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6息長王朝の由来【中編】~春山秋山の物語は神話ではなく寓話~

H25年12月18日(水)初稿
5息長王朝の由来」から続き

「秋山と春山」は寓話である
三部構成のうち前篇と中篇のつながりは明瞭だが、一見したところ中篇と後篇のつかながりが不鮮明であるため、人によっては日矛や春山の神の話とその後の系図はそれぞれ無関係な別々の記事とみる説も出てくる。だが「秋山と春山の兄弟争いの物語」は次に続く若沼毛二俣王の系図と何らかのつながりをもっていたのではないかと想像される。ここで奇異なのは歴代天皇の歴史事件(少なくとも形式と建前では神話ではなく歴史)の中に、唐突に「秋山と春山の物語」という「民話」が割り込んでいるということ。神話は、歴史上の事件のような絶対年代は示されないが、それでも相対時間(各事件の前後関係、事件が生起する順序)はある。しかし「秋山春山の物語」はそれすらなく、神代のことだとしても人間の時代のことだとしても、時系列としてどこに入るのかわからない。これは時代は明示されず「昔、昔あるところに…」という民話のパターンに該当する。だが実はこれ民話でもない。民話なら前後のつながりがありえないので歴史の途中にぶちこむ意味がない。これは兄弟争いの物語だから、皇位継承争いの事件を暗示しているという説もある。もしそうならこれは意図的に創作したわけだから民話の形を借りてはいても、民話ではなく「寓話」とよぶべきだろう。ネットでは大山守命(おほやまもりのみこと)の反乱を暗示したものだという説もあり、もしそうなら春山の霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)は大雀命(おほささぎのみこと:後の仁徳天皇)や宇遅和紀郎子(うぢのわきいらつこ)の側を表わし、秋山の下氷壮夫(あきやまのしたひをとこ)は大山守命に該当することになる。以前は、これはかなりイケてる説かなと思っていたのだが、よく考えてみるといろいろおかしい。これでは第一に天之日矛(あめのひぼこ)や伊豆志袁登賣(いづしをとめ)を引き合いに出す理由がわからない。第二に、若沼毛二俣王とのつながりが不明。第三に、なぜ寓話に仕立てたのか。普通、ある事件を寓話に仕立てるのは、はっきり明示できない事情があるからで、一つには天皇の悪行を批判するような場合がありうる。しかし大山守命の乱を鎮定したのは誇れる功績だし実際に記紀には堂々と書かれているのに、改めて寓話にする意味がない。そこで考えられるのは、大山守命とは関係がなく、「春山の霞壮夫」は後世にその子孫から継体天皇を出した若沼毛二俣王のことであり、「秋山の下氷壮夫」とは太子の地位からハズされたにもかかわらず皇位を継いだ仁徳天皇のことではないか。ならば寓話にした理由は二つ考えられる。一つはこれだとこの寓話は、仁徳天皇(か、またはその子孫の天皇のうちの誰か)を批判していることになる。記紀では天皇の失敗や恥や悪行をはっきり書いているとはいっても、過去の歴史になってしまっているから許されているのであって、同時代にも堂々と天皇批判ができたかというとそれは問題だろう。だからもしこれが天皇を批判した寓話だとすると、その天皇の在世当時に作られた寓話でないと辻褄があわない。この寓話は、仁徳天皇(か、またはその子孫の天皇のうちの誰か)をなぜかどういう理由でか批判しつつ、だから子孫は武烈天皇で絶えるのだと暗示しつつ、それに対して、なぜか但馬の出石(いづし)の神である難波の比賣碁曽社(ひめごそのやしろ)の阿加流比賣神(あかるひめのかみ)の娘を娶った(?)若沼毛二俣王の家系(の誰か)をもちあげつつ、その子孫から継体天皇が出て皇位を継いだことはもっともなことだと正統化する、そういう趣旨の寓話であろうとまずは推定できる。あるいは別に、もう一つの案としては、古事記は編纂された奈良時代の時点で、この話が皇室にとって何らかの意味で不都合、それも公的に記述することが憚られるほど重大に不都合なものだったのではないか、だがこれを書き残さないと日本書紀とは別個に古事記を編纂する意味がなくなるのでやむなく史実として直接表現するのではなく寓話という形にせざるをえなかった、とも考えられる(後者にかんしては話が複雑になるので今回はふれない)。

