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5息長王朝の由来【前編】~天之日矛~

H25年11月20日(水)初稿
4百済の朝貢、大山守命の乱」から続き

「天之日矛」の物語は応神朝での出来事ではない
(※「天之日矛」については孝霊天皇のところで詳しくやりますのでそちらを参照)

息長氏の拠点は摂津にもあった?
もし息長系から継体天皇がでたことを正統化もしくは単に讃仰するための物語だとすると、「秋山春山の物語」は継体天皇以降に追加されたことになるが、こんなわかりにくい表現をする意味がないし、阿加流比賣神(=比賣碁曽社)と皇位の関係もあいかわらず不審だ。そこで、まだ若沼毛二俣王の子孫から天皇が出るとは誰もしらない段階、早ければ仁徳朝、遅くても武烈朝で、すでにこのような物語があったのだと考えられる。
ところで、比賣碁曽社の女神は朝鮮から逃げてきた神だという(古事記では新羅から、日本書紀では任那から)。朝鮮から逃げてきた神を奉ずる一族があるとすれば、彼らの目的は朝鮮にその神を送り返すのが目的であろう。そこまで極端でなくとも、朝鮮に進出しようとしている者にとってのご利益が期待される神だったとは思われる。これは何も軍事的な進出とは限らない。商業上の進出でもいいし、なんでもいいわけだが、まぁ安直に考えれば往々にして朝鮮征伐とかの物騒な話になりやすいだろうとは思われる。で、次にはそれが息長の一族と何の関係があるのかという話になる。
そこでまずは息長系皇族(=息長氏)と比賣碁曽社との地理的な関係を確認しておこう。若沼毛二俣王から始まる「第三息長王家」の一族の本拠地は近江で、後に越前にも拡大したが、もともとは摂津(大阪市平野区)から発祥したのだという説もある。ネットでも出回っている有名な大阪の地方伝承『北村某の家記』によると、倭建命(ヤマトタケル)の王子、息長田別王(=第二息長王家の始祖)は、大々杼国大々杼郷(摂津国住吉郡伎人郷、今の大阪府平野区の喜連)にあまくだり、そこの国造だった黒城という者の娘、黒姫を娶って、杙俣長日子王を儲けた。つまり息長田別王と咋俣長日子王は今の大阪府に住んでいた。その地で息長田別王は狭山池の水を引いて田地を広げ、川(水路)を掘って水を淀川に注がしめたという。狭山池とは大阪狭山市内にある日本最古のダム式溜池で、古事記によると垂仁天皇の皇子、印色入日子命(いにしきいりひこのみこと)が作った。日本書紀では崇神天皇の時代に作られたという。咋俣長日子王には3人の王女が生まれ、真ん中の息長眞若中比賣は応神天皇の妃となって若沼毛二俣王(=第三息長王家の始祖)を生んだ。以上は神功皇后の時代のことであったという。応神天皇の御世に、その若沼毛二俣王も同地にあまくだり、母の妹の百師木伊呂辨(ももしきいろべ)を娶って、7人の子を儲けた。仁徳天皇の時代になってから、その7人の子の中で、大郎子(別名:意富富杼王)は近江に渡って近江の息長氏の祖となり、沙禰王(さねのみこ)は現地の息長氏を継いだと。また大々杼郷は、咋俣長日子王の名をとって、後世「杭全郷」と改名された。これは今の大阪市東住吉区の杭全(くまた)とう町名に残っている(平野区喜連の北西に隣接)。これがなんらかの史実を反映しているとすると、息長氏は畿内摂津の家系と近江の家系に枝分かれして二系統あったことになる。また日本書紀では継体天皇の母は越前の三尾君の娘、振媛(ふりひめ)ということになっているが、この伝承では、沙禰王の娘、真若郎女ということになっている。真若郎女と振媛はともに彦主人王(ひこうしのみこ)の妃ではあったが別人で、真若郎女が早逝したため、継体天皇は振媛に預けられたのだという。ここで彦主人王に注目すると、普通に考えると彦主人王は近江の息長氏だから、近江にいたのであり、滋賀県高島市安曇川町の「田中王塚古墳」が彦主人王の墓だとされている。