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邪馬台への行程【その5】~「至」と「到」・辰王・三韓~

改稿:2679年[R01]11月19日TUE (初稿:2679年[R01]10月23日WED)
邪馬台への行程【その4】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その4】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「至」と「到」の使い分けを春秋の筆法でみると?
倭の諸国の行程で、狗邪韓国と伊都国だけ「到」の字で、他はすべて「至」になっている。この二文字は、使い分ける場合には「到」が最終目的地で「至」はそれ以外の通過点ということになるが、必ずそう使い分けると決まってるわけでもない。漢文の用例を大量に調べあげる人は昔からいて、使い分けてる例もあればまったく同じに使ってる例もあり、いろいろ。

倭人伝で「到」の字の使われている狗邪韓国と伊都国に、本来なら「到」の字を使うべき邪馬台国を加えた3ヶ国で「到」の字の使い分けの組み合わせは以下の8パターンがあり得る。

(A)邪馬台国にのみ「到」
(B)伊都国にのみ「到」
(C)狗邪韓国にのみ「到」
(D)3ヶ国とも「到」
(E)「到」の字なし(「至」で統一)
(F)伊都国と邪馬台国に「到」
(G)狗邪韓国と邪馬台国に「到」
(H)狗邪韓国と伊都国に「到」

(A)と(E)は通常の書き方であり問題なく、特に(E)は『梁書』と同じでもある。(B)と(F)はやや異例だが魏使が常駐するという伊都国の特殊性に鑑みて理解できなくはない。問題は狗邪韓国に「到」の字を使う(C)(D)(G)(H)で、この4つは以下の3通りの解釈ができる。

(甲)「至」と「到」を同義の文字として使い分けず混用している
(乙)使い分けようとしたのだが狗邪韓国の「到」はただの誤記
(丙)「春秋の筆法」で遠回しにウラの意味を示そうとしている

上記3通りのうち、一応(甲)と(乙)は無いものとする。話が終わっちゃうからねw
で、もし春秋の筆法だとしても(C)と(G)はわかりやすい。実は狗邪韓国までしか行ってない、倭国に行ってないってことを示しているわけだろう。だが (D)と(H)は倭国内にも「到」の字があるんだから「狗邪韓国までしか来ていない」とは読めないし「伊都国までしか来ていない」と言いたいのならなぜ狗邪韓国に「到」の字があるのか意味がわからない。この、意味がわからない最後の(H)が倭人伝の書き方で、もし使い分けるとすれば最後の終着点である邪馬台国で「到」の字を使うべきなのにそうなっていないんだから、一応、倭人伝では「使い分けられてはいない」。伊都国は魏の使いが常駐するところで倭国滞在中の定宿(じょうやど)だったろうから「到」の字でもいいような気もするが、それは邪馬台国で「到」の字を避けた理由にならないし、狗邪韓国で「到」の字を使った理由にもならない。だから、通常の漢字の意味からすると、どうも使い分けは無いっぽい。そう正しく理解したればこそ『梁書』ではすべて「至」の字で統一してるわけなのだ。そんなこんなで論争史が長い割りに、最近はどうやら最終的にはたいした意味はなかったってことに落ち着きそうな気配だ。

だが、「にもかかわらず」昔は使い分け説の方が有力だった。使い分け派の眼目は2つあり、1つは魏使が伊都国を最終目的地としていて、邪馬台国へは行ってない説。もう1つは伊都国を中心とした「放射状説」(「到」の字だけが放射説の根拠ってわけではないのはもちろん知ってるが)。放射説はさておいても、行ってない説はありえないことはすでに説明したが、そもそも「到」の字が伊都国にのみ使われてるならともかく「狗邪韓国」にも使われてるんだから、両方に共通する説明ができなければおかしい。狗邪韓国からも放射状の行程があるとして「日数表記」の邪馬台国と投馬国への出発地とみる説もあるが、なんで伊都国からなり不弥国からなりの、もっと近いところからの行程が抜けていきなり狗邪韓国からの直行コースが出てくるのか意味がわからない。
また狗邪韓国は明らかに通過点であり最終目的地ではない。そこに数日でも停泊したに違いないとか、倭国の領海に接してて、ここから倭国だからとか、いろいろ理屈をいう人がいるがまったく関係なくね? 区切りっぽい何か雰囲気あればなんでもコジツケようってだけじゃん。狗邪韓国と伊都国だから漠然とした雰囲気だけは確かに共通してるが、そんな程度でも「到」の字を使ったのなら終着点の邪馬台国にはなおさら「到」の字じゃないとおかしい。そういうつかみどころの無いムード話なら無いのと同じで、あるんだと絶叫するだけアホだぞw 普通はここで解決とするわけだが、俺は釈然としないね…。お前も釈然としないだろw アホだからなw 陳寿も俺らアホの仲間かw そう、一字の違いに「微言」を隠すという秘技「春秋の筆法」を駆使する陳寿先生が、不用意な雰囲気レベルの感覚や気分で適当に字を変える漢(おとこ)のはずがないじゃないかぁ。

