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邪馬台への行程【その3】~方角のズレと「会稽・東冶」の読み~

初稿:2679年[R01]10月21日MON
邪馬台国への行程【その2】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その2】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「方角の傾き」は誤りではなく意図的なもの
日数表示の部分が九州説だと原文のまま南へ、畿内説ではなんだかんだ理屈をつけて東にもっていくわけで、方角が決まらないと気分的に落ち着かないw 方角論で有名な話は、末蘆国・伊都国・奴国の比定地を実際の地理でみると、反時計回りに北に45度傾いている(東の方が北寄りに、西の方が南寄りに傾いてる)というのが通説だ。正確には真東より30度ほど北、つまり東北東になっている。これを魏志の「東南」に比べると75度のズレともいえる。この数値は八分法に当てはめると、どっちかっていうと45度より90度に近く、当然ながら傾きは45度でなく90度だという説もある。ただこれは海岸線を目途にしたもので、奴国を太宰府あたりまで広がってたとして、奴国から不弥国へのコースを嘉麻市や穂波市を通って直方市へ抜ける道を陸行したとすれば、極めて大雑把な話ではあるが45度のズレだともいえるが、ちょい苦しい。あるいは、もともと魏志倭人伝の表記は45度づつにわける八分法なので、22.5度前後は切り捨てか切り上げになって表記上は45度のずれとなるという大雑把なものである、だから45度でいいのだというのだが、これは「75度が切り上げで90度にならず、なぜか切り捨てで45度になってる言い訳」として成立してない。実は日の出の方向がどうしたの夏至の日の出がどうのって理屈でこのズレを説明するには45度が限界で、90度だと説明に困窮するからだ(厳密には45度でも無理だが)。だからって90度説が正しいわけでもない。あと、これまた有名な室賀信夫の説(九州説には評判わるい説だがw)。李氏朝鮮の「混一疆理歴代国都之図」や宋代の「古今華夷区域総要図」をもちだし、中世の中国人や朝鮮人は実際には東に伸びてる日本列島を、南に伸びてると勘違いしていたから、おそらく古代でも同様だったのだ、というあれ。一時期は話題になり、これで畿内説に決定したかのような勢いだったが、古代にまでもそのような地理観が一般的に行われていたという説には実証性が弱く、批判が多い。実際、今では一般に(アマチュアだけでなく学界でも)あまり支持されてないように思う。俺も賛成しないw 中世の中国朝鮮での誤った地理観は魏志倭人伝の影響という説の方が妥当だろう。

この室賀説も古代人の地理観を稚拙なものと決めつけている点で「日の出の方角説」と五十歩百歩といえよう。まさに三国時代に生きた有名な学者、裴秀が作った『禹貢地域図』を読めば当時すでに測量術や地理学が大いに発達していたことがわかる。「指南魚」とか「指南車」という精巧な方位磁針もあって方角を誤ることもない(ただし、現代では磁方位が反時計回りに約7°傾いてるが当時は時計回りに10°傾いていた)。ゆえに昔のことだからどうせこんなもんだろと見くだした舐めプは許されない。高度な技術をもった当時の国家の軍隊が方角を間違えたりめちゃくちゃな里単位を使ったりすることはありえない。そういうことがあったらそれは間違ったのではなく、ある特定の意図の下で、あえて、わざとそうしたのである。一万二千里という現実を無視した途方もない数字も、政治的な都合による誇張であることはもはや定説になっているといってよいだろう。しからば方角もおそらくは政治的な理由で曲げられたのだろうとは誰しも容易に推測できる。45度説と90度説のどちらが正しいかにかかわらず、これはわざとズラして書いてるのである。東西と南北を取り違えた地理観がーとか、日の出が夏至がどうのこうのっていう、古代人が方向音痴だったみたいな与太話はすべて却下すべきだろう。

