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仁徳⑯〜武烈㉕の系譜

2679(R1)・8・22 THU 改稿 H26・11・7初稿
仁徳⑯の皇子大日下王の妃で目弱王の母「長田大郎女」と、允恭⑲の皇女で安康⑳の姉「長田大郎女」と、2ヶ所に同一名が出てくる。昔からこの二人が同一人物なのか同名異人なのか、両方の説がある。同一人物だとすると安康天皇は同母の姉を皇后にしていたことになって不合理なので、別人だとする説も根強いわけだが、さて真相は…?
兄弟相続「制度」は無かった
よくいわれ勝ちな誤りに、古代日本は兄弟相続制度があったという説。記紀では反正天皇から兄弟相続が始まる。しかし、実際のところ神武天皇から履中天皇まで、あったのは「末子相続」であって兄弟相続では無い。仁徳天皇は儒教的な「長子相続」を理想として大江皇子(のちの履中天皇)を太子に立てられたのであったが、長男というのは父と年齢差が少ないため自ら在位年数が短くなる理屈。しかもめぐり合わせの悪いことに履中帝の後継者たるべき市辺押歯王はまだご幼少であられたので、弟の水歯別命が「中継ぎ」で反正天皇になられたのではないかと推察する。しかし履中帝と反正帝は年齢差9歳しかない上、兄君の宝算より4歳も早く崩御された(宝算ってのは天子様が崩御された時のご年齢のこと。『古事記』だと歴代の末尾に「天皇の御年、○○歳」とあるあれ)。市辺押歯王が仮に履中帝の末年に誕生したとすると反正帝崩御の時はまだ7,8歳。さすがにこの先は考えていなかったようで、允恭天皇即位の際のすったもんだが起こることになった。こう次々と予定外のことが立て続けに起こったのは、実は簡単に予想できることだったが、儒教の理想を実現するという建前が仁徳天皇ご一家の家風のようになっていたのと、それをまた支持する一派も朝廷内には力があったので、誰も口を挟めなかったものとみえる。しかしアンチ儒教派は内心それみたことかと思ったことだろう。本当は宇治太子の子孫がいればそれが正統できまりだが宇治太子の男系子孫はいない。このへんは後世の安徳天皇から後嵯峨天皇までのすったもんだが思い出される。が、宇治太子の同母妹の血筋ってのがいて、普通ならさしたる重みをもつものではないが、たまたま応神天皇は宇治太子に皇位を譲ろうとしていたことと仁徳天皇に譲る気はなかったことが「二人の皇子への質問」というエピソードで有名になってしまっていたから、皇族(天皇の血を父系でひく者)であることに加えて「宇治太子の同母妹の血筋」が応神天皇以降は「正統な天皇」というふうに(当時の)世間は考えるようになってしまった(このことは奈良時代の皇室には都合がわるい話なので奈良時代に編纂された記紀には一見したところわかりにくくなっている)。
以上は反正帝〜允恭帝の兄弟相続の事情を一例として解説したまでであって、これ以降の兄弟相続の例もすべてみなそれぞれの特殊な「しかるべき特殊事情」あってのことであって、なにかそういう風習やしきたりがあったとは思えない。これを「兄弟相続制だったはずだ」という前提で、記紀の天皇系図を「父子になってるのはおかしい、これはもと兄弟になってた系図を書きかえたんだろう」等というのは古伝承より自己の妄想を優先させたもので本末転倒も甚だしいだろう。

葛城氏の歴史的意義
(後日加筆)