さて本題に入ろう。ういろう食おう。春秋の筆法には、表面上の意味と裏に隠された真意があり、前者は一般人向けだから漢文として普通に読んだ場合の理解。『梁書』はこの水準で魏志を抜粋引用したわけだ。現代の通説もこっちの解釈だな。だが、注意深い読者は「あれ? なんで「至」と「到」を書き分けてんだろ? 通常の漢字の意味での使い分けに合ってなくね?」と気づく。が、春秋の筆法を知らないと「まぁ、行程の中の区切りっぽい地点だからなんとなく到の字の方が雰囲気あってるよな」という浅い理解で終わってしまう。しかし邪馬台国で「至」になってるのに気づけば疑念が深まるはずで、ここで「ははぁん、伊都国までしか行ってないのかな?」と一瞬思うんだが、もしそれが隠された真意なら狗邪韓国は普通に「至」で済ませて、わざわざ「到」の字なんか使わない。つまりここで陳寿が言いたいことは「魏使は伊都国までしか行ってない」なんてことではありえない。
『梁書』のように全部「至」で通すか、もし使い分けるのなら順次式なら邪馬台国でのみ「到」、放射説なら伊都国でのみ、もしくは伊都国と邪馬台国で「到」。直行式も放射説も狗邪韓国で「到」の字が出る筋合いはない。
このような一見乱れたような「到」の字の使い方が意図的な「文(ふみ)の錯(たが)え」なのである。

伊都国と狗邪韓国に何かの共通点があることを示そうとしているのはわかるが、それは何か。むろんそれは本文中で明示されているはずだ。といっても狗邪韓国には弁韓の一国であることと、倭への出港地(実は韓への入港地だがそれはともかく)ということ以外なにもなく、この2点は伊都国に共通させようがない。

そこで伊都国をみると

(1)代々の王がいる
(2)代々の王がいるがその王は倭の女王の支配下にある
(3)帯方郡の使者はいつもここに駐在する
(4)一大率がいる

と、かなり豊富な情報がある。で、この4点すべて狗邪韓国にも共通してるのだろうか?

(1)は、もしそういう事実があったのなら、そのまま書いても何の不都合もなさそうだから「春秋の筆法」の出る幕もないだろう。だから実際に魏志韓伝には「十二国また王あり」とある。これは弁韓の12国をさすというのが定説だが、各国ごとに王がいて12人の王なのか、12国を統べる1人の王がいるのか解釈が分かれる。弁韓12国をすべる1人の王というのはつまり弁韓の王で、この他に「辰王」というのがいてこれは字づらからして辰韓の王だろうから、弁韓の王は「弁王」ということになる。馬韓の「馬王」とかもいたんじゃないのかと思われ。春秋の筆法で隠されてるのである(なぜ辰王だけ出て馬王と弁王は出てないのかの理由など今回は邪馬台国と関係ないので詳しくやらないが)。
この場合の弁王というのは後世の加羅諸国の盟主だった金官国=駕洛国(3世紀の狗邪韓国、書紀の「南加羅」:今の慶尚南道金海)の歴史を記した『駕洛国記』に出てくる金氏王朝ではない。同じく加羅諸国の盟主だった伴跛国(=大加羅国、3世紀の弁辰半跛国:今の慶尚北道高霊)の王家である。後世の『三国遺事』等では駕洛国を伽耶諸国の中心国としているが、『日本書紀』では6世紀の南加羅の滅亡後の加羅諸国(=弁韓諸国)の盟主は大加羅=伴跛国が主体のように読める。なので、通説では加羅諸国における宗主の地位が前者から後者に移ったとされることが多いが、実は後者の方が弁韓の盟主としては古い。なぜなら今回のシリーズの【その1】で詳しく説明したから根拠は省略するが弁韓の「弁」は弁辰半跛国(原文に「半路国」とあるのは誤写)の「半」で、弁韓とはもともと「半跛韓国」の意味から付いた名前だからだ。つまり弁王(=弁韓の王)というものは弁辰半跛国の、半跛国王である。さらに魏志韓伝に