で、「方角のズラし」も事実の歪曲ではあるのだが、ただの歪曲ではなく「一万二千里」と同じく当然「春秋の筆法」に則っている。だからよく読めば「あれ?これ傾けてるな」って気づくようになっている。「なんのために」わざわざ傾かせているのかという議論は後で詳しくやるとして、まず「方角の傾かせ」が現われている「春秋の筆法」を解いてみよう。

その最初のヒントが韓伝にでてくる「州胡」だ。これは今の済州島のことだというのが定説だが、言い方としては「馬韓の南」か「韓(三韓全体)の西南」のどちらかのはずが、文面上は「馬韓の西」と書かれている。実際の地理を、反時計回りに45度か90度ずらさないと「馬韓の西」にはならない。この角度の問題も私が「春秋の筆法」だと気づいたのは韓伝の記述の謎解きの結果だった。韓伝は韓と倭が海で隔てられてるようにも書いてるし、韓の南は倭で、韓と倭が接壌してるようにも書いてる。だから井上秀雄(この人はもう死んでるが)みたいに韓国の南部に倭があったんだって主張する人が根強く残ってるが、海で隔てられてるともあるせいで有力説になってるとはいえない。こういう矛盾ある記述こそ「文の違え」(ふみのたがえ)で春秋の筆法のツボなんであって「海で隔てられてるのかvs接壌してるのか」の二択じゃない。「南は倭に接す」とあるのだから前回までに説明した「弁辰○○国」と「弁○○国」の使い分けからいえば「弁軍弥国」「弁楽奴国」の2か国だけが倭に接していることになり他の「弁辰○○国」はすべてこの2か国より北に設定されてる。「弁楽奴国」は春秋の筆法によって暗黙に出航地だと示されているので倭ではなく海に面している。しかも倭と接してるのは弁辰瀆盧国だとわざわざ一か国だけあげていて、倭への出航地は表面上は「狗邪韓国」になっている。設定上の位置関係は繰り返しになって恐縮だが、東西四千里の海岸線があってその中央が「弁楽奴国」(東端からも西端からも2000里、郡からは6000里)、東端が「弁辰瀆盧国」(郡から8000里)、その間に「弁辰狗邪国=狗邪韓国」(東端から1000里、隣の楽奴国からも1000里。郡からは七千里)という配置になっている。このうち倭に接しているのは東端の瀆盧国だけで、それ以外の二国は倭と往来する港湾都市だから海に面していることになる。しかし実際には瀆盧国は今の釜山なんだからその南は海しかなく倭と接壌していたとは考えられない。むりにもというならすごく狭小な倭人居留地が半島内にあったとでも考えるしかないがそんなの無いのと同じで特筆する意味はない。倭国内にも韓人の所領はあったろうし韓地にも倭人の領地は当然あったろうが、国として認識されたかってことは別問題だ。だが少なくとも魏志の建前では瀆盧国「だけ」は倭と接壌していたとわざわざ特筆されてる。これは韓伝の冒頭に三韓全体の地勢として「南(の国境は全面)が倭に接してる」ように書かれているのとも矛盾する。冒頭の書き方だと馬韓の南も弁辰の南も一様に倭であり、南側に海があるようには受け取れない。両者に共通してるのは瀆盧国だけ。瀆盧国「だけ」はどっちの説でも倭と接している。

