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邪馬台への行程【その6】~「二郡遂滅韓」の真相と張政の使命~

改稿:2679年[R01]11月20日WED (初稿:2679年[R01]10月23日WED)
邪馬台への行程【その5】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その5】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
三韓情勢の経緯:時系列
魏が公孫氏を滅ぼして二郡を接収し、卑弥呼が親魏倭王になって以降の歴史を辿りながら説明しよう。
AD240年は正始四年で帯方太守弓遵が魏帝の詔書や金印を倭に届けた年でもある。これで倭国が魏に対して「月支国体制をやめろ」と言ってくれる可能性がなくなった、と伯済国は思ったんだろう。それで伯済国は自力で月支国体制を破壊するため辰王を攻撃した。『三国史記』では百済と新羅が外交上初めて接触したのはAD63年になっているがこれは創作だとして、対立であれ友好であれ両国が国交をもつのはもっとずっと後の337年というのが通説だが、根拠がよくわからぬ。『三国史記』ではAD240年に百済が新羅に攻め込んだというが理由も結末も、戦場がどこかも書いてない。この事件とは、帯方郡が実施した「辰王月支国体制」に反対する馬韓が辰王を攻めたが馬韓軍は帯方郡の兵に邪魔されて敗北したという話なのではないか。『三国史記』では攻め込んできた百済に対して新羅が何かリアクションしたようなことも書いてない。この場合、百済(馬韓)軍を撃退したのは魏軍の単独行動な上、戦場は馬韓域内の月支国周辺だから新羅の反応が書かれてないわけだ。しかし新羅があえて百済に反撃しなかったのは、新羅も月支国体制をやめたかったんじゃないのか? 月支国体制それ自体は、辰韓の膨張であり強大化だから初めは辰王も喜んだろうが、抵抗する馬韓人(伯済国)は治め難く効果はあがらなかったんだろう。そうなると辰王(于老)も嫌気がさし、もともと魏に強要されたことだから本国に戻りたくなる。AD240年の事件があってから伯済国も辰王も「月支国体制はダメだ」という点で一致していることを確認しあい、対魏同盟ができたんではないかと思われる。

赤烏七年(AD244)の紀年銘鏡からこの年に呉と倭の関係に何らかの進展があったとみられる。それに対抗するように翌正始六年(AD245)難升米に黄幢が下賜される。黄幢は魏の同盟軍であることを示す旗印で、かつては卑弥弓呼(男王)との戦いのために用意されたといわれていたが、最近では魏に反抗的な韓への制圧のためという説がある。男王国との戦いに「魏との連携」を宣伝してもさしたる意味がないように思う。実際に魏軍が海を越えて援軍にくる可能性などほとんどないことぐらい相手もすっかりお見通しだろう。かといって対韓戦のためでもない。魏と韓の戦争は翌正始七年(AD246)に高句麗討伐戦の派生的事件として「偶発的に」起こったのだから、事前に予知できたとも思われないし、魏に背く韓族を討伐する倭軍は魏の友軍なのは周知のことだから、わざわざ魏の旗印を立てたところで、味方に対しても敵に対してもさして意味がない。そうじゃなくてだね、この黄幢はあきらかに倭国の水軍が直接に呉に攻め入る時のためのものであって、これを下賜するというのは「呉への侵攻」を催促してるということだ。それ以外になんの意味もない。外交戦における、「赤烏七年」に対する魏の逆襲なのである。
ところが、実際に黄幢が難升米に届けられたのは正始八年(AD247)で、普通は、この間、黄幢は帯方郡に留められていたと考えられている。が、そんなことある? 詔書も黄幢も極めて重大な案件で、郡まで届いてれば倭国へ渡すのはなにも困難はない。だから途中までは届けられて狗邪韓国の一大率のもとにあったのではないかと思われる。正始六年(AD245)に「黄幢を下賜した」というのは魏の都、洛陽での話であってそれが帯方郡に届いたのが翌正始七年(AD246)、それから帯方郡の役人である張政がそれを倭国へもってく途中、たまたま後述の魏韓戦争が起こってしまったので、狗邪韓国の一大率か張政のどちらかが「これは使えるかも、いや使うべきかも」と考えて相談し、倭国にすぐには送らず一時的に一大率の手許に留めていたのだろう(もしくは一大率が自分の判断で張政を拘束したか。黄幢は軍旗なので、難升米の判断とは無関係に一大率の権限だけで拘束できる)。

AD246年に魏の毌丘倹が高句麗を破って王都を占拠すると東川王は日本海へ逃亡、そこから北の沃沮へ行ったが、敗残兵の中には南の濊や辰韓の方面に逃げたものもあったので、当初は東川王がどっちに逃げたのかわからなかったんだろう。新羅本紀では245年(恐らく246年の誤り)に高句麗が新羅に攻め込み、于老が将軍として戦ったが敗北したとある。この事件について『隋書』新羅伝にはこうある。