継体天皇の祖先が隼別王という異説の是非
だがこの場合、「若沼毛二俣王=春山、仁徳帝=秋山」と固定しきることはできない。「継体天皇=春山、武烈天皇=秋山」という当てはめでもよいはずだ。若沼毛二俣王から継体天皇までの系図は、こうなってる↓

応神天皇―若沼毛二俣王―大郎子おほいらつこ―乎非王をひ―彦主人王ひこうし―継体天皇

だからこの家系の歴代のうち誰が「春山」でもありうるわけだ。例えば「大郎子が春山で、履中・反正・允恭の3帝のうち誰かが秋山」という組み合わせでもいいし、「乎非王が春山で、安康・雄略の両帝のうちどちらかが秋山」かもしれないし、「彦主人王が春山で、清寧・仁賢・顕宗の3帝のうち誰かが秋山」という可能性もなくはない。若沼毛二俣王から継体天皇までの歴代のうちの誰かの妃の正体が伊豆志袁登賣であればよいのだから。また、この寓話は若沼毛二俣王の子孫について語るための前フリに相当するはずで、
(1)争いに勝った「春山の霞壮夫」を例えば若沼毛二俣王だと仮定すると、伊豆志袁登賣とは百師木伊呂辨(ももしきいろべ、別名:弟日賣眞若比賣命)のことであり、「春山の霞壮夫の母」とは息長眞若中比賣(おきながまわかなかひめ)のこととなる。そうすると百師木伊呂辨の父は咋俣長日子王(くひまたながひこのみこ)であるから、咋俣長日子王は阿加流比賣と結婚していたことになる。
(2)「春山」を例えば大郎子だと仮定すると、伊豆志袁登賣とは中斯知命(なかしちのみこと)という女性をさすことになり、「春山の霞壮夫の母」とは百師木伊呂辨のこととなる。中斯知命は出自などの情報が書かれてないので、この場合、阿加留比賣に該当するのが誰なのかは不明。
(3)春山を乎非王だとすると、伊豆志袁登賣とは牟義都君伊自牟良(むげつのきみ・いじむら)の娘、久留比売命(くるめひめ)。春山の母とは中斯知命。伊自牟良は阿加流比賣と結婚していたことになる。
(4)春山を彦主人王だとすると、伊豆志袁登賣とは三尾君乎波智(みをのきみ・をはち)の娘、振媛(ふりふめ)。春山の母とは久留比売命。乎波智は阿加流比賣と結婚していたことになる。
(5)春山を継体天皇だとすると、伊豆志袁登賣とは候補がたくさんいて特定し難いが仮に安閑・宣化両帝の母を伊豆志袁登賣とすると尾張連草香(をはりのむらじ・くさか)は阿加流比賣と結婚していたことになる。欽明天皇の母、手白髪命を伊豆志袁登賣とした場合には、雄略天皇の皇女春日大郎女(かすがのおほいらつめ)が阿加流比賣に該当することになる。
以上の5パターンの中では(2)の説がよさそうに思える。第一の理由は、第三息長王家3代目の乎非王は『上宮記逸文』、4代目の彦主人王は『日本書紀』にでてくるが、古事記には2代目の大郎子までしか出てこない。そこで系譜の記述が途切れているからである。大郎子の妃のこともまったくふれてない。妃のことやら何やらとこの先を書いていけばやがて継体天皇にぶつかるはずだがあえてそこまで書かないでここで止めているのはつまり大郎子が「春山の霞壮夫」だと示唆しているのではないか。第二の理由は、第三息長王家歴代の妃は4人まではどこの氏族の出身なのか『上宮記逸文』に明記されているのに、ただ一人、大郎子の妃の中斯知命だけが出自不明でどこの誰だがわからない。これはただの錯簡、誤脱にすぎないとするのが常道だろうが、一説には出自が卑賤、つまり名もない庶民あがりの女性だったため書くに書けなかったのだという説もある。しかしそれなら古事記にもよくあるように「一妻(あるみめ)」と書けばよい。命(みこと)という敬称はこの時代、天皇と皇后の他には特に有力な一部の皇族だけに使われる敬称で、この人が卑賤な身分の出身とは考えられない。だから逆に、ある「憚り」があって意図的に書いてないのではないか。例えば反逆者の血を引いている、とか。あるいは高貴すぎる女性だったとか。皇女よりも高貴な女性といえば普通に考えれば女帝ぐらいしかないがむろんこの時代にはまだ女帝などというものは存在していない。では一体なんなのか…?
上述のように古事記では3代目と4代目の記述が欠落し、4代目(彦主人王)の記述がある日本書紀でも3代目のことはまったく書いてない。そのため記紀だけでは、継体天皇が応神天皇の五世孫だとは書いてあっても、具体的に応神天皇のどの皇子の四世孫なのかがわからない。そのため中世には、継体天皇は隼別王の子孫だという誤解が広まっていた。例えば一番有名なのでは北畠親房の『神皇正統記』では上述の息長王家の系図が

