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・えびす神

H27.8.27.THU更新
えびす講
今日は11月20日。毎年この日は高崎えびす講はじめ全国各地で「えびす講」や「えびす祭」あり、前月の10月20日にやるところも多い。これはもともと旧暦の10月20日の行事だったので、同じ日付のままの地方と月遅れでやるようになった地方に分かれたため、10月と11月の二通りあるんだよね。他に関西では「十日戎」(とおかえびす)といって正月10日にやるところもあり、正月のを「商人(あきんど)えびす」、10月や11月のを「百姓えびす」といって両方やる地方もあるという。

エビス神の2つのルーツ
もとは「衣毘須(えびす)」と「三郎殿」というまったく別々の神だったのがのちに混同されて「恵美寿三郎」という一人のキャラクターが生まれた。「衣毘須」は商業や交易の神だが疫病除けの神でもあり、エビスという名の元になっている。「三郎殿」は海の神で、釣竿をもち鯛を抱えたお馴染みのデザインは「三郎殿」からきている。
現在えびす様の総本宮とされる西宮神社は、古くは延喜式の「大国主西神社」であって、もともと恵比寿だの蛭子だのを祀っていたのではなかった。その大国主西神社が平安時代には広田神社の支配下に入ってその末社となり、「浜の南宮」とよばれるようになっていた。そこで幾柱もの神々が祀られていたが、その中に「夷(衣毘須)」「三郎殿」という二神があった。「夷(衣毘須)」を祀っていたおやしろは今の西宮神社の境内社の「沖恵美酒神社」となり、「三郎殿」のほうは同じく西宮神社の境内社である「南宮神社」となっている。

「三郎殿」とは何か
「浜の南宮」はもともとは海辺の泉を祀ったおやしろだったらしい。「三郎」というのはもとは「三浪」、さらにその前は「三海」の誤写と思う。広田神社の副祭神である住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)のことだろう。しかし「三郎」と誤ってからは、邇々芸命(ににぎのみこと)の三男、山幸毘古(やまさちひこ)と混同されるようになった。現在の南宮神社の祭神は、豊玉姫命・市杵島姫命・大山咋命(一説に大山祇命)・葉山姫命となっている。このうち葉山姫命は広田神社の発祥の巫女の名で旧名「御斎殿」(おときとの)という。これは「おほいつきどの」の訛りで巫女の祭儀場のことだろう。「三郎殿」の「〜殿」というのは神社としては違和感のある名だが、もともと「三海社・御斎殿」の併称だったわけだ。市杵島姫命は弁財天女と注がある。弁天様は川、湧き水、泉、湖沼などに祀られる女神であるから、前述の海辺の泉に弁天が祀られていたのを、後から神道風によびかえたものに違いない。大山咋命はもと不動明王だったのを神道風に言い換えたのだろう。三郎殿の本地仏は不動明王だったから、ここでいう大山咋命が三郎殿(=山幸毘古)である。日本では不動明王は、弁天様のように泉や池のほとりに祀られる風習があるが、弁天様と違うのは、あくまで山の中の泉、山の中の湧き水、山の中の池のほとりに祀られる。不動明王は山の存在でありながら水に関係する。それは山幸毘古でありながら竜宮城へ行き海の浪を支配する力をもった神に通ずる。だから山幸毘古の本地仏として不動明王が選ばれた。ゆえにその配偶神として豊玉姫命も祀られているのは当然といえよう。

