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邪馬台への行程【その4】~狗奴国は九州か東国か・使訳通ずる30国の数あわせ~

改稿:2679年[R01]10月22日TUE 初稿:2679年[R01]10月21日MON
邪馬台国への行程【その3】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その3】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
実は、魏使は邪馬台国まで行っていた?
「会稽東冶」の問題はまだ半分で、重大な議論が残っているが、その前に片付けておかないとならない話を先にする。
ちょっと話もどるが、それは魏の使者が邪馬台国まで本当に行ってたのかどうか。まぁ邪馬台国論争ではポピュラーなネタの一つではある。
そもそも「邪馬台国までの一万二千里」が「奴国までの距離」ってことに作り直すはめになった根本理由は、魏の使いが邪馬台国へ行かなかった(=北九州から出なかった)からだと一応思われる。その根拠は、第一に魏使は伊都国に常駐するとあること、第二に「不弥国までの里数表示」と「投馬国と邪馬台国への日数表示」という二種類の記述があり、後半の日数表示は倭人からの伝聞記事だとも考えられること、第三に倭の諸国への行程は「至」の字が使われているのになぜか狗邪韓国と伊都国のみ最終地点をあらわす「到」の字が使われていること。これらのことから魏の使いは伊都国より先には実際は行ってないのではないかという、有名な説が大昔からある。これもカタクナな反対論がある一方で、有力視もされてた。だが、これはたして本当にそうか? よく考えるといろいろおかしいと思うのだが…。

広大なシナ大陸を縦横無尽に駆け巡った三国志の武将らにしたら、北九州から畿内大和にいくぐらいたいした距離じゃない。だから物理的に行けなかったとはまったく考えられない。
なので、中には卑弥呼が面会を拒否したと考える人もいるかも知れない。武装親衛隊にガードされ「会う者少なし」とあるから容易なことでは面会できない様子はわかる。しかしこれは平常モードの話であって、ハレの重要な祭儀の時とか、国家の重大な案件の場合でも常にそうだとしたら、この人は女王といっても傀儡で実態はただの監禁された人ってことになる。なんでそんなことがありうるのかというと卑弥呼は宗教上の存在で神に仕える神聖な巫女で、補佐していたという「男弟」が実権を握っていたからというのだ。こういう説を真に受ける人は「ヒメ・ヒコ制」という古い学説に影響うけたままいまだに目が覚めてないんだろう。「ヒメ・ヒコ制」批判は長くなるから省略するが、卑弥呼は王なら誰でもという程度の普通の意味では神に仕えていたろうが、格別に祭司だの巫女だのという存在ではない。「鬼道」の2文字だけからそういう妄想を膨らませる説が多いが、そもそも「鬼道」が原始的な部族宗教でも土着宗教でもアニミズムでもシャーマニズムでもないし、日本の神道でもなければ中国の道教でもなんでもない。「鬼道」の意味については別の記事で詳しく書いたので今回は省略するが、要するに卑弥呼は祭祀王でも巫女王でもなく、高貴な血筋によって王であるところの普通の王なのである。たまたま女性だからって巫女だ祭司だと短絡すべきでない。「会う者すくなし」といっても昔の皇族貴族の女性はみんな奥に隠れており来客にすら襖や屏風を挟み、外出時も庶民に顔を見られないようにイスラム女性みたいに厳重に隠していた。ましてや王ともなれば当たり前ではないか。男でも昔の天皇というのは容易に面会できず、できても簾をはさんで顔はみえない。ましてや女性ともなれば当たり前ではないか。しかも当時は男王国と敵対しており、刺客やテロへの対策もある。
あるいはこう考える人もいるだろう、魏の使いは倭王に要求するであろう臣下としての服属の礼を回避するために会わなかったのだ、と。だがそれも理由じゃないと思う。前にも書いたが、中国人は建前に対してけして四角四面ではない。礼も法もその運用は情況に応じてなんとでも変化すること日本人以上に柔軟で、中国人同士の抗争に生き延びるために異民族に頭を下げるなんてまったく平気だし、派閥のボス(司馬懿)のメンツを立てるためなら土下座でも裸踊りでもなんでもやる。むろん異民族の側も敵対時はともかく和親の相手にまでそこまで失礼な要求もしない。隋の頃、聖徳太子と「どっちが格上か」みたいな建前や形式といったくだらないことで争って追い返された裴世清は「綏遠の才なし」(異民族を手玉にとる才覚がない)と中国人からも酷評されてる。会うこと自体はどっちの側にも問題ないはずで、和親の外交はお互いに利益で結ばれたのだから当然だろう。
別の理由を考える。畿内大和に向かうのになぜ瀬戸内海の穏やかな海を行かず日本海の荒波を行かねばならないのだろうか? 男王国の領域については別の記事で詳しく書いたので省略するが、黒潮文化圏とかなりの程度重なっており、女王国が吉備(の陸上)を押さえていたとしても、男王国の海賊は瀬戸内海に出没しており、女王が制海権をとれなかったのではないか。海賊といっても男王からすれば正規の海軍であり、女王の方こそ海賊なのだが。かといって日本海航路なら安全ともいえない。北九州に大軍を駐留させるような余力が魏にあったとは到底思えないので、魏使の警護は倭国が担当することになる。むろん女王の威信にかけても刺客の類は撃退する用意があったろうが、魏使の安全が守られればよいという問題でもない。倭国の領内で外交使節を襲うような不埒な反逆勢力の存在それ自体が、国使の眼前にあらわになることが問題である。魏も倭国の内部事情は知ってるのだが、だからよいとはならない。魏にしてみれば一万二千里から使いを出してくれて、呉との戦いに力を貸してくれるのならば女王でも男王でもいいわけだ。だが女王国と男王国は、同一民族の同一国民の上で支配階級だけが割れている状態だから、失態をしでかすことは命取りになる。常に敵方より上の力量をみせつけねばならない。そういう中で日本海航路をとった場合でも、魏使への襲撃があっただけで問題になる。だから安全をとって魏使を九州に留めていたのか。しかしそれならなおさら邪馬台国まで強く招いたはずだ。なぜなら会えないのならそれは女王の外交が男王に阻止されたことになるからである。この程度の警護も不安だとすると九州と畿内の連絡は常に男王国の勢力によって揺さぶられていたことになり女王国は成立不可能である。卑弥呼は倭国のすべての国力を結集し、大倭王の名誉にかけても、なんとしても魏の使いを王都邪馬台国へ迎え入れようとしただろう。だからこれも違うな。
あるいは少し似てるが、倭と魏には同盟内容について認識のズレがあり、それが事務レベル、例えば難升米と梯儁が相談して処理しており、中国向けと日本向けの詔書を捏造していた、とか? これはアレだ、豊臣秀吉と明の万暦帝の間で小西行長と沈惟敬がやった欺瞞外交のようなこと。これなら直接女王からあれこれ聞かれるとマズイかもしれない。しかしこれは「郡使倭国、皆臨津搜露。伝送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」とあり通り、卑弥呼から直接派遣されている一大率の厳重な管理下にあったからムリだろう。