応神天皇―隼總別皇子―大迹王―私非王―彦主人王―継体天皇

※大迹王(おほと)は大郎子の別名、意富々杼王(おほほと)のこと、私斐は弘斐(をひ)の誤記で乎非王に同じ。

となっている。このうち大郎子から継体天皇までは細かい字の間違いなどを除けばほぼ一致しているのに、初代の若沼毛二俣王(紀:幼稚渟毛二派皇子)が隼總別皇子になっている。隼總別皇子には大迹王という子はいないし、大迹王=大郎子=意富々杼王の父は若沼毛二俣王であって、隼總別皇子ではない。学説の多くは古代からみてはるか後世の、中世にでてきた伝承には信憑性が低いとして、これを単なる間違いで切り捨てておしまいにするのが常道なのではあるが、ちょっと待て。錯簡、誤写だとしてもその過程があるだろう。原型は『上宮記逸文』のように若沼毛二俣王になっていたはずだ。それに速総和気王の名が紛れ込んだのはそれなりの原因がある。代々、父は一人づつでしかありえないから大郎子の父はあくまで若沼毛二俣王であって速総別王ではありえないが、乎非王の祖父は2人いるはずなんだから、若沼毛二俣王と速総別王、この2人が乎非王の祖父でも何の問題もない。つまり中斯知命ってのは速総別王の娘なのではないか。親房の採録した伝承は、おそらく現在の『上宮記逸文』から脱落していた中斯知命の注釈の一部の名残りなのだろう。ただし速総別王と中斯知命の関係を、ただちに「父と娘」だと決めつけることもできない。「祖父と孫」かもしれないし、曽祖父と曾孫」の関係かもわからん(後述)。いずれにしろ速総別王の子孫ということは速総別王の妃であった女鳥王の血を引いている可能性もある。というか、これで伊豆志袁登賣(=中斯知命)を皇子たちが奪い合うことになるのか謎が解けただろう。八田若郎女(やたのわかいらつめ)と女鳥王の姉妹は、このいずれかと結婚した者が「正統の天皇」になる、という考えがあったことはこのブログのあちこちでたびたび書いている通り(この記事でも後述)。しかし誰もこの2人のいずれかを妃にして天皇になれた者はおらず、八田若郎女の血は絶え、女鳥王を妃にした速総別王は天皇になる前に亡ぼされ、女鳥王もその時に一緒に薨去した。しかしこの2人の子孫で女鳥王の血を引く女性がいたら…?「そんな女性はいたとしても反逆者の子孫として忌避されたはずだ」とはいえない。この時代、反逆者の子孫であっても名のある地方豪族として生き残っている例が多いことから、連座制のような考え方はなかったと考えられるからだ。むしろ父(?)の罪のせいで肩身の狭い思いをしている可哀相な人ということにもなりかねない。それで正統な天皇の証になる女性なら、有力な男性皇族なら誰しも夫として名乗りをあげ、奪い合いになっただろう。この構図どこかで見覚えはないだろうか。そう、『竹取物語』、かぐや姫だ。

