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「神道ルネサンス」

R2年6月8日(月)改稿 H26年11月6日修正 H24年9月19日(水)初稿
后妃と皇子女
后の御真津比賣(みまつひめ)と同名の人物が崇神天皇の同母妹にあり、こちらは大彦の娘と明示あるから同名異人とみなされているが、たぶん同一人物だろう。「当時は同母の兄弟姉妹は結婚できないが異母の兄弟姉妹なら結婚できた」というのは俗説であって正しくないことはこのブログでかつて考証したことがある。これについての詳しい議論は開化天皇の項に譲り、今回はふれない。
また豊木入日子命(とよきいりひこのみこと、紀:豊城入彦命)は、上毛野君・下毛野君らが祖とある(キミ(君・公)というカバネについてはカバネ論のページを参照)。毛野公(けぬのきみ)氏は仁徳天皇の時に上毛野・下毛野の二氏に分かれたが、後世まで関東の王者ともいうべき大族。紀には弟の活目入彦尊(のちの垂仁天皇)を皇太子にすると同時に、兄の豊城入彦命には東国を治めさせたとある。ただしこの段階ではまだ本人が関東に在住したわけではなく、たまに出向く程度で普段は代官を派遣してたぐらいだろう。豊木入日子命の子の八綱田命も都に在住していて垂仁天皇の時にサホヒコの乱に対処している。その子、彦狭島王は景行天皇の時(つまり倭建命の東征の後で)東山道十五国の都督に任じられた。
この東山道十五国というのは『日本書紀』での表現だが「東山道」というのは後世の律令制の用語を借用したもので厳密に「東海道は入ってないのだ」と短絡はできない。崇神天皇の時代に四道将軍の一人で東の担当の建沼名河別が担当したのが「東方十二道」。ヤマトタケルの征討対象は四道将軍の平定から漏れた区域だとすると、「東方十二道」には奥羽信飛濃の五国は入っていない。で、「東山道十五国」は書紀ではヤマトタケル以後の話だから、「東方十二道」にこの五国のうち三国を入れた数字ではないかと思われる。そしてこの五国はすべて後世の律令制でいえば東山道。出羽は奈良時代に分置される前は越後と陸奥の一部だったから除外し、信濃北部と飛騨は当時は高志(北陸)に入っていたと思われるのでこれも除外すると、奥信濃の三国が残る(この信濃は信濃の南部のみ)。東山道十五国というのは「東方十二道」にこの三国を加えた数字だろう(「東方十二道」の内訳については四道将軍の記事を参照)。この範囲は、豊木入日子命から彦狭島王まで代々管轄してきた範囲を表しているが、関東の総督だけならまだしもこれだけの広大な範囲を支配させるとも考えにくい。「国造本紀」では彦狭島王はこの時、毛野国造になったように書いてあり、この頃から権限としては関東の総督ぐらいに定まったんだろう。毛野国は直轄領だが、時代が下がって皇室から別れてからの世代が遠ざかってくると次第に毛野国だけの国造にすぎなくなっていく(この毛野国はまだ上野と下野に分割される前なので今の群馬県と栃木県南半分)。豊城入彦ー八綱田ー彦狭島ー御諸別ー荒田別まではあるいは東国の総督的な地位だったろうが、荒田別の次の世代で上毛野と下毛野に分割されるので遅くもこの時までには実質ただの国造に成り下がったと思われる。
ただし当初の任命の主旨は、事実上、日本を東西にわけて統治するということだが、なぜこの時代に東国総督が置かれたのかというと、この頃までに日本は弥生文化がますます深まったが、東日本との西日本では文化の在り方に徐々に差が大きくなっていった。東国では縄文以来の古い文化が根強く、西国とは住民の気質にも違いが大きくなってきた。しかも西日本では海外から持ち込まれた疫病の流行で淘汰されたのは免疫のない縄文系の遺伝子をもつ人々のほうが多かったと思われるので、ますます東国との違いが目立つようになったろう。そのため中央での一元処理的な行政は不適切になりつつあったのである。

神々の祭祀(疫病退治)
崇神天皇の御代は疫病で始まった(紀では崇神5年)。『日本書紀』は人口が半減したといい『古事記』は国民が全滅したという。これを読むたび思い出すのは、渡来系弥生人によってもたらされた疫病によって縄文人の人口大減少が起こったという説だ(もっとも、縄文人の疫病説は確かな証拠によって証明されたものではなく「あってもおかしくはない」という程度のことなので、注意が必要だが。最近の説では、現在の日本人の弥生顔は、古墳時代の江南(中国南部)からの帰化人がもたらした遺伝子であって、古墳時代までまだほとんどの日本人は縄文系だったという者もある。また縄文から弥生への変化は文化的なもので遺伝子上の変化は少ないとする説(長浜浩明の説)もある。