『隋書』新羅伝
魏將毌丘儉討高麗、破之、奔沃沮。其後復歸故國、留者遂為新羅焉。故其人雜有華夏、高麗、百濟之屬

これからすると攻め込んできたのは高句麗の敗残兵の部隊で、彼らが新羅を征服して新しい支配者になったか、さもなくば新羅は敗北したのではなく彼らを匿い受け入れ高い地位を与えて厚遇して帰化させたか、いずれかであるように読める。魏志韓伝によると、この時、辰韓の那奚国を含む8ヶ国(濊に近い辰韓北部)を楽浪郡の管轄に移そうとしたという。那奚国は韓伝では辰韓12国のうちの冉奚国として出ている(慶尚北道義城郡玉山面)。ここは新羅時代の熱兮県(泥兮県)、衛氏朝鮮の尼谿相参が原住民支配のための本拠地とした「尼谿」の地。異民族との交渉窓口として楽浪郡は濊を管轄し、帯方郡は韓を管轄していたが、逃亡中の東川王が紛れ込んでるかも知れない高句麗の敗残兵の行方を捜索するため、韓の一部を濊とまとめて楽浪郡の管轄に一本化しようとしたのだろう。が、魏志がいうところでは通訳のミスで(辰韓の8ヶ国を楽浪郡に併合して県にすると誤解して?)馬韓の臣幘沾韓国が激怒して戦争になった。しかし通訳のミスなんてのは嘘くさい。原因が辰韓と楽浪郡との問題なのに、なぜ辰韓でなく馬韓の臣幘沾韓国が帯方郡に攻め込むのか。その理由はもちろん上述のAD240年に結ばれたとおぼしき伯済国と辰王との対魏同盟が発動したからである。それだけでなく、馬韓と辰韓は対立しているようだが、高句麗擁護派という点でも一致していたろう。これは後世の6世紀にも新羅と百済が任那をめぐって対立しつつ同時に高句麗に対しては同盟関係にあったことと似ている。

ところがこの戦争で、魏と同盟国であるはずの倭=狗邪韓国の一大率は黄幢を死蔵したまま動かなかった。おかげで二郡は大敗した。
帯方太守が戦死するほどの大戦になったのだから蜂起したのは臣幘沾韓国の1ヶ国ってことはあるまい。魏志韓伝では、この戦争で

二郡遂滅韓


二郡遂に韓を滅ぼす
二郡は韓を滅ぼした滅韓

といってるが、馬韓はバラバラでまとまってなくて、もともと国のテイをなしてないのだから滅ぼしたも糞もないだろう。辰韓(新羅)もこの後の歴史をみれば滅亡した様子は全然ない。なので実は韓を滅ぼしてはいないってことがわかる。同じことを

魏志三少帝紀
韓那奚等、數十國、各率種落、降


韓の那奚らの数十ヶ国おのおの種落を率ゐて降る

ともあり、「滅ぼした」等とは本紀ではまったく言ってない。実際は韓の国々の降伏を受け入れただけのことだとわかる。しかしこの程度のことを韓伝では「滅ぼした」というのはあまりに大袈裟すぎる。滅ぼしてもないのに「滅ぼした」っていうのは春秋の筆法で、実質は「敗けいくさ」なのにあえて「勝った」と嘘を書いてるのではないか。後漢書では帯方郡を分割する前の楽浪郡が18県6万1492戸、人口25万7050人というがこれは全盛期のもので、黄巾の乱以降の人口減少を反映してない。晋書では楽浪郡が6県3700戸、帯方郡が7県4900戸、あわせて13県8600戸しかない。公孫康が帯方郡を作って人口を回復させた成果を考慮しても、晋書の数値は晋の全盛期の記録だろうから、三国時代はもっと少ない。この半分ぐらいではないか。兵は1戸から一人づつ出すので、当時の二郡の兵力はあわせてもせいぜい4、5000ぐらいじゃないか? 晋書の数値そのままでも兵9000弱。対する韓は馬韓のうち伯済国が動員できるのは馬韓の3分の1として兵3万以上、辰王が2万以上、これら連合して兵6万弱。しかし上述のように降伏したのが数十国というからもしこれが誇張でなければ「三韓あわせて七十余国で十四五万戸」の半分としても兵力7万、これはかなり少なめな見積もりだが、まぁ数十国というのは伯済国が勝手に数十国の代表と称して降伏しただけで、魏もそこはわかってて降伏を受け入れてる。実際に一大率の許可なく伯済国にそこまでの動員力はないだろう。それでも伯済と辰王あわせて兵5万なのだから、普通に考えると魏に勝ち目はぜんぜん無い。しいていば、滅ぼしたというのは「辰王が月支国にいて馬韓を治めるという体制」(もしくは「伯済国の臣智が月支国で馬韓の部族会議を主宰する体制」でも可)を廃止したということを誇大に表現しただけなのではないか。この体制はわずか9年間しか続かず、辰王はもともとの本国辰韓に帰った(もしくは部族会議を解散して伯済国の臣智は本国伯済に帰った)。この体制を廃止したのも馬韓からの要求に屈したのだろう。