寓話の分析
如上の復元系図からいえば中斯知命が伊豆志袁登賣で、大郎子が「春山の霞壮夫」になるはずだが、これだけではまだ「秋山」を特定できない。ここで問題は、「秋山」に喩えられた誰か(仁徳天皇とは限らないが仁徳系の誰か)がやらかした批判さるべき行為とは何か、神の娘を娶ったとはどういうことか、若沼毛二俣王(なり大郎子なり)と比賣碁曽社との間にどんな関係があったのか。これらが不明なのは、寓話だからわかりにくいのではなくて、この部分が古事記が完成した時のままではなく、誤写や錯簡、虫食いなどでかなり破損した後の伝本だということが考えられる。寓話といってももっと明瞭な歴史的な事件の合間にわかりやすい意味をもって嵌めこまれていたのが、写本の保管が悪くて断簡になってしまったために、かなりの文章が失われてしまって前後のつながりが不明になってしまったのだろう。
春山秋山の兄弟が取り合いをする女神は「伊豆志袁登賣神」という名だが、これは「但馬の出石という地名にちなむ少女」という意味の普通名詞であり、本名は隠されている。そして古事記が「この神の娘である伊豆志袁登賣神」という時の「この神」について、「8柱の神のうちその神か不明」という間抜けな注釈をつけてる者がいるが、それはこの直前にある「伊豆志之八前大神」という言葉を「この神」だと誤認したものだ。しかし「伊豆志袁登賣神」は但馬の出石(いづし)にいたわけではない。出石にも多数の少女たちがいただろうから、出石の中の特定の少女を「出石乙女」とよぶはずはない。そこにいるのは全員「出石乙女」なのだから。出石とはぜんぜん違う場所だからこそ、そこに住む多くの少女の中から特定の一人を「出石の地にゆかりある少女」と呼ぶことに意味がある。伊豆志河(=出石川)という実在の川が出てくるが、寓話の中ででてきてもあまり意味はない。寓話だから場所の設定も変えてあるだろう。で、この場所は本当はどこなのかだが、伊豆志袁登賣の親がどこにいたのかを考えれば自ずからわかる。伊豆志袁登賣の親である「この神」というのは、この段落(中篇)の冒頭にでてくるのだから、前の段落の話つまり前篇=「天之日矛の話」の全体を承けているのであって、「この神」とは、天之日矛の話のヒロインである阿加流比賣神に他ならない。いや「この神」とは天之日矛のことだという説もあるが、阿加流比賣と天之日矛は一時的にせよ夫婦だったので、「この神」が天之日矛だとすると伊豆志袁登賣はその娘で辻褄はあってるようだが、実は伊豆志袁登賣の父が天之日矛だとは限らない。阿加流比賣は天之日矛から逃げ回っていた上、伊豆志袁登賣が生まれたのはその後なんだから離婚した後のこと。
阿加流比賣神は「難波(なには:今の大阪)の比賣碁曽社に坐す」と明記されているのだから、伊豆志袁登賣も秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫もぜんぶ但馬の出石での話だとは限らず、これだけでは場所を特定できない。
兄弟の争いというと「海幸山幸の物語」を連想するのが、海幸山幸の話は、兄が弟をいじめる話であり、兄の目的は弟をいじめる他に特にないのであって皇位を狙っているわけではない。性格の悪い者がいじめる側で、清く正しい者が被害者になるという不条理をいっている。それに対して秋山春山の話は一人の女性を取り合う話で、例えば『竹取物語』等の類型である。前述の八上比賣をめぐって八十神が争う話で、秋山春山の話でも、この二人だけでなく「八十神」が伊豆志袁登賣と結婚しようとしたができなかったとある。
では、なぜ特定の女をめぐって争うのかというと、民話化された段階では牧歌的な恋愛譚になるわけだが、むろんそれだけではなく、例えば皇位継承ならば、その特定の女性と結婚することが自分の正統性を固めるために有利になるわけだ。仁徳天皇が石之比賣(いはのひめ)に妨害されながらも、しつこく八田若郎女(やたのわかいらつめ)を妃にしようとしたのも、その同母妹の女鳥王に求婚したのも、すべてこれ。この二人の女性は正統な皇位継承者だった宇遅若郎子の同母妹であってもっとも正統に近い血筋であった。第一世代でいうと、秋山は仁徳天皇で、春山は女鳥王のハートをゲットした速総和気王(はやぶさわけのみこ)にあたる。するとこれは謀反人の速総別王をもちあげて仁徳天皇を批判することになるわけで、これならわかりにくく寓話の形で流布した理由というのは説明がつくが、当時でも庶民はもっとストレートな非難をしていたのではないかとも思う。阿加流比賣神と皇位の関係はもうとっくに想像つくだろうが、宮主矢河枝比賣やその娘の女鳥王が石上神宮や出石神社の女宮司かすくなくとも巫女だったことは以前にこのブログの別の記事に書いたとおり。