倭国の使いもはるばる洛陽までいって魏の皇帝に面会してるのに倭王が魏の使いとの接見を拒否するのは対等でもなく、不自然だ。お互いに会いたかったろうとも思われる。あっちからみれば異民族の女王なんてエキゾチックだし、こっちからみれば三国志の武将だぞw 現代でも女性の三国志オタなんていくらでもいるだろうがw これはね、両思いなの。だから倭国と魏使のどちらが接見を拒否したにしても、やむを得ない理由なの。一方的に拒否したのか、協議のすえ合意してやめたのかはわからないが。
いったい何が問題なのか? 魏使に行けない理由なく、倭王また歓迎せんとすれどもやむなくお流れになったとすれば「やむなく」の真相は何か。ポイントは二つある。一つはさっきから言ってる「本音と建て前」の使い分け。もう一つは呉の存在、これしか考えられない。

呉は西南諸島づたいの航路で倭国と交渉をもったと想像する説も、有力ではないがこれまた昔からある説だ。すでに別記事で書いてるが、狗奴国(男王国)と呉の外交は230年に失敗破綻しており、あせった呉はまだ決裂前だった公孫淵や高句麗にも仲介してもらって、邪馬台国(女王国)との外交になんとかこぎつけた。その証拠が赤烏元年と赤烏七年の紀年銘鏡である(この鏡が男王国=狗奴国のものではありえないことはこのブログでは説明ずみ)。

別の記事にも書いたが、紀年銘鏡の年代が新しいことをもって卑弥呼の時代と無関係とする説は採れない。たとえ時代の下ったものであろうとも、その「年」に特別に銘紀するに値する何らかの特別な年だという知識がなければ「銘」にならないだろう。卑弥呼より後の時代にも「その年が特別な年だ」という歴史の記憶が継承されていたということになる。

