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邪馬台への行程【その2】~女王国と周旋五千里の謎~

改稿:2679年[R01]10月20日SUN (初稿:2679年[R01]10月10日THU)
邪馬台への行程【その1】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その1】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「女王国」という言葉
女王国という言葉は本来は男王国の対語で、倭国が男王派と女王派にわかれていたという情況を反映していた。女王国は「女王が支配する諸国=女王を支持する諸国」、男王国は「男王が支配する諸国=男王を支持する諸国」の意味。だから理屈だけいえば、邪馬台国も女王国だけど、奴国も女王国(の一部)ではあるわけだ。倭人伝に出てくる「女王国」という言葉を、読者は邪馬台国のことだと錯覚して読んでるが、実は奴国のことだったりする。しかし言葉の定義上、嘘をついてるわけではない。実際、倭人伝には「女王国」という言葉は5回でてくるが、文脈から判断するに、そのうち4回は単に奴国をさしている。

魏志倭人伝にでてくる「女王国」と「女王」のリスト


(A)「皆統屬女王國」◎
(B)「自女王國以北其戸数道里可得略載」 ◎
(C)「自郡至女王國萬二千餘里」 ◎
(D)「自女王國以北特置一大率檢察諸國」 ◎
(E)「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」 ●

(1)「南至邪馬壹國女王之所都」
(2)「次有奴國此女王境界所盡」 △
(3)「其南有狗奴國其官有狗古智卑狗不屬女王」△
(4)「傳送文書賜遣之物詣女王」
(5)「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」●
(6)「倭女王遣大夫難升米等」
(7)「其年十二月詔書報倭女王曰」
(8)「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」

【魏略】「女王之南又有狗奴國女男子爲王」▲
(魏志では「女王之南」が「其南」になってる)

無印(1)(4)(6)(7)(8)の女王は、「卑弥呼という人物」を指し「王の地位にある女性」そのまま。
△(2)(3)は「女王の勢力圏」、お前らの好きな言葉でいえば「女王国連合」、つまり本来の「女王国」という言葉の使い方。 女王の二文字だけでも文脈上は女王国の意味。例えば「ロシア皇帝が宣戦布告した」といっても「ロシア帝国が宣戦布告した」といっても同じこと。
◎(A)(B)(C)(D)の「女王国」はまさに「奴国」の誤記、いや奴国をあえて女王国と書いた例。(C)だけが意図的なもので他は誤記かもしれないが。
●(5)はもし誤写がないとするとなぜ「女王」と人間を出してるのか不可解だから「女王国」か「奴国」の誤写だろう。「女王国」だったとするとその意味は卑弥呼の勢力範囲(=諸国の範囲、女王国の本来の意味、「女王国連合」の全体)か邪馬台国か奴国かの三つありうる。卑弥呼の勢力圏の意味だとすると、範囲が広すぎて起点が漠然としてしまうので、「奴国」なり「邪馬台国」なりと書かれてあるのがもっとも自然であり、女王国とか女王とあるのはへんだ。へんではあるが距離や方角の起点を示す時は「女王」とあろうが「女王国」とあろうがすべて「奴国」か「邪馬台国」のいずれかを指すと解釈せざるをえない。この場合、もと奴国とあったのを女王なり女王国なりに誤写したのだとはいえても、もと邪馬台国とあったのを誤写したというのは字づらからいって苦しいから、「女王之都」とあったのが誤脱したんだといった方がいくらかマシだが、あえて邪馬台国と書かず女王とか女王国とか漠然とさせてるのはやはり普通でなく、奴国を意識してるのではないか。奴国を女王に誤写した可能性もあるし、誤記ではなくわざと「女王国」と書いてあったのに国の字が誤脱した可能性もある。詳しくは後述。
●(E)も「奴国」のこと。だが、△印と同じく女王国連合の全体と受け取りたい人が多いかも知れない、俺もそう思ってた時期がある。もと「魏略」の冒頭で半島から海を渡った先にも倭があるという趣旨の文だったが、陳寿が切り‏離して遠く離れた末尾に置いた時に、ある目的をもって「女王国東」と補い、もともと無かったはずの倭国の領域を文章の上だけで東に想定したもの。詳しくは章を改めて以下に述べる。
▲【魏略】の女王は魏志では「其の南」になってて『魏志』の文脈からは「奴国の南、女王国全体の南、邪馬台国の南」の三通りの解釈がありうる。魏略の方が原形なら邪馬台国を女王国と誤記することは考えにくいし、女王国全体の南では広すぎて起点が定まりにくい。そうするとここの女王は奴国のことだと一見思われる。狗奴国は肥後菊池郡としても南は後述するように45度(別説で90度)傾いて東南のことだから奴国から東南では菊池郡にならない。東国説の場合は邪馬台国から東(90度説だと表記上は南)だから、こっちの方が合ってるが、ならば邪馬台国とあるべきでこれを女王とは書かないだろう。邪馬台国を女王と誤記することも考えにくい。ともかく邪馬台国は字づらからありえず、かつ、奴国の線も消えるなら、文面上は「女王国」だったとしか考えられないが、女王国(の全体、勢力範囲)は普通は広すぎて方位や距離の起点とはされない。苦肉の策だが、「女王国」が例外的に方位や距離の起点になりうる場合が一つだけある。それは対象が特定の国邑(=点)ではなく、女王国と同程度の広がりをもっている(=面)場合だ。つまりここには文字の誤脱があり「女王国之南、男王国あり」もしくは「男王国は女王国之南にあり」という文章だったのではないか。

