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☆清寧帝崩御から飯豊王の執政が始まるまでのすったもんだ

2679年(H31年=新年号元年)1月16日改稿 H27年10月21日(水)初稿
清寧天皇は病弱ではなかった
清寧天皇には皇后がいないが、歴史上何人かいた他の独身天皇と違って、これといった理由が不明。生まれた時から白髪だったので、体が弱かったと推測してそのため皇后を立てられなかったとする説もあるが、それは無い。日本人の髪は「黒」ではなく、医学的には「黒と白」の2種類である。劣性遺伝子のため発現形として稀なだけで、生まれた時から全白髪とか、白と黒のまだらとかの日本人はそこそこいた(過去形でいうのは現代では染色技術が進んでるので子供の頃から隠し通すことができるようになったので世に知られなくなったのである)。昔は小学生の頃に「葬式饅頭」なんてあだ名をつけられたやつはよくいたものである。
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また『日本書紀』では清寧天皇の御名を「白髪武広国押稚日本根子尊」として、岩波日本書紀は御名の読みを「白髪(しらかの)武広国押(たけひろくにおし)」と区切るが、個人的には「白髪武(しらかたける)広国押(ひろくにおし)」と区切る方がよいように思う。シラカタケルは父帝雄略天皇のワカタケルを継ぐものだろう。「広国押」は国土を広げたか広大な諸国を威圧、圧服せしめたような辞で、病弱な天皇の名とは到底考えられない。皇子の頃から雄略朝後半の戦役には将軍格の武将としてほとんど参戦していたのではないか。また皇后(おほきさき)がいなかったとは書いてあるが妃(みめ)も無かったとは書いてない。記紀に書かれた后妃や皇子女は、系譜上、重要な人以外はたまたま残ったもので、記紀の相違を調べれば脱漏や入れ違い等の誤りもある。特に雄略天皇から武烈天皇までは系譜上の欠落がかなり欠落が多く、大化改新の時の蘇我邸炎上で失われたまま復元できなかった箇所だろう。

皇后の候補となりうる女性は希少だった
『日本書紀』の皇后には2種類あり、
(A)最初から皇后として立てられる身分の高い女性(それも葛城/尾張系・和邇/春日系・息長系などを女系で引く皇族が理想とされていた。例外もあり)と、
(B)もともとは妃だったのだが後に自分が生んだ皇子が後に天皇となったため記録上は皇后とされた女性
の2種類である。A型の皇后はある特定の理由で立てられなかったにしろ、比較的身分の低い妃や皇女はいた可能性は高い。もし皇子がいればその妃は自動的に皇后(B型)として記されたろう。あるいは早逝した皇子がいたかもしれない。
ところで、当時皇后を誰にするかはその天皇の政治力を左右する問題であり、皇室と民間とを問わず、当時は女性の経済基盤が大きく、結果的にそれが権力を支えることになる。その上でなおかつA型の皇后で、となると、実は皇后にふさわしい候補というのは大昔でもそうそうぞろぞろいた訳でもないことがわかる。
たとえば皇極天皇は初め高向王に嫁いでいたが、舒明天皇の皇后となるため離婚しているし、間人皇女も孝徳天皇の皇后だったが年齢が違いすぎて形式的なものだったようだ。同世代に皇后にふさわしい同世代の女性がたまたまいなかったのだろう。
かく考えた上で改めて清寧天皇の立場になってみると、同世代の皇族女性というとまず、異母妹の春日大娘は仁賢天皇の皇后になってるから、清寧天皇とは年齢が離れすぎていたのだろう。次に、反正天皇の皇女たちは雄略天皇が皇子だった頃に妃に候補にされたぐらいだから世代が違いすぎる。反正天皇の皇子、財王(たからのみこ)にもし王女がいたら釣り合いそうだが、財王は早逝したか息子がなかったらしくその子孫のことは記録がない。履中天皇の皇女には飯豊皇女と中磯皇女がいて、中磯皇女は大日下王の妃になってその後安康天皇の皇后になってるから清寧天皇とは世代ちがい。もう一人の方、飯豊皇女は、日本書紀引用の『譜第』によれば市辺押歯王の娘という説もあったぐらいだから(もしそうなら清寧天皇と同世代)、系譜上では一つ上の世代だったとしても生まれが遅かった可能性があり、清寧天皇にぴったりだったろう。
…といいたいところだが、履中天皇皇女の飯豊皇女と中磯皇女は実は同一人物なのである(詳しくはこのブログ内の別ページで)。

飯豊王は二人いた?