瀆盧国の位置について謎解きをすると、『後漢書』は(三韓全体の中では)辰韓は東北、弁韓は東南だというからこの二韓だけでいうと辰韓が北で弁韓が南なのだが、実際の24国の配置をみると辰韓が東北で、弁韓が西南になってる(だから「辰韓が北で弁韓が南」だといっても、「辰韓が東で弁韓が西」だといっても、どっちも嘘をついたことにはならない)。精密な地図じゃなくて模式図で表わすと、西北の隅から東南の隅へ対角線が引かれ、この対角線を境として弁韓と辰韓に分かれる。
『後漢書』によらずとも、魏志は(三韓全体で)弁韓の位置にふれずただ「東西は海をもって限り(中略)西は馬韓、東は辰韓」としかいってないのだから、東の海には辰韓が面してるのであり、弁韓は東の海に面していない。「南は海なのか倭なのか」を曖昧にしたままではあるがこの条件で弁韓の領域を最大に見積もって境界線を引いても、やはり境界線の東端は韓地の東南の隅になる。
面としてはパッキリ分かれているんだが、この境界線は弁韓と辰韓に共有されている。境界線(対角線)の東南の隅の点も、当然共有していることになる。つまり瀆盧国は弁韓(弁辰)の東南の隅にあってこの「点」の部分を含んでいるのである。瀆盧国は「弁瀆盧国」でなく「弁辰瀆盧国」だから建前上は南の海には面していないし、この模式図(対角線のある図)でも、東の海にも南の海にも面していないことに、ちゃんとなっている。
そして東夷伝の認識では「韓は倭の西北、倭は韓の東南」だといってるのだから、瀆盧国が「倭と接する」というその地は、まさに瀆盧国が保有する「韓の東南の隅の点」のことをさしている。「点」というのはあくまで模式図の上でのこと、魏志の想定上の地理であるが、面でも線でもなく「点」だというのが重要なのだ。
「(三韓全体としてみると)東西は海をもって限り、南は倭と接す(つまり南は海ではない)」という地理認識と「弁辰瀆盧国(だけ)が倭と接す」という矛盾する二つの地理認識から、それぞれの地図を作って比べると、瀆盧国を蝶番(ちょうつがい)として倭国を反時計回りに韓地から引き離すと韓と倭の間に西から海水が流れこんで海になる。州胡(済州島)もあえて倭地と一緒のレイヤーに乗せてあるのは明らかだろう。倭が真南にきて韓とくっつくと州胡も倭と同じレイヤーだから、州胡が韓(三韓全体)の西南にあったのなら時計回りに45度動いて、馬韓の南にあったのなら90度動いて、いずれも馬韓の西になる。韓の南はすぐ倭で、倭と韓は陸でくっついてるのだから済州島が浮かぶ海は南にないのだ。この海が入り込まないで韓と倭がくっついてるのが建前であり、この場合、倭は韓の南へ伸びている配置になり、倭は会稽東冶の東になるのである。この場合、倭と接する国は韓にいくつもあるはずなのに、あえて瀆盧国しかあげてないのが「春秋の筆法」で、瀆盧国以外を倭と切り離すには、瀆盧国の保有する「点」を中心に回転させる他ない。魏志の方角は八分法だから最低限の切り離しで済ませようとしたら45度になるし、前述の通り90度の設定かもしれない。

「会稽の東」と「東冶の東」は別?
で、方角のズレが当時の人々の誤認ではなく、意図的なものだとしたら、目的があるはずだ。なんのために方角が45度(または90度)傾かせられたのか?
旧来の誤認説の場合は、倭国が「会稽東冶の東」にあると誤解されていた、という話とセットになっていた。しかしそこで意図的に方角を傾けていることが明らかになったのだから、要するに会稽東冶の東には無い倭国を会稽東冶の東にむりやりもってくるために方角を傾けた、ということになる。ということは魏志の原資料では倭国は南ではなく東か東南に伸びていたのである。
…のはずなのだが、しかし、本当に当時の中国人の認識では倭国は「会稽東冶の東」では無かったのかというと、それがそうでもない。

倭人伝には「計其道里、當在會稽東冶之東」(その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし)とある。地名としての会稽は今の浙江省の紹興、東冶は今の福建省の福州。この解釈は3つの説がある。