縄文人を大減少させたこの疫病の正体は、天然痘だとか結核だとか様々な説があるが、変わった説では「B型肝炎」という説と「成人T細胞白血病/リンパ腫」という説だろう。どちらもウイルス性の病気だが、成人T細胞白血病は鹿児島や沖縄、北海道にウイルスをもったキャリアが多い。またB型肝炎ウイルスの9種類のタイプのうち、日本人に多いのはBタイプとCタイプで、Cタイプのウイルスをもった人は九州北部から本州にかけての弥生系が強い地域に多く、Bタイプのウイルスを持った人は縄文系が強いといわれる地域に多い。朝鮮半島ではほとんど100%がCタイプ、中国でも80%はCタイプである。これらのウイルス性の病気では、縄文系と弥生系が選別されて、大流行の後には人種交代が起こると考えられるわけだ。この説はかつてはなるほどと思って信奉していたんだけど、最近は考えが変わってきた。この説の大きな弱点の一つは、伝染しにくいということで、異性間での感染と母子感染だけなので他地域に広がることがない。長い年月をかけて徐々に進行する人種交代なら疫病を持ちだして説明する必要がそもそもない。爆発的な大流行というのは考えにくいので、記紀の伝承にも合致しないということである。
なお、『ホツマツタヱ』は、崇神天皇が庶母(開化天皇の后)を后にしたことがタブーに触れ、それで疫病が起こったのだとするが、これは古代の婚姻制度を知らない江戸時代の素人の想像説にすぎず取るに足らない。

ただ、そうだとしても、崇神天皇の時代のこの疫病が海外からもたらされたことはほぼ確実に間違いない。アメリカ先住民の消滅はかなりの程度ヨーロッパ人のもたらした梅毒にも原因があった。日本の南北朝時代の疫病多発も、ヨーロッパのペストと時期が近い。モンゴル帝国全盛期の活発な国際交流がユーラシアに四川・雲南の疫病を広めたという。当時日本もモンゴル帝国統治下の中国と盛んに交流していた。記紀の伝承では「出雲の神」の祟りということになっているが、実はこの「出雲の神」も記紀では海外を平定することに深い関係をもった伝承が多い。
難民の増加は治安の悪化をもたらす。紀によると疫病の翌年、全国に流民が発生し、治安は悪化。丹波には謀叛を起こして独立した者さえいた。治安の悪化はもちろん疫病のためだけではなく、孝霊天皇や開化天皇の時代から問題になっていた難民(大陸の戦乱から逃れてきた)の存在があることはいうまでもない。
難民問題は、いかに早急に日本人に同化させ、日本人としての道徳を植え付けるかということ以外には根本的解決はない。また同時にすさんだ国民道徳を立て直さなければ、治安問題の解決はありえない。崇神天皇はそれまで宮中に祀られていた天照大神を大和国笠縫邑に巨大なヒモロギを建設して、一般庶民が自由に参拝できるように取りはからった(これが後に移転して今の伊勢神宮の起源となる)。これにより、日本人は天照大神の子孫であるという認識を浸透させるためで、いってみれば、これは弥生時代の「國體明徴運動」であった。
なお『神ながらの道 -日本人に潜在する創造的生命意識を解明する-』を著したジョーゼフ・ウォレン・ティーツ・メーソン(J・W・T・メーソン)の説では、この頃神祇への信仰が劣化していたので、神道に永遠なる宗教的生命をもたらす方策を立てたのが崇神天皇だったといい、これを「崇神天皇の神道ルネサンス」(古道復興)とまでよんでいる。
それと紀には疫病を鎮めるために祀った大物主神の神勅に「外国が帰順してくる」という一見、脈絡不明の文があるが、当時の人々が潜在意識では「この疫病の根本原因は外国問題である」ということを薄々察知していたということの証拠であろう。
「大坂神・墨坂神(境界の守り神)に武器(盾と矛)を祀った」というのは、畿内を封鎖したことをいう(紀では崇神9年のこととしてある)。疫病そのものは発生の翌々年(崇神7年)に終わったが、治安が乱れて一度酷い目にあった人間には警戒心と猜疑心が生まれるので、いったん崩壊した安全神話は容易には元にもどらない。したがって治安状態はすぐには回復しなかった。畿内では「國體明徴運動=神道ルネサンス」が成功したが、治安のよい畿内めざして流民が入ってくるので、一時、畿内を封鎖したのである。