その飯豊王なんだが、実は、名前の紛らわしい人が二人いて、履中天皇皇女の飯豊王(叔母)と市辺押歯王の王女の飯豊王(姪)がいてそれぞれ別人だという説がある。詳細はwikipediaに書いといたのでそっち見て下さい。…といっても wikipedia に書いたのはほんの序の口で、・袁祁王の詠(ながめこと)のページに書いたように、二人の飯豊王は実は叔母と姪でなく二世代か三世代も離れている。
飯豊王(上の世代の方、青海郎女。中磯皇女の別名)は「目弱王の乱」があった時、女性だったので雄略天皇による殺害をまぬがれたのではなく、「大日下王の変」の時に薨去していたんだろう。仮に生存していたとしたら、清寧天皇の皇后としては世代が違い高齢だったろう。飯豊王(下の世代の方、忍海部女王)は逃亡、潜伏中の一家に生まれたが、雄略朝の末期に伊勢神宮に保護され、その後、和珥氏の仲介で名乗り出て、雄略天皇からはたいそう気に入られた。このへんの事情はこのブログの他のところで書いた。この時、履中宮家が復興しその女当主に収まったんだろう。
そう考えると、清寧天皇からみて飯豊王は皇后としては申し分ない。允恭家の当主となった清寧天皇としては、まさに最高の皇后候補、それが飯豊王だったはずだ。
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平群家の皇室乗っ取り計画
ではなぜ飯豊王は皇后にならなかったのか。それはつまり「妨害された」のだろう。当時の最高の血筋を伝える女性を天皇と奪い合うような人間といえば平群氏しか考えられない。平群氏は初代の都久宿禰(つくのすくね)が履中天皇(該当記事参照)の時にヘマをこいてからは長らく冷や飯をくっていたが、その子の真鳥(まとり)が雄略天皇の即位に多大な貢献をして(このあたりの話はまだ書いてないのでいずれ詳しくやるつもり)、大臣(おほおみ)となって、かつての葛城氏の利権をそっくり受け継いだ。当時絶大な権力をもっていたのはこの平群氏であった。しかし大臣を輩出した葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏はすべて竹内宿禰(たけのうちのすくね)から出た家系で、かつ管轄分野も「外交・貿易・財務」と同一であって要するに同じ氏族である。名目は四つの氏族なのだが、実質は同一氏族の中の四つの家系といったほうがよく、竹内氏の中の葛城家・平群家・巨勢家・蘇我家だと思った方が現代人にはわかりよい。
真鳥の子が平群鮪(へぐりのしひ)。『古事記』では志毘(しひ)『日本書紀』では鮪(しひ)と書く。この鮪(志毘)が歌垣で袁祁王(後の顕宗天皇)と争い、最後に急襲をかけられ滅ぼされているがこの時「宮廷貴族たちは朝は朝廷に集まるけれども昼は志毘の邸宅に集まっている」といわれており、平群家が権勢を誇っていたことがわかる。
雄略天皇生存中は雄略天皇によって頭を押さえられていた大臣平群真鳥(へぐりのまとり、鮪の父)だが、若い天皇に代替わりして御し易しとみたのだろう。『日本書紀』によると雄略天皇崩御後、早速星川皇子(ほしかはのみこ)が反乱したが、このクーデターは白髪皇子(のちの清寧天皇)と大伴室屋(おほとものむろや)によって阻止され失敗した。星川皇子を養育した乳母氏族である星川氏は平群氏の同族(葛城系)であり、直接に軍事行動に参加しようとした吉備氏は平群家の家臣筋であるから、結局平群真鳥が首謀者なのはあからさまに誰でもわかったろう。しかし、すでに平群家の権力は強大で、しらばったくれる真鳥を追及できなかった。しかしこの一件で平群家と允恭家の関係は最悪の状態、というか関係は破綻したろう。これは真鳥の政治戦略での選択肢をあとあと狭めていく結果となる。允恭家との関係を切り捨てざるをえなかった真鳥の次の手が、仁徳王朝の嫡流たる履中家の姫であり当時皇族中でもっとも血筋のよい飯豊王を、息子の志毘(鮪)と結婚させて平群王朝を開かんとした纂奪計画である。