赤烏元年(改元は九月)は景初二年だから魏と女王国の国交が開けた年よりも一年早い。238年説だと同年になるが魏への使いは公孫淵征伐のドタバタの中での突発的な事件だったから、そんな最中に呉との新規国交なんてのは考えにくく、これ以前からの長い下ごしらえ期間が想定される。つまり倭国との外交に関しては、呉は魏よりも先輩だったのだ。だから伊都国には魏の使いも常駐していたが、呉の使いもいた。しかし倭国の北九州随一の軍事基地(=伊都国)の中で揉め事は起こしたくても物理的に起こせない。魏使と呉使は表面上はいがみあいながらも裏では情報交換もしていたろう。魏の建前としては女王国は中華皇帝としての魏の正統性を支持したことになっているので、魏使は呉使が女王国にきている事実を公にはできない。しかし中国人らしく現実ともそれなりに付き合っており、いちいち伊都国での許可は要るものの、邪馬台国(畿内大和)へも非公式には何度も行っており、非公式には卑弥呼とも何度も接見していたに違いない。それはもちろん呉使も同じだろう。北九州にも畿内にも、一介の平凡な中国系帰化人を装った間諜や密偵の類は、魏も呉もわんさか放って情報収集はしていたはずだし、倭国側もそれは承知のこと。卑弥呼の宮廷で魏人と呉人が同席することも珍しくなかったろうし、倭国としてはむしろそういう方が賑やかで喜ばれる。しかしそれはあくまで私的な交流であり、公式なセレモニーで同席するのはまた別なこと。公式なセレモニーでは呉使と同席するわけにはいかない。しかし倭国は魏を特別扱いせず、呉を排除するような配慮は拒否した。親魏倭王つったってこっちからおねだりした訳でなくあっち(司馬懿)の都合でくれたわけだろ。239年(238年説もアリ)の朝貢も司馬懿の手下から頼まれたのであってこっちから希望していったわけではない。どこの国でも外国からの使いは見世物(アトラクション)であるとともにそれ以上に自国の徳を示すもので、この上ないアクセサリーなのである。だから王都邪馬台国には魏の客も呉の客も常にそろってないと不揃いで不格好で物寂しいのである。蜀人も非公式にはいなかったとも限らない。

魏人(ぎひと:中国北部の住民)と呉人(ごひと:中国南部の住民)は言語も習俗も顔つきも体格も違っている。記紀を信ずる限り昔の日本人は北方中国人と南方中国人を同一民族とは認めず、前者を「漢人」(あやびと)、後者を「呉人」(くれびと)と呼んで区別していた。

しかしそうはいっても例えば正始四年の件などは会わずに済ませることはできない。そこでどうしたか?

当時の倭王は江戸時代みたいに「禁中並公家諸法度」に縛られてたわけではない。律令時代以前の天皇はその気になれば独裁権力をふるうこともできたし、景行天皇のように西は九州、東は関東と、自由に行幸もできた。かなり時代が下っても近江や吉野、吉備ぐらいはちょくちょく行けたんだから卑弥呼の時代なら九州へ行くぐらいどってことないだろう。おそらく卑弥呼みずから北九州に行幸して、そこで公式なセレモニーとして接見したんだろう。それぐらいのサービスはするよ? 国見(領地の視察)も王の仕事だし、個人的に旅行だってしたかろうし。会場はもちろん奴国である。この場合、外国の使いは伊都国から許可なしには出られないのだから、カドを立てることなく呉人を公式に排除できるというわけよw 完璧だねw

「会稽東冶の東」は男王国であり女王国でない?
ここらで、ようやく宿題にしていた問題に戻ろうw 会稽東冶の話の続きだ。
「会稽東冶の東」は実は行程記事の中には無くて、気候風土や習俗文化、物産などの紹介コーナーに出てくる。そこの中で、倭国の気候や文化が南方系だということを示している中で倭国は「会稽東冶の東」にありの一文も含まれる。つまりこの一文は「距離&方角という地図上の位置」ではなくて、距離や方角は多少は不正確かもしれないが「文化圏」的で「人文地理」的な位置だよ、というニュアンスで受け取るべきだろう。
ところでこの習俗記事は前半の方に「其風俗、不淫」とあるのにだいぶ離れた後ろの方に「婦人不淫、不妒忌。不盜窃、少諍訟」と似たような話がまた出てくる。産物の紹介も前の方では「種禾稲、紵麻、蚕桑緝績。出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。」とあるのに、これもだいぶ離れた後ろの方に「出真珠、青玉。其山有丹。其木有楠、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏号、楓香、其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味。有獮猴、黒雉。」とまた出てくる。なぜ2か所に分かれて別々に出てくるのか。重複記事があるため散漫で粗雑な印象があり、これは複数の資料を陳寿が不用意につなぎあわせたんだろうという見解が多い。