臣智或加優呼『臣雲遣支報・安邪踧支・濆臣離兒不・例拘邪秦支』廉之號


たぶん「臣智或加優呼『臣雲新暹支・安邪踧支・臣濆雞辰支・拘邪秦支』之侯號」の誤記。
「例」の字は「佝」か「𠛎」の誤記で「佝拘」または「𠛎拘」は1字で済む字を誤って二度書きしたもの(衍字)。
「兒」の字は「辰・兂・冘・卂・先」のどれかの誤字で、いずれもシンと読む。

臣智あるいは優れるものに加へて呼ぶに「臣雲新の暹支」「安邪の踧支」「臣濆雞の辰支」「拘邪の秦支」の侯号あり
臣智たちのうち、あるものは強大で地位が高いので、「馬韓の臣雲新国の臣智」「弁韓の安邪国の臣智」「馬韓の臣濆沽国の臣智」「弁韓の狗邪国の臣智」という(4人の)諸侯としての称号を加えて呼ぶ
【注】「臣雲新国・安邪国・臣濆沽国・狗邪国」が優れるものだが馬韓の国と弁韓の国が区別なく混ざってることに重大な意味がある。なお、ここの文を最初に「臣雲新(国)の遣支報・安邪(国)の踧支・臣濆沽(国)の不例・狗邪(国)の秦支廉」と解読したのは李丙燾という昔の学者で、彼は「遣支」は「険側」の別表記、「踧支・秦支」は「臣智」の別表記で「不例」は「樊濊」の別表記とした。また「報」と「廉」は名前かとしている。しかし「不例」は「樊濊」だというのは音韻的にムリじゃないか? ここにあげているのは「優れるもの」であり諸国の中のトップクラスだろうから、階位2位の険側や3位の樊濊が混じっているとするよりも、すべて臣智と考えた方がよい。他にも俺の説であれこれ修正を加えた。

とあり弁韓の中では安邪国の臣智(=踧支)と拘邪国の臣智(=秦支)が「優」(まされるもの)だった(臣智は大国の首長の称号)。つまり3世紀にはすでに狗邪韓国(=金官国)も有力になってはいたが王より下の臣智であって、王ではないことがわかる。ここに半跛国が出てこないのは半跛国の首長は臣智より格上の「弁王」だからだろう。李朝時代の伝説では大加羅の初代の伊珍阿鼓が次男で、金官国の初代の首露王が三男の兄弟だという。二人はAD43年に即位してるから3世紀にはすでに二つの王家が存在していたことになるが、3世紀には金官国(狗邪韓国)の王は(弁韓諸国の内部では王と認められていたかもしれないが)、魏志韓伝の建前では王と認められておらず臣智の位に留まっていたことがわかる。

(3)もまた、もしそういう事実があったのなら、そのまま書いても何の不都合もない。なのに書いてないのだから単純にそういう事実は無かったとも考えられるし、差し支えはないのだが重要じゃないから省かれたとも考えられる。ただ、後述のようにここに一大率がいたのなら帯方郡の使者が常駐していてもさほどへんではないし「到」の字義からしてそれもまたあり得そうではあるが、まぁ、どっちでもいいことだから関係ない。