(1)「会稽郡の中の東冶県」の意味。
(2)「会稽東治」で会稽での禹王の統治の伝説をさすという説。
(3)「会稽」と「東冶」二つの地名の並記。


(1)と(3)は東冶(とうや)、(2)は東治(とうち)で字が違う。

(2)は東冶はないことになって会稽だけが問題となり、(1)は東冶だけが問題となるのに対し、(3)は会稽と東冶の二ヶ所をあげているという解釈になる。
当時は東冶県は会稽郡でなく建安郡に属していたので(1)はないという説もあるし、必ずしも正規の郡県にとらわれず「広義の会稽地方の中の東冶」という解釈もできないことはないともいう。東冶(とうや)の原文は東治(とうち)になっているのでこれは誤写というのが通説だが、(2)は東治(とうち)のままで正しいとする。だが「…の東」とあるのだからその直前は地名でないといささか不自然だろう。「会稽東冶」は四字熟語のようになんども出てくるのに「会稽東治」は例がないので誤写説の方が自然ではある。しかし、会稽(紹興)東冶(福州)をつなぐ線はほぼ今の浙江省の海岸線で、北緯でいうと紹興は屋久島(北緯30度ぐらい)、福州は沖縄(北緯26度ぐらい)に近く、その中間は奄美大島のあたり。だから地図でみると倭国は東というよりかなり東北になるんで、(2)の説の方がいくらか正確になるように見える。

東冶については『三国志』呉主伝に亶洲の人が会稽に交易にくるといい、「東県」(たぶん東冶県の脱字)の住民がまれに亶洲に辿りつくという。『後漢書』東夷伝では亶の字が澶になってるが同じことが書いてあり「東県」が「東冶県」になっている。倭国が「会稽東冶の東」だというのは要するに亶洲も倭国も同じ国だということを暗示している。ここで亶洲から来る時には東冶といわず会稽に来るといい、亶洲へ行く者は会稽からといわず東冶から流れていくと言っていることに注意。「会稽の東」は亶洲からくる方角であり、「東冶の東」は亶洲へいく方角である。東冶は『三国志』にもちょくちょく登場する当時の海上交通のターミナルである重要な港湾都市だった。東冶県がそうなった理由を推測するに、その東がすぐ台湾の北端で、そこから西南諸島を伝って鹿児島へいくルート(南航路)が開けており、交易物資の大陸側における収積場だったからではないかと思われる。つまり中国から亶洲へいくなら、会稽でなく東冶が出港地になる。倭人が五島列島や済州島から東シナ海を横断して会稽に行くことはあっても、中国人はこのルート(北航路)は使わない。そういう訳で『三国志』呉主伝や『後漢書』東夷伝をみれば会稽と東冶の二ヶ所をあげることに意味があるのは明らかであって、「会稽の中の東冶」の意味でもなければ東治(とうち)でもないことがよくわかるだろう。

で、倭人伝の方角が実際の方角とズレて傾いてる理由だが「会稽東冶からは東でなく東北だから、東になるように45度傾けてある」のだろうか、と言うと、そうではなくて、傾けた理由は別にあると思われる。
倭人伝に書かれた南方系の習俗が南九州に及んでいたのならば、中国人からみてその習俗は「儋耳・珠崖」(海南島)と同じというのだから、中国人の目には海南島から九州までの間に存在したはずの台湾人も沖縄人もすべて同じに見えていた可能性が高い。あるいは、違って見えていたのにあえて同一視しようとしたか。そのどっちであるにしろ、「その習俗は倭人の習俗」という認識なのだから魏志は会稽東冶の東に広がる同じ習俗圏を広く倭と呼ぼうとしているとも見える。その場合は、会稽東冶の「真東」に該当する西南諸島もまた「倭の一部」と認識されていたことになるので、「九州は会稽東冶の東じゃなくて東北だ」という議論は意味がなくなる。
そうではなくて、あくまで倭国は九州であり、西南諸島は含まないとすると(そんな仮定は不可能だと思うがとりえずそう仮定すると)、厳密な方角からいえば確かに東でなく東北なのだが、四分法で90度の広がり(会稽からは八分法で45度の広がりでもよい)をもってみれば、航路の説明としては大雑把にいって間違いとはいえない。とくに南航路では台湾、石垣島、宮古島を伝っていったろうから一旦は東南へ進んだのであり、出港地からみると「亶洲が東北にある」という印象は薄かったろうし「物の言い方」としては「東のほう」で問題ない。してみれば「東北でなく東」というのは会稽東冶の現地情報だった。
ここまでは当時の中国人の普通の認識であって、魏志に特有の意図的な誇張や方角の歪曲は入ってない。渡邉義浩なんか『魏志倭人伝の謎を解く』(中公新書)の中で「本当は会稽の東なのに倭国の位置をさらに南に引き下げるために東冶をくっつけた」みたいなことを言ってるが本当に三国志の専門家なのかね?

