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邪馬台への行程【その7】~水行陸行、里数への換算~

改稿:2679年[R01]12月18日WED (初稿:2679年[R01]10月21日MON)
邪馬台への行程【その6】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その6】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「而」か「或」か
さて、ようやく水行陸行の日数表示が実際どれぐらいの距離なのかという問題だが、まずは倭人伝の中で使われてる「里」の単位に換算するところから始めようと思う。
日数表記のところから里数を割り出すというのはつまり「一万二千里は奴国までの距離」ってことに変更される前の状態を復元することである。
不弥国を内陸に置く説はともかく、九州説でも畿内説でも不弥国は海岸をもってることがほとんどで、投馬国またしかり。なので放射式で伊都国から、順次式で不弥国から投馬国への水行は問題ないとして、邪馬台国の「水行十日陸行一月」が問題だ。
「水行十日陸行一月」の解読には3つ説があり、

(A)連続説。まず水行して然る後に陸行する。
(B)選択説。もし水行すれば十日、もし陸行すれば一か月という二つのルートから選ぶ。
(C)混在説。水行したり陸行したり。水行した分だけ合算すると十日ぐらい、陸行した分だけ合算すると一か月。

(B)の選択説の場合は水行は陸行の3倍計算となる。(C)の混在説はちょっとありえない気がする。普通これは陸行に含めるだろう。そこらをこだわったのなら「乍水行乍陸行、計日、水行十日陸行一月」と書かれたろうけど何が疑問といって、中国人の水行というのは川をいう場合が多く、いずれも悠々たる桁外れな大河でそれに比べると日本の川は小川のせせらぎか急峻な滝みたいなもの。中国人の感覚では水行とは言わなかったのではないか。川を使ったっていっても内陸部だからこれは陸行だと認識されそう。絶対に(A)の連続式にしか読めない書き方なら「水行十日陸行一月」となるが原文のままでも漢文として普通に読み流せば連続式に受け取るのが自然だから、「而」の字を入れるのはややくどい書き方かもしれない。もし間違いなく(B)の選択式に読んでほしいと陳寿が思ったのなら「水行十日陸行一月」とか一字を補ってあるべきだが、その字がないからといって絶対に選択式には読めないこともないからややこしい。例によって「而」か「或」か一字の誤脱を想定すればまたどっちともいえるし、なぜ陳寿はわずか一字を惜しんだのかと深読みすれば「誤読を誘っている」とも思えるw

で、日数の換算だが、ご存知の通り『唐六典』の数値をみると以下のごとし。この数字は唐代のものだが三国時代も事情は大差ないだろう。

『唐六典』


凡陸行之程、馬日七十里、歩及驢五十里、車三十里。
水行之程、船之重者、泝河日三十里、江四十里、余水四十五里。
空船泝河四十里、江五十里、余水六十里。
沿流之船、則軽重同制、河日一百五十里、江百里、余水七十里。

水行は1日あたり30里~150里、陸行は30里~70里でばらつきが酷いw 
『唐六典』の数字を使ってありえそうな最大値と最小値をみると、最短の30里を使って放射式+選択式だと邪馬台国までわずか300里。最長で陸行70里、水行150里を使って順次式+連続式だと投馬国まで3000里、邪馬台国まで3600里、計6600里。最短300里で最長6600里なんだから、その間の数字はすべて可能性があることになる。ホントかよw さらに誤写の可能性もあるから「二十日」が実は「二日」「十日」等の間違いだとか、「一月」が「一日」の間違い、とかもありうる。これらを組み合わせるとさらに幅が広がってとりとめもなくなりそうだがしょうがないw どの数値が正しいか(現実にあてはまるか)は、実際にその道を行軍してみた者でないとわからないが、1日あたりの行軍距離について上述のごとく豊富な数値があるので、机上の数字だけなら自在に伸縮可能でなんとでも辻褄あわせはできる。