履中家は男子が雄略天皇に皆殺しにされて唯一生き残った飯豊王(=青海郎女=中磯皇女)もすでに世になく、潜伏していた飯豊王(=忍海部女王)が雄略帝に見出されて履中宮家が「忍海宮」として復興されていた。飯豊王(=忍海部女王)はその女性当主である。ただでさえ皇室に並ぶほどの権勢を誇っていた平群家が、もし飯豊王(履中家後継者)を妻にしたらどうなるか。清寧天皇の皇室(=允恭家)からみても宗家にあたる履中家の資産を、平群家が併合してますます強大化して皇室を凌ぐことになるだろう(儒教的には男系が途絶えればそれで終わりだが、名跡とは別に、資産に関しては女系で継承する習慣があり、それは原始時代には世界共通だったと思われるほどの、極めて古い風習だ。日本では中世まで続き、皇室御料は女院名義になっていたことは有名)。

飯豊王(履中宮家)は清寧帝(允恭皇統)と平群家との板挟み
ただここで読者諸兄の中には「飯豊王自身の個人的な男の好み(好きなタイプ)はさておいて、皇室を守るためにも清寧天皇の后になるのが皇族として当然の崇高な使命だろう、なぜ悩むことがあるのか」と、飯豊王の不忠ぶりを怒る人もいるだろう。だが現代でも同じだと思うが、リアルタイムで政局の渦中にいる時は様々な情報、説得、宣伝に取り巻かれ、何が正義で何が悪なのかわかりにくいものではないだろうか。今でも原発とかTPPとか、保守派の中でも意見が割れるでしょ。
個人的な好き嫌いをいえば、当時の皇族貴族といった高貴な女性は古典的なイスラム、アラビアの女性とか平安時代の高貴な女性のように人前に出ることは滅多になく、身内の男性以外に出会う機会は、意図的な出会いがセッティングしやすい伝統的なイベントぐらいだったろうから、事実上の見合い婚しかなく純粋な意味での恋愛結婚はもとから無かったろう。

皇族と皇親のちがいこの場合「平群氏は皇族ではないから皇位継承争いに参戦できないだろう」という反論は無効である。当時は臣籍降下という手続きがないので、皇族と皇別貴族の区別は曖昧だった(というか皇族という枠組みがまだ無かった)。平群真鳥は開化天皇の5世孫(記紀では孝元天皇の5世孫とするが誤り。詳細は孝元天皇の頁を参照)で、これは継体天皇が応神天皇の5世孫なのと同程度の遠縁であり、お世継ぎがいないのだから次の天皇は俺らだと、真鳥と鮪(志毘)が自負していたとしてもおかしくない。継体天皇の祖先が応神天皇以来、代々「○○王」と書かれ、ずっと皇族だったようにみえ、平群氏のカバネが「臣」(おみ)なので早々と臣籍降下しているように錯覚してしまうが、天皇からわかれて4、5代ぐらいしかたってないのなら当時はキミ(君/公)だったと思われる。継体天皇も『上宮記』逸文に「乎富等大公王」(をほどのおほキミ)とあるのはその名残りと思う。キミ(君/公)というのは皇親であって、「皇親」ってのは皇族とは違い、現代にはない概念だから現代人にはわかりにくいだろうが、今でいうと皇族であるようなないような、貴族のランクで一番上なのか皇族に含まれるのか、曖昧なのである。例えば、英国で王族でもなんでもないタクシーの運転手が王位継承100番目だったりするようなことを思い浮かればよい。記紀は「奈良時代からみて」平群氏は臣(おみ)だったから真鳥や志毘(鮪)を平群臣「の祖」と書いてるのであって、「当時」臣(おみ)だったのではない。継体天皇にも「王」と書いてるけど、これは「みこ」ではなく「きみ」に当て字する時にわざわざ公や君でなく王の字を選んだのであろう、後に継体天皇になったことを奈良時代の人は知ってるから。