「会稽東冶」の政治的背景
倭国を「会稽東冶の東」にもってったのは倭国の風土、自然環境についての情報から中国人が本当にそう信じていたという説もあるが、上述の通り、現地の中国人は風土や自然環境の情報とは無関係に、航路の方角によって漠然と「会稽東冶の東」と言っていただろう。しかし魏が使節を交換する中で得られた実際の情報では、倭国は北九州から東(または東南)に伸びており、会稽東冶の東になっていなかった。これは倭国が「会稽東冶の東」にあると考えていた中国人にとっては新発見だった。

だが魏の公式見解(というか司馬懿の意向)では、倭国は呉からそんなに離れてるのではなくぜひとも会稽東冶の(つまり呉の)すぐそばにあってほしい。そこで90度(または45度)意図的に傾けた地理が想定された。魏志や魏略の原資料は誤ったわけではなく、司馬懿の功績を大きくするために意図的に方角を傾かせて呉の近くに倭があるように繕ったのだと思う。それ以外に、わざわざこんなことする理由は思いつかない。

大月氏は一万里の彼方だけど、魏と蜀が涼州を奪い合って死闘を繰り広げたその涼州には月氏系を含めた有名な遊牧民の残党が盤踞しており、魏も蜀も彼らを味方につけようとしていた。もっともこの頃の大月氏は中国が勝手にそう呼んでいただけで別系統の民族(クシャナ朝)だし、涼州の月氏人がインドの大月氏の動向を気にしたものかかなり疑問もあるが、魏は政治宣伝としての効果を期待したからこそ「貴霜」と呼ばずあえて「大月氏」と呼び続けたとも考えられる。親魏大月氏王と親魏倭王は同等で一対だからこそ曹真の功績に匹敵する司馬懿の功績としての意味があるわけで、当然、同様に呉への威圧という効果が期待されていた。

ただし呉に向けての宣伝ではなく魏の国内向けの宣伝で、司馬懿が呉を威圧しているという功績を称揚するものだ。夷州や亶州(澶州)の人間が会稽に交流にきていたことは後漢書に書かれている(この夷州・亶州が日本のことだというのは別のページに詳しくかいた)通り、倭国が本来の正しい位置にあっても呉に対する威圧としては十分で、それは海洋事情については魏より詳細な情報をもっていたであろう呉の方がよくしっていただろう。だが内陸にすむ中国人には東シナ海が大きすぎて呉への抑止力になるのか疑問に思うだろう。それでは司馬懿の功績も半分に聞こえてしまう恐れがある。