「周旋五千余里」の謎
●(E)の原資料は『魏略』で冒頭の「倭在帯方東南大海中依山島為国」の後にすぐ続けて「度海千里復有国皆倭種」とあり。前の文はもちろん『漢書』地理志の「夫樂浪海中有倭人為百餘國㠯歳時來獻見云」に基づいた文だが、ここの「海中」は「海を渡った先」の意味ではない。『山海経』海内南経にに「甌居海中、閩在海中」(甌越(今の浙江省)は海中にいて閩越(今の福建省)は海中にあり)、『漢書』天文志に「朝鮮在海中」(朝鮮は海中にあり)と。『戦国策』にも用例があったが検索しても出てこないな。朝鮮も甌越も島ではなく中国と陸続きである。この場合の「海」は "sea","ocean" ではなく「晦」(かい)と同義で「暗い」の意味。「暗い」というのは中華文明の光が届かない化外の地、異民族の世界ということ。陸続きか島なのかはぜんぜん関係ない。逆にこの「海」に囲まれた内側が文明世界でありこれを「海内」という。義満が明の皇帝に送った国書に「某、幸に国鈞を秉り、海内虞(おそれ)なし」とあったあの「海内」も同じ。もし "sea","ocean" の意味なら「海中」でなく「海上」と書けば間違いがないが、「海中」でも "sea","ocean" の意味の場合も当然あるから文脈をよくみて判断しなければならない。『漢書』地理志の「楽浪海中」は楽浪(今の北朝鮮)の海中というのだからそれは今の韓国の地をさしている。もし日本列島をさすのなら楽浪ではなく「真番海中」でなければおかしい。真番は今の韓国の地で、半島南部を「韓」というのは後漢になってからで、前漢の頃は真番郡が廃止されても「韓」という呼称はまだ発生する前で「真番」と呼び続けていた。真番の住民が倭人ってことになる。ところが「真番海中、倭人あり」ではなくて「楽浪海中、倭人あり」なのだから、今の韓国の地の住民は当時は倭人と呼ばれていたことになる。だから『魏略』冒頭の「倭在帯方東南大海中依山島為国、度海千里復有国皆倭種」をそのまま読めば表面上は「倭は朝鮮半島にあるが、海を渡った先の日本列島も倭国だ」っていう意味にしか取りようがない(さらに詳しくはいずれ解説します。いつか任那日本府についての議論で扱うだろう)。つまり『魏略』は朝鮮半島の南部も倭だっていう前提の文章だった。これは「魏志では半島に倭があったとは書かれてない」という前述の俺の主張とは矛盾しない。時代が違うのだ。