プロの学者にも古代史マニアにもありがちな間違いとして、「二郡遂滅韓」を真に受け、これで箕準の系統の辰王が滅ぼされたんだという人が多い。が、それなら魏の手柄として明記されそうなもの。ところが辰王がどうなったのか何も書かれてない。これは辰王体制を作ったのが魏でそれは韓族に滅ぼされたから、あえて中国の恥(実は司馬懿の恥)にふれてないのも春秋の筆法である。

馬韓といっても実態は伯済国を中心にまとまっていた馬韓北部の国々であり、百済軍の将軍が臣幘沾韓国の臣智だったから魏志はあたかもが臣幘沾韓国が主体のように書いてるが、これは伯済国の存在を匿すため。『三国史記』ははるか後世に書かれたものだから史実から酷くズレてるが、それでも百済本紀の同年の条に当時百済王だった古尓王(こに王)が「左将(百済軍のトップ)の真忠なる者に楽浪郡を襲撃させたが復讐を恐れた古尓王は楽浪郡に謝罪した」とある。真忠の姓「真氏」は百済八大姓の一つで臣幘沾韓国の「臣」に通ずる。真忠は中国風の名前に改変されてるが臣幘沾韓国の臣智だったんだろう。同時期の辰韓=新羅の動きもわかる。高句麗の敗残兵が辰韓に逃亡してきたことを、『三国史記』は高句麗が新羅に攻めてきたとして、しかも年次も1年まちがっている。この時、将軍于老は高句麗軍に敗れて馬頭柵まで退却したという。馬頭柵は後世の馬忽郡だとすると今の京畿道抱川市で、3世紀には帯方郡の南部にあたる。ここに退却というのは地理的におかしいので、逆に攻め入ったって話だろう。魏韓戦争の際、于老は辰王として辰韓の兵を率いて、臣幘沾韓国の辰智が率いる馬韓の兵とともに帯方郡へ攻め込んだんだろう。退却というのは高句麗兵を追い出さず招き入れたって話が間違って伝わったもの。

さて、魏志の三少帝紀で「数十国が降伏した」というのも、その実は伯済国が(辰王を含む)数十国を代表して謝罪したっていう程度のことだった可能性が高いんじゃないのか。しかし、なぜ謝罪したのか? 郡を一国に喩えれば太守はその国王であり、それを殺したのだから大勝利だろう。そのまま二郡を滅ぼすことなど造作もないことと思われる。「二郡遂滅韓」なんてのは春秋の筆法どころか大嘘もいいところで、これは本当は「二遂滅」というのが真相だろう。弁韓は参戦してないから、辰韓と馬韓で「二韓」ね。

ところが不可解なことに、勝利した側が自分から折れて謝罪したのである。おそらく、巨大な軍事力をもちながら戦争中には動かなかった弁韓の一大率が仲に入って取りなしたのではないか。仲裁者である一大率を伯済国を含めた諸国は「畏憚」してるんだから命令を聞く他ない。もっとも一大率には軍事指揮権があっても外交権がないから、伊都国の難升米を呼び出したんだろう。難升米が提案した講和の条件はこうだ、(1)月支国体制は廃止。(2)伯済国は韓の非を認め、韓を代表して魏に謝罪する。実を取った伯済国は名を捨てるわけだ。(3)魏は韓を代表しての伯済国の謝罪を受け入れる。そうすると事実上伯済国は「韓の数十国」の代表ということになってしまうし、伯済国が自然に復権するだろうが、魏はそれを黙認する。だが名目上は魏は「こっちが勝った」ってことにできる。一大率としては男王派の辰韓まで守る気はなかったが、そこは伯済国が三韓すべての代表者として振る舞うために、謝罪組のリストに辰韓も入れるようにと、難升米に手を回したんだろう。これなら伯済国は辰王との対魏同盟も守れたことになる。魏は実質は敗北なんだが、仲裁者の難升米は魏の率善中郎将であり、二郡の太守より格上なんだから逆らえない。魏の率善中郎将の裁きはすなわち魏の裁きである。魏が韓に謝罪させたんだから、これを勝利と言わずしてなんとするw 魏は実を取りそこねたが名を取れた訳である。またこの時、一大率が預かっていた詔書と黄幢は難升米に渡すことができたはずだが書かれていない。なぜかというと張政の使命は詔書と黄幢を倭王卑弥呼に渡すことであって難升米に渡すことではないからである。ただ軍事戦略上、一時的に一大率のもとに留めたにすぎぬ。