そうすると春秋の筆法で隠された事実は(2)と(4)だとわかる。ただしこのブログの別記事で伊都国の「統属女王国」の部分は『魏略』逸文と照合の上、「奴国に属す」の意味であり「女王国に統属する」の意味ではないとした(詳細は該当記事参照)。伊都国にいるけどそれは伊都国王ではなく奴国王であり、伊都国に出向してるだけだ、と。そうなら(2)も狗邪韓国の王は狗邪国にいたが、狗邪国王ではなく近隣の別の国の王であり、狗邪国には出向してるだけだということになる。これも別に魏の建前に抵触するとは思えないので、このような事実があったとしても隠す必要はないわけで、そんな事実はなかったから書かれてないのだとも考えられるし、隠したわけではなくたまたま書かれてない(重要でないから省かれた)だけかもしれないし、そこは決め手がないが、まぁどっちでもいい。しかし通説どおりの「倭の女王の支配下にある」という解釈も、結果的にその意味だけは生きている。なぜかというと(4)の一大率がいてこれは倭王の派遣した官で管轄下の諸国を支配してるのだから「統属女王国」の文字があってもなくても、一大率がそこにいるのならそこは倭国の領土も同然ということになる。つまり春秋の筆法によって隠された事実とは「一大率が伊都国と狗邪韓国の両方に一人づついた」ってことだよ。一大率は「女王国以北を検察する」んだが、三韓の諸国も確かに女王国以北には含まれる。そして「諸国これを畏憚」して、その様は「刺史の如し」だよ。こんなものが弁韓の狗邪国(今の金海)にいたといったら、へんに聞こえるか? ちょっとした歴史マニアなら全然へんには聞こえない。まさに任那日本府そのものじゃんw

もう一つの「一大率」
任那日本府については左巻きがうるさいので、これを実在したと考える学者でも、あーでもないこーでもないと遠回しな理屈をつけて朝鮮総督府のようなものとは違うんだと力説してる。が、総督府だったら困るのは歴史的な経緯でいろいろと面倒くさいことになってる現代人の都合であって、古代人の知ったこっちゃないんじゃないかい? 任那日本府というのはね、これはね、朝鮮総督府みたいなもんなんですよwww んなわけないっつのw まぁでも韓国統監府ぐらいのものではあるよwww え?違いがわからない? そんな歴史オンチは豆腐の頭にカドぶつけて氐ねw 氏ねなんていってないぞ、氏質都札じゃなくて氐質都札ですから。間違えないでね原田実先生w つかこんなネタ誰もわからねぇか、みんな歴史オンチなんだからぁ、ホントにもう。これからはね、皇国史観ですよ、団塊の爺婆の皆さん! まぁ冗談は顔だけにして話もどそう。『新撰姓氏録』には崇神天皇の時に任那が新羅と争ってるために将軍の派遣を要請してきたので、和邇氏の祖、塩乗津彦命(しほのりつひこのみこと)が任那に渡り鎮守となったという話が出てくる。ここで将軍というも鎮守というも「宰」(みこともち)のことで鎮守将軍はその役割を漢文的に表現したもの。すなわちこれが任那日本府の起源であり、AD391年どころか神功皇后の新羅征伐よりずっと古い。現代の学者は古記録や古伝承を後世に作られた説話とみなして史料的価値を認めず、任那日本府の起源を『広開土王碑』に出てくるAD391年の倭国の半島進出に求める見解が多い。これだと卑弥呼の時代に任那日本府のようなものがあるはずないということになるが、俺は卑弥呼の時代すでに一大率が狗邪韓国(=弁辰狗邪国)にも派遣されていたと考えるから、むしろ記紀や古伝承が正しいと思うんだよね。

邪馬台国がそのまま大和朝廷だという説の場合には、伊都国の一大率が後世の太宰府帥の前身だという言い方は昔からありふれてる言説だ。任那日本府の日本府という字は奈良時代の表記で、篤胤以来『続日本紀』の注に引用された『仮名日本紀』によって古くは「倭宰」と書きヤマトノミコトモチと読んだと考えられているが、大宰府も和訓ではオホミコトモチノツカサと読む。任那日本府も宰(ミコトモチ)、大宰府も宰(ミコトモチ)。2つの宰(ミコトモチ)、2つの一大率がセットになって対馬海峡をはさんで呼応しているのである。
後世の律令で大宰帥(だざいのそち)の帥がソチまたはソツと読むことから倭人伝に出てくる一大率の率もスイではなくソツと読むべきだという説はだめ。大宰帥の読み方は一大率をソツと誤読したことから始まったもので、一大率はスイが正しい。またミコトモチというのは日本国内文献でさかのぼれる最古の言い方ではあるが、さすがに3世紀の言葉ではない。以前にこのブログでは伊都国の大官「爾支」(にき)が一大率のことだと推定した。だとすると狗邪韓国の一大率も日本語では「爾支」(にき)だったと思われる(今回の記事ではわかりやすさを重視して「一大率」と書いてるが、頭の中では「爾支」(にき)と変換しながら読まれたし)。