第二世代での黒媛をめぐる争い
第二世代でいうと、女鳥王の血を引くと想像される中斯知命を妃とした大郎子が「春山の霞壮夫」だということになりそうだが、大郎子は第三世代でその父の若沼毛二俣王がいる。秋山は履中、反正、允恭の三天皇のうち誰か。しかしこれらの人々は誰かと恋争いをしたという伝承はない。履中天皇だけは即位前に住吉仲王(墨江之中津王)と黒媛をめぐってすったもんだがあった。この黒媛というのは羽田矢代宿禰の娘だが、履中天皇の妃で葛城蟻臣の娘の黒媛という女性もいて、同一人物とみられているが別人と思う。履中帝の妃の黒媛は途中で宗像三女神の祟りにあって薨去してしまうがその時に「羽田の汝妹」(はたのなにも)といわれているから、どうも薨去した妃というのが羽田矢代宿禰の娘らしい。他に履中帝は幡日之若郎女(記:若日下王)を后にして中磯皇女をもうけたとあるが、古事記にはそんなことは書いてない。倭直吾子籠(やまとのあたへ・あごこ)が謀叛の罪で捕らわれた時、妹の日之媛を履中帝に采女として献上したが、その程度で赦されるのはおかしいし、戦場に妹がいたのもへんだ。この女性が特別な存在であることが推察される。日之媛という名も天皇(日之御子)なみの高貴な名ではないか。羽田氏の娘だとすると「羽田日郎女」という別名が復元でき、幡日之若郎女と紛らわしいから、書紀は混同しているのである。仁徳天皇が追いかけた吉備の黒日賣は吉備海部直(きびのあまべのあたへ)の娘だが、海部というのは全国にいて、吉備氏の血縁ではなく、倭直(倭国造)の係累という。つまり黒媛の兄という倭直吾子籠の配下なのである(倭直は神武天皇を導いた海人の祖、椎根津日子の子孫で海部の首領)。そして倭直吾子籠は海の支配を任されていた住吉仲王の配下。最初に履中天皇と住吉仲王とが争った「黒媛」というのは「日之媛」のことであり、これが倭直の妹だったり海部直の娘だったりするのはある時点から海の支配者である住吉仲王の間接的な保護下にいたことを示している。また羽田氏の娘になったりするのは羽田氏の娘のほうの黒媛が幡日之若郎女(若日下王)と乳母姉妹で、羽田矢代宿禰は幡日之若郎女(若日下王)の乳母(めのと)親だったんだろう。書紀が誤って幡日之若郎女(若日下王)を履中天皇の后だとしたのはその間に生まれた中磯皇女の母を明示したくなかったからである。本当の母は黒媛で、履中天皇即位前に住吉仲王に騙されて不倫させられた女性である(ただしこれは履中天皇の側に立った表現)。だから父は本当は履中天皇なのか住吉仲王なのか不明で、公式には履中帝の皇女であっても世間ではなんとみたか。中磯(なかし)皇女は別名、中蒂姫(なかしひめ)といい、大日下王の妃となった。ナカシという名はどうも「中斯知命」のナカシチと同一人物くさい。では「中斯知命=中蒂姫」の母、黒媛というのは女鳥王のことかというと、年齢的にむりそうだから速総別命と女鳥王の間に生まれた娘だろう。速総別命を平定した時に、墨江中津王が黒媛を確保したが、仁徳天皇は石之比賣のせいで黒日賣も妃にできず、墨江中津王に託したんだろう。この時すでに皇太子のはずの大江之伊邪本和気王(履中天皇)との皇位争いの内乱の兆しが胚胎したのである。
中斯知命=中蒂姫が伊豆志袁登賣だとすると、黒媛(日之媛)が阿加流比賣ということになる。そうすると阿加流比賣を追い回した天之日矛は仁徳天皇か履中天皇のいずれかになるが、仁徳天皇は皇子だった頃に剣をもった姿を「ほむだの日の御子おほささぎ」と讃えられ、履中天皇は書紀では「剣太刀日之御子」(つるぎたちひのみこ)と呼ばれ、どちらも「剣」に関係して「日の御子」と呼ばれている。前者はあまりにも前すぎて情況が関係してこない。履中天皇が「剣太刀日之御子」と呼ばれたのは黒媛(これは羽田矢代宿禰の娘の方)が神罰で薨去した時にきこえた声だというが唐突すぎて経緯がわからないから、前者の引用ではないか。仁徳帝の後継者としての呼称なのではあるが、あえて天之日矛を連想させる呼称が選ばれている。