新羅が高句麗の敗残兵を庇護して自国に帰化させたことで両国は関係がよくなりAD248年には初めて同盟関係に入った。しかし新羅と百済はずっと前からすでに仲が悪くなって久しく、魏韓戦争での同盟関係もAD255年に壊れることになる。

しかし今回の一大率と難升米の動きは馬韓と辰韓にはトクだが、魏にしたら自分は裏切って一兵も出さず逆に恩を売ってくるという卑怯で姑息な態度にみえたはず。帯方郡では一大率の動きに「倭国はどういうつもりだ」と不審を覚えたろう。戦死した弓遵に代わって、この年か翌正始八年(AD247)かわからぬが王頎が帯方太守として転任してきた。王頎は東川王を追撃していた武将で、つまり今回の戦争の原因に直接関与していた男でもある。だから今回の事態の真相究明と戦後処理の責任者として打ってつけの人物だった。そんな話はすぐに倭国に伝わり、同年中に倭国から載斯と烏越の二人(「載斯烏越」という一人の名ではない)が帯方郡にやってきて、男王との戦いがあったために軍を動かせなかったのだと事情説明というか、言い訳をした。魏志に

倭女王卑弥呼、與狗奴國男王卑弥弓呼、素不和。遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃狀

とある。実際に前年、魏と韓の戦争中に、倭国内でも男王と女王の戦争があって男王を滅ぼしたんだろう。男王が亡んだということを帯方郡に報告するということは、男王派である辰韓への威嚇(ないし帰服の勧告)にもなる。ここで「相攻撃する狀を説く」とのみあって男王を亡ぼしたとはいってないが、まだ残党の掃除までは終わらず、三韓諸国の動向も最終的なところまでみえていなかったので言葉を濁したんだろう。かなり微妙だが厳密には確かにそれは嘘ではない。これに対し太守王頎は、

遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拝假難升米、爲檄告喩之

と。えーと、「檄を為りて告諭す」は、狗奴国と仲良くしろと言ったとかの、脳味噌が腐ってるとしか思えない解釈が横行してるんですが、そんな訳ないだろ! 世間にありがちな説では倭国と帯方郡とのやりとりを「情報不足や勘違い、あるいは虚偽宣伝での外交戦」みたいにいう人も多すぎる。帯方郡のような「辺郡」といわれる役所は異民族交渉のプロであると同時に軍隊でもあるから諜報も発達してるんで、男王がすでに亡ぼされたことぐらいとっくに把握してたろう。告諭したのは同時にもってきた詔書の内容なんで、それ以外のことではない。詔書が書かれたのは正始六年(AD245)だからその詔書には狗奴国との不和の件も韓族との戦争の件も出てくるはずがない。じゃ、その詔書には何が書かれていたのかというと、そもそもの魏にとっての、「倭国の存在意義」そのものの件だよ。対呉同盟、それ以外になにがあんの?「因齎詔書黄幢、拝假難升米、爲檄告喩之」の意味は超訳すれば「魏韓戦争は突発的な事件であり、黄幢の本来の目的とは関係ない。韓族との講和交渉では、敗けいくさだったのに勝ったことにしてくれたから、その恩に免じて今回は細かいことは不問に付すけど、詔書と黄幢は今度こそしっかり渡しましたよ、ちゃんと呉を攻めて下さいよ」ってことだ。世間では魏がすごく大国で東夷はしょぼくれてるように思ってる人が多いが、それは根拠のない思い込み。人口規模と軍事力で圧倒的な差があり「魏<韓<倭」なので気を使ってるのである。味方になって呉を攻めてくれんのならいいが、ウッカリ機嫌を損ねてこっちが攻められたらAD246の魏韓戦争のような大事になってしまう。相手が韓だから二郡が滅亡する手前まで行っても倭に止めてもらえたが、相手が倭だったらその程度の損害で済むはずがない。
この魏韓戦争が一段落したので、張政は難升米と一緒に狗邪韓国から渡海してようやく伊都国に着いた。ここから詔書と黄幢をもって邪馬台国へ行こうとした。詔書と黄幢はどちらも重大な物件で、おろそかな扱いをしたら高級官僚でも首が飛ぶクラスのもので、当然、倭王に直接渡すべきだからだ。しかし魏志倭人伝の記述では、なぜか率善中郎将にすぎない難升米に渡している。率善中郎将は(校尉も)四品相当だからけして低い官位ではなく、州刺史や郡太守より格上なほどだが、それでも本来なら倭王の代理になれる訳がない。張政の塞曹掾史は七品でかなり下だから難升米には逆らえないだろうが、ただでさえ難升米の権力が絶大で「いいから黙って俺に渡せ」と言われれば仮に張政の官職(名目的地位)が高かったとしても従わざるを得ない状況を示しているだろう。魏としては建前上の辻褄をあわせるためには難升米を倭王そのものか少なくとも倭王の正当な代理だとみなして納得するしかない。外交に関しては一切を任されてるんだから魏からみれば事実上の倭王そのものである。難升米は倭国内部の規則では軍事指揮権はないのだが(一大率とは別人だから)、一大率は外交権がなく、魏使は一大率と直接交渉できない。魏の方から軍事行動を要請するにも窓口が一つしかないのだから結局は難升米を通すしかない。魏からすると難升米一人が全権者であり倭王みたいなものになる。