さてw 任那日本府(のようなもの)が、はたして3世紀にすでにあって、当時中国から邪馬台国と呼ばれたヤマト朝廷が朝鮮半島を支配していたのであろうか?www「魏志倭人伝にそんなこと書いてないじゃん」とツッコまれるだろうか? そんなことはもしあったとしても、魏の建前ではそれは認められなかったとしたら、ストレートに書かれてないのは当然じゃんよ。
ちょっとこのへんは三韓の情況が魏志にどう書かれているかという話とも関連してくるので、以下、詳しく展開しよう。

※↓日本の古代史オタに間違った古代史像を刷り込んだ罪深い地図
井上秀雄
どこがおかしいかわかるかな? 最低でも5か所はあるよw ちなみに井上秀雄は(今じゃ)別に学界の通説でもないからなw

辰王と月支国の謎解き
もし狗邪韓国に常駐していた一大率が『日本書紀』の任那日本府のようなものだったとすると、その管轄範囲は任那である。で、『日本書紀』の描く朝鮮半島南部の様子は東の新羅、西の百済、南の任那と三区分になっているが、これは魏志韓伝の辰韓・馬韓・弁韓という区分とは国境線が一致してない(詳細は後述)。
ただしこの『日本書紀』の認識は、新羅が辰韓を、百済が馬韓を統合した4世紀以降の情況を反映させたもので3世紀の情況ではないというのが定説だろう。3世紀の三韓の情況は魏志韓伝を基本に考えるのが常套になっており、一見したところ『日本書紀』の記述とはまったく違ってみえる。だが、この魏志韓伝には「辰王」なる者が出てくるんだが、この記述に矛盾があって解釈がややこしく、その部分には学界にも通説があるわけではない。だからまずは魏志韓伝を解読してみようじゃないか。

魏志の馬韓伝によると、馬韓は朝鮮王の箕準がやってきて馬韓を征服して韓王を名乗ったがその子孫は途絶えたともいってる。この話は事実ではないということはいずれ機会を改めて詳細に説明したい。今回は省略するが、カタクナに信じたがる人がいるので今仮に百歩譲って事実だとしても、その王家はすでに消滅して存在していないという。

其俗、少綱紀、國邑雖有主帥、邑落雑居、不能善相制御


その俗、綱紀すくなく、国邑に主帥あれども邑落雑居し、よく相制御すること能わず

とあり、馬韓の諸国はバラバラ勝手に存在して、馬韓全体をまとめる王(つまり馬王)のようなものは無い。王がいないから無秩序になってると言いたいらしいが、自治が機能していれば東濊や沃沮のように王がなくても争乱なく穏やかに治まってるはず。伯済国(書紀でいう百済)も出てくるが、馬韓諸国の中の一つにすぎず、当然、馬韓を支配するような存在だったようには書かれていない。それなのに

辰王、治月支國


辰王は月支国に治す

とあり。この辰王がクセモノで、業界では「ニギハヤヒ電波」に次いで「トンデモ辰王説」が多くてウンザリする。俺も長い間、箕子朝鮮実在説と辰王のトンデモ解釈に振り回されて遠回りしたけど、ああいうのって面白いからなかなか目が覚めないんだよ…。それはさておき、魏志韓伝では辰韓の説明の前なのに唐突に辰王なるものが出てくるが、冒頭に「辰韓は古の辰国なり」とあり、「辰韓=辰国」なら「辰韓王=辰国王」だろうし、要するに、読んで字のごとく辰王とは辰韓の王でしかない。辰王(辰韓の王)の宮殿や政庁は馬韓の月支国にあったという意味になる。月支国は誤記で「目支国」が正しいというのが有力説だが、見た目かっこいいのでこのまま月支国と書くことにする。なお辰王と箕準の関係も一切ふれられてないし、なぜ辰韓の王が辰韓でなく馬韓にいるのかも馬韓伝の中では説明がない。かといって辰韓伝を読んでも、辰王が馬韓にいるということは辰韓伝の中では書いてない。馬韓は政治的には一つのまとまりではないのだから、馬韓が辰王を任命してるとか、馬韓が辰王を使って辰韓12国を支配してるとかはどうにも考えにくい。岡田英弘は帯方郡との交易のための通商代表部を置いてたんだというが、それが中国からみて王というほどのものなら金印なり銀印なりと一緒に官位を授けそうに思われるが、そういう話も一切ない。馬韓の臣智たちにはいろんな官位を授けているのに、だ。古くは李丙燾を初め何人かの学者が魏から官爵をもらっていた臣智たちは辰王の宮廷にいた辰王のとりまきのようなことを言ってるが、李丙燾の個人的な解釈であって、本文にそんなことは書いてない。原文は辰王についての文と魏の官爵についての文の間に「臣智或加優呼、臣雲遣支報・安邪踧支・濆臣離兒不・例拘邪秦支、廉之號」が挟まっており、それに続けて