水野祐の説だとこの記事は「所有無、與儋耳朱崖同。」までの前半と、「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。」から始まる後半に分かれているという。確かにこう切り分ければ重複記事はないことになる。また「倭地温暖」というのも文章としてへんだ。倭地の話をしてる途中なんだから「其の地、温暖」となるか、なんだったらいきなり「温暖」でも文意は通る。「倭地」と断りが入ってるのはもともとここが文頭だったことが窺がわれる。
そしてこの記事の直前が「…次有奴国、此女王境界所盡。其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。自郡至女王国万二千余里。」となっているが、「自郡至女王国万二千余里」という文は「女王国の『南境』まで万千里」という意味で、狗奴国は女王国の南にあるんだから、これは「狗奴国の『北境』まで万二千里」というのと意味の上では同じとなる。つまり「自郡至女王国万二千余里」という文はまだ狗奴国の説明の一部なのである。
まぁしかし「狗奴国の『北境』まで万二千里」という解読は苦しい。もしそれが正しいのなら、それならそうともっとわかりやすい書き方をしたはずだ。俺の説としては「自郡至女王国万二千余里」という文は狗奴国の説明の後に入ってるのは妙だからここは錯簡で、「…此女王境界所盡」と「其南有狗奴国…」の間に入っていたのではないかと考える。そうすれば「狗奴国の『北境』まで万二千里」なんていう不自然な解釈しなくても、文意の通りがスッキリしてひじょうによくなる。
ともかく水野祐の説を続けると、習俗物産の記事は狗奴国の直後に続く記事なのだから、前半は狗奴国の習俗の説明だったのではないか。つまり前半パートは邪馬台国の習俗でないが、後半は邪馬台国の習俗や物産であって狗奴国の習俗物産ではない。
で、もしそうだとすると、南方系を示唆する3つの記述、刺青の件も「会稽東冶の東」も「儋耳・朱崖」も、すべて狗奴国の記述であり、邪馬台国は関係なかったことになる、と。
水野祐はさらに重要な指摘をしている。習俗物産記事の前半パートと後半パート、それに『漢書』地理志の「儋耳・朱崖」の記事、この3つを比較対照して、どうも倭人伝は前半パートと後半パートを比較させようという意思がなく、前半パートと『漢書』地理志の共通性を強調しようとしていることを明らかにしている。前半パートは中身の半分は独自記事だがもう半分ぐらいは『漢書』地理志の「儋耳・朱崖」の記事からのそのまま転載(パクリというかほぼコピペ)が混在しており、コピペ部分についてはコピペなんだから個人的にはどうも事実とは認めにくいような気がする。が、具体的にそれぞれの記事を個別に検討すると実際に日本にあったものとして問題ないという説もあり、だとするとコピペなんだけど偶然にも事実と一致したのか、事実を書いたら偶然にもコピペっぽくなっちゃったのか、どっちなのかはわからない。いずれにしろわざわざ「儋耳朱崖と同じ」と念押しするのは書かれてる内容が事実かどうかに関わらず意図するところがあろう。

水野祐は邪馬台国九州説だし、狗奴国も魏に入朝していたという説だったり、昔の学者なので他にもいろいろおかしなことを言っており、司馬懿の都合による政治的歪曲という観点も抜けている。そのため、なぜムリしてまで南方系を強調しているのか説明が不十分な印象があるが、それは現代になってからみてるからで、昔の俺なんかひじょうによくできた秀逸な説だと感心したものだ。
後半パートで南方系を思わせる記事というと、しいていえば「倭地温暖」くらいしかないが、温暖の2文字だけではどの程度の南方なのかつかみどころがない。熱海ぐらいの緯度でも温暖っちゃ温暖なわけで。「皆徒跣」(はだし)というのも江戸時代でも庶民は裸足が多かった。華北の冬は寒さ厳しく野菜など採れないから「冬でも野菜を生食する」のは倭国が温暖だという話の流れだというが、腐敗しやすいはずの夏でも生食だというのだからむしろ北方のイメージだということもできる。つまり後半パートにはハッキリと「南方系だと断定できるような記述は無い」。
確かに南九州の隼人なら南方系と言われて納得できるが、北九州を含む倭国全体の習俗物産がはるか南のはての海南島と同じというのはあまりにも違和感がある。それが、南方系と思わせる記述はすべて狗奴国のみについての説明だというのだから、好都合に思われたのだ。