ところで張政の「塞曹掾史」って肩書だが、掾史は役所の長。曹は役所で、馬曹、車曹、戎曹、金曹、法曹、倉曹、鎧曹、戸曹、水曹と職務によっていろいろあるわけだが、「塞曹」というのは他に例がなくなんのことだかわからない。張政は帯方郡の役人じゃなくて中央から派遣されてきたんだという説もあるが、それならこんな妙な肩書はどうなのか。帯方郡がオリジナルで設置した官だろうから、やはり郡レベルの役人だろう。「塞」の字は軍事要塞のこととみて、辺境守備隊のようなものとする説があるが、そんなありきたりの役人ならもっとメジャーな職名が普通にありそうに思われる。で、もしやこれ狗邪韓国なり伊都国なりに常駐する帯方郡の役人の肩書じゃあるまいか。伊都国は「兵万余」(魏略の戸万余は誤写)を擁する巨大な軍事基地だし、狗邪韓国も一大率が常駐してたなら同様だったろう。

三韓への倭からの影響
繰り返しになるが、魏の建前では馬韓をとりまとめる者は存在せず、臣智の称号をもつ国々の主帥らが思い思いに帯方郡から魏の官爵をもらっていることになってる。その中には馬韓だけでなく狗邪国や安邪国といった弁韓の国も入ってるのは上述の通り。しかし辰韓の国はない。辰王も魏から官爵をもらってる様子はない。辰韓と馬韓が対立していたのなら、馬韓が親魏派で、辰韓が反魏派のようにみえる。が、「辰王月支国体制」は魏が馬韓を抑えるために辰韓の力を借りた体制だから、矛盾しており、だからどのみち瓦解するのは時間の問題だった。「月支国部族会議体制」だったとしても伯済国の王位を否定するものだから反発は大きかったろう。魏は伯済国が公孫氏の係累であることを重視してその宗主権を否定したのに、なぜ馬韓は親魏派になり魏の官爵をもらうのか。なぜ辰韓は馬韓の支配まで任せられたのに反魏派なのか。

その謎の鍵は倭国だろう。239年の親魏倭王、大夫難升米の率善中郎将、都市牛利の率善校尉の件は倭国からも帯方郡からも、三韓へ向けて広報があったろう。それで馬韓も弁韓も倭にならって率善邑君、帰義中郎将、都尉、伯長といった官爵を受けるようになったが、辰韓はそうしなかった。

「帰義侯中郎将」とあるのは誤りで「侯」は衍字。邑君は大国の首長で臣智に与えられ、邑長は小国の首長で臣智でない者に与えられる。中郎将、都尉、伯長の3つはすべて武官で、邑君の部下に与えられる。しかし、実際はどれぐらい多く与えられたのか、さして多くなかったのか一切不明。

