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・漢字はいつ伝来したか

H26年12月12日初稿
今日12月12日は「漢字の日」だっていうから、なにか歴史的な由来でもあんのかと思ったら、平成7年(1995年)に「良い字一字」=「1(いい)2(じ)1(いち)2(じ)」の語呂合わせで適当に作った日だとさ。馬鹿にしてんのかよw もっともこういう言葉遊びができるのも、日本に漢字が入ってきたおかげでもある。ドイツ語だろうがフランス語だろうがダジャレや言葉遊びはもちろん豊富にあるが、やはり日本ほど複雑で多様な言葉遊びのある言語はなかなかないんじゃないか。
この日を勝手に決めたのは財団法人日本漢字能力検定協会っていうウサンくさい利権団体なんだが、漢字ってのは検定試験で能力きまるような薄っぺらい文化じゃないんだよね、そこをわかってもらうための協会ならともかく、逆に検定試験を主催するとか余計なことしやがって。学校の古典の授業ふやして古文漢文教育を振興させるとか、漢文よめないアホは公務員として採用しない法律つくらせる運動とか、舊字體でかつ漢文で書かれてゐない公文書は法的に無効とする法律作らしむとか、教育勅語と歴代天皇暗記してゐないあほには参政権も與へず高校受験資格も與へないとか、そういう布教活動でもやれつつの。
まぁそんな話はさておいて、毎年やってる「今年をあらわす漢字」のばかでっかいお習字、清水寺でやってるやつ。あれ決めてんの清水寺じゃなくてこの日本漢字能力検定協会っていうウサンくさい利権団体が募集して集計して応募者の多数決で決めてだったんだな。てっきり清水寺の坊さんが勝手に決めてんだと思ってたよ。そして今年をあらわす漢字は「税」だって…。これについては面白いツッコミからつなんまい文句まで、マスコミやらネットやらの各所であれこれ言われてるので吾輩のブログでは触れない。
漢字はいつ伝来したのか
ところで漢字はいつ伝来したのだろうか。応神天皇の時に王仁博士が日本に漢字を伝えたという説があるが、もちろんこれは間違いで、王仁が伝えたのは『論語』と『千字文』という2つの書物であって、漢字はその前からある。魏志倭人伝をみると、中国から倭国への使者が九州に到着すると「津に臨んで捜露し差錯するを得ず」つまり係の官吏が国書を検見して間違いのないようにする、というから女王卑弥呼の頃は倭国側には明らかに漢文をよく読める人がいた。これは3世紀の話だが、それ以前、2世紀前半から中頃にかけてのものとされている弥生土器の破片で漢字が刻まれたものもあった。さらにそれ以前「漢委奴國王」の金印だって漢字がわからなければ意味がない。この金印はAD57年で『日本書紀』の編年では垂仁天皇86年にあたる。その先代、崇神天皇の崩御年が『古事記』では干支で書かれてるのは、それ以前に干支が伝来しており、遅くても崇神天皇の治世中に「干支紀年法」が公式に採用されたものと思われるわけだが、その際に干支だけ伝来して漢字がぜんぜん伝来しないということは考えにくいから、干支の伝来と漢字の伝来は同時期とすべきだろう(干支や暦の話はそれだけで膨大な長い話になるので今回は触れず漢字の話だけする)。

ではその干支やら漢字やらの伝来がいつかというと記紀には具体的に書かれてはいないが、帰化人が渡来した記事があればそれに付随して漢字がきたと推測はできる。すると崇神天皇最末期(実際に朝廷に謁見できたのは垂仁天皇最初期)にきた蘇那曷叱知(そなかしち)がまず候補にあがるが、それまでみたこともきいたこともなかった干支という得体のしれないものがいきなり公式採用になるのは不自然だから、それよりかなり前に伝来して、世の中に広まり馴染んでいた後でないとおかしいだろう。そうして改めて『日本書紀』をみると崇神天皇11年「異俗多帰」とあり翌12年の詔勅に「異俗重訳来、海外既帰化」といってるのは前年の「異俗多帰」のことをさしている。つまり海外から帰化人がきたといってるので、この時に漢字もきたという想像はしたくなるだろう。ただしこれは難民がきたぐらいの話だと思うので、漢字を流暢に使いこなせるような名のある上流階級が含まれていたかどうかはわからない。それ以前にも、記紀にはないが、以前開化天皇のところで取り上げた『弘仁私記』の「開化天皇御宇、大加羅人帰化、而以来既有文字云々」の説がある。これも難民程度のものと思うのだが、特に「文字」の伝来を強調していることから半島の加羅人(からびと)ではなく、大陸の漢人(からびと)のことだと推測する。漢字伝来についてはここまでしかわからない。

