国」とおなじ国でもともと弁韓とは「伴跛国」のことなのであり、これが代表する12か国をのちに弁韓というようになった。

これらの例から「都市名+民族名」という構成の方が一般的で、「弁辰○○国」というのは魏志の特有なへんな言い方なのがわかる。むろんなんでそんなへんな言い方をしてるのかという訳はすでに述べた通りで、弁韓を辰韓の中に含めなければならない事情があったから。すると、邪馬台国へのルート説明の中でなぜ「弁辰狗邪国」でなく「狗邪韓国」になってるのか、どっちでもいいなら同じ東夷伝の中なんだから「弁辰狗邪国」で押し通せばいいのに、と何もしらない人は思うだろうが、もちろんそれはできない。「弁辰○○国」という言い方はそもそも無いので、ただ魏志東夷伝の中でのみ、国名重出の「文の錯え」によって楽奴国を出港地だと気づかせるためだけに、一回こっきり使われた表現だから。「弁辰○○国」というのは辰韓に含まれる弁韓のことだから南の海に面してちゃマズイわけ。弁辰瀆盧国は理論上(設定上)海に面してない(海にではなく倭に接してることになってる)から弁辰でかまわないが、狗邪国は「現実の入港地」兼「仮想上の出港地」だから海がある、だから「弁○○国」ならいいが「弁辰○○国」とは書けない。「弁○○国」も楽奴国を導き出すための道具として使用済みで二ヶ国しかないから楽奴国を導きだせるようになってるんで、三ヶ国になったらパズルが解けなくなる。だからここだけ突然ノーマルな「狗邪韓国」という書き方に直ってるのだ。逆にいえばなんで他のところは「弁辰○○国」なんて書き方してるのか、それに気づけとサインを送ってるのだともいえる。
さらにいうと、馬韓の方はともかく辰韓と弁韓については二十四国すべて比定地があって、慶尚南北道の全域に24国が散在しており、この南に倭地が入るようなスペースが無い。土地の配分からみても「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」は同じ国とした方がよさそう。井上秀雄の著作『古代朝鮮』に入ってる東夷伝の地図でネットで拡散されて有名なのがあるが(まちがいだらけで有名な?w)これなんかでは弁韓と馬韓の南にやけに細長く倭地を設定しているがそのせいで弁韓の領域が不自然に狭くなってる。まるで弁韓諸国の南部のかなりの国を倭地に入れないと無理だぞこれw

往路と復路の里数の差は?
さて本題に戻ろう。韓と倭それぞれの出航地点と着岸地点、あわせて4つの港が確定した。そこで、だ。往路「\」と帰路「Z」の差「二」の分は、倭人伝の設定では何里に相当するのか、それがわからないと何里分が水増しされて一万二千里になったのかがわからない。これについて、韓国側の方は説明ずみで、狗邪韓国と弁楽奴国の間は1000里。
で、倭国側だが。伊都国と奴国の位置については諸説に大差なく、通説のとおりでいいと思うが、末蘆国から不弥国までの実際の配置みると方角が45度傾いている。この方角の件については後述するとして今は触れない。末盧国と不弥国の間は順次式(連続直行式。以下「順次式」とよぶことにする)でも合計700里(末盧と伊都の間が500里、伊都と奴国の間が100里、奴国と不弥の間が100里)、放射説の場合は600里しかない。実際の地形からいうと奴国と不弥国の間が詰まりすぎてるから順次式で「四百里」の「四」、放射説で「五百里」の「五」の字が誤脱したんだろう。それなら合計1000里で、韓国側の長さと一致する。軍事センターである伊都国は両端(末盧国と不弥国の間、1000里)の真ん中にあったことになってちょうど良い。まぁ、さしあたり一致させないで順次連続式700里、放射説600里のままでもかまわないが。