安康天皇は長田大郎女は近親婚なのか?
まず二人の長田大郎女(ながたのおほいらつめ)が同名の別人なのか同一人物なのかが問題となり、もし同一人物の場合には履中天皇皇女なのか允恭天皇皇女なのかが問題となる。もし後者なら、安康天皇は同母の兄妹で結婚したことになるが、通説ではこれは当時タブーとされていたということになっている。まして、安康天皇は、木梨の軽太子の近親婚のタブー侵犯に反対する人々によって擁立された天皇だから、同母妹を皇后にすることは到底ありえない、と一見思われる。そこで、雄略前紀分注に「中蒂姫(なかしひめ、履中天皇皇女)のまたの名を長田大郎皇女」とあり、これでみると安康天皇の同母妹の長田大郎女(紀では「名形郎皇女」)とは同名の別人らしく思える。この説に依拠して、允恭天皇の長田大郎女の長田は紀に「名形」とあるからナガタでいいが、履中天皇皇女の長田皇女の長田は別人なのだからヲサダと読むのではないかという説もある。しかし『古事記』ではナガタは「名方」、ヲサダは「他田」と書いている例があり、書き分けることは出来たはずなのに、このような接近した箇所に出てくるのに別人の名がまったく同じ書き方をされているのはおかしい。また古代人は別名も多かったろうから区別して言う時の別名にも事欠かなかったと思われるのに、紀に出ている中磯皇女(なかしのひめみこ)や中蒂姫という名には一切ふれもせず、すぐ近くに出てくる二人の名前がまったく同じままということがあろうか? ここは普通に読めば同一人物だろう。そこで本居宣長は書紀の分注を援用した上で、同名別人ではなくて同一人物とし、允恭帝皇女説がたんに間違いなのであって履中帝皇女説が正しいとした。しかし允恭帝皇女説は記紀ともに本文で明記するのに、分注を優先させるのはおかしくないか。記紀の本文には中蒂姫の別名が長田大郎女だという話は一切ない。そもそも分注ってのは理解しがたい部分に解釈を加えた解説文であり、あくまで紀編纂の段階の奈良時代の常識からみた場合の一つの解釈説にすぎないのであって古伝承とは別だと心得なくてはならない。この分注もよくみると大草香皇子(記:大日下王)の妹には「長田皇女」、安康天皇の皇后には「中蒂姫皇女」と使い分けていて、別人なのをさりげなく並べて印象操作しようとした跡がみえる。まず間違いなく、もともとの伝承では履中帝皇女の中磯皇女と允恭帝皇女の長田大郎女はまったくの別人である。「別名」とみせかけて近親婚の矛盾を解消できるような合理的な解釈を模索したのがこの分注なのである。同じく近親婚の矛盾を解消できるような合理的な解釈を模索した宣長がこの分注に騙されるのは必然だったといえよう。
では、同母妹を皇后としたことになってしまうこの矛盾はどう説明つくのか、それは安康天皇の回にて詳しくかいたのでそちらを参照されたし。