記紀に登場する帰化人の多くは、名のある貴族つまり上流階級で、漢字をしってるのは当たり前だが、それ以前から、歴史に名の残らない大勢の帰化人がいたと思われる。崇神天皇11年や12年の記事はその一例だろう。ただしこちらは要するに大陸の戦乱を避けてきた難民であり、漢字の知識はさしたるものではなかったろう。古来中国では漢字の知識をもっているのは上流階級の他は一部の知識人だけで、庶民はほとんど文盲だった。それらの難民の中にたまさか漢字に熟練した人が混じっていたとしても、そもそも現代のような人権意識が発達した時代でさえ難民には偏見や差別がある。大昔はほとんど賤民や蛮族程度にみられたろうからそんな者どものもちこんだ文化自体よい目ではみられなかったろうから、そんな情況で漢字が「なにかよいもの」として受容されることもなかったろう。
人類学では、文字文化をもたない部族に対して、人類学者が文字の読み書きを実演して便利さを示しても、評価も感心もされないという報告がある。無文字社会というのは、文字がなくても問題なく社会が成り立ってるから「無文字社会」というのであって、文字の需要がないのである(神代文字の議論はそれだけで膨大な長い話になるので今回は触れない)。
漢字に価値を認め、これを積極的に採用したのは応神天皇の時代で、中国の文化を浅くでなく深く知る必要があると認識されてからだろう。『論語』が伝来して王仁を師として諸皇子が漢文を学んだ。しかしそれまでの長い間の偏見があったから、これを不愉快に思う人たちもさぞかし多かったろう。またこの後も、上流階級ではなかなか漢字を学ぼうとしなかったか、あるいは漢文に熟達していたとしても自ら漢文を書いてみせるのは卑しいことのように振るまい、わざわざ下級の貴族つまり帰化人系の貴族に書記官としての役割を与えていた。後漢皇帝の後裔の東漢(やまとのあや)氏、王仁の子孫の西文(かふちのふみ)氏は史(ふひと)つまり漢字を扱う書記官ではあるが、貴族としてはかなり低い地位でしかない。
(続きはまた後日に)
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Re: 漢字の伝来について

これはどうも。情報ありがとうございます。南淵書はもちろん読んだことはありますがかなり以前だったので忘れていました。
これは権藤成卿が自分の個人的な古代史の説を古文書に仮託して書いたものですので、すべてを信じるわけにはいきませんが、当時の古代史学説としてして面白いですね。南淵書の評価は原田実が『季刊邪馬台国』のバックナンバーで書いていた論文がわかりやすいと思いますが今では入手しにくいです、かわりに彼の著述で南淵書について解説してるものも検索すれば出てくると思います。で、漢字の伝来ですが、金印の西暦57年の段階ではすでに漢字が知られていないと金印の意味がないので日本に漢字が入ってきたのは遅くても金印の時か早ければもっと以前でしょう。107年の帥升を『弘仁私記』の漢字伝来(=開化天皇)に結びつける説では時代が遅すぎて合わないように思います。
※租國王というのは「国祖王」の誤植でしょう、太祖大王の別名ですね、『三国遺事』にあったような。
※宮が楽浪郡を攻めたのは西暦56年、蒼海はいろんな意味がありますがこの場合は今の日本海のことで蒼海郡は関係ないでしょう。「元?五年」は単純に「元朔元年」の誤植で、権藤成卿が『三国史記』太祖大王四年条にでてくる蒼海を蒼海郡のことだと誤解しているのだと思います。また耿夔から反撃されたのは105年ですがあくまで遼東半島にちょっかい出した高句麗が反撃されて追い出されただけの話で、権藤成卿がいうような韓の難民が我が国にくるような大混乱になったかは疑問です。むろん当時の朝鮮半島南部がどの程度安定していたかは、それとはまた別の難しい問題ですが。