日数表示は何里か?
ところで、一万二千里が邪馬台国でなく奴国までの距離ってことに設定変更された時に、初期モデルの3000里を消してわからなくするために日数表示にしたんだとすると、単純な計算で簡単に復元できるなら3000里を隠した意味がない。放射式だと2800里だが【その1】で説明した通り、俺の説では伊都国と不弥国の間は500里だと考えるのでその場合は2500里になる。ここの里数3000 or 2800 or 2500里は隠したいわけだから、換算数値を好きなように当てはめれば何通りにも推定はできるが「これが正しい里数だ」というのはわざと確定しないように書かれてるのだとは思われる。作者の気分になってみると元の「3000里」(「3000 or 2800 or 2500里」だが煩雑なので以下《3000里》と書く)を、なにも読者のためにご丁寧に換算して日数表記にしてくれたという保証はないぞw つか奴国までが一万二千里に変更された以上、不弥国から邪馬台国までが《3000里》である必要がなくなっているのだから、そもそも換算前の《3000里》という数値が消えている、無意味になっている。ということは、この日数表示は《3000里》とまったく関係ない数字だということも十分にあり得るのではないだろうか。
そうはいっても「わからないように書いてあるんだから、わかるわけないだろ」だけで終わりにしては「金返せ」って言われかねないw なので憶測レベルの議論にすぎないが、もう少し詳しめに結論めいた議論に力技でもっていってみたいw

孫栄健みたいに水行十日も陸行一月も1200里のことで「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だって説もありうる。ただ孫栄健の説の場合、投馬国の水行二十日が浮いたまま放置されてる。これは当然2400里で、放射式だとすると何のための虚構なのか意味不明になってしまうから順次式だとして、合算すると3600里になる。「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だって説にこれをあてはめると「10分の1にした上で3倍にした数字」だ。投馬国の位置は「一万二千里」の中では3分の2の地点になり、奴国まで一万二千里として文面上に記述されたルートの上では対馬国上陸地点にあたる(半周を加える前の地点)。ここまでは確かに水行だけなので、ここまで二十日だったとして、倭国内ルート(対馬国上陸地点から奴国まで)は水行と陸行が混在してる。これをすべて水行に換算すると十日、すべて陸行に換算すると一月。水行換算値と陸行換算値が併記してあるのは要するに水行が陸行の3倍の速さだと示すため、ということになる。だがこの説だと、少し無駄で煩雑すぎる気がする。水行も陸行と同じで40里という極めて単純な設定なのではないか? 陸行は邪馬台国のルートではなく投馬国と邪馬台国ルートの合算だとすれば、投馬国まで水行800里、邪馬台国まで水行400里で合計1200里。陸行も同じく1200里。どっちも「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だとした方がシンプルではある。陸行が両行程の合算だっていうのがアレだがw

しかし、よく考えるとそこまで消し去らなくても、もともと日数換算が『唐六典』にあるように伸縮自在なのだから、一度日数にしてしまうと、「換算前の里数」か「特定の換算値」のいずれかをを事前に知ってる者でない限り、里数に復元できない仕組みになってる。つまり一般読者には解読される心配がないし、機密に与る上層部の一部には「換算式によって(《3000里》に)復元できるから嘘は書いてませんよ」というアピールになる。
そう考えるとやはり計算すれば《3000里》になるはずだ。その前提で考え直してみたのが以下。