※なお「山島」は通常なら「山がちの島」とか「平地の少ない島」ぐらいにとるのが普通だろうが、鈴木貞一によると「山島」には「半島」の意味があるという。「半島」は西洋語を翻訳して作った現代語で漢文にはない言葉。「崎」は険しい山、「岬」は細長い谷間のことで、どちらも半島の意味に使うのは日本で始まった転用(もしくは誤用)で、本来の漢文にはない。ただ「埼」の字は未確認で、もしかしたら半島の意味があるかもしれない。「山島」で半島を表わし得るというのは、上に突き出た土地が「陸にあるのが山で、海にあるのが島」だから、「山島」とくっつけると「陸側に半分くっつき、海側に半分でている地形」で半島のこととなる、という理屈だろうか? もし鈴木貞一の説が本当なら『魏略』のいう「倭在…依山島為国」の文は「倭が半島にあった」と解釈することが可能になる。ただ、この場合でも「山島」は「半島の意味しかない」というわけではないので、絶対の根拠にはならない。

韓も倭も「百餘国」だが、三国志の三韓合計78国と宋書の倭(東55国、西66国)合計121国を加算すると199国で、これを倭韓で平均すれば「百餘国」でぴったり合ってるともいえる。「三韓」の諸国が三世紀に計78国、五世紀に海北95国だから、前漢代に「百餘国」といってるのは半島南部の諸国の概数として不適とはいえない。国造本紀(144国)や隋書(120国)や五世紀の121国から推定して三世紀日本列島も「百餘国」だったというのも概数として問題はない。精密な数字が一致することは偶然で考えにくいが、四捨五入したおおまかな概数が一致するのはよくあることで何の問題もない。誤解ないように念押しするが、これは前漢の頃は倭国が半島を支配してたのに後漢になってから半島が独立したということではない。半島の原住民(倭人)が日本へ引き上げて別の人種(韓人)に入れ替わったという意味でもない。「中国人側からの呼び名」が変わっただけ。三国時代にはすでに半島の「韓」と列島の「倭」に呼び分けることが起こっていたので、この部分は誤解ないように切り捨てるべき部分だったが、陳寿はこの前漢代の知識に基づく文章を切り離し、「ある目的をもって」末尾に移動したのである。その時に「女王国東」と補った。陳寿の意図については後述する。原文の『魏略』では「女王国の東」だとも書いてないし単に「東」だとも書いておらず「千里の海を渡った先にも倭」としかいってない。これは半島の倭と対馬の倭の関係をいってるにすぎない。だから冒頭に書いてあるわけなのだ。
東千里の倭種は女王国じゃないんだから、じゃそれは男王国=狗奴国だろうと『後漢書』は解釈しているが、誤りに誤りを重ねるものだ。実際、狗奴国は東にあったんだが、范曄が正確な情報をもっていたわけでは全然ない。二度まちがいを重ねた結果、偶然ただしくなっただけ。
陳寿としてはこの「倭種」なるものは女王国でも男王国でもない倭国のつもりだったろう。
なぜそんなことがわかるのか?
上記の●(E)と●(5)の文は問題の「周旋五千里」とくっついたひとまとまりの文になっている。
倭人伝には