倭人伝の行程つまり五倍里のまま「一万二千里」だとはるか南のはて、それこそインドネシアのボルネオ島やスラウェシ島のあたりになる。これじゃ「会稽東冶」もクソったれもあったもんじゃないw 『石刻禹跡図』は1137年だからかなり後世のものだが三国時代の司馬氏に仕えた裴秀が作った『禹貢地域図』の影響で作られたという。これによると高麗(今の韓国)の南端から瓊州(今の海南島)まで約五千里というから、朝鮮半島の南端から台湾の北端までその半分で約2500里。これを北にずらすとだいたいソウル(帯方郡)から福州(東冶)までと同じぐらい(約2500里)にみえる。渡邉義浩は上述の著作の中で「『石刻禹跡図』は朝鮮半島南部から海南島まで約五千里とあるから、『禹貢地域図』では朝鮮半島南部から会稽の背後まで約五千里としていたことになる」と書いてるが、正気で言ってるのかね? まさか海南島を「会稽の背後」とは言わないだろうから「周旋五千里」に目が眩んで錯乱してるんだろう。海南島は遠くて、台湾だの会稽東冶だのは朝鮮と海南島の間ぐらいにある。だから目分量で半分の約2500里になるのは世界地図に照らせば誰がやっても明瞭にわかる。概数だから2600里でも2400里でもいい。『後漢書』郡国志によると洛陽から遼東郡まで三千六百里、玄菟郡まで四千里、楽浪郡まで五千里という。これを目安にしてみると帯方郡から会稽東冶の東の海上まではアバウトに2500里前後にみえる。前述の渡邉義浩の見立て(約五千里)は半分にしないと合致しない。上記の禹貢図から察しても、中国人は中国本土の地理については正確な情報を当然もってるから、これぐらいは容易に推定できる。「一万二千里に誇張しなければならない」という課題が発生した時には、一万二千里を五で割って、実測2400里と設定すれば実際の数値に近いと目算したのではないか。
ただし初期のシンプルプランだと方角が変わるのは不弥国から先の3000里分であり、十分意味のある変化といえるが、改訂された現状プランでは方角が傾いてるのは末蘆国から先だから先端のわずか600里にすぎず、これだと方角が変わっても変化が無いから日数表示の分も距離に加算されていると考えられる。つまり北九州と邪馬台国の間は、方角を変えることで邪馬台国を「会稽東冶の東」にもってこれる程度には離れているということだ。邪馬台国を含む倭国のおもな領域が九州内に収まっているのなら、南への距離の延長だけで済むのであり、わざわざ方角をかえる意味がない。

それと「一万二千里」に誇張した段階でインドネシアまでぶっ飛んでしまってんので、これでは「呉に対して脅威を与える魏の同盟国」にもならない。「会稽東冶」にもってくるためには5倍誇張では大きすぎ、1.5倍と2倍の間ぐらいでいい。しかしそんな倍率は魏志に出てこないし、会稽東冶については距離の誇張でなく方角ズラシで対処したことは明らかだ。そうするとこの二つの歪曲は両立しない。距離が誇張されてると知る人で初めて倭国が呉の近くなんだと騙されることができ、一万二千里を真に受ける人は会稽東冶の東には馬韓があると考えるか、さもなければ会稽東冶の東はるかハワイのあたりに倭国があると考えるはめになる。しかし一万二千里は数字の上だけのことなのに会稽東冶は習俗文化の具体的でふんだんな記事とともに考察された文なので、どちらが嘘でどちらが本当かは容易に判断がつくだろう。おそらく「会稽東冶の東」をみて「一万二千里は嘘なんだな、誇張されてるんだな」と気づかせる意味もあるんだろう。肝心なのは「倭国は会稽東冶の東である」ということである。

一万二千里を真に受けるとインドネシアになっちゃうから、実際に邪馬台国インドネシア説というのはあった。有名だから知ってる人も多いだろう。それは北アジア史の権威で遊牧民族の歴史について数々の名著のある内田吟風の唱えた説で、ジャワかスマトラにあった「耶婆提国」を邪馬台国とする。耶婆提はヤヴァドヴィーパ[yava-dvipa]の音訳で、AD411年にここを訪れた法顕が『仏国記』で紹介している。この説は素人ではなく学界の大物が主張したのが珍しい。しかし残念なことに後年撤回している。
この他に南方説としては小林恵子の奄美説(電波古代史学者の小林恵子と同一人物で本人の最初期の若き日の著作)、加瀬禎子のフィリピン・ルソン島説(耶婆提国とみるのは内田吟風と同じだがジャワ・スマトラでなくルソンとする)、木村政昭の沖縄説(琉球大の海洋地質学者。今も地震研究そのほかで活躍中)がある。いずれもジャワ・スマトラ説の前では迫力不足。
倭人伝の「其の道里を計るに当に会稽東冶の東に在るべし」を真に受けると奄美大島や沖縄、「投馬国(台湾?)まで水行二十日そこから邪馬台国まで水行十日陸行一月」を真に受けるとルソン島の南端あたりになるので、これら南方説の論者はだいたい「真に受ける系」の人が多いと言い得る。
この中で木村政昭はさらに「ムー大陸沖縄説」を言い出したところが面白い。戦前の日本人のインドネシアへの思い入れといい、ムー大陸と竹内文献一派との関係といい、邪馬台国とムー大陸は日本人にとって魂の故郷とか失われたルーツとかを象徴するという意味で深層心理的には似たような面がありそうである。
普通のオタクならここでモスラの歌やインファント島の土人の踊りの動画だすところ。そっちじゃなくて、こっちってのがツウでっしゃろw
ちなみに章炳麟(明治〜戦前、中国の政治家)がこの耶婆提国を南米エクアドル(漢字表記:耶科陀爾)とする説を唱えた。その説自体は邪馬台国に絡まないのだが、これとは別に幸田露伴が耶婆提国なら耶科陀爾(エクアドル)より日本の邪馬台国のほうが似てるだろうと突っ込んだ。この両説を都合よくくっつければ「邪馬台国南米説」もたちどころに組み立てることができる。