三郎と合体する前のエビスはどんなだったか
エビスというのはエミシ(蝦夷)の訛りで、そもそもは奥羽(東北地方)の狩猟民のことだった。7世紀の飛鳥時代から平安時代前期の10世紀にかけて、蝦夷征伐で捕虜になったり降伏してきたりした蝦夷を「俘囚」とよんで、南は九州まで日本の各地に分散して住まわせていた。しかし土地に根付いて農業に従事することを強制されておらず、政府が生活費を支給していたので、生活物資の自力補給を名目にすれば移住先と奥羽を往復することも事実上許されていたと思われる。俘囚の中には、移住先と奥羽を往復して交易活動に従事する者もいたろう。もともと、基本的に狩猟民は交易民でもある。そして遠隔地交易は莫大な富を生む。当時は治安が悪かったので、行商人は武装必須であった。武装といってもみすぼらしい甲冑ではなく、金持ちにふさわしく外国製つまり唐風の美麗な甲冑だったろう。その姿は毘沙門天に代表される四天王と同じとなる(毘沙門天自身も武神というだけではなく財富神でもある)。仏教の天部の尊格は本来はインドの神々だが、中国や日本で像形される場合はなぜか中国の唐の時代の甲冑姿で造形される。日本では毘沙門天の信仰は鞍馬寺から発祥した。鞍馬の山奥は鬼の世界があると信じられていたが、この鬼とはもちろん俘囚=蝦夷のことであろう。鞍馬は京都と日本海をつなぐ要衝の地で、ここに北陸・山陰の物産が集積して市が開かれ、その市場に武装商人である俘囚=蝦夷(えみし)が定期的にやってきただろう。だから延暦十五年(796年)、鞍馬で毘沙門天の信仰が発祥したのである。富を蓄え力をもちすぎた俘囚は9世紀頃から大規模な反乱を起こすようになったので、寛平九年(897年)に俘囚を奥羽に送還した(しかしどこまで実行されたかは疑問ももたれている)。こうして毘沙門天のコスプレして遠方からやってくる大金持ちのイメージできた。神としての夷(エビス)は本地仏が毘沙門天とされていたのはこういうわけである。

武装商人が祀っていた「商業の神」とは?
エビスという言葉はもともと俘囚や蝦夷をさす一般名詞であって固有名詞ではない。俘囚出身の武装商人(エビス)たちが祀ってる神という意味で「エビスが祀る神」、「エビスガミ」といっていたものが、約言して単にエビスというようになったのである。ではこのエビスガミはどんな神様だったのだろうか?
ヒントの第一は、後世の民間習俗を探ると、恵比須を女神とする地方もあった。女神説はあるいは、中世以降に記紀神話の神々で説明付けされるようになる以前の古い信仰の名残かも知れない。江戸時代に捏造された偽書『ホツマツタヱ』は記紀の蛭子を「ヒルコヒメ」として天照大神の姉としているがその元ネタは民間伝承からきていたのかも知れない。
ヒントの第二は、上述の「えびす講」にある。地方によっては「とおかんや(十日夜)」または「大根の年取り」などという民間習俗があるが、これとエビス講とは同系同根のものである。これらはへんな風習が地方ごとに伝わっていて面白い。実はこれらはまだ太古の神嘗祭(かんなめのまつり)が宮中祭祀だけでなく民間でも行われていた頃の名残りである。
ヒントの第三は、恵比寿神を祀る神社では拝殿に鈴をつける。これは、えびす様は耳が遠いから、という民間信仰に基づく。拝殿をドンドンと叩いたり拝殿の裏に銅鑼や鉦をつけておく風習もある。えびす様はビッコだとかチンバだとか片足だとして杖を奉納する習俗もある。そのほか、全盲説、片目説、両手無い説、右半身(または右目右耳右手右足)無い説、両手両足無い説、等さまざまなバージョンがある。
以上のことを総合すると、エビス神の本来の神格は豊受比賣神だったのではないかと想像される。不具神という説は、手足をばらばらにされたまま祀られた縄文時代の土偶と同じく、須佐之男命に殺されたことでその身に五穀を実らした大宜都比賣神のことであろう。神嘗祭(かんなめさい)は現在の宮中祭祀ではかなり変わってしまっているが、もとは米だけでなく、十種の穀物を捧げる神事であったのだろう。

後世の諸説
「衣毘須」も「三郎殿」も当然記紀にでてこない名だが、室町時代以降、記紀の中の神々のうち、いずれかの神の別名だという説が出てきた。以下の諸説は、現在、各神社で行われている説である。民間信仰では、恵比寿様の雰囲気は地域や職業によって御利益などの信仰が多少食い違っていた。漁村・漁民の「浜エビス」、都市部・町人の「商人(あきんど)エビス」、農村・農民の「百姓エビス」があり、祭日(または講の日)も異なるのは前述の通り。以下の神々の共通点は、大なり小なり海にかかわる神であることであり、これらの神々は異界としての海との交流によって人々に幸をもたらすと考えられた。