其官有、魏率善邑君・歸義中郎将・都尉・伯長


(原文の「歸義候中郎将」の候の字は衍字)

とある。だから「其の官」の「其の」ってのは臣雲新国・安邪国・臣濆沽国・狗邪国の4ヶ国に代表される臣智たちのことであって辰王ではない。魏志は劉昕と鮮于嗣を派遣して帯方、楽浪を平定したという記事に続けてすぐ

諸韓國臣智、加賜邑君印綬、其次與邑長


諸韓国の臣智に邑君の印綬を加賜し、其の次なるものには邑長を与ふ

とあるのにここにも辰王はでてこない。二郡を接収してすぐ「辰王ぬき」で臣智たちに官爵を与えている。安邪国と狗邪国は馬韓でなく弁韓だが、辰韓の国は一つも入ってない。馬韓と弁韓の、各国の首長である臣智たちは辰王とは無関係に各自で帯方郡から官位を受けている。辰王は辰韓の王なんだから、どうも「馬韓・弁韓」と「辰韓」とでは政治的な立ち位置に違いがありそうだ。また、後漢書を拡大解釈して辰王は三韓ぜんぶの王だと言いたがる人がいるが、それも魏志の記述に反する。

辰韓伝では

(辰韓の)十二国は辰王に属す

とあるから辰韓はどうやら王を中心に一つにまとまってるように受け取れる。つまりこれが『日本書紀』でいう新羅のことで、多少は国境線のズレはあったとしてもほぼ同じものと見ゆる。ただ、問題点があり、原文は

辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立為王


辰王は常に馬韓人を用ゐてこれをなし、世々相継ぐ。辰王みづから立って王となるを得ず

となっている。辰王は馬韓出身らしいが代々続いているんだから辰韓人も同然じゃないのか?「不得自立為王」(自分では王になれない)ということについて『魏略』では辰韓12国が馬韓に支配されてるからだと解釈してるが、そんな力のある辰王が馬韓人なのに、馬韓はまとまりがなく上記のような有様なのはどういうことか理解に苦しむ。「自分では王になれない」ということが馬韓の支配下にあることをいってるのなら辰王は辰韓人のように聞こえるし、逆に辰王自身が馬韓人なんだから馬韓から任命されてる総督のようなものだとすると「自分では王になれない」なんて辰韓人の立場のようにいうのもおかしくないか? しかも「自分では王になれない」といいながら辰韓の王は昔から代々続いてる家柄だとも書いている。ならば何者かが王を任命するにもその王を否認して別の王を擁立するにも、どのみち特定の家系からしか王を選べないことになる。それと辰王は辰韓じゃなくて馬韓にいるというのが事実なら極めて重大な話だろうに、辰韓伝にはそんな話は一切ない。これは単に部族会議で王を推戴することによって王に貴族層が承認を与え忠誠を誓う儀式のことを言ってるにすぎまい。特に新羅は王家が3つあって王位をたらいまわしにしていたが、新羅の貴族層は六部といって慶州盆地の豪族でもあり、3王家が居住地を通じて六部のうちの3部とそれぞれ結びついてもいた。3王家の王位争いに貴族層の利害が複雑に絡まり、代替わりのたびに会議での駆け引きが重大なものになったろう。

『新唐書』東夷伝新羅条
事必與衆議、號「和白」。一人異則罷


事必ず衆と議り、『和白』と号す。一人異なれば則ち罷む
事を行うに必ず会議をひらき、これを『和白』という。一人でも異を唱えれば決定しない

とあり。その「和白」で次の王が決まるから「自分では王になれない」のであって、馬韓から送り込まれてくるからではない。馬韓はバラバラであり、まとまった勢力ではないのだから、辰王が馬韓人だといっても「馬韓という一つの勢力」を代表してるわけでもない。辰韓人は中国からきた移民だと書いてあるから、馬韓人だというのは要するに中国系の移民ではなくもともとの原住民系の家柄だということにすぎない。