45度説と90度説での邪馬台国の位置関係
では、方角が傾いてるのは意図的なものだとして、それは45度なのか、それとも90度なのか? 90度説より45度説の方が若干ややこしいので、まず90度説から検討してみる。

90度説
90度説だと順次式でも放射式でも方角は日本海航路より瀬戸内海航路の方が自然にみえる。順次式だと邪馬台国までの水行と陸行が「and」なら投馬国は中間地点で広島県福山市鞆町鞆か。「or」なら邪馬台国までの3分の2ぐらいの距離で岡山県玉野市玉か。順次式で「or」の場合「陸行」が説明しづらくなってしまう。大きくは日本海航路でも角度の広がりからいって投馬国が出雲だとしても但馬だとしてもそこへの南(実は東)はだいたいそういえる範囲ではある。が、投馬国がもし但馬だとすると邪馬台国への南は「西南」(実は東南)の誤りだとでもしないと苦しい。だとすると投馬国は出雲が妥当か。水行陸行の具体的な距離がどのぐらいなのかは詳しくは後でやるとして、ともかく順次式の場合「水行・陸行」の距離をむちゃくちゃ短かめにとっている。
放射式だと特になんの問題もない。が、問題なさすぎて邪馬台国も投馬国も、候補が多すぎて絞れないw しいて言えば邪馬台国を畿内大和とすると順次式ほど酷くはないが放射式でも「水行・陸行」の距離をかなり短くとってる。だいたい北九州から畿内大和までは陸行だけで半月ぐらいが適正だから「陸行一月」とは倍もの差がある。この、水行陸行の具体的な距離がいったいぜんたいどのぐらいなのかの考察は後の方でやります。

なお、日本海航行説の場合なぜ瀬戸内海を通らないのかという説明も必要だが、それは後の方で「魏の使いが邪馬台国に行ったか行かなかったか論争」のとこで一緒にやるからここではやらない。
それと畿内説か九州説か問わず、投馬国と邪馬台国の水行陸行は郡から直接いくルートなんだという説もあるが唐突で受け入れ難い。張明澄も「そんな漢文の読み方はない」と一蹴していた。ここまでガイドしてきてなんで急に郡から説明しなおしになるのか? そもそも邪馬台国への案内なのだから不弥国までのルート説明は邪馬台国につながってないことになって意味不明になる。日数は一万二千里の日数だという説も方角を傾けた分の里数が少なすぎて方角をかえる意味がなくなるので採れない。