新羅本紀では218年・222年・224年・240年に百済と新羅が戦争してるのでこの頃の辰韓と馬韓の仲の悪さが察せられるし、232年と233年は倭国が新羅に攻め入り233年の戦では于老が倭を撃退、249年には倭人が于老を殺したという。この話は日本書紀にも「宇留助富利智干」(うる・そほりちか)を殺した話として出てくる。つまり倭国と辰韓も仲が悪かった。当時の倭国は男王と女王に分かれて争っていたことは三韓にも知れ渡っていたろう。だから同じく仲の悪い辰韓と馬韓は、一方が男王についたら他方は女王につく道理。伯済国の方が辰韓よりも帯方郡に近く、馬韓での宗主権さえ認めてくれるのなら出来れば魏とは仲よくしたいのが本音だから、新魏派の女王国に寄りたいわけよ。辰韓はそれに比べると帯方郡からかなり離れてるし、辰王は古くから代々続く血筋で、血統意識も強いから、女王(その実は女王を担がねばならない男弟)よりも単独で正統性を主張できてる男王を本物っぽく感じるわけ。で、弁韓だが、ここには狗邪韓国にもうひとつの「一大率」が常駐してるんだから当然、女王の支配圏。つまり辰韓は女王と敵対している男王国を支持していた。辰韓が魏の官爵を拒否していた理由はこれ以外に考えられない。
もっとも倭国では率善中郎将は難升米、率善校尉は牛理と、名前も、そして何をした人かも明記されてるが、韓では諸国の臣智の中には官爵を授かってる者がいるというだけで、誰がどの官爵を受けたのか一切書かれてない。辰王だけでなく弁王も伯済国の臣智も魏の官爵をもらってないばかりか名前のわかってる者が一人も出てこない。このことから韓では魏の官爵というのは、あまり重要な人物でなくても臣智でさえあればもらえるレベルの、多分に形式的なもので、おそらく帯方郡と倭国及び他の三韓諸国に対して「私は親魏派(&女王派)ですよ」と明示する程度の意味しかなかったのではないかと思われる。東夷伝の中では、夫餘伝や高句麗伝には王の名とか固有名詞が出てくるが、これは独立国の歴史を説明するため必要だから。韓に重要人物が一切でてこないということは、邑婁伝や東濊伝や沃沮伝と同じで、統一国家ではなかったのみならず、東濊や沃沮が高句麗の属国だったことを思い起こさせる。同じように、三韓もまた倭の属国だったのである。

馬韓の実態
魏志韓伝の解読はこれくらいにして、ようやく元の話に戻れる。書紀の「百済・新羅・任那」と魏志の「馬韓・辰韓・弁韓」の境界線が一致しないことだ。

この頃は伯済国の宗主権は馬韓の北部と西海岸沿岸部だけと思われ、中部、南部の馬韓は伯済国の下にはなかった。そこは魏志韓伝のいうような、無秩序に放置された権力の空白地帯だったとは考えられないし、別な言い方をすれば北に伯済国、南に弁韓があってその緩衝地帯だった等ということもありえない。
もし狗邪韓国に常駐していた一大率が『日本書紀』のいうような任那日本府のようなものだったとすると、その管轄範囲である任那とは、弁韓地域にとどまらないもっと広域の地名である。後世の任那の範囲は加羅諸国(弁韓)だけでなく継体天皇の時に百済に割譲した四県二郡も任那に含まれている。その前には雄略天皇の時に「久麻那利」(熊津:くまなり)の地を、さらにその前には神功皇后の時に四邑を百済に下賜している。「久麻那利」は今の公州市(馬韓の古蒲国)のことだが、この場合は公州を中心とした一帯(忠清南道のほぼ全域と忠清北道の西半分?)。四邑は比利(ひり)、辟中(へきちう)、布彌支(ほむき)、半古(はんこ)でそれぞれ現在地は、忠清南道の西海岸が比利(庇仁)。全羅北道の西海岸の北が辟中(金堤)で南が布彌支(茂長)。全羅南道の西海岸が半古(羅州か潘南)。以上の四県二郡・久麻那利・四邑はすべて馬韓の地であり百済に下賜される前には任那の一部だった。つまり『日本書紀』では弁韓だろうが馬韓だろうが関係なく、新羅や百済が領有してないところはすべて任那の一部という扱いになってる。
このことから察するに、伯済国の宗主権の及ぶ馬韓諸国を除いた残りすべての馬韓諸国は、狗邪韓国に常駐した一大率の管轄下にあったと考えるべきだろう。伯済国・辰王(辰韓)・弁韓(一大率)という、まとまった政治勢力に囲まれて、広大な馬韓が政治権力の空白地帯だなんてことは不自然すぎてあり得ることではない。

しかしそうすると、前述の馬韓の「綱紀すくなく、邑落雑居し、よく相制御すること能わず」という文から、揉め事を治めることもできない有様はどうしたことか、とツッコミが入るかな? どうも「邑落雑居」という言葉からすると、敵対する者同士が雑居してるようにも聞こえる。
さらに韓伝には馬韓について

國邑各立一人、主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑、名之為蘇塗(中略)諸亡逃、至其中、皆不還之。好作賊。其立蘇塗之義、有似浮屠、而所行善悪有異