で、平群家が履中皇統の生き残りの飯豊王と結婚したがるのは、履中家からきた仁賢天皇が允恭家の雄略天皇皇女を皇后にしたり、息長系からきた継体天皇が先帝武烈天皇の姉を皇后にしたりするように、遠縁からきて即位した天皇が先代皇室の皇女を皇后にするのと同じなわけだ。
飯豊王にしてみれば清寧天皇(允恭家)と平群鮪(平群家)からの二択になる。だがこの両家は皇位争いにおける条件が平等ではない。允恭皇統には清寧天皇(本命)とその石木王(補欠)の二人しかおらず、断絶の危機は完全には去ってないが、平群氏には志毘以外にも男子候補が無数にいたろうからだ。平群を悪だと断定して完全に拒否するのが本当に正義なのかどうかその段階ではなんとも微妙だったろう。(石木王の家系については下記の囲みコラム参照)
飯豊王の立場は後世の推古女帝が皇室と蘇我氏の板挟みにあったのと似ており、それで清寧天皇と志毘臣の間で中立を保ち、両者の求婚への返答を先延ばしにしたのであろう。
そういうわけで清寧天皇と鮪(志毘)は、二人で飯豊王を取り合っていた。飯豊王は如上のように単なる高貴な女性という存在ではないのであって、他の女性に皇子を産ませればいいという問題ではない。もし他の女性を妃/妻にすれば、飯豊王はライバルになびいてしまう可能性が高いから、清寧天皇と志毘(鮪)はお互いとも独身のままで頑張って張り合っていたわけ。

石木王の家系について石木王(いはきのみこ)は日本書紀は清寧天皇の異母兄としているが、実はもっと遠縁で、従兄弟か、従兄弟の子ぐらいだろう。允恭天皇の男系子孫であるから允恭宮家の皇位継承権者であることには問題はないが、具体的な家系については議論がある。石木王を日本書紀では磐城皇子(いはきのみこ)と書き、雄略天皇が吉備稚媛を妃として磐城皇子と星川皇子を生んだとあり、この二人がつまり清寧天皇の異母兄と異母弟である。しかし、顕宗天皇の皇后である小野難波王(をののなにはのみこ)は允恭天皇の曾孫、磐城皇子の孫、丘稚子王(をかのわくごのみこ)の娘だともある。この磐城皇子は同一人物だとすると雄略天皇と允恭天皇、どちらの皇子か? 允恭天皇には記紀ともにこんな皇子の記述はないので、雄略帝の皇子と判定したくなるが、なぜ日本書紀には允恭天皇の皇子だという記述もあるのか、注として書かれてはいるものの「一本に曰く」などの異説としての紹介ではないので正説として書かれているようにも感じられる。吉備稚媛は雄略帝の妃になる前には吉備臣田狭(きびのおみ・たさ)の妻で、離婚させられた上で妃にされたので、前夫との間に二人の男子がいた。田狭が妻が美人だと吹聴したため雄略帝に妻を召し上げられる羽目になった話も日本書紀にでてくる。これだけみると雄略帝がひどい人に思えるが、さすれば田狭もこの美女を略奪婚で得たのであって、田狭のさらに前の前夫がいたのではないか。それが允恭天皇で、允恭天皇と吉備稚媛の間に磐城皇子が生まれたのだとすると、系譜の線としては辻褄があうが、年齢的に無理。もちろん允恭天皇が吉備稚媛らしき女性と関係をもったという伝承もない。ところで、古事記は石木王の父についてはふれていないが、難波王は石木王の娘だとしていて、丘稚子王が出てこない。つまり日本書紀は石木王と丘稚子王の父子関係を間違って逆にしているのではないかと疑われるのである。さすれば、吉備稚媛の前々夫とは允恭天皇ではなくて丘稚子王だったのではないか。