蛭子ひるこ
蛭子は、『古事記』と『日本書紀』では相違がある。古事記では国生み島生みに先立って生まれたが、生まれてすぐ葦舟に乗って海に流れていった。書紀では月夜見尊の次ぎ、素戔嗚尊の前に生まれ、三歳なるも脚立たず、鳥磐楠船に乗せて流す、日神月神の弟(三男)でスサノヲの兄という。この蛭子が恵比須神のことだというのは中世の室町時代にでてきた新しい説であり古代に遡る説ではない。むしろ下記の三説と比べても最も新しい説であるが、それだけに観念的であり、エビス信仰の様々な面を統合しうる雰囲気がなくもない。ところで、もし天照大神が女神だとすると蛭子は次男ということになり、普通の感覚では「三郎」と称するのはへんな話だが、中世には現在と違って、天照大神男神説も今よりは有力だったのである。民間俗説に蛭子は海を支配するともいう。全国の恵比寿を祭る神社では、恵比寿を蛭子のことだとする神社がもっとも多く、その総本宮は西宮神社である。

少名比古那神すくなひこなのかみ
少名比古那神は、海外からやってきて大国主神の国作りを補佐した知恵の神。神功皇后の御歌にこの神は岩の上に立っているとあり、これは岩に神が降り立つという信仰と関係がある。常に大国主と並び称されるコンビの神で、この2神は医薬の神ともされた。ゆえに神仏習合では薬師如来が本地仏だとされていることもある。本来は関係ないはずの大黒天と恵比寿神がセットにされた理由は、大国主神が大黒天に習合したからである。恵比寿とは少名比古那神のことだと推定したのは江戸時代の平田篤胤であるが、そのはるか以前、恵比寿という神格が平安末期に創作される以前から、大国主神と少名比古那神は2神セットで庶民に信仰されていたことが『日本書紀』に明記されている。神話学的にも極めて古い起源を有する信仰であり、「百姓エビス」の信仰にもつながっているだろう。現在、恵比寿を少名比古那神とする民間信仰は全国の海岸部や奥羽東北地方に散見する程度で少ないが、海上に突き出た岩をエビスとよぶ地方もあり、現在の恵比須像が岩の上にたっている姿は少名比古那神からとられたものである。

事代主神ことしろぬしのかみ
事代主神は釣竿をもって魚を治めていたという。コトシロは言葉を意味するが、ものごとを交換する意味(交易・商業)もあり(言葉は意味の交換、交易は物資の交換)、豊宇気比賣神とならんで市場で祀られる神々の一つだったのではないか、つまり武装商人の祀った神だったのではないかと思われないこともない。上の方でそれは豊宇気比賣神だと推定したが、別に、多神教なんだから一柱だけとは限らず、二柱でも問題ない。ただし、文献記述上は、この事代主神が恵比寿のことなのだというのは早くとも鎌倉時代ぐらいに出てきた説であって、けして古いものではないが、上述の「商人(あきんど)えびす」のイメージに近いように思う。事代主神は、味鉏高日子根神・加夜奈留美(鳥鳴海)神・建御名方神と四兄弟であるがその中で特に三男だという話はない。が、現在では恵比寿を事代主神のことだとする神社も蛭子説ほどではないがきわめて多くその代表格は今宮戎神社である。蛭子系と事代主系の神社は全国に混在しているが、やや蛭子系が東日本、事代主系が西日本に偏ってる傾向もみてとれる。

山佐知毘古(山幸彦)やまさちひこ
山佐知毘古(火遠理命)は、燃える産屋の中から生まれた三つ子の三男。兄から借りた釣り針を探して竜宮城(海神のいろこの宮)へ行き、海の波を操る力を得た。海との関係の深さでは蛭子とならんで、少名比古那神や事代主神をしのぐ。「海幸」というぐらいで「浜エビス」の源流にふさわしい。釣竿は事代主神ももっていたが、事代主神の神話には鯛は出てこないので、釣竿をもち鯛を抱えた姿は山幸彦の神話から題材を採ったものであり、事代主神からではないだろう。現在では恵比寿を山幸彦のことだとする神社は九州に散見するが、少ない。「博多どんたく」には夫婦恵比寿(めおとえびす)といい、男女で対になった恵比寿様が登場する。また佐賀県には双躰恵比寿と称して、やはり男女で対になった恵比寿様の像もある。これらは山幸彦と豊玉姫のことであろうと思われる。
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