ところで通常、継体天皇陵というと、大阪府茨木市太田3丁目の「太田茶臼山古墳」がそれ(宮内庁認定)だということになっているが、考古学の通説ではこれは誤りで、正しくは大阪府高槻市郡家新町の「今城塚古墳」こそが継体天皇陵だということになっている。では「太田茶臼山古墳」は誰の墓なのかというと、仁藤敦史の説ではこれこそが彦主人王の墓なのだという。つまり仁藤敦史の説では、継体天皇(=第三息長王家)は越前や近江からきたのではなく、もともと(少なくとも親の代から)畿内に基盤をもっていたのだというのだ(太田茶臼山古墳のある茨木市は旧摂津国島下郡)。俺の考えでは、息長王家が畿内に基盤をもっててもいいんだが、後背地として近江にも最初から所領があったと思われる。なぜかというと第一息長王家がもともと近江発祥であって近江に所領をもっていたから、神功皇后が入内の時に化粧料として近江の所領のいくつかが一旦は皇室御料に入り、それがのちに第三息長王家に分与され伝領したのではないか。神功皇后の兄弟、大多牟坂王は開化記だと多遅麻国造の祖だが、景行記では意富多牟和気の名で淡海之安国造の祖とある。あるいは、この『北村某の家記』が言っている、かなり初期の段階から摂津あたりに重要な拠点の一つをもっていたという話は、第二息長王家についての伝承であるから、第一息長王家の近江領と第二息長王家の畿内領とが、第三息長王家において結合・合体したのではないかと考えられないこともなくはない。だがその意富多牟和気の娘の布多遅比賣がヤマトタケルの妃になっているのだから、近江の化粧料というのは神功皇后でなく布多遅比賣のものでこの時に第二息長王家のものになったとも考えられる。それなら若沼二俣王の母は第二息長王家の出身だから、そのまま近江の所領が第三息長王家の近江における本拠地となったわけだろう。息長田別王は布多遅比賣とは血縁はないが実の母は無名で庶民出身(いわゆる卑母)だから経済基盤がなかったので、布多遅比賣の息子の稲依別が犬上君&建部君の祖先となって自立した際に異母兄弟の息長田別王に近江領を譲ったということはありうるのではないか。ともかく息長王家は畿内(摂津、今の大阪市南東部)に定住とまではいかずとも、現地管理者として分家を置いて、近江の本拠地とは頻繁に往来していたのではないか、というぐらいのことは考えられる。

比賣碁曽社と息長氏の結びつき
次に、難波の比賣碁曽社に鎮座した女神は古事記では「新羅の」阿加流比賣神といい赤玉の化身だが、日本書紀では「任那の」白石の化身の童女とあるだけで固有名詞のようなものは出てこない。この比賣碁曽社は現在のどこかというといくつもの候補がある。普通は大阪市東成区東小橋の「比売許曽神社」をあてることが多いが、大阪市平野区平野の「赤留比売命神社」(杭全神社の境外社)や、大阪市平野区喜連の「楯原神社」も阿加流比賣神を祭神としている。他に大阪市西淀川区姫島町の「姫島神社」、大阪市中央区高津の高津宮境内「比売古曽神社」もある。長い歴史の間には移転や改廃を繰り返したであろうから、どれが本物でどれが偽物という話でもないが、赤留比売命神社と楯原神社は上記の息長氏の本拠、杭全(東住吉区)から喜連(平野区)にまたがる範囲に含まれており、東成区の比売許曽神社とも4〜5kmしか離れてない。息長の一族とこの神社は密接な関係があり、もしかしたら息長氏の氏神だったのかもしれない。むろんいつ鎮座したのかという時期の問題、最初の場所はどこかという問題はある。また記紀ともに「難波の」といってる。「難波の津」「住吉の津」といった場合には難波と住吉は截然と別の場所だが、単に難波(なには)といった場合はどうか。現代語だと大阪市中央区と浪速区のあたりが「難波(なんば)」だそうだが、最も古くは難波崎(なにはのみさき)で今の大阪城のあたりだから時代によってはかなり広い範囲をさしてる。また記紀がいってるのは「最終的に」ここに鎮座した、つまり奈良時代にはここにあったという意味であり、応神天皇の時代にすでにここにあったという意味ではない。墨江中津王の乱の時にもまだなかったのではないかと思う(詳細は後述するが阿加流比賣神の御神体の赤玉は本来なら出石神社か石上神宮のいずれかになければおかしいはずで、それがなぜか難波の比賣碁曽社に遷座したわけだから、いつ・なぜそうなったかの経緯があるはずだ)。