国々には「天君」という司祭職が「蘇塗」という神殿施設を管理しているが、そこはアジールの機能があって、犯罪者が逃げ込むと逮捕連行できないので、好んで悪事をなす

と。これ単に与太者や不良グループやギャングが横行して治安が悪いということを言ってるのではない。神官がなぜ悪の手助けをするのかといえば簡単で、日本国内の事情と同じく、土俗信仰の神官だからそういうものを馬鹿にする儒教や中国人が嫌いで、魏と結んでいる女王も嫌いな「男王派」だから。「好んで賊をなす」の「賊」ってのは魏や女王派からみての賊であり、辰韓や男王派からすれば正義の蜂起、義挙なのである。
この文の後すぐに続けてこうある、

其北方近郡諸國、差暁禮、其遠處、直如囚徒奴卑相聚


其の北方の近郡に近き諸国はいささか礼を暁るも其の遠き処はただ囚徒奴卑の相聚まる如きのみ
北部の帯方郡に近い諸国はいくらか「礼」を知ってるが、遠いところ(南部の馬韓)はまるで囚人か奴隷のようだ

という。これ馬韓の未開ぶり、野蛮さを表わした文だと思われがちだが、そうだろうか? 南北で非対称になってないか。「礼」は現代人が考えるようなマナー、エチケット、礼儀作法のことではなく、儒教の「礼」の概念だろう。もともと

『礼記』
礼不下庶人、刑不上大夫


礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず

というように、礼は士大夫のもので庶民は関係なかった。だが孔子は身分に関わらず誰でも礼を含む学問をして君子になれるとした。つまり理論上は囚人や奴隷でも礼を学んだ者はありうる。
庶民でなく支配階級の問題なのであるから「礼」のもっとも重要な意味は上下関係、指令系統のつながりのことなのである。北部の諸国が「礼」を知るというのは伯済国を通じて魏がその諸国に命令できるという意味であり、伯済国がそれら諸国を把握してるという意味でもある。「差暁」もニュアンスの微妙な言葉で「差」は「やや、ちょっと、すこしだけ」の意味なのに「暁」は「よく知ってる、深く知ってる」の意味だ。これを合わせて「差暁」と言ってるので「ちょっとしか知らない」のか「詳しくよく知ってる」のか、訳が分からない。これはどういうことかというと、馬韓諸国(の中の反魏派、男王派)は魏をよく思ってないから反抗的なんだが、よりによって魏が馬韓の代表権を取り上げたはずの伯済国を通せば(力づくで)従わせることができる。こいつらは「礼」を知ってんだか知らないんだか、という皮肉なのである。
これに対して南の方では囚人や奴隷のようだというんだが、未開ぶりや野蛮さを表現する言葉など他にいくらでもありそうなのに、この喩えはへんじゃないか? 高貴な囚人もいれば立派な恰好した奴隷もいるんだから。これは未開ぶりや野蛮さを言ってるのではなく、「強制された境遇」をいってるのである。馬韓諸国は北が伯済国の支配下、南が弁韓の一大率の支配下にあって分割されてるが、どちらも親魏派かつ女王派である。しかし馬韓諸国の中には辰韓と同じく男王派で反魏派という人々がたくさんいた。辰韓も、こっちの仲間になれと盛んに誘いをかけてもいただろう。馬韓の北部(京畿道)は伯済国を中心にまとまっていたんだろうが(いささか礼を暁る)、馬韓の中部南部(忠清道・全羅道)では一大率の武力の下で厳重に管理されてるから囚人か奴隷のようで(囚徒奴卑の如し)反抗できない、ということを言ってるのだ。囚人は看守に、奴隷は主人に逆らえないように、馬韓人も一大率には逆らえない。が、抗争がないわけではない。囚人同士、奴隷同士の争いがある。雑居してる「男王派=反魏派」vs「女王派=親魏派」の騒動が絶えない(綱紀すくなくよく相制御すること能わず)、「女王派=親魏派」は馬韓においては体制派なので臣智たちが守ってくれるが、それに対抗する「男王派=反魏派」は蘇塗の天君たちが味方してくれてたんだろう。一大率がいくら軍事力あっても古代人はカミガミには手を出せない。伯済国や倭国(女王国)からみれば、この馬韓の騒動はぜんぶ辰韓が悪いのである。一方、辰韓からみると伯済国も弁韓も悪の陣営なのだから、両者は仲が悪くて当然なのだ。

結局、魏志韓伝の描く3世紀の三韓の政治的な境界線は表にすぐわかるように書かれてない。馬韓の中南部は弁韓と一つの勢力なのであり、馬韓の北部はすでに伯済国を中心にまとまっており、三韓の実態は4世紀以降の任那・百済・新羅が鼎立していた情況と大差ないのだ。しかしそれは魏志韓伝の文面に表われない。馬韓が北と南で別の国になってることがわからないように書いてあるし、魏韓戦争も「二郡が韓を滅ぼした」と真逆のことを書いている。
魏が消したはずの伯済国の存在、月支国体制の愚策ぶり、AD246年の魏韓戦争での大敗と屈辱的な講和。馬韓と弁韓に対する一大率の絶対権力、三韓における帯方郡の無力さ。それら魏(というか晋だけど)の面子にかかわることはすべて建前上、無かったことにされている、春秋の筆法で。

