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・太安万侶と稗田阿礼は同時代か?

2679(H31=新年号元年)・1・23 WED 改稿 H27年6月17日(水)初稿
太安万侶と稗田阿礼はコンビとして力を合わせて古事記を作ったようなイメージがあるが、これは本当なのか? 稗田阿礼が読誦したのは第40代・天武天皇の命令によるが、太安万侶が古事記を完成したのは第43代・元明天皇の時。従って、稗田阿礼と太安万侶は別々の時代の人であり、コンビで仕事してるようなイメージは間違いである。 …というような話をしたこともあるのだが、自信もないので、二人の生没年を確認してみた。

古事記の序文によると、稗田阿礼が天武天皇の命を受けた時、阿礼は28歳とある。普通に読むとこの時は天武二年(AD672年)だと読めてしまうが、天武十年(AD681年)のことだと考える学者が多い。『日本書紀』天武十年(AD681年)に川島皇子らに「帝紀」と「上古之諸事」を記定させたとあり。「帝紀」とは「帝皇日継」(すめろぎのひつぎ)のことで、「上古之諸事」とは「先代旧辞」(さきつよのふるごと)のことであることは、別記事「古事記の原資料の性質と通説への疑問」で説明した通り(※詳細リンク先)。この「帝紀と上古之諸事の記定」が古事記のいう「帝紀と旧辞を削偽定実せよ」との天武天皇の詔勅にあたる事件と考えるとすると、この時、稗田阿礼は28歳で、川島皇子らへの協力者だったのだろう。だが古事記序文をそのまま受け取ると天武天皇の詔勅がでたのは天武二年であり阿礼が28歳だったのも当然その年だから、そうすると古事記が完成した和銅五年(AD712年)には59歳か67歳の二つの説が生ずる。これを仮に若者説と老人説とよぶ。いずれにしろ、まだ生存していた可能性がある。当時の60歳っていうのは今なら70歳くらいの感覚かもしれないので、絶対に生きてたはずだともいえないが、稗田阿礼女性説をとるならば女性のほうが長生きだし、太安万侶と稗田阿礼がコンビを組んで…というイメージも、まんざらアリエナイともいえない。コンビといっても、安万侶に比べて稗田阿礼はかなり身分が低いので対等の関係にはならないだろうが。

ちなみに、稗田阿礼は老人説でいくと大化二年(AD646年)生まれ、若者説でいくと誕生年は計算上、白雉五年(AD654年)となる。太安万侶は誕生年が不明だが、死没年は『続日本紀』と「太安万侶墓誌」とも養老七年(AD723年)としている。もし安万侶が70歳で死去したと仮定すると、若者説だと同年齢となる。またあるいは、太安万侶が大夫に列したのが慶雲元年(AD704年)だからこの年20歳と仮定すると、同年に阿礼59歳(老人説)であり、約40歳も年下となる。
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おそらく、安万侶は阿礼より20歳ぐらい下だったのではないか。

さらに絶対的な方法ではないが、安万侶と同時代で似たような昇進の仕方をしている阿倍朝臣首名(あべのあそみ・くびな)と威奈真人大村(ゐなのまひと・おほむら)という人物は二人とも年齢が判明しているので、この二人と比較して安万侶の年齢を推定することもできる。二人の経歴はWikipediaに載ってるから簡単に計算でき、大夫に列した時、首名は41歳、大村は40歳だったことがわかる。それで安万侶が大夫に列した慶雲元年(AD704年)に仮に41歳だったとすると、天武二年(AD672年)に稗田阿礼(老人説)が28歳の時、安万侶は10歳で、阿礼の20歳下だったことになる。天武十年(AD681年)に稗田阿礼(若者説)が28歳の時なら、安万侶は18歳。で、古事記が完成した和銅五年(AD712年)には稗田阿礼67歳か59歳、太安万侶49歳となる。むろんこれは阿倍首名と同じ年齢で大夫に叙任したらという仮定の上での話なので絶対こうだという話ではない。
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