オホタタネコノミコトはなぜ求められたか:大物主神の御子
天孫降臨の時の定めにより、皇統を守護する四つのカムナビ(三輪・宇奈提・葛城・飛鳥)は事代主命と味耜高彦根命の子孫が祀ることになっていたが、いつしか子孫も途絶え、物部氏の系統が県主の地位についていた。崇神天皇は神夢により、正しい子孫である大田田根子を探し出し、三輪の大物主神を祭らせた。…それは確かにそうなんだが、かなり経緯が入り組んでややこしいことになってる。

『古事記』を読むと、意富多多泥古(おほたたねこ)が神の子だと知られた所以は、大昔に大物主神が人間に化身して活玉依毘賣(いくたまよりひめ)と交わって生まれた男子の子孫だからとして、大物主から意富多多泥古まで5世代の系譜を載せている(大物主神を1世としてオホタタネコが5世)。
だがこれはおかしいのではないか。それなら神の「子」というのは神の子孫って意味になる。和語の子(こ)には確かに子孫という意味があるから一見問題ないようにみえるが、それなら当時の登場人物はほとんど全員、天津神か国津神か、なんらかの神の子孫なのであって、格別にオホタタネコだけを「神の子」だのなんだの言う意味なくね?
そう思って『日本書紀』をみると、大田田根子(おほたたねこ)は父が大物主で母が活玉依媛(いくたまよりひめ)だという。つまり神の子孫ではなく、そのまま素の意味で神の子になってる。あきらかにこっちの方が元々の古伝承だろう。じゃ『古事記』の系譜はどっから出たのかというと、これは磯城県主(しきのあがたぬし)の系譜でしかありえない。そう推理するわけは『先代旧事本紀』に同様の系譜があり、大己貴神(おほなむちのかみ:大物主神の別名)を1世として大田田根子が9世になってる。この系図だと2世が神武天皇の時代の事代主(ことしろぬし)と同一人物になっているが、『日本書紀』では綏靖天皇や安寧天皇の皇后が事代主の娘でもあり磯城県主の娘でもあるように書かれているから、要するに事代主が磯城県主である。日本書紀の異伝では活玉依媛の父は天日方奇日方武茅渟祇(あめひかたくしひかたたけちぬつみ)という長々しい名前になってるが、これは「天日方奇日方」と「武茅渟祇」の間に脱文があって、無関係な二人の名がくっついてしまったもののようだ。天日方奇日方は先代旧事本紀で神武天皇時代の事代主(つまり磯城県主)の息子として出てくる。これと古事記の櫛御方(くしみかた)が同一人物なのは名前の類似から想像がつく(「三輪高宮家系図」でもそうなってるがこの系図によらずとも推定可能)。だから「櫛御方ー飯肩巣見ー建甕槌」の三代間は磯城県主の系譜であって後から挿入した注釈が誤って本文に紛れ込んだもので、意富多多泥古とは繋がってない。問題は「武茅渟祇」だがこれは賀茂県主の祖、賀茂建角身(かもたけつぬみ)のこと。なんでそんな人の名がここに出てくるかというのは長くなるから別の機会にまわす。
さて、そうするとオホタタネコは磯城県主の家に婿入りでもしたのかと思いたくなるが、当時は入り婿という概念はない。ただし旧領主の娘を娶ることで新領主への交代を正当化するという感覚はあった。
で、話はここで終わらない。三輪君(みわのきみ:古事記では「神君」と書いてミワノキミと読むがややこしいので書紀の書き方にするw)という氏族は、カバネが「君」だ。このカバネは開化天皇以降に皇室から別れた氏族に多い。そういう傾向があるってだけで例外もあるのだから気にしなくていいのかも知れないが、そういうことまで気になって仕方ないのを才能というわけだろw 以前にこのブログで出雲臣(いづものおみ:出雲国造、出雲大社の宮司の家柄)が天之菩比命(あめのほひのみこと)の子孫ではなく孝元天皇の子孫だって説を展開したことがあった(「出雲国造は天穂日命の子孫ではないhttps://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-32.html)。そしたら、同じ理屈で、三輪君は大物主神の子孫ではなく開化天皇の子孫ではないかと当然思われる。思うよな?w
そこで、開化天皇の系譜をみると、孫の世代で子孫の氏族が書かれておらず断絶したような印象のある皇孫が4人いる。大筒木垂根王、讃岐垂根王、比古意須王、伊理泥王だ。このうち伊理泥王(いりねのみこ/いりねのおほぎみ)という名前が気になる。いちいばん下の弟なのに兄(ね)というのもあれだし、入兄(いりね)というのは入り婿って意味ではないのか? つまりこの伊理泥王はオホタタネコの入り婿なのではないか? いや当時は入り婿という概念はないから、オホタタネコの娘を娶って、同時にオホタタネコの家職である大物主神の祭祀を継承したのではないか、これが三輪君という氏族の発祥なのであろう。
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どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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