前述の『北村某の家記』の舞台、現在の大阪府平野区の喜連は古の摂津国住吉郡伎人郷だと思れ、ここに最初にあまくだってきた息長田別王は第二息長王家の始祖であり、倭建命の子。倭建命は西の熊襲、東の蝦夷を征伐しつつも、国内の治安の根本原因は海外にあり、国内平定の後は半島問題その後は大陸問題と続くことを見通していただろう。これは国内統一であまった武力をもてあまして海外に向ける、ということではない。国内の治安悪化の原因は海外からの難民と不法移民であり、その発生原因は大陸の戦乱にあり、根本的かつ最終的には大陸を平定しなければゴキブリ叩きをやってるのと同じできりがない。だから、ゆくゆくは半島問題、大陸問題に焦点が移るであろうことは倭建命はわかっていたのである。その後、神功皇后の新羅征伐あり。これでそれまでマイナーだった「息長」の氏名はいっきにメジャーになった。「息長」といえば誰でもまっさきに思い出すのは「息長帯比賣」つまり神功皇后の名であろう。それは大昔の人々でも変わらない。神功皇后の登場以降は、息長氏の名はいちいち朝鮮征伐を連想させるものだったに違いない。倭建命の息子の息長田別王は父の偉業を継ぐべく最初から遠大な目標があって、海外への玄関である北九州とならぶ国際都市にあまくだってきたのだろう。ちなみに今回は詳しくは語らないが、日子坐王に始まる第一息長王家も新羅とは格別に縁が深い家系である。さて息長田別王の子、咋俣長日子王は3人の娘を儲けた。この三姉妹のうち、姉は倭建命の子、若建王の妃となり、仲は応神天皇の妃となって若沼毛二俣王を生み、妹は甥の若沼毛二俣王の妃となった。

大雀命からの息長氏への処遇
話はかわるが、もし息長氏が海外への雄飛を望んでこの地にきたのならば、朝鮮に攻め渡って征服し、日本に面従腹背する新羅王を廃位して自分が新しい新羅王になろうというぐらいの意気込みがあったろう。そんなことばかり妄想していれば夢の一つぐらいは見るというもの。その話が広まれば、同じように海外で一旗あげようという不満分子は大量に集まってくる。ここで注目される人物が百師木伊呂辨で、モモシキとは後世に「大宮」にかかる枕詞になったように、建物の広大な様。これは大勢の食客を養ってたってことではないか。イロベは女性だが、イロハ(血のつながった女性)の古い形だろう。書紀はイロハを「実の母、生母」の意味に使ってるが、岩波文庫版の注釈の通り間違っている。ただし「血のつながった女性」の中に「実の母」も含まれるんだから、ここは婉曲表現なのであって、さすところは「母上様」「ご母堂さま」ってこと。この頃まだ百師木伊呂辨は未婚で独身だった可能性があるが、彼女を神功皇后に見立て、皇太子クラスのしかるべき皇族に嫁いで、将来うまれるお世継ぎを応神天皇に見立ててるんで、不敬罪にあたる可能性があるから婉曲表現なのである。しかし時代はすでにかわっていた。日本帝国の三韓支配は名目的なものになりつつあったが、外国貿易の利権が莫大な富を生んで日本は物質的には繁栄の一途に向かい、多分に形式的とはいえ三韓も属国の礼をとって我らが帝国のメンツは守られていた。しかし憂国派の目からみれば日本は亡国の危機に瀕しているのであって、体制派などはすべて売国奴にしかみえないのだが、やたら征伐だ合戦だと血の気の多いことをぶちあげる時代錯誤な連中は過激派なのであって、体制派からすると危険分子なのである。日本はいにしえより敬神の念篤き神々の国で、祭政一致の神権政治を理念と(少なくとも名目上は)しているので、ご神託という概念自体は問題はないのだが、政府の公式見解や隠された本音から逸脱したご神託を勝手に宣伝するのは反政府活動であり、現代でいわばカルト教団みたいなものに相当する。