※天之日矛が来朝したのは孝霊天皇の時だと伴信友がその世代数から推算していますので、その次世代の孝元天皇の時代に日本人が海外情勢に暗いということはないでしょう。
※倭国王帥升は国王ではなく、倭国「主帥」升の誤記でしょう。主帥というのは「長帥」「渠帥」「小帥」などともいい、烏桓鮮卑伝や東夷伝のあちこちにでてきます。王ではなく地方豪族みたいなことが多いと思いますが、実際に王なのか豪族なのかということより漢帝国が与えた格式の上下の違いで、実態とは一致しないこともよくあります。主帥たちの中から漢帝国に都合のいい者を選んで王に任じたりしてますね。なお西暦107年に漢に入朝した主帥たちは、倭国の側から行きたくて行ったのではなく中国側の都合で頼まれて行ってやったと岡田英弘が漢の内部情勢から分析してますので、日本の国内事情にはほとんど何の関係もないと思われます。
とりあえず感想まで。

> 現在は偽書の扱いとなっている南渕書に文章が伝えられた時期が記載されています。
>
> 開化天皇が15歳の時というと西暦180年頃と思われすのですが、その時伝わった暦は半年を1年とカウントしていたと思われますが、正確な年代がわかりません。
> とりあえず報告まで。
>
>
> 訓訳南渕書巻上 師升 第十三
>
>
>
> 皇子問ヒ曰ク、孤レ漢史ヲ讀ムニ言フアリ、曰ク東漢(安帝)ノ永初元年、倭國王師升等、生口百六十人ヲ献シテ請見ヲ願フト、然レトモ攝政王天皇記ヲ錄シ玉フトキ、其事少シモ概見セサル者何ソヤ、南淵子答テ曰ク、東漢和(和帝)安(安帝)ノ際、耿夔遼東太守トナル、時ニ高驪漸ク大ニシテ、其王宮(租國王字ハ於漱流)人ト爲リ勇壯、東ノカタ地ヲ拓キテ蒼海(古ハ?ノ地、漢ノ元?五年郡ヲ置ク)ニ至リ、南ノカタ樂浪ヲ略シテ薩水(遼東ノ境ヨリ五百六十里、鴨緑ヨリ四百五十里ヲ距ツト云フ、又タ今ノ博川江ヲモ、臨津江ヲモ薩水ト云フ)ニ至リ、朝鮮復タ漢縣ヲ見ス、元興ノ初、宮遼東ニ寇ス、耿夔出テ、撃チ、大ニ宮カ兵ヲ破リ其將師ヲ斬リ、威東方ニ震フ、諸韓ノ亡民多ク我西邊ニ入ル、是ノ時當リ、本朝久ク中洲{ヤマト}ニ安シテ、且ツ出雲氏漸ク勢ヲ失ヒ、復タ外事ヲ曉ル者ナシト雖モ、邊境異ヲ報ス、之ヲ不問ニ寘ク能ハス、是ニ於テ國牽{クニクル}天皇(孝元)將ヲ遣シ、彼ノ國情ヲ偵セシメ玉フ、漢史稱スル所ノ倭國王トハ倭國牽{ヤマトノクニタル}天皇ナリ、師升{シチ}ハ韓語ニ渠師ヲ稱ス、或ハ王子モ亦之ヲ師升ト謂フ、一ニ臣智ニ作リ、一ニ斯鑡ニ作リ一ニ叱智ニ作リ一ニ朱日ニ作ル、皆ナ同音ノ異字ナリ、當時我レ韓人ヲ以テ嚮導トナセリ、故ニ此語アルナリ、臣之ヲ故老ニ聞ク、皇太子大日日王{オホヒヒノミヤコ}(開化天皇ノ??)齢僅ニ一五、親ク詔ヲ奉シテ往カセ玉フト、聖德天緃(天性ト云フカ如シ)ニシテ、漢、驪、意富迦羅{オホカラ}、愛慕歸化スル者頗ル饒ク、本朝文書【厤たれ日】日ノ紀アル、實ニ是時ニ濫觴(始ヲ成スノ意)スト、攝政王天皇記ヲ錄シ玉フトキ、義彼我ノ抗禮ヲ重シ、故ラニ省略ニ從ハセラレシ歟
>
> 皇子は問うて言った。 「漢の史書を読んだところ、東漢(後漢のこと)(安帝)の永初元年、倭國王師升等が、生口百六十人を献上して請見を願い出たと書いてあった。しかし、攝政王(聖徳太子)が天皇記を編纂なさったとき、そのことに少しも言及なさらなかったのはどうしてだろうか。」(※ここで「概見」という言葉は、意味が通じず疑問が残ります。とりあえず意味が通るように言及と訳しました。) 南淵子は答えて言った。 「東漢(後漢)の和帝から安帝のころにかけて、耿夔が遼東太守となりました。このとき高句麗が次第に勢力を強めてきており、その王の宮(宮が人名)(租國王 ※文字の誤りがあるかもしれません。ウィキに太祖大王とありますので、そのような意味かと思われます。字(あざな)は 於漱流)。