むろん丘稚子王も允恭帝の諸皇子の中には出てこないが、これを解釈するにとついては二案ある。一つは、允恭帝が皇后の反対で妃にできなかった衣通郎姫(そとおしのいらつめ)という女性(皇后の妹)がいて、允恭帝は彼女のもとに何度も通って、皇后ともめている。この人との間には子は生まれなかったことになっているが、実は皇子がいて、皇后が薨去するまでの間、長らく密かに匿われていたため、公式な記述から長いこと落ちていたのではないか。それが丘稚子王だとする案。もう一つは、丘稚子王は允恭天皇の皇子でなく孫だったのではないか。木梨軽王か黒日子王か白日子王の子だったのなら、記紀に説明がなくても不自然さは薄まる。この場合、白日子王が候補として第一だろう。日本書紀には八釣白彦皇子とあり、明日香の八釣(やつり)に住んでいたらしい。八釣の邸宅は石木王の娘、難波王まで伝領され、難波王と結婚した顕宗天皇はその地に宮をかまえたのだろう。顕宗天皇の宮を古事記では「近飛鳥宮」(ちかつあすかのみや)としか書かないがこれは文字が誤脱していて、日本書紀では「近飛鳥八釣宮」とある。(「近飛鳥」と「遠飛鳥」はどっちが大和でどっちが難波だという議論もあるが長くなるので別の機会に)

清寧帝の崩御は暗殺ではありえない
春正月に、清寧天皇が未婚のまま崩御して、皇子がいなかったが、自分の崩御後の允恭家の行く末と允恭皇統の継続について、心配はしていたといっても完全に絶望するほどでもなかったろう、清寧天皇本人にしてみれば異母兄の石木王がいるのだから(実は異母兄でなく、従兄弟の子であることは上述)。清寧天皇が飯豊王に固執したのは平群氏の専横を抑えるためである(恋愛感情も無かったとは断言できないが、衣通姫(木梨軽太子の妃)や大中津媛(允恭帝の皇后)から察すると允恭家の女性たちは美人遺伝子のかわりにありきたりな女のサガ丸出しなタイプが多そうなのに対し、石之日売(仁徳帝の皇后)から察する葛城遺伝子を濃いめに継ぐ履中家は個性的な分、面白い人たちというかキャラの強いタイプの女性が多そうではある。適当だが。どっちがいいかは清寧天皇の個人的な趣味)。清寧天皇の崩御はタイミングが良すぎるのでこれを暗殺と考えたくなるが、それは無いだろう。清寧天皇崩御でいきなり平群が有利になるわけでもなく、それどころか平群にとっては鬱陶しい石木王(いはきのみこ=磐城皇子)が天皇になる可能性を開くからだ。清寧天皇がもし長寿に至ったとしても、立后を妨害されたまま持久戦なら皇子は石木王の系統しか存在しないことに変わりはない。この石木王は日本書紀をみると謙虚でまじめな人物で、自分から天皇になろうというような人ではない。星川の乱では、その事実上の参謀で謀反を唆した吉備姫は実母、謀反の名目上の首魁である星川皇子は実弟だったが、反乱の直前にその母と弟を諌めているぐらいだから、忠実清廉高潔な君子であって、平群の傀儡になるような人でもない。母と弟の罪を理由に皇位継承権を辞退し、わざわざ難波吉士(なにはのきし)という帰化人系の三流貴族の娘を妃にして、さっさと皇位争奪レースからは降りていたのではないかと思われる(娘の難波王はその名から実母か養育氏族のいずれかが難波吉士氏と推定される)。