そういう対外過激派(強硬派)にいちばん困るのは、外交の責任者だろう。それはこの時期(応神朝)においては、ズバリ仁徳天皇だったのである、ただし即位前の「大雀王」だが。応神天皇の三皇子のうち、大山守命は今でいう産業経済大臣、大雀命が外務大臣、宇遅若郎子が国防大臣だったことは、すでに「大山守命と大雀命」で書いたのでそちらをご参照あれ。この頃、若沼毛二俣王は生まれてないか未成年だったため皇太子候補にはあがらなかったのだと思われるが、もしそうでなかったら他の多くの皇子たちと同様、選抜に漏れる程度の人材だったことになる。大雀命が日向の髮長比賣(かみながひめ)を娶ったのも一目惚れしたからではなく、職務上の目的が深く関係しているのだが今回はふれない。大雀命はいうまでもなく一時は皇太子の地位にもあり現職の外務大臣でもあるから体制派であり、葛城氏ともべったり。ここで百師木伊呂辨をかつぐ強硬派を放置すると右翼団体の巣窟となってしまう可能性もある。まぁなってしまっても取るに足りない存在だったかもしれないが、民心の掌握のためにも、念のため取り込んで自己の守護神としておきたいところ。しかし、ウヨのアイドル百師木伊呂辨に自分が求婚してもどうせ石之日賣(いはのひめ)の妨害が入るのは目に見えている。そこで弟の若沼毛二俣王に譲ったのではないか。仁徳天皇は弟なる若沼毛二俣王を、将来は自分の片腕として一時は期待していたかもしれない。しかし自分が比賣碁曽の神の娘にぜんぜん興味ないふうでもサービスというかアピールにならないから、一応、形式的な求婚ぐらいはした上で、百師木伊呂辨が若沼毛二俣王を選んだという形に取り繕ったのではないか。これに庶民は大喜び。庶民は「出来レース」とは知らないから面白おかしい雑談のネタにしたろう。しかし古事記には大雀命の失敗や屈辱がたくさん出てくるのだからこの程度の話を寓話に仮託しなければならないほどの禁忌があったとは思われぬ。だから寓話のもとになった事件はこれのことではなく別の事件だろう。

近江への国替え:表面上の理由
その後、すったもんだの末、大雀命は即位して仁徳天皇となったのだから、外務大臣の役割はいよいよ弟の若沼毛二俣王に譲られてもよかったのではないのか、と一見思われなくもない。しかし上述の「北村某の家記」によると、若沼毛二俣王の息子の大郎子(おほいらつこ)の代に仁徳天皇の命令で近江に移ったという。「北村某の家記」の設定では息長王家はこの時初めて近江の地を得たことになっているが、前述のようにそれは間違いで近江にももとから土地がある。これは「北村某の家記」自体が自家の由来を誇るためのものだろうから明示されてはいないが、摂津の本拠をお召し上げになったわけで、実質のところ息長一族は左遷、国替えになったのではないか。旧居には大郎子の弟の沙禰王が残ったが、窓口的な中継地を置いたにすぎず、勢力というほどのものを残したわけではあるまいと思う。仁徳天皇はなにもいじわるをしたわけではなくて、代替え地としていくらかは近江での加増もあったかもしれない。だが、語部(かたりべ)の魔の手にかかったらこれも「女を取られた恨みで…」みたいな色ボケな歌物語にでもされたところだろう。腐女子がなんでもウケとセメの二元論でBLにしてしまうのと同じ、いつの世にもこじらせた女にかかるとなんでも一色に染められてしまう。
とりあえず、今回の国替えの表面的な理由は「速総別命の乱」だろう。記紀では計画段階でバレて逃亡するはめになり逃亡の途上で征討軍に追いつかれ、反乱は未遂で終わったように書かれているが、それは語部の歌物語の部分しか資料が残って無かったからそうなったんで、速総別は伊勢から東海道へまんまと脱出して全国の味方に蜂起させ、自分は本拠を熊野から全盛期には住吉にまで前進させるほどだったのである(このブログの他の記事を参照)。本拠を住吉に進めたというのは南北朝時代の南朝にもあったことで地政学から説明されるべき共通性だろう。仁徳天皇としては対抗上、住吉周辺を一時的にでも直轄化しなければならなかった。