二人の「幡梭皇女」は?
ところで、紀では大草香皇子の妃で後に安康天皇の皇后になった女性を、一貫して長田大郎女ではなく中蒂姫とよんでいる。これが誤りで正しくは允恭帝皇女の長田大郎女だとしたら、履中帝皇女の中蒂姫はどこでなにをやっていたのか? 記紀の系譜記事にでてくる皇女たちのほとんどはいったい誰に嫁いでどうなったのか不明な女性が多いので、ここでも気にする必要はないかもしれないが、紀の書き様からすると、中蒂姫も長田大郎女と同じく大日下王の妃になっており、のちに安康天皇の后妃となったところまで同じ境遇の女性だったのではないだろうか。だから紀も最低限わずかな曲筆だけで合理化を試みることができたのだと思われる。古事記は登場人物を減らしてストーリーをシンプル化することがよくある。また安康天皇は公式に長田大郎女を皇后にすることは憚られたろうから、名目上は中蒂姫を皇后とするつもりだったに違いない。しかし大日下王の宮殿が落城した際に長田大郎女か中蒂姫のいずれかが大日下王とともに薨去してしまった可能性もある。その場合、生き残りは一人しかいないわけで、その人を書紀は中蒂姫としているが、それは近親相姦があったかのような話を隠蔽したいから人物を差し替えてるわけで、長田大郎女だとしている古事記の方が正しいのではないか。安康天皇は長田大郎女への執着がまさっていて、救出の優先順位から考えてそういう結論になる。これに付随して、そもそも中蒂姫の母は本当に幡梭皇女(=若日下部王)なのかって問題もある。実は幡日若郎女と紛らわしい名前の人物がいてこれと混同されたんではないかと思われるのだが、この問題はとりあえず今はさておいて、ここで大いに注目すべきことに気づく。紀では幡梭皇女は仁徳天皇と髪長媛の間に生まれた皇女となっているのだが、記では応神天皇と泉長比賣(いづみのながひめ)の間に生まれた皇女に幡日之若郎女(はたひのわきいらつめ)、仁徳天皇と髪長比賣の間に生まれた皇女に波多毘能若郎女(はたひのわきいらつめ)と2回でてくる(「毘」の音は濁音の[bi]でなく清音の[hi]であることは当ブログの他の箇所で論じた)。履中天皇の皇后が応神帝皇女では叔母と甥になるが仁徳帝皇女だと異母妹になる。この時代ではどちらもありうるが、後者の場合、これは大日下王の妹の若日下王と同一人物で、この女性は雄略天皇の皇后になる人だから、履中天皇の皇后は前者(応神天皇皇女)で、同名の別人とする説がある。しかし宣長は例によって同一人物説で、仁徳帝皇女が正しく応神帝皇女のほうは存在しないとした。応神天皇の妃の泉長比賣と、仁徳天皇の妃の髪長比賣が名前が似ているので、幡梭皇女の生母を泉長比賣とする誤りが生じたというわけ。ここで宣長が泉長比賣と髪長比賣を同一人物としなかったのは、泉長比賣は大羽江王と小羽江王という応神帝皇子を生んでるし、髪長比賣は大日下王という仁徳帝皇子を生んでるので一方の女性を消し去ることができなかったからだ。しかし開化天皇が庶母(父帝孝元天皇の妃)を自分の皇后にして崇神天皇が生まれた例もあり、泉長比賣と髪長比賣が同一人物でもかまわないのではないか。泉長比賣は父不詳だが「日向の泉の長比賣」とあり髪長比賣は「日向の諸県君の娘、髪長比賣」とあり、同一人物として差し支えるような情報はない。しかも宣長説だと中磯皇女(=中蒂姫)を生んだのは誰か不明になってしまう。古事記ではそもそも中磯皇女(=中蒂姫)が存在してないのだから古事記の記述大系の中では中磯皇女(=中蒂姫)の母が誰かなんて問題自体おこらないのだ。しかし本当に実在しなかった女性を日本書紀がゼロから創作できるなら、もっと大胆にわかりやすくて合理的な話にしたろう。古事記はなんらかの、ある特定の理由(その詳細は後述)によってわざと中磯皇女(=中蒂姫)を無視してるのだ。例によって同一人物とする点において宣長はいつも正しい。しかし記紀の伝承をいつも半分切り捨てることで合理化しるのも宣長の悪癖といえよう。