九州説だと伊都国からの放射式で方角は字のまま南としても、南に水行できないのと思うのだが、これは出発時の方角でなく起点からみた終点の位置する方角とすれば、途中の行路が東西南北どっちを向いててもいいという解釈で乗り切れる。ただし『唐六典』では馬は70里、徒歩と驢馬は50里、車は30里というが、選択式で2800/2500里をこなすには1日あたり水行で300里近く、陸行で100里弱も行かないとならないからムリ。連続式か混在式なら1日あたり「水行130里、陸行50里」で計2800里(水1300+陸1500)にでき、水行を100里にする(水1000+陸1500)か陸行を40里にする(水1300+陸1200)ならば計2500里にできる。川下りコースで黄河が150里、長江が100里だから130里は若干きついが絶対ありえない速さではないだろう。問題はそこでなく、水行した後それに近い距離もしくはそれ以上の距離を陸行するのが九州内では難しい。「迂回することになっても途中までは陸路より海路(もしくは河川)で行った方がよくて、かつ、上陸してから水行できない内陸を海路と同距離もある地点」なんて九州内にありえない。なので連続式でなく混在式とした方がいくらかマシだが、それでもどうかな? そこで選択式で「水行二十日陸行一月十日」の誤記だったとすれば1日あたり水行140里、陸行70里で2800里とできるし、「水行二十日陸行一月二十日」の誤記だったとすれば1日あたり水行125里、陸行50里で2500里とできる。『唐六典』の陸行70里は馬を使った場合だから人間で40日を踏破するのは厳しいとすれば、端数がでるが「陸行二月」でもよい。1日50里で2800里には2ヶ月めの4日前に到着する計算になり、同じく「陸行一月半」とすれば2500里には2ヶ月めの4日前に到着で、数日余る分には何の問題もない。これなら九州のどこにももっていけそうだが、水行だけでも陸行だけでも行けるのだから九州の沿岸部に限られてしまう。筑紫平野の真ん中や熊本平野の奥や阿蘇カルデラの中にもってく説だと厳しい。宇佐説、鹿児島説、日向説なんかは問題ない。

畿内説でいうとまず順次式だとして、瀬戸内海航行だと近畿との境か手前で上陸することになり意味がわからない。だから日本海航行だと考える。方角からいって投馬国を三丹(但馬丹波)だと仮定すると、水陸の「混在説」がよいようにみえる。この場合の水行とは川を船でいくことで海路ではない。しかしGoogleマップを使うと、この間徒歩40時間しかないw 1日に6時間か7時間歩いたとして6日。すると「陸行一月」も里程と同様、5倍に誇張されてるんじゃないのか? ともかく「陸行一月」だけで行けるとなると、「水行十日」が浮いてしまう。なのでこれを投馬国の「水行二十日」の重出誤記だとしてもいいのだが、ちょっと保留しとくw 陸行30里、水行70里とすると、順次式で投馬国まで1400里、邪馬台国まで水行700里陸行900里で計1600里。合計3000里。重出誤記だなどといわずにすむが、里程配分がこれだとして畿内説に当てはめると(日本海航行で)投馬国は但馬じゃなくて出雲っぽい。出雲だとすると「南」は「東而南」の誤脱ではなく「東」の誤りだということになるのがどうもな…。
第二案として、陸行30里で投馬国から邪馬台国まで900里。「水行十日」は「水行二十日」の重出誤記として無視すると、残りの投馬国まで2100里だから水行105里と決まる。里数の割り当てはいいような気がするが「105里」が半端で不自然だな…。
第三案として、三国志の中では司馬懿の公孫淵討伐戦での行軍速度、1日40里を基本にすべきだという説もあって、確かにごもっともに聞こえるので採用してみる。この場合水行は60里とすると、投馬国まで1200里、邪馬台国まで水行600里陸行1200里で計1800里。合計3000里。これも重出誤記だなどといわずにすむが、里程配分がへんだ。瀬戸内航路だと陸行はわずかにならないとおかしいし、日本海航路でも半分以上も陸行するなんてありえない。
第四案として、陸行は40里のまま、邪馬台国への「水行十日」は投馬国の経路の重複誤記として無視し、邪馬台国は陸行だけだとすると、投馬国から邪馬台国まで1200里。残りは投馬国まで1800里だから、水行は1日90里と決まる。計3000里。これで郡から邪馬台国まで一万二千里になる。数字の辻妻はきれいに合うが(というか無理矢理あわせてんだから当然だが)、これも里程の割り当てが微妙に地理にあわないような…(陸行が多すぎて不自然)。まぁ魏志の設定上の地理だから実際の地理に一致しなくていいともいえるが。