ところがこれは相当に古い説であるにもかかわらず、あんまり有名でもないし通説化してる様子もない。おそらく学界では反論もいくつか出されていて、あまり支持されてないんだろうな。
そう思って水野説への反論を試みると、狗奴国の習俗だという前半パートはさらに前後に分かれ、刺青の話ばかりしてる前半が「会稽東冶の東に在るべし」で終わり、後半の習俗物産記事は「儋耳・朱崖」と似た習俗物産ばかりを集めたパートで、だから「有無するところ儋耳・朱崖と同じ」で終わってるわけだ。つまり、考えようによっては、狗奴国と邪馬台国の習俗物産を別々に書いてるわけではなくて、やはり全部が倭国全体の習俗物産記事であり、水野祐がいう狗奴国の習俗物産というのは単に「刺青パート」と「儋耳・朱崖との共通点パート」にすぎないのだ、とも考えられる。

では通説と水野説、どちらが正しいの?
どちらが正しいのかわかりにくくなってること自体が一つの大きなヒントだろう。通説が正しいのなら、陳寿はもっと記事を整理して書いたはずで、重複感のある粗雑な編集はしなかっただろうし、水野説が正しければ、こっちは狗奴国の記事、こっからは狗奴国以外の記事として誤解のしようがないようにわかりやすく書くことは造作もないことだったろう。
要するに陳寿は「わざとわかりにくくしてる」のである。出たw「春秋の筆法」だなw 春秋の筆法は、現実が権力者にとって都合が悪い場合にもちだされる筆法だから、通説と水野説のうち、一方が現実の倭国だがそれは権力者(この場合は司馬懿)にとって都合が悪いものであり、もう一方が司馬懿にとって都合よく歪曲した倭国像なのである。

前述のように倭国が「会稽東冶の東」にあるというのは「南方系の習俗と物産がどうのこうのという話とは無関係に」呉越地方の中国人の認識だったのであり、わざわざ捏造した話ではない。それは魏(というか司馬氏)にとっては都合のいい話なのだからそのまま採用すれば済む話であり、採用したからこそ方角を90度まげて呉越地方の中国人の認識に合わせた。
この上、そこからさらに遠い南の海南島の習俗物産をコジツケる意味など本来は無いはずなのである。だが、魏としては女王国が「会稽東冶の東」にあることを期待してるのに、実際は女王国と対立している男王国の方が呉の隣国だった、なんてことでは倭国と魏の同盟が呉への抑止力にならない。事実は「会稽東冶の東」にあったのは、倭国は倭国でも女王国ではなく狗奴国だった。そこに90度まげて邪馬台国を「会稽東冶の東」にもってきた結果、狗奴国のものだった南方系の習俗と物産を邪馬台国も共通していないと筋が通らないことになった。
つまり水野祐の説が現実の倭国を反映している。帯方郡からのレポートによれば倭国は九州から東の方に延びており、呉越地方の中国人の認識と違っていたばかりか、格別に南方系と思われるような習俗も物産もなかった。そこで狗奴国の習俗物産記事に続けて北九州諸国の習俗物産記事を置き、わざと混同を誘う構成になっているのである。普通に読めば通説の読み方で問題ないように感じるのだが、途中に「倭地」という不要の二文字をわざわざ挿入しているのは「春秋の筆法」でいう「文の錯(たが)え」ではあるまいか。「ここでおかしいと気づけ」というシグナルなのである。

狗奴国の「東国説」と「九州説」は矛盾しない
すでに他の記事で詳しく書いたので簡単に済ますが、方角が90度曲がってるんだから「南」というのは実は「東」だ。女王国の南にある狗奴国は、正しくは女王国の東。で、最近の有力説である狗奴国東国説もいろいろだがその中の一つで、狗奴国は今の静岡県だとする説がある。後世に久努国造があったところが遠江国山名郡久努郷と同国周智郡久能郷(ともに静岡県袋井市、ただし和名抄の周智郡に久能郷は無く明治の郡制施行時の久能村が名残り)だが、駿河国安倍郡(会星郡)久能郷(いまの静岡県静岡市)も遺称地だとすると、狗奴国はほぼ伊豆地方を除く静岡県の大部分を占めていたと思える。この場合、狗奴国の官である「狗古智卑狗」の「狗古智」は静岡県の菊川をさす地名「菊」と助詞の「つ」とするのが穏当だが、面白くはないw そうではなく旧来の説に従って肥後国菊池郡(熊本県菊池市)のままでよいと思われる。東国説と九州説は矛盾するものではなく実は両立するからである。
鞠智城跡
※鞠智城(7世紀)の復元された八角形鼓楼。ここは律令制下の菊池郡城野郷に含まれる。3世紀の狗古智国もここかこの近辺にあったろう。一方、めんどくさいから画像は出さないが、静岡県袋井市に久努国造を祀る「七ツ森神社」(山名郡久努郷)あり、そこから1km半(徒歩20分)のところに久野城跡(戦国時代)がある。ここは律令制下では山名郡ではなく周智郡だが、西にすぐ隣接して久能という地名(かつての周智郡久能村)が残り、七ツ森神社からも近い。3世紀の狗奴国も久能城跡かその近辺にあったろう。