百済建国と馬韓の分割
馬韓は3世紀の段階ではすでに「伯韓」か「済韓」とでも書くべき存在だったが、伯済国の宗主権を否定した魏では一時代前の馬韓という名称を使ったのである。高句麗は121年に玄菟郡、その翌年には遼東郡に攻め込んでいるが、2回とも自国の兵以外に濊貊(江原道の東濊)と馬韓の兵を伴っている。魏志によると正始六年(245年)以前には東濊は高句麗に属していたとあるから、高句麗軍の中にに東濊兵がいるのはわかる。が、馬韓兵もいたのだから121~122年の頃は「馬韓と高句麗の関係」はすでに「東濊と高句麗の関係」と同じものになっていたように思われる。つまり馬韓は高句麗に支配されていた。その支配の根拠地として築かれたのが「乾馬国」で、馬韓という名はこれから起こったことは今回のシリーズの【その1】に書いた通り。121~122年の高句麗の二郡への侵攻に対し、高句麗の宿敵である夫餘は漢帝国に援軍を出して二郡を救っている。この時、高句麗軍に東濊兵のみならず馬韓兵もいたことに、夫餘も気付き、対抗上、高句麗から馬韓を奪い、我が物にしようとしたんだろう。それが伯済国の建国と、伯済国による馬韓北部の制圧へと繋がっていく。

『三国史記』百済本紀では後来の侵入者として馬韓の北部に勝手に国を建てた百済が、馬韓王と対立し、ついに戦争で馬韓を滅ぼしその領土をそっくり頂いたことになっているが、学界の通説では馬韓王などというものは存在せず、馬韓の諸国を長い年月をかけて少しづつ併合していったことになっている。『日本書紀』の描写は微妙で、最初の方では任那日本府の勢力圏と百済の間にはどこにも属さない小国がたくさんあるような雰囲気なんだが、後の方になるといつの間にか任那と百済は国境線で接してることになってる。このへん、特に最初の方の記述は『日本書紀』の文面もずいぶんと不可解なことになっていて、神功皇后が新羅の不正を糾すために派遣した荒田別(あらたわけ)の軍が新羅を降伏させた後に、なぜか関係のない加羅七国(弁韓)を平定し、さらに西(馬韓の地域)に移動すると「四邑おのづから降りぬ」(4つの国が降伏した)。この四邑は加羅七国とは遠く離れてるので、その間の地帯がどうなってたのか説明がない。ここは誤脱があり、降伏したのは四邑を含む馬韓全体なのではないか。四邑を百済に下賜する話との間に文章が抜けているのである。
中国側の史料がいうように百済の実質的な建国が公孫度と尉仇台によるものとすればそれは2世紀後半で、馬韓のうち北部(京畿道)の諸国をとりまとめていた。それより南にすぐには進出できなかったのは、馬韓の抵抗が大きかったんだろう。そこで書紀が伝える百済(伯済国)と日本(倭)の国交樹立の説話の通り、百済の方から日本にわざわざ「属国になりたい」とアクセスしてきたのは馬韓を制圧するのに支援を取り付けるためとしか思えない。しかし実際に日本と百済の共同作戦となると、馬韓はことごとく倭(日本)に降伏した。なぜかというと、百済の侵略に抵抗していた「馬韓」(乾馬国を中心とする中部、南部の諸国)は建前上は高句麗の属国だったんだろうが、本国が遠く離れているので目の前の百済と戦うにはアテにできない、かといって百済の下につくのも嫌だから。そうなると百済についていた北部の馬韓も「じゃ俺たちも一緒に日本に」となるから、北部諸国の連合体としての百済は崩壊してしまう。日本としては百済との国交もあり、百済が独力で勝ち取ってきた宗主権を、関係ない日本が横からでてきて否定するわけにもいかない。なので、自主的に降伏してきた馬韓の中部と南部は任那の勢力圏に含むことにはしたが、すでに伯済国の配下になっていた北部の諸国は伯済国(百済)の宗主権をそのまま安堵してあげたってわけだろう。乾馬国は今の全羅北道の益山だからかなり南に寄っており、『三国史記』がいうような北方に存在した初期の百済がいきなりそこまで併合しちゃう話は辻褄が合わない。
邪馬台への行程【その7】」に続く。
【その7】では水行陸行の日数を倭人伝での里単位や実際の距離に換算します。
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