第二世代での中蒂姫をめぐる争い
書紀では、中蒂姫は大日下王の妃になったことになってる。そうすると、春山の霞壮夫というのは大日下王のことになるが、そういえば「春」は五行説で「木」でありそれは方角でいうと「東」になる。大日下王のクサカ(草香)を「日下」と書くが「日下」は漢語で東方の地をいう。五常(仁義礼智信)のうち、春や東と同じく木徳にあたるのは「礼」で、『古事記』では安康天皇が大長谷王の妃として若日下王を迎えようとした時、大日下王は言葉も態度も礼を尽くした人物として描かれる。
では秋山の下氷壮夫は誰か、履中天皇だとも思われやすい。が、反正天皇崩御の後で、朝廷の群臣たちが「いま天皇にふさわしい皇族は大草香皇子と雄朝津間稚子宿禰皇子(允恭天皇)の二人しかいない」といっており、その時点では二大有力者だったことがわかる。秋山の下氷壮夫は8年の間、病に苦しんだことになってる。履中天皇の崩御も書紀は「病没」だったとしているが、書紀によると允恭天皇は允恭3年に新羅からきた名医に治してもらうまで即位前から病気だったというから、秋山とは実は允恭天皇のことではないのか。即位してから3年、その前5年間はちょうど反正天皇の在位期間にあたるので、この「姫獲得バトル」が勃発したのは履中天皇崩御の時点ではないのかと思われてくる。また秋は五行説では「金」であり、方角では西。大和では葛城が西で、允恭天皇の本拠地「葛城の朝津間」がある。さらに西の河内とすれば、允恭天皇が都とした「河内飛鳥」がある。また『周礼』では六官のうち秋官は司寇で今でいう「司法、刑罰、裁判、警察」の関係をつかさどり、六部尚書の「刑部」にあたる。允恭天皇はカバネを偽称する者どもを裁いてカバネ秩序を再建した人物で「金德」にふさわしい。后の忍坂大中津姫のために忍坂部を定めたというが忍坂部を「刑部」とも書くのは全国カバネ大改正という「裁判関係の財源」として設定されたからだろう。
ただ、そうなると中斯知命が大郎子の妃になったっていう『上宮記』逸文の記述と矛盾してくるが、中田憲信の系図集である『皇胤志』には大郎子の妃は中斯知命ではなく「中斯命の娘の兄媛(えひめ)」となっている。『皇胤志』は今では失われた貴重な資料を丹念に収集したもので、玉石混交ではあるが参照する価値はある。『上宮記』を引用した『釈日本紀』の本文によって中斯知を中斯にしたのは本居宣長の説に依ったんだろうが、むろんこれは誤りで原文どおり中斯知のままでよい。中田憲信は中斯命を男性で兄媛の父だと解釈してるのだろうが、中田がみた系図も古資料の断片、残骸だから父の名は誤脱しているのである。兄媛は大日下王と中蒂姫の子だと自然にきまる。