以上どの説もそれぞれ欠点あり、辻褄合わせ感が強いw 自分で書いてアレだが、どれもびみょうに間違ってるような気がするしなw …そう、重要な何かが欠けているのだ…。
倭人伝2
水行陸行の謎解き
やはりここはアレの出番だろう。そう、「春秋の筆法」ですw 出たw
倭人伝の冒頭で韓地の行路の説明が、海岸に沿って水行したとも内地をジグザグに陸行したともとれる書き方になっていて、二つのルートをあえて混在させていた。こんな不可解な書き方をあえてしているのは意図的な「文の違え」で、言外に何かを示そうとする「春秋の筆法」なのである。両方のコースを行くことは物理的に不可能なので、一方を選択しなければならないが、どちらのコースを進んでも(水行しても陸行しても)同じ「七千里」になる。ここで示されているのは第一に「陸行と水行はどちらかを選ぶ」のであって連続式や混在説で読んではいけないということ、第二に「陸行しても水行しても出発地と到着地は同じ、距離も同じ」ということ。つまり投馬国から邪馬台国までの行程は「春秋の筆法」の示すところに従って「水行すれば十日、陸行すれば一月」となる。
これで考えていくと、放射式の場合は上述のごとく1日あたりの距離数をオーバーしてしまうのでムリ。さすれば前述のごとく「水行二十日陸行二月」もしくは「水行二十日陸行一月半」の間違いだったということになる。
順次式では水行は100里となる。『唐六典』でも川下りの場合は黄河で1日150里、長江なら100里、それ以外の川で70里。日本海の東行は潮の流れに乗るのだから中国の大河に比べて1日100里は軽くありえるだろう。すると投馬国までの水行二十日はちょうど2000里となる。で、邪馬台国までは1000里でないと困るので陸行のみで1月を30日とすると平均値は「1日33.3333…里」。1日35里とすると29日(旧暦の小の月)で「1015里」で15里余るが、まぁ前述の放射説の場合と同様、目的地にその日数で達すればよいのだから15里余っても問題ないはずだ、普通ならね。しかし魏志倭人伝の里程や日数は初めから仕組まれたもので普通の計測値ではないのだから、端数が出るのはどうも釈然としない。キリのいい表現で「3日で100里」のつもりだと思われる。ただ、このルートが「但馬~大和」間だとすると基本陸行で水行はないのだから「水行十日」は「水行したら十日」の意味ではない。水行はできないし、しないのだが「陸行の日数を水行に換算したら十日になるよ」という意味なのではないか(そんなややこしいことは言わずに単純に選択式だというだけでも差し当たり問題ないが)。
で、不弥国から投馬国までは水行2000里(=水行二十日)、投馬国から邪馬台国まで陸行1000里(=陸行一月)、あわせて3000里という至ってシンプルなことになる。

瀬戸内海航路の場合、安芸や吉備で上陸して陸行するはずがなく大阪湾のあたりから上陸するしかないから、投馬国をギリギリ東の神戸市須磨区としてもまだ水行が多すぎ陸行が不足する。河川航行も陸行に含んだとしてこれだから大和川の河川航行を水行にいれたらますます不自然。かといって、大和は内陸なのだから「選択式で陸行しない」のだ、ともできない。ゆえに瀬戸内航路は間違いで日本海航行が正しく、投馬国はやはり但馬と確定する。そのはずだが…。
もし以上の説で確定した場合、現実の日数は不弥国から投馬国まで水行4日、投馬国から邪馬台国まで陸行6日だろうが、それは一万二千里が実は2400里を5倍したものだからここの日数も5倍になってるだろうという推測による。
ホントか? まだ釈然としない。どうも大事なことを忘れている。
「邪馬台への行程【その8】」に続く。
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Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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