むろんこの建前からは、戦乱が終結したらまた旧領に戻れるはずだ。のちに実際そうなる。

近江への国替え:その深層
仁徳天皇の悩みは大后石之日賣(いはのひめ)の実家である葛城氏の権勢があまりに強大すぎることで、葛城氏の権勢の源泉は外交と貿易だが、外交と貿易は本来は天皇大権に属すべきものであった。というのは天皇が格別にどうのでも日本が特別こうのでもなく、原初の王権そのものの本質にかかわることで文化人類学的な問題なのである。そこは話がずれるのでスルーして、ともかく、息長氏が海外雄飛を考えていたとしたら、当然帰化人への関心も深く、海外については当代一の専門家を自負していたはずの葛城氏とはむしろ良好な関係だった可能性もある。むろんそこは対等の関係ではない。第二息長氏は、息長田別王と杙俣長日子王の父子が二代続けて母不詳、杙俣長日子王は妃も不詳。これは皇族としては致命的で、名もない一般庶民の女性とばかり結婚しているため強大な豪族のバックボーンがない、弱小貴族みたいな存在だった。従って葛城氏のような強大な中央貴族と縁付くのは願ってもないこと。葛城氏としては、パートナーとしての皇族が、仁徳天皇の系統以外にも増えるのはそんなに悪いことではないが、弱小皇族の一つ二つ、緊近火急の重要さもない。しかし仁徳天皇としては今のところ皇室は葛城氏の唯一無二のパートナーであることが国家の安定のために重要だった。息長氏が葛城氏と婚姻した形跡がないのは、葛城氏が息長氏をマイナー皇族として軽んじていたか、はたまた仁徳天皇からの横槍があったからなのか、あるいはその両方があったのかとも思われるが、それら以上に、葛城氏と仁徳天皇が問題視したのは息長氏を取り巻く右翼過激派の連中だったのではないか。息長一族がたまたま葛城系と婚姻関係がないのも右翼人気の理由の一つだったに違いないが、それは本当にたまたまなので、息長氏としては過激派庶民を切り捨てて体制派に仲間入りできれば御の字だったはずだった。が、太平楽な息長氏は庶民しかも自分らのファンを切り捨てることは思いもよらなかった。建前と奇麗事を純心に奉る息長氏の家風のせいで息長氏は政局にも世情にも疎かった。ために、体制派に入り込むことを歓迎していたのだがそれを態度で表わす必要に気づかなかった。この動きのなさは、体制派からみると煮え切らないようにみえたのだろう。真相は不明だが、葛城氏が息長氏を危険視したということは当時の勢力からみてありそうもないので、息長氏みずから、みすみすチャンスを逃したということかと思われる。
近江への国替えは第三息長氏になってからの発令ではあるが、仁徳天皇の考えはこうだ、応神朝では「宇遅若郎子が天皇になり大雀命が外相として補佐していく体制」が想定されていた。この想定では自分の監督下で若沼毛二俣王に外交を手伝わせるというのもありえたが、予定がかわって自分が天皇となると、そこまで管理できず、若沼毛二俣王は本当に外務大臣になってしまう。そうすると必然的に息長一族と葛城氏との関係も深まる可能性が高い。それよりは自分の皇子たちに分散的に葛城氏の力を振り分けたほうがよく、若沼毛二俣王には降りてもらおう、と。また、瀬戸内海の交易は葛城氏の子飼いの配下である吉備氏がすべて押さえてしまっており、今から息長氏が食い込む余地はないとみて、新しいフロンティアとして東国を提案したのかもしれない。近江は東日本と西日本をつなく物資輸送の大動脈であり、広い意味では国際的総合商社である葛城氏の下請けになってしまうとしても、それなりの地位と繁栄を約束されるのであって、さほど悪い選択でもなかった。また近江は、第一息長王家の始祖である日子坐命(ひこいますのみこと)が近江の三上(みかみ)の息長氷依比賣(おきながひよりひめ)を娶って丹波比古多々須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)を生んだというのが最初期の「息長」という名の登場であり、息長王家の発祥の地でもある。息長氏としては本来の本拠に帰ったことになる。