狗奴国を「春秋の筆法」で読む
対馬国の大官が卑狗といい、一支国の大官も卑狗というとあるのだから、そこまで読んできた中国人は「卑狗」とみれば特定の国を治める大官のことだと理解している。地方統治官は担当地名の下に官名をつけて、例えば上党郡の太守は「上党太守」、楽浪郡の太守は「楽浪太守」というのだから、対馬国の卑狗は「対馬卑狗」、一支国の卑狗は「一支卑狗」だと自然に受容している。ここで「狗古智卑狗」という字の並びを目にしたら、説明など無くとも自然と「あ、狗古智国の大官だな」と直ちに了解されよう。つまり狗奴国とは別に「狗古智国」という国の存在が暗示されている(間接的に示されている)。別々の国なんだから、狗奴国は東海道だけど、狗古智国は九州にあったってことで何の問題もない。魏志倭人伝の文面ををよく見ると、狗古智卑狗は男王の官だとは書いてあるが狗奴国の官だとは書いてない。ゆえに狗奴国にいたとは限らない。
で、菊池郡は北九州の女王国支配下の諸国からみると南であり、畿内からみると西になるので、90度傾けると北九州からは西、畿内からは北になる。西だと倭国と呉の間に女王と敵対する男王国が挟まることになり、女王国が直接呉への脅威とならないので具合が悪い。北だと「南方系の習俗や物産をもった国が北で、そうでない国が南」になってこれまた具合が悪い。なので狗古智国は方角どころか国名すら明記してないのである。一方、東海地方にあった狗奴国は他の国々と同じく90度傾けて、女王国の南にもってきた。そうやって「女王国の南」という同じ場所に狗古智国と狗奴国を重ねあわせた。しかし「狗古智卑狗」という官名から読者は「狗古智国」の存在を想定するのだが、文面上は狗奴国しか出てこないので、読者は不審に思い「文の錯え」に気づく、という寸法よ。

「使訳所通三十国」の謎
冒頭に「使訳所通三十国」(使訳、通ずるところ三十国)とあるのも春秋の筆法で、余とか可とか許とかの概数を示す文字が無く、30国ピッタリであることをにおわせている。「におわせている」というのは概数を示す文字が無くても下一桁がゼロなんだから「いやこれは概数なのだ」と「解釈」で押し通せる余地が残っているからである。これもわざわざどっちとも受け取れるように書いてあるわけだ。30国ピッタリとする説が多いが、はっきりしてるのは28ヶ国であり、従来の説では残り2国は次のA・B・Cの3つの候補から2つ選ばれる。

(A)狗邪韓国、(B)第二の奴国(餘旁遠絶21国説)、(C)狗奴国、

だいたい(AB)を加えて30国として(C)は入れない説か、(A)(B)のどちらかのみ入れて29国とし「三十国というのは概数なのだ」と割り切る説が多い。つまり(C)は人気がないw
しかし(A)を倭国に勘定することはできないのはずっと前の方で説明した通りで除外される。第二の奴国も意図的な国名重出であることは説明済みだから「餘旁遠絶21国」は誤りで「餘旁遠絶20国」が正しい。つまり(A)(B)を加算する訳にはまいらぬ。
(C)が人気ない理由だが、狗奴国は女王国と敵対していて、女王国は魏の友邦なのだから「味方の敵は俺にも敵」の理屈からいえば魏と狗奴国が通交していたはずはない、だから「魏の使訳が通じていた国ではない」という判断だろう。
だが、本当にそうか? 倭人伝には「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」(いにしえより以来、その使いの中国に詣でるやみな大夫と自称す」とある。この一文は刺青パートの中にあり、従って本来は狗奴国の記事だったはず(正確には狗古智国だが)。狗奴国(正確には男王国だが)の使いが中国に行ってると書いてある。ちなみに有名な話だがこの部分は『魏略』逸文では「聞其舊語、自謂太伯之後」(その旧語を聞くに倭人みづから謂ふ呉の太伯の後なりと)になってる。ここは『魏略』が原資料のままで陳寿が書き変えたものだ。魏略の文は倭人の刺青が呉越の習俗と共通してるといいたいだけで、春秋時代の呉も越も刺青文化は共通してるから、なんの忖度もなく呉も越も一緒に出しているわけだ(呉の先祖の太伯も刺青で有名な人)。渡邉義浩は、呉と倭の文化的な親近感を出すと呉が倭を朝貢国とする正統性が出てしまうから陳寿が書き変えたとか訳のわからぬことをいってるが、春秋時代の呉と三国時代の呉ではぜんぜん関係ない国なんだからそんなことある訳ないだろw 表面的なことだけいえば、呉と越とは臥薪嘗胆の故事で有名な通り激戦して最後は越が呉を滅ぼしたわけだから、呉と倭の関係を消して、倭と越の相似性だけを強調し、春秋時代の越が呉を滅ぼしたように三国時代の呉も越に似た倭に気をつけろという脅かしだという解釈なら可能だろう。しかしそれなら「聞其舊語、自謂太伯之後」の10文字を消すだけでいいのであり、わざわざ「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」なんて書きたす必要はない。この文はここだけ刺青の話から浮いており唐突な感じを与えるし、「聞其舊語、自謂太伯之後」と字づらが似ていて明らかに魏略の文を参考にして書いた作文だとわかる。
この部分は春秋の筆法によって狗奴国(実は狗古智国)の習俗だとわかるのだが、倭国全体の習俗であるようにも読めるという二重構造になってるのだから、「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」の一文も通常の解釈では女王国についての説明であり、裏の意味としては男王国についての説明である。