邪馬台国と投馬国がどこなのかという話は水行陸行の日数の問題のところで検討する。それまでお預け。

45度説
45度説の場合、放射式は成り立たないので順次式のみが考察の対象になる。
模式図的には邪馬台国は北九州(不弥国)からみて「はるか東南」ということになる。不弥国から投馬国へいく南というのは東南ということになり、畿内説の場合は九州東北部から瀬戸内海へ向かう方角となる。九州説の場合でも放射説を使わず順次式で不弥国から九州東北部の岸に沿って進み、豊後や日向の方向へ行けばよい。放射説だと伊都国から南にしろ東南にしろ二十日も水行できるような大きな川がない。まぁ2日も歩けば有明海に出ちゃうので何とでも言いようはあるが…。畿内説の場合、波の荒い日本海より瀬戸内海の方がよさそうだが、玄界灘に比べれば日本海もたいしたことないし、行きの場合は日本海の方が潮の流れに乗って高速で行ける。帰りは瀬戸内海航路を使ったろうが、行きは日本海と両方ありうる。ただ、瀬戸内海航路だと、投馬国を周防にしても吉備にしても方角的に邪馬台国=大和との位置関係が難しくなる。神戸市須磨区を投馬国とすればなんとかなりそうではあるが、投馬が須磨(すま)になったってのはもしかしたらやや厳しいかもしれない。
日本海航路だと、南は実は東南なのだから、投馬国が但馬だとすると実に都合がいいのだが、不弥国から投馬国への南(東南)が整合しないのが難点。
そこで、不弥国から投馬国への「南」は誤字があるのではないかという、九州説からは評判の悪いいつものアレ。一応、3通り考えられる。

(A)「東」(実は東北)の誤りとする説
(B)「東南」(実は東)の誤りとする説
(C)「東而南」(東北に行ってから東南に折れる)の誤脱だという説

(A)の場合、不弥国から東北に進んで投馬国=出雲に到着、そこから東南に向きを変えて邪馬台国へ向かうことになる。
投馬国が出雲だろうが但馬だろうが「邪馬台国への南」とあるのは実際は東南のこと。
(C)の場合、はじめ東行(つまり北東)して出雲沖あたりで南(つまり東南)に方向転換して投馬国をめざす、と。この場合、模式図の方角では邪馬台国は北九州からはるか東南にある。

以上、45度説の根本的な問題は、日本列島が北九州から東南方向に伸びている、という地理観を魏人がもっていたという前提があるわけで、これは実際の日本地理とはずいぶん乖離している。前述のように当時の中国人はすぐれた測量技術や発達した地理学があったのに、そこまで間違った地理観をもっていたとは、どうも考えにくいようにも思われる。
だが、陸行水行の日数をどう考えるかによっては、上記の(A)説をもとにして、45度説でありながら邪馬台国を真東にもってくることもできるのだ。日数を距離に換算する話は後回しにしてここでは詳しくはしないが、冒頭の「韓地では内陸をジグザグに陸行しようが、海沿いを水行しようが、同じく七千里」という話を思い出そう。あれは水行も陸行も同じ距離だということを暗示したのではないだろうか。そうすると不弥国から投馬国までの「水行二十日」と、投馬国から邪馬台国までの「水行十日プラス陸行一月」が等距離になり、投馬国は不弥国と邪馬台国とのちょうど中間点にあたるので、出雲の方が但馬説よりよさそうにも見える。出雲説の場合、出雲から水行十日で但馬に上陸し、そこから陸行一月で邪馬台国に到着。ちょうど良い。
投馬国が出雲なのか但馬なのかという議論は後回しにして、なにが言いたいのかというと理念上は不弥国と邪馬台国との間の中間点では直角に曲がってるんだからこの航路は直角二等辺三角形を描き、邪馬台国は不弥国からみて真東に当たることになる。北九州から真東ではどんなに長距離を行っても「会稽東冶の東」にはならないが、これを45度傾けると、真東が「東南」になり、「会稽東冶の東」を延長した先と交わる。ただ、2000里か3000里も離れた「はるか東方」になり、呉への牽制になるのかという問題はあるが、一応、理論上は「会稽東冶の東」に違いない。
邪馬台への行程【その4】」に続く。
【その4】では狗奴国の謎に迫る! そして使訳通ずるところ三十国の「30国」のリストはの謎を解明!?
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