参問倭地、絶在海中洲嶋之上、或絶或連、周旋可五千餘里


倭の地を参問するに海中洲島の上に絶えて在り、あるいは絶えあるいは連なり周旋五千余里ばかり

という文がある。「周旋」はうっかりすると「ぐるっとめぐる」って意味だから一つの陸地の周囲か複数の島々を囲む距離(ぐるっと回って同じ所に戻る)と思われやすく、実際プロの学者からアマチュアまでそういう解釈の人が多い。しかし三国志の「周旋」の用例を調べた人のレポでは20件ぐらいあるうちのほぼすべてで「転々としながらあっちに寄りこっちに寄りして進む」の意味で使われているという(ネットで見たけどアドレスは忘れましたw)。つまりくねってはいるが一本の道だとも受け取れる。だから、国語学者の山田孝雄は「周旋とはみずからが旋転(めぐりまわる)する意味」であるといっているけどこの場合の「みずからめぐる」というのはフィギュアスケートやバレエダンサーみたいに自分の身体を回転させるということでなく「めぐりながら(あちこち寄りながら)歩く」ってことだろう。だが、辞書レベルでも丁寧に調べたら「同じ場所に戻るようにぐるっと回る」という意味も絶対に無いという訳でもなさそうだ。
ともかくこの前提で、例えばこの「五千余里」を一万二千里から韓地の七千里を引いたもので機械的な計算で出した数字にすぎないという説も有力なのだが、簡潔を尊ぶ漢文において、そんなわかりきった数字をわざわざ明示する意味はない。
小人国1侏儒国(小人国)
そもそもこの記事の該当文面は●(E)の「女王の東千里に国名不詳の国があり」、●(5)の「その南に侏儒国があり女王から四千里。裸国と黒歯国がうんたら」にすぐ続いて「周旋五千里」で閉めている。「習俗記事の後、歴史事件記事の前」に置かれており、行程記事から遠く離れていて、本筋の行程記事とは関係ないようだ。●(E)は前述したように『魏略』の倒錯した文だから切り捨ててしかるべきだったが、行程記事とは別のこんなところにもってきて原文になかった「女王の東千里」を補ってる。なんでこんな余計なことをしてるのか? おそらく「周旋五千里」は初期モデルでのコースで対馬国から邪馬台国までの5000里のことだったと思われる。これは最初に「一万二千里」と一緒に広報されてしまっていて引っ込みつかない情報だったんだろう。ところが改訂モデルだと対馬国から奴国まで4000里なのだから、1000里不足する。だから1000里分、水増ししなければならない。そこで先ほどの廃棄されるべきだった『魏略』の文を都合よく再利用したのだが、無いものを有るといっただけだから国名が無いのである。その名無し国から四千里も行った先のこと(侏儒国)まで情報あるのに、そのずっと手前の国の名前がわからないっておかしいだろう。存在しない国をあるように見せかけるために、わざと侏儒国とか裸国、黒歯国といった『山海経』に出てくる神話上の国、当時の中国人にとっても実在かどうか半信半疑な国と一緒に書いてるわけなのだ。「参問」というのは魏の使いが自分で確認したわけではなく倭人から聞いた話だという意味。数あわせのため追加した千里分の「名無し国」は詳しいことは書けないので伝聞ってことにしてある。本当にそんな国があるのならストレートに書けばいいんでわざわざ「参問」などと断りを入れたりはしない。

なぜ里程でなく日数になってるのか
さて。次には、なんで投馬国からは里程でなく日数で書かれているのかという問題。
一万二千里にするため誇張したにしても、それならそれで邪馬台国までの区間も里数で示せばよく、なぜそこだけ日数なのか? よくいわれる説としては魏使は投馬国と邪馬台国には行ってないので倭人からの伝聞で書いた、隋書倭国伝に