「自稱大夫」のオモテの意味
オモテの意味については簡単だ。卑弥呼と魏との外交で、倭国側の窓口として一切を仕切ったと思われる難升米が「大夫」として出てくる。難升米が大夫であること自体は、だから何だってことでもないのであって、だから自称も糞もない。大夫というのは支配階級、貴族層ぐらいの意味で、一国の外交官なら中国でいう大夫に相当する程度の身分なのは当たり前であり、いちいち話題にすらならない。それなのにあえて「自称」だというには、それなりのニュアンスが込められている。難升米という人はかつての奴国王の直系の子孫であり、卑弥呼から全権を任され、今でも対中国外交の最高責任者としてすべてを采配してるのだから、先祖の奴国王とやってることはほとんど同じなのである。後漢帝国の建前としては「漢委奴國王」にしたつもりで、なおかつ今もその子孫が同じことしてるのだから、中国からみた場合、この人は今でも実質は倭王なのである。にもかかわらず、倭国側では王ではなくて「大夫」だと。大和言葉でいえばキミ(君、王)ではなくてオミ(臣、大夫)なのである、と。中国側の感覚とズレるから、これは倭国側が自称してるんであって、中国としたら難升米が実質倭王みたいなもんだといっている。中国からみたら実務はすべて難升米から出てるから、本当に卑弥呼の意図なのかどうかわかりにくかったんだろう。重要な儀式とかただの親睦会的な場では女王とコミュニケーションできたろうが、肝心の国際政治外交という実務的な議論には「難升米に任せてある」として女王は顔出してくれないし意志の表明もない。本当に女王と外交してるのか、難升米に騙されてるのかもよくわからないし、確かめようがない情況を表わしている。

「自稱大夫」のウラの意味
ウラの意味としては当然、ここの大夫は男王が派遣する大夫ということになる。陳寿は呉と倭の親近性を示す文を削除するかわりに文意を換骨奪胎して、狗奴国(正確には狗古智国だが)もまた中国に朝貢したことがあるとわざわざ念押ししてるのだ。念押しの割には「魏朝への朝貢だ」と明記しているわけでもなく、この場合の中国に魏は入ってるのかどうか、そこはボカしており、解釈次第でどっちとも取れるように書いてある。もし魏へ入朝したことがあるのなら狗奴国もまた「使訳の通じてる諸国」の一つだということになるわけだが、そう明記できないのは実際には狗奴国は魏と通交したことがなかったからではないか。

