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・「神道ルネサンス」

H26年11月6日修正 H24年9月19日(水)初稿
后妃と皇子女
后の御真津比賣(みまつひめ)と同名の人物が崇神天皇の同母妹にあり、こちらは大彦の娘と明示あるから同名異人とみなされているが、同一人物の可能性もまったくなくもない。これについての詳しい議論は開化天皇の項に譲り、今回はふれない。
また豊木入日子命(とよきいりひこのみこと、紀:豊城入彦命)は、上毛野君・下毛野君らが祖とある(キミ(君・公)というカバネについてはカバネ論のページを参照)。毛野公(けぬのきみ)氏は仁徳天皇の時に上毛野・下毛野の二氏に分かれたが、後世まで関東の王者ともいうべき大族。紀には弟の活目入彦尊(のちの垂仁天皇)を皇太子にすると同時に、兄の豊城入彦命には東国を治めさせたとある。ただしこの段階ではまだ本人が関東に在住したわけではなく、たまに出向く程度で普段は代官を派遣してたぐらいだろう。豊木入日子命の子の八綱田命も都に在住していて垂仁天皇の時にサホヒコの乱に対処している。その子、彦狭島王は景行天皇の時(つまり倭建命の東征の後で)東山道十五国の都督に任じられた。この東山道十五国というのは「東山道十国他あわせて計十五国」の略称で、紀編纂の頃の令制国での数え方であって当時の言い方ではない。東海道は後世の令制国でいうと8ヶ国しかないが、紀が編纂された段階では信濃の南半分は「諏方国」として独立してたし後に東海道に編入される武蔵国はまだ東山道に入れられていたから10ヶ国あった。これに関東の東部の4ヶ国と甲斐国をたして15国といったんだろう。この範囲は、豊木入日子命から彦狭島王まで代々管轄してきた範囲を表している。「国造本紀」では彦狭島王はこの時、毛野国造になったように書いてある。「豊木入日子命以来、東国の総督ではあるが、直轄地としては毛野国だ」ということだろう(この毛野国はまだ上野と下野に分割される前なので今の群馬県と栃木県南半分)
これは事実上、日本を東西にわけて統治するということだが、なぜこの時代に東国総督が置かれたのかというと、この頃までに日本は弥生文化がますます深まったが、東日本との西日本では文化の在り方に徐々に差が大きくなっていった。東国では縄文以来の古い文化が根強く、西国とは住民の気質にも違いが大きくなってきた。しかも西日本では海外から持ち込まれた疫病の流行で淘汰されたのは免疫のない縄文系の遺伝子をもつ人々のほうが多かったと思われるので、ますます東国との違いが目立つようになったろう。そのため中央での一元処理的な行政は不適切になりつつあったのである。

神々の祭祀(疫病退治)
崇神天皇の御代は疫病で始まった(紀では崇神5年)。『日本書紀』は人口が半減したといい『古事記』は国民が全滅したという。これを読むたび思い出すのは、渡来系弥生人によってもたらされた疫病によって縄文人の人口大減少が起こったという説だ(もっとも、縄文人の疫病説は確かな証拠によって証明されたものではなく「あってもおかしくはない」という程度のことなので、注意が必要だが。最近の説では、現在の日本人の弥生顔は、古墳時代の江南(中国南部)からの帰化人がもたらした遺伝子であって、古墳時代までまだほとんどの日本人は縄文系だったという者もある。また縄文から弥生への変化は文化的なもので遺伝子上の変化は少ないとする説(長浜浩明の説)もある。

