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・新嘗祭

今日、11/23は宮中祭祀で「新嘗祭」の日。まぁいうまでもなくこの日付は明治になってグレゴリオ暦になってからのものでそれ以前は旧暦士月の二度目の卯の日。これをグレゴリオ暦に換算すると現在の12/14を中心として旧暦の日付が動く分の1ヶ月と十二支12日、計約42日間のいつか(最も早い年で現在の12/5、最も遅い年で現在の翌年の1/15)になる。新嘗祭のもっとも簡単な説明としてはお米の感謝祭なわけだが、稲は9月の下旬(ただし早いもので8月の下旬、遅いもので10月下旬)くらいが収穫期なので、稲作の感謝祭だとすると本来なら10月の下旬頃が最適だろう。もし旧暦でやるなら九月となるはず(節切り恒気法で10/7から11/5まで)だが、新嘗祭の日取りでは平均して2ヶ月近く(9月の下旬からすると3ヶ月近く)も遅れることになる。これは米の感謝祭だとするとかなりおかしなことになる。
ちなみに民間の伝統習俗に古い時代の痕跡をみていく民俗学のほうで「刈り上げ」習俗はどうなってるかというと、西日本や南関東では「亥の子」といって旧暦十月の最初の亥の日(寛政暦以前の恒気法で小雪を11/21として計算すると早い年で現在の10/23、遅い年で現在の12/2、平均して11/12、幅が1ヶ月と12日ある)。北関東や甲信越では「十日夜(とおかんや)」といって旧暦十月十日(早い年で現在の11/1、遅い年で現在の11/31、平均して11/16・17、幅が1ヶ月ある)。東北では「三九日」(みくにち/さんくにち)といって旧暦九月九日・十九日・廿九日(霜降を恒気法で10/22とすると九日は10/1-10/30、平均して10/15・16。十九日は10/11-11/19、平均して10/25・26。廿九日は10/21-11/29、平均して11/4・5。節切りでいうと九日は10/15、十九日は10/25、廿九日は11/4)。
じゃあ士月の祭儀はないのかというとそうでもなく、九州や信州で「霜月祭」、奥能登の「アエノコト」、北九州の「丑の日祭」、各地の「大師講」がある。がこれらはあまり一貫性や共通性に乏しい。まず霜月祭は神楽メインで収穫感謝祭なのかどうか不鮮明、アエノコトはあまりにそれっぽいので新嘗祭にあわせて日程が繰り下がってるのではないかと疑われる。丑の日祭は4月にやる地方もあり、必ずしも11月で安定していない。大師講も日程はバラバラでしいていえば11月24日が多いという程度。柳田國男は古く士月に生まれたオホイコという神の長子を祝う風習の祭儀があったことを想定していて、これら士月の諸行事がもとは冬至の祭儀だというのは一理も二理もあり、それはそれで別の機会に詳しく論じたいところだが、米の収穫祭と直接の関係をいうのは疑わしいだろう。いずれにしろ士月の行事は神楽や歌舞、市がメインで、もしこれが収穫感謝祭だとすると約1ヶ月遅いとされているのは新嘗祭と同じである。
で、全国各地の「刈り上げ」の習俗をみてまず気付くのは、東北以外では十月なのに、気候からみてもっとも遅くてよさそうな東北が逆にずばり九月になっていることだ。民俗学の常識的な発想法で僻地に古い習俗が残りやすいとすれば、西日本の「亥の子」(旧暦十月)は比較的新しく、甲信越の「十日夜」(旧暦十月)これに次ぎ、東北の「三九日」(旧暦九月)が最も古いことになる。三九日が10日置きに3回も設定されてるのは要するに旧暦の日付が季節とずれるのでそれに対応するためだろう。「みくにち」と似た言葉で九州北部の「おくにち」(おくんち)という行事があるが、これももともとは旧暦九月九日の菊の節句の行事で「お九日」が訛ったもので、恐らく東北の三九日ももとは最初の九月九日が基本だったのだろう。そうすると菊の節句に古くは日本では米の感謝祭の意味があったと思われる。
ところで、旧暦の日付は毎年動いて季節とずれて(最大約30日のずれ)しまうので、普通に考えると、季節そのもの=二十四節気を基準としたほうがよいとは思わないだろうか。実際、四分至(春分・秋分・冬至・夏至)は石器時代から知られていた上(ただしこの場合は定気法に該当)、大陸から伝来した旧暦でも二十四節気は最初から組み込まれているので、無理に旧暦の日付に拘らずとも二十四節気を基準にする(=節切りの月で行事を決める)ことは、大昔でもたやすいことだったはず。おそらく最も初期には、二十四節気を基準としていたのだろうが、農作業にはより適して便利なやり方をわざわざ廃止して不便な方式に切り替えるというのは自然には考えにくいので、大陸伝来の暦を定着させるために政治的な理由で強制されたとしか考えられない。ちょうど明治の改暦の時に起こったのと似たようなことが、かつてあったのだと思われる(参考:吉村貞司『日本古代暦の証明』六興出版)。そこで思い出されるのが、旧暦五月五日の菖蒲の節供が、古くは「五日」という日付ではなく「夏至」の祭儀だったという事実だ。そうすると、七月七日の七夕や九月九日の菊の節供も、ぞれぞれ古くは2ヶ月後の処暑と霜降の行事だったのではないかという疑いが当然でてくる。霜降は定気法で10/23、恒気法で10/22。当時の暦を利用しただけなら恒気法だろうが、石器時代に遡る「山あて法」で観測した古い伝統に基づいていたとすれば定気法となる。九月十九日は恒気法の節切りでいうと前述の通り10/25となり、定気法の霜降とは2日の差だが、近いといってよいだろう。三九日の日取りは、通常の菊の節句(九月九日)に加えて菊の節句の古い日取りをかなり意識して設定されたのではないだろうか。
いうまでもなく、この霜降(現在の10/23)が新嘗祭の本来の日取りだったというのがわたしの説なわけだが、しかし、だとするとなぜ新嘗祭の日付は「士月の二度目の卯の日」に変更されてしまったのか、という疑問に答えねばならない。これについての謎解きをしようと思う。
(続きは後日、今日は時間ない)
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