問題はその辰王(書紀でいう新羅王)が馬韓の月支国にいたという件だ。
日本書紀の描くところでは魏志のいう馬韓にあたる地域は北が百済で南は任那で分割されてることになってる。けして支配者のいない権力の空白地帯ではない。これは魏志でも馬韓が政治的なまとまりをなしてない、ただの地域名でしかないことに一脈通ずる。ただ、百済の存在が魏志と書紀とで違う。

『三国史記』百済本紀では百済の建国はBC18年、『三国史記』新羅本紀では新羅の建国はBC57年というが、もちろんこれらは後世に作られた伝説だとして学界では認められてない。漢籍史料では3世紀まで「馬韓・弁韓・辰韓」の時代であって「百済・新羅」は4世紀から登場するからだ。馬韓が最後に晋に朝貢したのが290年で、『晋書』慕容載記に346年のこととして百済が出てくるのが史料上の初出だから、この間56年間に伯済国が馬韓を統合して百済になったとするのが定説で、百済本紀で近肖古王が即位したという346年を百済の建国とみなすことが多い。同様に、辰韓が最後に晋に朝貢したのが287年で、前秦に新羅が朝貢した377年が史料上の新羅の初見だから、この間90年間に斯蘆国が辰韓を統合して新羅になったとするのが定説で、新羅本紀で奈勿王が即位したという356年を新羅の建国とみなすことが多い。
だが、馬韓と百済の関係はいろいろ問題があるからわかるとしても、辰韓と新羅は完全に連続しており、馬韓百済のケースと一緒くたにはできない。辰王というのは日本書紀や三国史記にでてくる新羅王と同じものだろう。

百済についていえば学界の定説も『三国史記』の伝説も、ともに従い難い。
後漢書や魏志では公孫度と夫餘王の尉仇台が婚姻を結んでおり、周書や隋書では夫餘系の仇台なる者が百済を建国したというが、『通典』では百済は夫餘王の尉仇台の後裔だとしていることから、仇台と尉仇台は同一人物とわかる。「いや別人で後世に混同されただけ」という説も有力だが、それはこれらの中国系の伝承は後世のもので信頼性にかなり問題あるからなのである。だからこれらの伝承を否定して、魏志韓伝の記述を信用して「この頃の伯済国はまだ馬韓の中の一国にすぎない」とされているわけだ。
だが、少なくとも2世紀以降に公孫度が遼東で自立して以降、百済(魏志の伯済国)を含めた馬韓北部の諸国と公孫氏とは密接な同盟関係だったと推定することは許されないだろうか。公孫氏の支配した5郡の人口は不明だが晋書地理志には帯方郡4900戸、玄菟郡3200戸、楽浪郡3700戸、遼東郡5400戸、東莱郡6500戸。三国時代にはもっと少なかったろうがとりあえず晋代と変化なかったと仮定して計2万3700戸(東莱郡を除いたら1万7200戸)しかない。高句麗3万戸は濊2万を従えていたから実質5万戸。夫餘8万戸との同盟がなければ高句麗に抵抗していくことはムリ、まして14~15万戸もある三韓を公孫氏が独力で抑え込むなど不可能である。三国志を読んでると公孫氏が自力で群雄として遼東に割拠していたかのように書かれているが、人口からみると現実には夫餘王の保護国だったとしか思われない。独力では南に接する馬韓を抑えられないから夫餘の力を借りるし、だから馬韓の北部を統合した百済は夫餘系だという伝承が残ってる。すべて整合的であって、百済が夫餘系だとする伝承を後世の創作とみなす最近の動向はいきすぎだろう。つまり公孫氏が健在だった頃は、伯済国は夫餘を後ろ盾とする者同士として公孫氏と同盟関係にあり、馬韓の北部を支配下に置いていたのではないか。馬韓の3分の1でも3万戸になるから、伯済国と公孫氏はほぼ対等な同盟関係だったこともありうる。公孫淵が滅ぼされた時に、伯済国は魏からみて公孫氏の係累と看做され(実際に血縁もあった)、馬韓への宗主権が否定されたんだろう。だから馬韓には王(に該当するような存在)は無いというのが魏の建前なのである。