あともう一つ、「家」の字からみて、倭人伝が一支国から不弥国への直行を示唆してるのは間違いないのに一支国から不弥国までの里数が明示されてない。建前上は末盧国にいってることになってるのだから明示のしようがないのだが、「楽奴国」と「対馬国」の間もそうだ。このへんの「渡海」にかんする里数はぜんぶ千里で統一されてるように思える。韓国と対馬の間、対馬と壱岐の間、壱岐と九州の間は地図でみると明らかにバラバラであって等距離にはまったくみえない。なのに倭人伝ではどれも千里で等距離だと言い張っている。とにかく海は等距離で一律に千里だってのが倭人伝での「設定」「お約束」になっている。そんなに大雑把でいいのかと言われそうだが、里程の誇張は平均して5倍。10倍説や短里説もあるが何にしろ、一定の倍率から実際の里数を割り出せるかといえば、それがそうならない。明治時代の白鳥庫吉から言われてることだが、平均して5倍といっても、平均偏差がデカすぎて拡大率が一定になってないのだ。だから一律に5分の1にしたからって実際の地形に合うわけではない。しかし方角はズレ方に一定の規則がありそうだ。これも明治時代から言われてること。そうするとこの話は「方角のおかしさ」は修正すれば正しいという話にもなるがその話は後回しにして、まずは、この行程はどうやって書かれたのかというと、明らかに実際の地図を見ながらではない。距離が適当だが方角が正しい、というのはシンプルな概念図とか模式図みたいなものが想定できる。

最初に設定された「一万二千里」
前の話に戻るが、本来なら普通に邪馬台国までの道のりを説明するためだけには自然と「\」コースになるわけで、帯方郡から「楽奴国」まで6000里、楽奴国から対馬、一支をへて不弥国まで3000里。あと残り3000里しかないから、仮に放射説を前提にすると伊都国まで200里、伊都国から邪馬台国まで2800里となる。順次式の場合は不弥国から投馬国を経て邪馬台国まで3000里に設定されていたと推定できる。6+3+3、合計一万二千里。今仮に方角の話は抜いてるが里数だけみるとこうなる。簡単である。至ってシンプル。単位が「千里」になっていて端数がないのは、この「千里」は単位とは別の漠然と「遠いこと」を表現する言葉でもあって、実測数値ではないことを暗示する。だから手を加える前の、もとの記録は末蘆国と伊都国間の五百里とか伊都国奴国間の百里ももともと記載なく「伊都国は末蘆国と不弥国の間にあり」「奴国は伊都国のそばにあり」ぐらいの書き方だったろう。手を加える前というか、最初に「一万二千里」にあわせて誇張した里程を作ったのがこれ。地理的な最短距離を示すだけなら不弥国以外の北九州諸国への行程など加算する必要もないし、だから伊都国を起点とした放射状の読み方も成立する余地がない。むろん伊都国についての説明がもともと原史料に無かったとも決めつけられないし、個人的には放射説を必ずしも否定はしない。「地理的な最短距離を示すだけなら」という仮定の話である(ただし放射説の根拠の一つ「至」と「到」の使い分けの件は放射説の根拠にはならない。別の意味がある。「至」と「到」の件は面白いので後でとりあげます)。この段階では距離の「日数での表示」なども無かったと思われる。みえみえの政治宣伝用の捏造なんだからあんまり複雑なもの作る意味もない。複雑な嘘は足がつきやすくボロが出やすい。実測地図は機密事項として当然、司馬懿のもとにあがってたはずだが、司馬懿は政治宣伝のため「一万二千里」の世間向けの報告書を創作させた。岡田英弘は上司の張華のために陳寿が誇張したようにいってるが、一万二千里は魏略の段階で出てるので岡田英弘の説は間違い。公孫淵を滅ぼして卑弥呼の使者が帯方郡にきてすぐ、司馬懿の命令で当時幽州刺史だった毌丘倹が手下の文官、たぶん当時帯方太守だった劉夏にでもやらせたんだろう。

「一万二千里」は奴国まで?