「髪長媛」と「泉長媛」も同一人物?
では幡梭若郎女は応神帝と仁徳帝どちらの皇女か。記紀の伝承だと髪長媛を見染めた大雀命(のちの仁徳帝)が熱心に運動して父帝の妃になるはずだった髪長媛を譲られたことになっているが、書紀の引く別伝には大雀命は一切でてこない。だから仁徳天皇が髪長媛を見初めたのは応神天皇の妃として二皇子を生んだ後、つまり自分の庶母に惚れて、父帝にお下がりしてくれとせがんだわけだろう。大雀命と髪長媛の間には血のつながりは一切ないのだから、開化天皇の前例とも合致し、当時としては格別へんな話ではなかったものと思われる。そして大雀命との間に大日下王がうまれた。問題は、幡梭若郎女がもし応神天皇の皇女だとしたら、髪長媛が連子として二皇子を応神帝の手許に置いたまま幡梭若郎女だけを連れ子として大雀命に嫁いだことになるが、それなら幡梭若郎女が異父「姉」で大日下王が異父「弟」(しかも叔母と甥でもある)となるはずであるのに、伝承はすべて大日下王が兄で幡梭若郎女が妹となっている。では幡梭若郎女が仁徳帝の娘であった場合はどうなるか。髪長媛は二皇子を応神帝の手許に置き、一身で仁徳帝に再嫁し、そこで大日下王と幡梭若郎女が生まれたことになる。しかし、それではなぜ『古事記』は応神帝皇女説を伝えるのか。兄と妹になっているのは、大日下王が年上で幡梭若郎女が年下で、実際に兄と妹だったから物語の中ではそのまま記述されたにすぎず、異父兄妹であることを否定する根拠にはならない。仁徳帝皇女とする説が生じた理由は、大日下王との兄妹関係から短絡して誤認されたとすれば容易に説明がつくが、仁徳帝皇女が誤って応神帝皇女にされた理由はそれに比べれば考えにくいのではないだろうか。つまり、幡梭若郎女は応神帝皇子を二人生んだ後に、仁徳帝に再嫁して大日下王を生み、しかるのち夫の父である応神帝に出戻って幡梭若郎女を生んだのだと考えるしかあるまい。父の妻が息子に再嫁するのは孝元天皇と開化天皇の例にあるが、この場合は孝元天皇崩御の際に、妃がまだ年若く未亡人にするのは可哀想だったので息子に託したのだとも考えられる。しかし応神天皇と仁徳天皇の場合は父帝は元気だったわけで、いくら元気だからってまさか息子にお下がりした嫁がオヤジに出戻ってくるとは思わなかったろう。これはこれで普通は考えにくいことなのは、確かにその通りなのであるが、実は例外的に今回だけは「いかにもありそう」なことなのである。それは何かというと大雀命は磐之媛(いはのひめ)を妃としていたがこの人がたいへんな焼き餅で有名なエピソードが豊富なのはご存知の通り。髪長媛はその名の通りの美女、しかもこの美女を父帝におねだりした件は歌物語になっているほどのロマンチックな話だから、御正室様が激怒しないはずがなく、大日下王を出産した段階で堪忍袋の緒が切れていびり出してしまったのだろう。あれw 急にリアリティー増したぞw それで幡梭若郎女は応神帝の保護下に舞い戻り、恐怖に怯える髪長媛を応神帝が慰めてるうちに、元は夫婦、昔の関係に戻った、と。そこで生まれたのが幡梭若郎女だった、と。

中磯皇女=中蒂姫
そうすると、応神帝皇女の幡梭若郎女は、まず甥の履中天皇の妃となって中蒂姫を生み、中蒂姫は允恭帝皇女の長田大郎女とともに大日下王の妃となったもの、つまり大日下王の妃は二人いたことになる。しかし幡梭若郎女が最初に嫁いだのは本当に履中帝なのか疑問もある。古事記にはそんな話はない。また中蒂姫の母も幡梭若郎女だとは古事記になく疑問だ。
それはさておいてもとにかくこの二人、中蒂姫と長田大郎女は書紀の系図を信ずれば従姉妹同士だがそうではあるまいから、大日下王にしてみれば履中皇統(葛城系)と允恭皇統(息長系)の一方に偏ることなく両家とパイプをつないで安全を確保したわけではない。中蒂姫を大日下王に斡旋したのは允恭天皇の皇后大中津姫だろう。そして安康天皇は大日下王を攻め滅ぼした後、この二人の妃を両方とも自分のものとし、このうち同母姉の長田大郎女を内縁(の皇后?)とした。もし中蒂姫が生きていたら、公式には中蒂姫を妃としたろう(詳細な議論は安康天皇の記事を参照)。目弱王は古事記の通り長田大郎女の子か、書紀のいうように中蒂姫の生んだ子だったのか、わからない。が、たぶん前者だろう。
先ほどの中蒂姫の母が本当に若日下部王(=幡日之若郎女)なのかという問題もあるがこれは別の機会に譲る。