寓話誕生
そうすると「阿加流比賣(の娘)との結婚はなんだったんだ、新羅にいかず近江にいっちゃうなら意味ないのでは?」という疑問も当然うまれる。まさにその通りで、こたびの国替えの段階ではまだ「神の娘」伊豆志袁登賣は出現していないし、彼女をめぐる争いも勃発していないのである。まだその話までいってない。で、この国替えに息長氏は不満なかったとしても、息長王家を征大将軍に奉って海外で一発あてようとしていた浪人どもや、百師木伊呂弁をアイドル視していた貧民層(不平分子)たちは怒り爆発だったのではないか。息長氏が本拠とした平野区喜連のあたりは『北村某の家記』によると仁徳朝に帰化した呉人を住まわせたので「伎人郷」といったという(日本書紀では仁徳五十八年に呉国が朝貢してるからこれと関係あり?)。これだと息長王家が近江に転出したのと入れ替わりに呉人を移住させたようでもある。呉人の移住には、それを管掌した葛城氏の勢力の扶植と、息長色の一掃、つまり過激派(不平派庶民)の排除という意味もあっただろう。
ところでアンチ葛城派の中には語部(かたりべ)勢力も加担していたと思われる。語部というのは中央の宮廷の中のものと思い込まれているがそんなことはありえない。地方にも国造(くにのみやつこ)の管理下の語部があったことがわかっているし、文字のない時代には生活に根付いた民間の語部が庶民の通信や情報(=文字や文書の代替機能)を担っていただろう。文明開化派の葛城氏は、漢字の普及を推進し、口頭政治から文書政治への改革を唱導していただろうが、それは原始以来の権威を守ろうとする宮廷の語部(かたりべ)とは真っ向から対立したはずである。語部の職務の一つとして、演劇の上演がある。古来からの伝承をただ口頭で暗唱するのが仕事ではなく、猿女(さるめ)と称する歌舞音曲で神楽に奉仕する巫女たちも語部の一部なのである(サルメのサルは歌舞演技の意味の動詞「戯(さ)る」であって動物の猿とは関係ない。猿の字は当て字。このへんの議論は川田順造の『無文字社会の歴史』(1976,岩波書店)もなかなかおもしろくて参考になる)。通常、語部の上演の題目は古来から伝えられてきた神話や歴史上の事件(それらの中には現代では史実でなくただの伝説とされるものも含む)であり、だからこそ語部の権威は守られるのであって、創作など言語道断だが、ここで奇跡的に「事実上の創作が許される条件」ができてしまった。それは「神託」である。おそらく上述のように夢の中で「汝に子を授ける」という神告を受けたというのが最初の原形だったのだろう。夢でなく本当に巫女の御託宣だったのかもしれないが、この際、形式はなんでもよい。古伝承の中にはまったく聞いたこともない話ではあっても、御神託の中にでてきた話ならば否定するわけにはいかない。虚偽ならざればそれは事実と観念される。物語とは事実を語るための器であり、すべからく語部の題材なのである。
上述のように、息長王家は反政府派のシンボルとなってしまっては国家からみたらカルト教団みたいなものだといったが、しかしカルトといえばすぐに叩く宗教嫌いのネトウヨでも、右寄りのカルト教団には甘くなるw「キリストの幕屋」とか良い宗教じゃん、俺は入らないけど。「宗教は阿片」のはずの左翼でも、左巻きな教団とは連帯してるのと同じようなこった。夢は古代オリエントの昔から神秘的な神からの知らせと考えられてきて記紀にも例があるが、往々にして支離滅裂で不可解なものであり、それゆえにこそ謎解きの対象となり、古代オリエントの時代すでに夢占い、夢判断の術が発達していた(M・ローウェ&C・ブラッカー著、島田裕巳他訳『占いと神託』海鳴社)。夢(=神託)の中の物語を解読する。