ところが、現状の倭人伝の行程はそうなっていない。ありえない逆行コースを使って韓地七千里、渡海3000里、末蘆国から伊都国と奴国を経て不弥国まで700里。ここまでで1万700里だから残り日数表示の部分は1300里しかない。放射式に読むと伊都国まで1万500里だから残り1500里。だから「邪馬台国は不弥国から1300里にあるはずだ」あるいは「伊都国から1500里にあるはずだ」といまだに主張する人がいる。ところで、奴国までは1万600里だから、対馬国の方四百里と一支国の方三百里の半周づつ計1400里を加算すると奴国がちょうど一万二千里になる。これ孫栄健がはじめて発見したようなこと自称してるけど、ホントかね? 似たようなことはそれ以前から何人か言ってたような気がするがなw しかし奴国までと邪馬台国まで、どちらも一万二千里で等距離、なんて偶然あるかね? ないよねw だから孫栄健は奴国を中心とした女王国連合の名が邪馬台国だと言い出したし、もっと昔は(あるいは今もか)女王国と奴国が同じ国か別のかはともかく「一万二千里という数字は邪馬台国とは関係ないんだ」として、九州の女王国(一万二千里の国)と畿内の邪馬台国(日数表示の国)が同時に別々に並立していたという「二王国並立説」や、九州の女王国が東遷して畿内の邪馬台国になったのだという「東遷説」もあったし、俺も何十年も前から女王国とは邪馬台国のことじゃなくて奴国のことではないかと疑っていた。というのは魏略や広志、三国志の別写本などで時々「奴国」を「女国」と誤記した例や、「女王国」の王の字が抜けて「女国」になっちゃってる例が散見されるんで、これはもしや「奴国」を「女国」に誤まり、それを不可解に思った人が字を補って「女王国」になったのではないか、と。個人的にはそれがほぼ確信だったんだが、細かいところでいくつか矛盾が残り、その時は結論でなかった。今思えば女王国は奴国を誤写したもので、女王国はもともと奴国と書かれていたはずだと思い込んでいたのが混迷の原因だった。原文では奴国になっていたとすると魏使が邪馬台国に行ってない(卑弥呼に会ってない)ことが丸わかりな文章になってしまうので、どうもおかしい。これは誤写などではなく、最初から意図的に女王国と書いてるのである。
女王国と邪馬台国が並立していた(もしくは女王国が東遷して邪馬台国になった)とかの事実があったのなら、それならそうと、ストレートにそう書いてあるのが普通だろう。一部の学者は、陳寿もよくわからないまま原資料を適当に綴り合せただけだというようなことをいうが、史書の編纂は歴史を崇拝する漢民族の名誉ある仕事であり、万世不朽に残るかも知れない一世一代の大業だろう、修史官の面目にかけて訳わからない文章をそのまま放置はしないと思うんだよね。例えば『後漢書』のように切り貼りして筋が通るようにリライトしちゃうか、さもなくば倭人伝の他の箇所にもあるように「詳細知るべからず」とか一言付け加えるとか、なんかかなんかあってしかるべきだろう。わざわざ分かりにくく書いたとすればそれなりの理由もなければならない。そう考えるとやはり女王国と邪馬台国の二つの勢力があったわけではなく、一万二千里はもともと邪馬台国までの里程だったものを、政治的な事情により、奴国までの里程としても読めるように、後から書き換えたのでわかりにくくなったんだと思われる。

改訂された「一万二千里」
まず前述のような韓地6000里、渡海3000里、上陸地の不弥国から投馬国経由で邪馬台国まで3000里、計一万二千里というシンプルモデルがあったのに、その後ずっと経ってから、ある事情で、一万二千里の地点を邪馬台国よりもずっと手前にもってこなければならなくなった。その事情はもちろんアレだよ、魏の使いは実は邪馬台国まで行ってないってことがバレそうになったんだろう。なぜ行ってなかったのかって理由は後の方で詳しくやるとして、ともかく行ってなかったって前提で話を進める。不弥国は着任する時の通り道、末盧国は任務終了して帰る時の通り道、奴国にも何かの用事で行くことはあるが普段は伊都国に駐留しているのであって、九州内の諸国は実際にぜんぶ行ったことがあるが、投馬国と邪馬台国には実は行ってない(だからって物理的・論理的には必ずしも卑弥呼に会ってないってことにはならないが、邪馬台国に行ってないなら普通は卑弥呼に会ってないと解釈されちゃうのはやむを得ない)。このことは役所の建前からはあっちゃならないことなんだが(だからいまだに魏の使いは卑弥呼にあったはずだと言い張る学者もいる)、本音と建前の使い分けなら日本人以上にうまいのが中国人で、普通の中国人なら大昔から建前は軽んぜられてるのでどうでもいい。だが司馬懿は政治家なのでそうもいかない、当時の中国では建前違反をスキャンダルに仕立ててライバルの追い落としに使うこともあった。陳寿も葬式のやり方だか喪の服し方だかがちょっと違っただけで失脚させられたからな。おそらく司馬懿も不本意ながら魏使の実態は承知はしていて、一応秘密にしていたんだろう。ところが正始五年(AD244年)に曹爽と司馬懿が不仲になってから、安心できなくなってきた。互いのは派閥にスパイが入り込んでるし、万が一にも情報が漏洩してしまい、司馬氏を誹謗するネタに使われたら困る。むろん公式には魏の使いが邪馬台国まで行ってない(卑弥呼に会ってない)なんてことは絶対に認めない。が、理屈もなくやみくもに認めないというよりは、できればウマい説明がつくに越したことはない。