狗奴国は魏に朝貢した?しない?
水野祐は陳寿の作文を真に受けて「狗奴国もまた帯方郡に朝貢していたのだ」というのだが…。狗奴国でも狗古智国でもいいが、とにかく男王国の使者が相手にされるかどうかはともかく郡までは行っていたというだけならギリギリ認めてくれる人もいるかも知れない。が、帯方郡の使者は男王国(狗奴国でも狗古智国でも可)に行くわけがないと思う人の方が多いだろう。魏の建前では倭の女王が魏を中華における唯一正統の皇帝として認めてくれたことになっており、だから卑弥呼が呉や蜀と交流があるって話はタブーになる。そのような事実はあったとしても記録から抹殺される。しかし実際は紀年銘鏡にある通り、呉と女王国は交流していたという話は別の記事で詳述した。女王国が魏だけに朝貢するのは魏を中華皇帝と認めることであり、これは魏としては親魏倭王(男王国を認めず、卑弥呼を倭国全体を代表する唯一の大倭王として認めること)とバーターのつもりなのである。だから女王の二股外交は魏にしたらひじょうに不愉快な事態で、もし卑弥呼がこの態度を改めないのであれば、対等の原則によって魏もまた卑弥呼の敵である卑弓弥呼(男王)と通交する権利を有するだろう。舐められたら終わりなんや。男王は過去の経緯から魏には興味なかったかもしれないが、魏にしてみたら呉への圧力になるなら女王でも男王でもいい。中国でいう朝貢というのはもちろん公式な使者の方が望ましいが、民間の商人が交易のついでに帯方郡の官僚に手土産を差し出せば、非公式な使者であっても「朝貢」として立派に成立する(岡田英弘の解説による)し、そうであるなら逆に帯方郡からでも交易にこじつけて商人に委託すれば男王の配下の首長に連絡をつけることもできたろう。玄界灘の制海権は女王が握っていたろうが、五島列島の西の海と済州島の間を往復する航路がありうるので伊都国の検問を通らずに韓と通交できるし、仮に通常航路であっても民間人を装ったり帯方郡の魏人に託したりと、一大率の検問を抜けることはできなくはない。

ただしこれは「物理的にはありうる」というだけのことで、やはり狗奴国は(狗古智国も)魏には使いを出してなかったと思われる。実は男王国には中国から公式の使者はきていなくても、中国人はたくさんいたから、魏人がスパイを潜りこませて情報収集するのは容易だったはずだ。亶洲(澶洲)というのは男王国のことだという話は別記事で書いた通りだが『三国志』呉主孫権伝や『後漢書』東夷伝によると亶洲には徐福の子孫がいて数万戸になっているという噂が中国側にはあった。この徐福の子孫というのは実のところ呉の戸籍を離脱して逃げてきた難民(亡命者)だろう。呉は人口不足のため孫権自身がいっているように税と兵役の負担が重い上、戸籍離脱して逃亡する者は重罪だ。亶洲を求めて探検隊を出した理由の一つは、この逃亡民を連れ戻すためでもあったろう。むろん逃げてきた連中は帰りたくないから「我々は呉から逃げてきた呉人ではなく、呉が建国されるよりずっと前に移民した秦人の子孫だ」と嘘をつく必要があった。つまり男王国には呉からの難民が一定数いて、それなりの安定した暮らしを維持していたと推定できる。
伊都国に駐在する魏人は一大率の許可の下で(公式の許可か非公式の黙認かわからぬが)狗古智国に情報収集のためのスパイを送り込んでいたと思われる。一大率としては許可したくないだろうが物理的に阻止できないから、欺かれるぐらいなら先に許可した方がよい。許可はしようがしまいがスパイ活動はお互いやるのが当たり前で、やらないことはあり得ないのだから。そして、呉人たちが本国に帰ったらそれだけ呉の国力が回復するんだから、魏の役人としても当然、帰って欲しくないだろう。だから徐福の子孫だと偽称している呉人たちは魏人に保護を求め、魏人の情報収集に協力するし、魏の公式見解としても「彼らは呉から逃亡してきたのではなく徐福の子孫だ」ということになる。それだけでなく魏人は呉人を男王の使者に仕立てて帯方郡につれていくぐらいのことはしたろう。実際はそんな手のこんだ面倒なことはせず、単に魏人が男王国からも使者が来たと自称しただけかもしれない。「自古以来、其使(男王国からの使者)詣中國、皆自稱大夫」は陳寿の作文であって虚構なのだから後者の方が可能性が高い。重要なことは「魏朝には女王国からも男王国からも朝貢の使者がきた」という「建前」なのである。

建前では男王国もまた「使訳通ずるところ三十国」に含まれるわけがご理解いただけたろうか。(A)狗邪韓国、(B)第二の奴国(餘旁遠絶21国説)、(C)狗奴国の三者のうち、(A)(B)は含まれない(含まれたらおかしい)ことは再三いった通りだが(C)を入れてもまだ29国。しかし前述のように倭人伝の文面には隠れているが、男王国には狗奴国とは別に狗古智国があることが「春秋の筆法」によって示されているので、これを加えてピッタリ三十国となる。三十国という数字自体が「あれ、計算が合わないぞ」と気づかせるための「文の錯え」なのである。
邪馬台への行程【その5】」に続く。
【その5】では「至」と「到」の使い分けの謎を「春秋の筆法」で解きます。
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