解読することで意味がわかる。そのままでは意味がわからない。寓話とは、「おかみ」(政府≒天皇)に対する不平不満を庶民が主張する際に最適の手法ではないか。さらにわかりやすくいえば江戸時代の「忠臣蔵」みたいなものである。建前上は室町時代の歴史物であって江戸時代とはなんの関係もないのだが、これを楽しむ庶民は実は赤穂浪士の話であることはみんな知っていた。ここで神聖不可侵なる古伝承(つまり神話)の拘束から解放され、体制批判のためという条件はありつつも、自由に様々な寓話を創作できるような情況が整ってきていた。

寓話の真意
とはいえ、息長王家の子孫から将来まさか継体天皇が出るとは当時は誰も知らないわけで、だからこれは皇位継承争いは関係ないし仁徳王朝を否定して息長王家を即位させようという政治運動でもない。当時は何といったかわからないが今でいうウヨも、若沼毛二俣王もしくはその子孫をかつぐという発想はほとんど無かったろう。そうではなくて息長王家の「お嬢」百師木伊呂辨を「今世の帯比賣」(現代の神功皇后)ともてはやす方向性だ。モモシキ(百敷)は後世「大宮」にかかる枕詞になったようにかなり広大な建物を想像させる。そこそこの皇族・貴族なら当然それなりの邸宅なり城なりを構えていたろうがわざわざこんな名がついてるのはよほどのことだろう。大量の食客を召し抱えて住まわせていたのではないか。
中田憲信の「東国諸国造系譜」によると天津彦根命の子の天目一箇命は別名を明立天御影命、または天津麻羅命といい、その妹に「比売許曾命」があり、別名を「息長大姫刀自命」または「淡海比賣命」という。そしてこの女神は天日矛命の「后神」だという。天日矛の后というのはつまり阿加流比賣のことで、この女神を天津彦根命の娘だというのは思弁と付会で作られた後世の説にすぎないが、別名を息長大姫刀自命、淡海比賣命というのが興味深い。前者は息長一族の女族長の意味で、百師木伊呂辨にふさわしいように思ってしまうが、これは百師木伊呂辨のことではない。息長氏の女系の祖にあたる中斯知命をずっと後になってから回顧的に追尊したんだろう。淡海比賣というのも、前半で「伊豆志袁登賣が出石にいたはずがない」といったのと同じ理由で、必ずしも近江出身だとか近江在住だとかと決めつけることはできない。
若沼毛二俣王は何ら大志を抱かずとも、その妃の方が現代の神功皇后たらんという野望をもっていた可能性もないでもなさそう。百師木伊呂辨は若沼毛二俣王からみて女系で同族の伯母(おば)である。イロベは「母」の字の古訓「イロハ」のさらなる古形だが、意味は母ではなく女のことである。この「ハ」は、男からみた「母=オモ」でもなく、男からみた「彼女=イモ」というのでもなく、男女から等距離のノンセクシャルでニュートラルな、単に「女性」のニュアンスの方が古くは強かった(母を強調したければオモ、性愛の対象としての女性を強調したければイモといったはず)。これは独身男性からみたアイドルではなく、老若男女の区別ない「万民のリーダー」としてのキャラが求められたということだ。男性は平和を求めてなぁなぁで回していこうとしてるのに女性の方が先鋭化して戦争を止められなくなってしまうというのは承久の乱のあたりの公家社会を彷彿とさせるが、ミクロなところでは現代もかわってない。
「秋山春山」の寓話の一部は、息長一族が近江へ後退することになったことの由来譚ではあるが、この段階ではまだ阿加流比賣は登場しない。仁徳天皇の治世は天下太平だったのではないかという反論もあろうが、日本書紀をよく読むと実はそうでもなかったことがわかる(詳しいことは分量が多くなってしまったので今回はふれないが)。仁徳朝の政乱には、新羅や蝦夷の反乱というわかりやすいものの他に、宿儺(すくな)という怪人や、蛟(みづち)の祟りといった超自然的なものが特徴にある。すなわち「神の祟り」である。天皇を罰することができるのは天皇よりも格上の存在しかないからだ。