宮のひととなりは勇壮で、東方に領地を広げていって蒼海(古ハ?ノ地、漢ノ元?五年郡ヲ置ク ※蒼海郡は、漢書によると元朔元年に設置され三年に廃止されています。この五年というのが何なのかよくわかりません。)に至り、南方では楽浪郡を侵略して薩水(遼東の境界線から五百六十里、鴨緑から四百五十里の距離にあるという。また今の博川江や、臨津江も薩水という)に至り、朝鮮から漢の県を無くしてしまいました。元興(和帝の元号)の初め、宮が遼東を攻めたので、耿夔は迎撃して宮軍に大勝し、その将軍を斬りました。(※將師だと将軍と軍隊で、將帥だと将軍。軍隊を破り、将軍を斬ったの方が文脈が通るので、将帥かなと思います。)耿夔の威名は東方に鳴り響き、諸韓から逃れてきた民がたくさん我が国の西部に流入してきました。当時、我が国の朝廷は長きにわたり大和の地で平和裏に安定しており、かつ出雲氏もだんだんと勢いを失っていて、外国の事情に通暁している者がいませんでした。それでも辺境が異変を報じてくると、これを不問に付したまま放置しておくことはできず、そこで國牽{クニクル}天皇(孝元)は将軍を派遣し、彼の国(後漢)の情勢を調べさせなさいました。 後漢書が言うところの倭國王とは倭國牽{ヤマトノクニクル}天皇です。師升{シチ}は韓語で、渠師という意味です。或は王子のことも師升と言います。臣智と書いたり、斯鑡と書いたり叱智と書いたり朱日と書いたりします。皆な同音で字が違うだけです。当時、我が国は韓人を案内人としていました。それでこの語があるのです。臣は故老から、こう聞いております。皇太子大日日王{オホヒヒノミヤコ}(開化天 皇ノ??)は年はわずかに十五歳でしたが、自ら國牽{クニクル}天皇の詔を奉じてお行きになられました。皇太子大日日王は生まれながらに聖なる德を身につけておられ(天緃は天性と同じような意味である)、漢、高句麗、意富迦羅{オホカラ}の民で、皇太子を愛慕して王化に帰する者(皇太子に付き従って日本に来た者)がたいへん多く、我が国で文書暦日の記録は、実にこの時から始まったということです。(濫觴 始を成すという意味) 攝政王(聖徳太子)が天皇記を編纂なさいましたとき、道理として漢と我が国は対等の国であるということを重んじ、(「生口百六十人ヲ献シテ請見ヲ願フ」といった臣下の礼を取ったような記述は)意図的に省略なさったのではないでしょうか。」 ※ 國牽{クニクル}天皇=孝元天皇が、皇太子の大日日王、後の開化天皇を後漢に使者として派遣した。その時、韓人を案内人に使っていた。 韓語で渠師や王子のことを師升と言ったので、「倭國王の皇太子」=「倭國王師升」となった。 師升は倭國王の名前ではない。 というのが南淵書の主張のようです。 後漢書の倭國王が孝元天皇かどうかは別として、 師升あるいは帥升が倭王の個人名ではなく王子というのは一理あると思いました。 帥升を人名とみると、 倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。は、倭國王本人が後漢まで行ったという意味にも取れますが、 倭國王=天皇本人が後漢まで行ったとは考えにくいです。 一方で、王子だとすると、 倭國王遣帥升等と書く方が自然なような気もしますし、王子や渠師と書かずにわざわざ韓語音写の帥升を使うのもおかしい気がします。結局、どちらが良いかわかりません。 ※  聖德天緃~の部分は、最初、聖徳太子について書いてあるのかと思いましたが、どうもそれより、使者として漢にいった 皇太子の大日日王のことと解したほうが文脈が自然なように思われます。つまり、南淵書の文意は、 「大日日王の徳を慕って渡来・帰化した人々によって文字による歴史の記録や暦法が始められ、それで当然、大日日王が大陸へ使者として行った記録は聖徳太子の時代にも残っていたが、聖徳太子はそれを、漢と日本は対等な国だという道理を損なうと考え、意図的に天皇記に掲載しなかった。」ということだろうと思います。

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