中蒂姫は目弱王の物語の中での名で、履中天皇の系譜記事の中では「中磯皇女」と書かれている。この「磯」は『万葉集』でもシの音をあらわす万葉仮名として頻繁に使われるから「中磯皇女」という名に特になんの問題もないが、中蒂姫の「蒂」はシと読むとはすぐにはわかりにくい字で、なぜこんな表記があるのかかなり気になる。中磯皇女、中磯姫で済むことだろうに。中蒂姫の「蒂」、岩波文庫の書紀の注では、「へた」は花や実が木にくっついている「足」の部分だから蒂(へた)の字をアシと読み、中蒂=「ナカ・アシ」だから「ナカシ」と読ませたんだという。この場合の「へた」ってのは花のガクの部分のことのようだ。ネットで見かけた他の説では雑草の一種でギシギシというのがあるんだが、このギシギシの「シ」だという。雑草って…。なんだかこの姫の壮絶な人生が察せられるな…。ギシギシは漢字では「羊蹄」と書くんだが「蒂」と「蹄」で似たような字だ。共通するのは「帝」。つまり「中蒂姫」という表記は「帝」(すめらみこと)をかなり意識した表記ではないのか? 本来の名がナカシヒメ(中蒂姫)であって、「中磯皇女」は系譜記事にしか出てこないから、「中磯皇女」というのはあくまで履中天皇の皇女だということを強調した呼び方で、あとから作った表記なんだろう。逆にいえばこの女性は履中天皇の皇女ではない。だが履中天皇の皇女だといわれる何らかの因縁もまたあったわけだろう。それは何か。
CgQAnRrUUAAtVfU.jpgzp_gishigishi-04.jpg茄子のへた←ナスのへた

祖母と孫ほど離れた夫婦?
ともかく話もどすと、この事件の頃の幡梭若郎女(=若日下部王)は古事記では履中帝の妃にはなっていないのだから彼女が履中帝の未亡人であるかないか別としても、少なくとも彼女は応神帝の娘でもあり、すでにかなりの年齢に達していた可能性がある。幡梭若郎女は安康帝からみれば義理の伯母(履中帝の未亡人だった場合)でもあり、大叔母(祖父の妹)でもある。そのような高齢な女性に対して、弟の嫁としてスカウトするなんてことがあるだろうか。しかも母親世代(若日下王)を弟の嫁にしようとして兄である自分はその下の世代(自分の同世代)の方を嫁にしたわけだ。それだけでも不可解なのに、雄略天皇は絶対権力を手にした後も、おそらく母親ほどにも年上の若日下王に満足の様子で皇后にしたままだった。
普通ならありえないと思われるが、ここでまたしても特例な事情があるのを発見する。安康帝が幡梭若郎女を大長谷王の妃に所望する前、反正帝の皇女たちが候補にあがっていたのを、彼女らは大長谷王が短気を起こしてむやみに人を殺すので怖がって結婚の申し込みを拒否してきたという。そういう理由ならどこの女性でも同じ反応しそうなもので、そもそも大長谷王は誰とも結婚できないだろう。しかし安康帝はなぜか幡梭若郎女(若日下王)なら大丈夫だと考え、彼女の兄の大日下王も「こんなこともあろうかと準備して待ってましたっ!」みたいなことをいっているのだ。高齢の未亡人なのにおかしくはないか? しかし、大長谷王の特異な性格に着目すれば、これらの不審な事実を合理的に説明できる。反正帝の皇女らの発言から、大長谷王がささいなことでやたら人を殺しまくっていたことは明らかだが、処罰もされた形跡がないのは皇子だからだけではないだろう。生母の大中津姫(允恭帝の皇后)の絶大な権力の保護下にあったからとしか考えられない。大中津姫は上の子ら(木梨軽太子ら)6人とは母子関係がうまくいっておらずその反動で晩年に生まれた下の3人(大長谷王ら)を溺愛していた(詳細は「木梨軽太子の乱」の記事にて)。その結果、大長谷王はマザコンで熟女好き、母親ぐらいの年齢の女性でないと懐かない性格になっていた。その証拠に、紀には雄略天皇を怖がって誰も諫言する者がないので、皇后(若日下王)がたしなめたところ天皇が反省するというたいへん興味深いエピソードが載っている。しかも大中津姫の最晩年の子だから、大長谷王にとって母のイメージは世間一般でいうお婆さんのイメージにいくらか近かったのではないか。

残された問題
上のほうで何点か宿題にしていた件だが、中磯皇女の生母はいったい誰なのか。この問題は古事記全体のテーマとしても割りと重大なんで、そのうちいつかやります。
目弱王の変」に続く
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Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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