夷人、不知里數、但計以日。


夷人、里數を知らず、ただ計るに日をもってす。

とあるから里数の情報は得られなかったんだ、という説。しかしなんで隋代というずっと後になってそんなことがわかるんだ? 隋といえば推古天皇、聖徳太子の時代で「里」の単位を知らないなんてことはありえない。そもそも隋の使者である裴世清が倭国にきたことも隋書に書かれてるんだからその時代の倭国の文化情況もよく見聞してたはずだろう。卑弥呼の時代の話だというなら三国志の段階で書かれたはずで隋になってやっと確認とれたなんてことはありえない。これは倭国の大きさを「東西五月行、南北三月行」と説明する直前の文だから、なぜ里数で書かないのかを言い訳するための前置きなのである。現代の我々が「魏の使いは投馬国と邪馬台国へは行ってないんだな」と推理するのと同じく、隋書の編集部も三国志の倭人伝をみて「日数表記に変わったところは魏の使いは行ってないんだな」と理解したからこそ、言い訳に利用できたんだが、なぜ理解できたのかというとそれこそ孫栄健のいう「春秋の筆法」で、普通に読めば邪馬台国までいくと一万二千里を超えてしまうからだ。「邪馬台国まで一万二千里」を「奴国までが一万二千里」に書き換えたため、奴国を経由して邪馬台国まで行ってしまうと「1万5100里」になってしまう(奴国から不弥国まで百里、不弥国から投馬国経由で邪馬台国まで3000里)。現代人からするとどうせ誇張ならそれでも別によさそうに思うかもしれないが、それならなぜ最初から「1万5100里」だと宣伝しないのか、「一万二千里」という話はなんだったのか、そんないい加減でいいのかってことになる。「一万二千里」という数字はすでに景初三年(239年)のイベントで大々的に宣伝されてるので今さら引っ込みつかない、だから「1万5100里」は隠してしまいたい。そこで実際に行ってない行程はわざわざ日数換算に置き換えて里数に単純に合算できないように阻止してあるわけ。
日数表示というのは別に当時の倭人が里という単位をしらなかったからではない。当時の倭人だけでなく、当時の中国人も、現代の中国人も、現代の日本人もみんな日常的に使ってる物差しなのだ。考えてもみろ、自宅から会社までとか、大学から新宿とか渋谷までとか距離を聞かれてキロメートルで答えるやついないだろ? 地下鉄で30分とか山手線で15分とかと答えるはずだ。その方が体感でわかりやすく、実用的で便利だから。里数の方は役人が測量担当者を引き連れて、測量して回る。そのデータを地元の役所(例えば帯方郡)に保管したり中央に送ったりする。だから理論上は実際に行ってないと測量できない。むろん実際は伝聞で里数も把握してたろう。自分で測量しなくても倭国に聞けば教えてくれたはずだ。「軍事機密なんだから教えるわけないだろ」という人もいるが、そんなこたぁないんだよ。当時は邪馬台国だろうがどこだろうが中国系の移民(合法移民も不法難民も含む)もいれば帰化人系の下級貴族だってそれなりにいたのは魏志倭人伝に倭国の使者の中に中国人の名前の者がいるのでわかる。だから、魏の使いも部下を邪馬台国のすぐそばまで派遣したって何も不自然なことはない。ただ合法的にそこらの景色見て歩いてこさせるだけで大雑把な里数ぐらい把握できてしまう。むろん測量しなければ正確なものではないが、大雑把な情報でもさしあたり無いよりずっとマシのはずだ。そんなこと当然、倭国の側もわかってるから、軍事機密だなぞと仰々しくもったいぶって教えない、なんてことはありえない。「ハイハイ、どうぞ」と2秒で差し出すに決まってる。

むろんそれで得た結果が「水行二十日」「水行十日陸行一月」に反映してるかどうかは別だよ。日本書紀の推古朝での隋使裴世清の旅程日数から、ほぼ妥当だという説もあるが、裴世清の旅程は最短最速で進んだわけでもなさそうだし、日数から距離に換算できる性質のものじゃないだろう。むしろ推古朝の朝廷(聖徳太子?)が魏志倭人伝の記述にあわせてわざわざ日数かけて移動させ、もったいぶって見せたんだろう。三国志にでてくる倭国は超大国であるように誇張されている上、当時の隋でも推古朝廷でもその三国志の倭国がこの倭国だと思ってたわけだから、これに便乗して大国に見せかけるぐらいのことは当然やる。

それに前述のように「邪馬台国まで一万二千里」が中国側の都合で先に決まっていたんだから、倭人から聞いた実際の里数とは無関係に、機械的に「郡から楽奴国まで6000里、渡海に3000里で、上陸地の不弥国から投馬国経由で邪馬台国まで3000里」と割り振られたという想像は前の方で書いた通り。それがずっと後になって「奴国まで一万二千里」に改定されたから、この余分な3000里の部分が里程に合算されないように日数表示に変更されたのだろうと容易に理解できる。
で、魏の使いがはたして伊都国までしか行かず卑弥呼に会ってないのか、それともちゃんと邪馬台国まで行って卑弥呼に会ってるのかという問題と、日数表記の「水行二十日」「水行十日陸行一月」が具体的にどれだけの距離なのかという問題。この二つの問題については後の方で必ずやりますから、その前に「方角」の問題を片付けないといけない。
邪馬台への行程【その3】」に続く。
【その3】では方角が傾いちゃってる謎を解きます。日の出の方角を東としたからではないし日本の地理を古代人が誤解してたからでもありません。「会稽東冶」についての議論、そして「狗奴国」が東海地方なのか熊本県なのか、どっちなんだって話も。
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Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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