一つの案としては「辰王治月支國」(辰王は月支国に治す)には誤記があるとすればどうか。辰王でなく「馬王」だったというのがいちばん安直ではある。が、辰王ではなく「辰支」だったとも想像できる。臣智は「遣支」や「踧支」、「秦支」とも書かれているから、「辰支」でも通じる。で「辰支は月支国に治す」と。中心となるべき伯済国が謹慎せざるを得ない情況で、馬韓の有力な辰智たちは月支国に集まり連絡協議会をもった。一種の部族会議で、王の不在の情況を乗り切ろうとしたのだと解釈する。あるいはこの「辰支」(=臣智)は複数の臣智たちではなく、伯済国の臣智ではないか。伯済国の臣智は月支国を治所として馬韓北部の諸国を束ねる実質上の馬韓王だった。あるいは両説折衷して、複数の臣智たちによる部族会議ではあるが議長(実質リーダー)は伯済国の臣智だった。馬韓北部の王なのではあるが、魏がその地位を否認したため公式には王とは書けず『三国志』の中では一階級下の臣智になっている。一応、王位を否定された身なので自国を会議場にするのは憚られる。だから伯済国の勢力圏の最南端にあたる月支国を会場とした(京畿道と忠清道の境に近い)。ここなら勢力圏外の馬韓諸国への呼びかけにもなる。月支国(正しくは「目支国」だが)の位置は、今の忠清北道の陰城、忠清南道の禝山と木川で3ヶ所の説がある。当時の百済の勢力圏の南の境は安城川と思われ、この川はほぼ京畿道と忠清道との道境に重なり、いちばん離れた木川でも安城川まで20kmぐらいしかない。

「この誤字説でかまわない、これで解決だ」と思うのだが、納得しない人もいると思うので、ここは誤字は無しとして、そのまま辰王(辰韓の王)がなぜか馬韓の月支国にいたと文字通りに受け止めることにしてみよう。この場合はなぜこんなへんなことになっているのかその理由を考えなければならない。
帯方郡は、伯済国の宗主権を否定したはいいが、

其人性、彊勇

とあるように馬韓は精悍凶暴で手を焼く存在なので直轄支配は困難だった、そこで辰王に馬韓の統治を依頼したのではないか。「夷を以って夷を制する」の策である。ちょうど公孫氏が馬韓の統治を夫餘王に依頼したのと同じである。
そういうわけだから、辰王は本国から遠く離れた月支国に半ば人質のような状態できたわけではあるまい。大軍を率いて占領軍のように駐留したんだろう。これは有能な将軍でもある王でなければ務まらない。
『三国史記』によれば当時の新羅王は助賁尼師今(サヒ/じょふん、尼師今は称号)で、従兄弟の息子にあたる于老(ウル/うろう)という王族を娘婿にしていた。『三国史記』ではわからないが当時の新羅は二重王制で、この場合、于老の岳父である助賁尼師今が「葛文」(かつぶん/カスミ)、助賁尼師今の娘婿である于老が「寐錦」(むきん)の位にある(AD502年に葛文は「葛文王」、寐錦は「寐錦王」と改称され、これらの王号は韓国で出土した石碑に出てくる)。于老は『三国史記』では即位することなく死んだが王子でありその子も後に新羅王になってるほどの王族中の王族で、大将軍として兵権を握り、あちこち出征して活躍してたから、辰韓の王都(斯蘆国)から遠く離れた月支国にしばらくいたことがあってもさして問題ないだろう。『日本書紀』でも「宇留助富利智干」(うる・そほりちか)として出てくるが、新羅王だとしているのは『日本書紀』のミスではなく、本当に新羅王だったのである(尼師今も王号だが寐錦の訛りではなく昔氏王朝の称号。助富利智干は「舒弗邯」と同じだが臣下の位階ではない。これが位階の第一位の名に使われたのはずっと後世で、当時はまだ新羅の位階制はできてなくて、魏志がいう臣智から邑借までの5つしかない)。
そういうわけで、助賁尼師今は辰王として辰韓本国にいたまま、同時に于老ももう一人の辰王として月支国に赴いていたのだと考えられる。
邪馬台への行程【その6】」に続く。
【その6】ではちょいわかりにくい今回の話を時系列で説明します。
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