そこで第一には奴国までしか行ってなくても一万二千里に達してはいること、第二に、その事が「以前から公表されてる情報とも矛盾がない」ように仕立てること。この両方をいっぺんに辻褄あわせた「最新レポート」を捏造せざるを得なくなった。どうやってそんなことが可能なのかというと、「女王国」という概念を使えばよい。当時の倭国は女王国と男王国に分かれて争っていた。女王国ってのは女王の傘下の国々(邪馬台オタクの好きな言葉でいえば女王国連合)のことなので広い範囲をさすものではあるが、当時にそれを構成する国々一つ一つも女王国には違いない。北九州の諸国も邪馬台国もすべて女王国なので、邪馬台国へはいってなくても極端な話、対馬国にいっただけでも理屈の上では女王国に行ったことにはなるのである。
魏の使いが実際に行った北九州の中での、政治経済文化の中心地は奴国だから、奴国までで一万二千里ってことにした。だがこれだけだと「奴国にしかいってない。邪馬台国に行ってない」のが丸わかりなので、奴国を「女王国」に書き変えてある。だから、そういう原資料に基づいた魏志倭人伝は読みようによっては奴国まででちょうど一万二千里になるようにも出来てるのである。邪馬台国論争に詳しい人は、有名な例の「伊都国までしか行ってない説」を思い浮かべて「奴国じゃなくて伊都国だろ」と言うだろうが、ちょっと違う。なぜ末盧国でも于弥国でもなく、伊都国でもなく、奴国なのかというと、伊都国は軍事基地ではあっても田舎であり、「人口・経済・文化・政治」の中心(民意が集約される都会)というわけではない。卑弥呼から派遣されてる一大率も、奴国から出向してる奴国王(現代人は伊都国王と誤解してるが)も、魏からの国使も、みな普段は、機密漏洩防止の都合上、警備の容易な伊都国で日常的な外交事務を行ってるが、公式の会議や儀式の時は奴国に移動して派手な政治宣伝をかねたイベントとしてやったに決まってるだろう。奴国が当時の北九州の中心なのである。
最初の設定のままだと、奴国までは韓地6000里、渡海三千里、于弥国から百里で計9100里(于弥国と奴国の間を400里とする説の場合でも9400里)しかない。そこで本来なら帰路であるはずのコースを逆行したというありえない設定にすると、韓地七千里、渡海三千里、末盧国から伊都国まで五百里、伊都国から奴国まで百里で計1万600里。まだ不足する1400里は対馬の「方四百里」と壱岐の「方三百里」から二辺を足して埋め合わせ、一万二千里とした。こういう場合の距離とは、A国の中心点とB国の中心点との間での距離をいうのであって、領土の半周を数え込むなんておかしな計算は中国の史書にも前例がなく、「普通は」しない。それをあえてやってるのはもちろん情況が「普通でない」からである。後になってからの辻褄合わせだからこんなことをやってるのである。だから「対馬国」と「一支国」の間は「南」と方角があるが、狗邪韓国から対馬国への航路と、一支国から末盧国までの航路は方角が書いてない。仮想上の方角を書くと「西南」で「東から西へ」逆行してることになり、事情を知らない中国人には不審に見えるだろう。ただでさえ捏造なんだから不信感をもたれるようには書きたくない。かといって実際の方角を書くと「東南」(西から東へ)になり狗邪韓国と末蘆国の位置に合わない。方角を書こうにも実際の方角と仮想上の方角がバッティングしてしまうから書くに書けないのだ。
なお、改訂前のプランでは放射説だとシンプルさに欠けてすっきりしないので順次式が正しいと思われるんだが、改訂後の現状プランでは順次式でも放射式でもどちらでも行けそうだと一見、思われる。放射式の読み方がもし正しいとした場合、この改訂の時に伊都国中心の行程に書き直されたんだろうが、さて…。順次式か放射式かで邪馬台国と投馬国の位置は違ってくるので、ここは大事なところだが、その前に「女王国」という概念について整理しておこう。
邪馬国への行程【その2】」に続く。
【その2】では「女王国」という概念について解析し、周旋五千里の数字に隠された意味を展開します。
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