縄文人を大減少させたこの疫病の正体は、天然痘だとか結核だとか様々な説があるが、変わった説では「B型肝炎」という説と「成人T細胞白血病/リンパ腫」という説だろう。どちらもウイルス性の病気だが、成人T細胞白血病は鹿児島や沖縄、北海道にウイルスをもったキャリアが多い。またB型肝炎ウイルスの9種類のタイプのうち、日本人に多いのはBタイプとCタイプで、Cタイプのウイルスをもった人は九州北部から本州にかけての弥生系が強い地域に多く、Bタイプのウイルスを持った人は縄文系が強いといわれる地域に多い。朝鮮半島ではほとんど100%がCタイプ、中国でも80%はCタイプである。これらのウイルス性の病気では、縄文系と弥生系が選別されて、大流行の後には人種交代が起こると考えられるわけだ。この説はかつてはなるほどと思って信奉していたんだけど、最近は考えが変わってきた。この説の大きな弱点の一つは、伝染しにくいということで、異性間での感染と母子感染だけなので他地域に広がることがない。長い年月をかけて徐々に進行する人種交代なら疫病を持ちだして説明する必要がそもそもない。爆発的な大流行というのは考えにくいので、記紀の伝承にも合致しないということである。
なお、『ホツマツタヱ』は、崇神天皇が庶母(開化天皇の后)を后にしたことがタブーに触れ、それで疫病が起こったのだとするが、これは古代の婚姻制度を知らない江戸時代の素人の想像説にすぎず取るに足らない。

ただ、そうだとしても、崇神天皇の時代のこの疫病が海外からもたらされたことはほぼ確実に間違いない。アメリカ先住民の消滅はかなりの程度ヨーロッパ人のもたらした梅毒にも原因があった。日本の南北朝時代の疫病多発も、ヨーロッパのペストと時期が近い。モンゴル帝国全盛期の活発な国際交流がユーラシアに四川・雲南の疫病を広めたという。当時日本もモンゴル帝国統治下の中国と盛んに交流していた。記紀の伝承では「出雲の神」の祟りということになっているが、実はこの「出雲の神」も記紀では海外を平定することに深い関係をもった伝承が多い。
難民の増加は治安の悪化をもたらす。紀によると疫病の翌年、全国に流民が発生し、治安は悪化。丹波には謀叛を起こして独立した者さえいた。治安の悪化はもちろん疫病のためだけではなく、孝霊天皇や開化天皇の時代から問題になっていた難民(大陸の戦乱から逃れてきた)の存在があることはいうまでもない。
難民問題は、いかに早急に日本人に同化させ、日本人としての道徳を植え付けるかということ以外には根本的解決はない。また同時にすさんだ国民道徳を立て直さなければ、治安問題の解決はありえない。崇神天皇はそれまで宮中に祀られていた天照大神を大和国笠縫邑に巨大なヒモロギを建設して、一般庶民が自由に参拝できるように取りはからった(これが後に移転して今の伊勢神宮の起源となる)。これにより、日本人は天照大神の子孫であるという認識を浸透させるためで、いってみれば、これは弥生時代の「國體明徴運動」であった。
なお『神ながらの道 -日本人に潜在する創造的生命意識を解明する-』を著したジョーゼフ・ウォレン・ティーツ・メーソン(J・W・T・メーソン)の説では、この頃神祇への信仰が劣化していたので、神道に永遠なる宗教的生命をもたらす方策を立てたのが崇神天皇だったといい、これを「崇神天皇の神道ルネサンス」(古道復興)とまでよんでいる。
それと紀には疫病を鎮めるために祀った大物主神の神勅に「外国が帰順してくる」という一見、脈絡不明の文があるが、当時の人々が潜在意識では「この疫病の根本原因は外国問題である」ということを薄々察知していたということの証拠であろう。
「大坂神・墨坂神(境界の守り神)に武器(盾と矛)を祀った」というのは、畿内を封鎖したことをいう(紀では崇神9年のこととしてある)。疫病そのものは発生の翌々年(崇神7年)に終わったが、治安が乱れて一度酷い目にあった人間には警戒心と猜疑心が生まれるので、いったん崩壊した安全神話は容易には元にもどらない。したがって治安状態はすぐには回復しなかった。畿内では「國體明徴運動=神道ルネサンス」が成功したが、治安のよい畿内めざして流民が入ってくるので、一時、畿内を封鎖したのである。

オホタタネコノミコトはなぜ求められたか:大物主神の御子
天孫降臨の時の定めにより、皇統を守護する四つのカムナビ(三輪・宇奈提・葛城・飛鳥)は事代主命と味耜高彦根命の子孫が祀ることになっていたが、いつしか子孫も途絶え、物部氏の系統が県主の地位についていた。崇神天皇は神夢により、正しい子孫である大田田根子を探し出し、三輪の大物主神を祭らせた。…そう、かつては思っていたのだが、最近まったく別の説に思い至った。
(以下、後日加筆予定)
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