物語の類型化
一人の女性の愛を争う話は類型化しており、『竹取物語』が有名だがこれは最終段階の形で、それ以前に長い変遷の歴史がある。『万葉集』では大和三山の伝説、葦屋処女(あしやをとめ)の伝説、真間手児奈(ままのてこな)伝説、桜児(さくらこ)伝説があるがこれらはヒロインの女性が自殺する話であり、「春山秋山の物語」よりずっと後世になってから登場したものである。古事記の因幡の八上比賣(やがみひめ)も伊豆志袁登賣も同じような情況でありながら自殺などせず意中の男と結ばれる話であって、これが伝承の古態である。高貴な女性は男を選んで子供を作るのが仕事の一部なので、複数から求愛されることは悩みにならない。ヒロインが苦悩の末に自殺するパターンは、物語の設定を庶民の女性に設定するようになってからのことである。ここらの話は『処女墓伝説考』(関口裕子:吉川弘文館)に詳しく興味深い議論が展開されている。

神の御子?
ところで、「伊豆志袁登賣」が「この神」の娘という時、この神を阿加流比賣神(新羅の赤玉)とすると天之日矛と同時代、崇神天皇以前の欠史八代の頃であり、応神朝や仁徳朝からすると、はるかいにしえの女神である。日本書紀の説によってこの神を名無し童女(任那の白石)としても、崇神天皇末年のことで、いささか時代が古すぎる。いずれにしろ今、目の前にいるこの少女の母ではありえない。そこで、通説では「神の女(むすめ)」を「神の女(みこ=巫女)」と読み替え、神社に仕える巫女のことだと解釈している。まぁそれはそれでありかなとは思うのだが、そればかりではあるまい。目に見えない存在であるカミと、普通の人間の間に子供が生まれることはちょいちょいあったみたいなのだ、古代の神話を信ずる限りではなw 女性が、男神の化身と交わって子供を生むパターンの方が多いが、逆に男性が女神(が化身した女性)と交わって子供を生んでもらうパターンもある。これを事実だとしたらオカルト的な解釈をしなければならないが、まぁそういう設定というか世界観なわけで現代人の立場からつっこんでもしょうがない。しかしそれならいくら古代でもかなり奇異な話だからもう少し物語の中で説明されてもいいようにも思われるが、原資料がすでに断簡だったとしたら伝承の欠損でありやむをえない。むろん前述のように、強引にオカルト的な解釈で押し通さなくても、単に伊豆志袁登賣に該当する女性(例えば中斯知命でも宮主矢河枝比賣でも誰でもよい)が神社(中斯知命なら比賣碁曽社、宮主矢河枝比賣なら石上神宮、女鳥王なら出石神社など)の巫女をやってたってだけのことでも一応、文章表現上の理屈は通るのだが、寓話に即して考えると、この巫女は多くの男性から求婚されている。民話なら美人だから求婚されたのだってだけで話は進むのだが、「歴史事実を翻案した寓話」にはならないし、美人だとも一言も書かれてない。この場合、単なる巫女という意味での「神の女」ではなく、何らかの特殊な女性だったからではないのか。それが何なのかは後述するとして、伊豆志袁登賣に該当する女性の母親が彼女を妊娠中の夢に阿加流比賣神がでてきて「わが娘を与える」とかなんとかご託宣があったとかの短いエピソードが付随していたのかもしれない。夢で御託宣を得る話は崇神天皇にもあり後世の物語にも甚だ多い。ともかく多くの男性から求婚されるに値するなんらかの神秘的なアドバンテージがあったに違いない。それは何かというとむろんこのブログで常にいう正統の天皇の証たる「宇遅和紀郎子の同母妹の血筋」なのである。

まだ残る、次なる謎解き
春山の霞壮夫は大日下王だった、秋山の下氷壮夫は允恭天皇だった。これが結論、これでいいのだろうか? これだと滅ぼされた大日下王を顕彰慰撫し、允恭天皇を貶しているようだが、この程度のことならわざわざ寓話化する必要がない。記紀はもっと露骨に天皇の悪事を書いたり、反逆者の美化などはざらにやってるので今さらこの程度のこと、そのまま書けばいいだろう。まだ何か足りない。おそらく「大日下王を顕彰慰撫し、允恭天皇を貶しめる」のはわざわざそれが本題のように勘違いさせるために寓話にしているのである。わざわざ? つまりそれは本題ではない。では本題とは?
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7応神記末尾の系譜の謎とき」に続く
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