実際には、仁徳帝の時代に起こった新羅の不貢や蝦夷の反乱も、唆している者というか後押ししてる者がおり、それは日本の世論なのである。そも、経済発展の中で拡大する貧富の差。時を同じくして、文明開化策(大陸の文化の採用)が進む。どちらも主導しているのは葛城氏(=竹内宿禰とその息子たち)、そして葛城氏と閨閥をなす仁徳天皇なのである。大山守命の乱の時点で、憂国派は一度は敗れたものの、比賣碁曽の神の娘という新たなシンボルを得て、再集結しつつあった。これを放置する選択は政権としてありえないから、不平派は潰されてしまったんだが、権力をもってしても庶民の口をふさぐことはできない。上演活動まではおおっぴらには憚りあっても、娯楽の少ない時代に「語り聞くだけの物語」でも相当な訴求力があったろう。これが庶民の世論を統合した結果、政権へのプレッシャー、反政府派(=謀反組)の皇族貴族への心理的な後押しとなって、ついには速総和気王(はやぶさわけのみこ)の乱に結実するのである。
このような語部の力は、当局の警戒の対象となる。さすがに仁徳天皇がみずから弾圧を加えると、忠臣蔵がお伽話でなく事実だと認めることになってしまうので手を出せなかったが、次の履中天皇は履中四年、諸国に国史(くにのふびと)を置いた。これは漢字を使う書記官の設置を義務付けたのである。様々な情報のうち、どれが与太噺でどれが正統なニュースであるのか、当時はそれは政府の公式の文書になっているかどうかで決まる。語部がいっただけではネットの書き込みと同じ扱いなのである。
この寓話は、古事記の下巻の歴史に通底して流れる「開化派=漢字」vs「国粋派=語部」という構図(人々の政治認識)の最初の雛形となった。この後に起こってくる下巻に記された様々な事件の背後にはすべてこの構図が横たわっている。古事記の下巻が、乱の敗者になぜか好意的な歌物語を捧げている例が多いのはこのためである。
ただ早くから原文の破損が酷くて、文面を改修するたび趣旨が不明瞭になっていったものだろう。なにかの暗喩だと思って読むと、皇位継承争いの喩え話だろうとはすぐに思いつくような話になってしまっているが、上述したようにそれでは解決つかないことが多い。これが神話でも歴史でもない寓話の形をとっているは、仁徳朝から武烈朝までの時代の中でのいずれかの次期に実際に流布した話だからだとしか考えようがない。発端としては御神託は命令の形になりやすく物語の形にはなるまいから、直接の神託ではなく、息長王家の歴代のうち誰か、もしくはその妃がみた夢とその解釈という形で流布しつつ、名も無き庶民によって徐々に改作されていったのではないかと思う。現在の古事記に採録されているのは断片で、長文版はそれこそ夏山の青葉壮夫、冬山の枯木壮夫(?)の類も総登場した娯楽巨編で、なんの暗喩なのかもわかりやすいものだったろう。ちなみに息長氏が近江に移住した時は「比賣碁曽社」はまだ阿加流比賣に該当する女性の宮殿すらなかったろうが、後々になって神社になってからは近江に勧請したのではないかと思う。が、それらしい痕跡はない。長浜市に式内上許曽神社の論社とされる「富田町八幡神社」があり、同市の高山町にも「上許曽神社」があって名前が似てるが祭神は一致しない。また琵琶湖の南端に近い大津市の三井寺(園城寺)境内に有名な新羅善神堂がある。息長氏が本拠とした琵琶湖北東部とは真反対だが、畿内から移住してきた時の通路にあたる。この神は円珍が唐からの帰国の航海を守ったという話で有名だが、三井寺の地主神との説もあり、ならば三井寺よりもかなり古くからその地にあったとになる。伝承は途絶しているが、あるいはこれが比賣碁曽社の痕跡か。
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「春山秋山の物語」は神話ではなく寓話」に続く
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