石木王の父(書紀は誤って父子関係を逆にしている)の名が「丘」稚子王(をかのわくごのみこ)だが、丘の字からみて、この王子の生母の出身氏族かまたは養育氏族(乳母の出身氏族)は紀「丘」前久米連(きのをかざきのくめのむらじ)だろう。この氏族も星川の乱の主要メンバーとして参加して殺されており、紀丘前久米連が不名誉な死に方をして氏族が没落し、石木王は後ろ盾を失っていたろう。ルーツが白日子王なら雄略帝に不忠のカドで誅殺された人の子孫だし、衣通郎姫の隠し子なら、大中津姫のとりまきの流れを汲む允恭宮家においては、さらなる冷遇を受けたはず。あくまで傍流として、いずれにしろ部屋住みの婿養子みたいな扱いだったろう。だが清寧天皇の崩御の後は、一転して允恭宮家の建前上の当主になった。
この石木王が皇位継承権者からはずれるに足る致命的な理由はないはずだが、もし辞退せずとも、石木王と仲が悪い平群氏は、「石木王は謀反人(吉備稚媛)の血をひいているから」という建前で猛反対したろう。その謀反の黒幕の癖にな。自分が黒幕であるという事実に気付かないように目をそらさせるためにも、悪役を立てて「こいつが犯人だ」と言い続けるのがよいという、平群の政治宣伝が功を奏して石木王は一部の理解者に守られつつも世間的には評判の悪い皇族として汚名を着せられたままの状態だったと思われる。実際、石木王の生母と異父弟のとんでもない所業は許されるものではないが、彼自身は関係がない。しかし溢れる富と権力を握って世に時めく平群父子に憧れる者や媚を売ろうと話をあわせる者は無限にいたろう。不条理だが、皇族を中傷するのに本人でなくその家系や血筋をもちだすヤカラは現代にもウンザリするほどいるのをみればおおよそ想像がつこうというものだ。それでも石木王が退かねば平群に暗殺されるだけのこと。清寧天皇なき今や、石木王は允恭宮家の唯一の男子で、允恭家の当主(といっても実権は母方の血筋のよい故清寧天皇の姉妹たちが握って本人はお飾りだろうが)なのだから、このことはつまり「允恭家が皇位継承争いから降りた」ということを意味する。
かく、石木王の線がないとなると、自然といつかは平群父子に皇位は転がり込んでくるのだから、清寧天皇が刺客を放って鮪(志毘)を暗殺するというのならともかくその逆は理屈にあわない。皇室は度重なる皇位継承の殺し合いのせいで後継者不足だが、平群氏は一族がワンサカいたろう。平群氏の方が現状のままで有利、優勢なのである。

こじれる後継問題
当然、崩御後に後継者問題が生じた。この時の皇位継承候補は石木王の他、仲哀系や息長系がいた。石木王は当時まだ薨去していた可能性もなくはないが、どっちにしろ上述の通り石木王の線はない。残りは仲哀系と息長系の2つが記紀が皇族扱いして書いてるのでこの2系統だけと思ってしまうが、前述の通り、平群家を含めた皇別氏族でまだ4、5代しか経てないものとなると相当数いたはず。問題は、単なる血筋だけで比べたらどれも五十歩百歩だったろうが、平群氏は財力・権力・地位・名誉が当時ズバ抜けていたということだ。
このままいくと平群が天皇になるって話で終わりそうだが、問題は2つあり、一つは大伴氏や物部氏など一部の大貴族が平群家に心服しておらず、彼らが無理矢理にでも弱小な枝葉皇族をかつぎあげて平群氏に対抗する恐れがあったこと。二つめには平群家がかつての葛城家の利権を丸呑みする形で継承していたために「第二の葛城家」と見られ、庶民層にはいちじるしく評判が悪かったと思われること。葛城家が庶民に嫌われていたということについては以前に別の頁で詳しく書いたからここでは繰り返さない。これだけで平群氏が悪なのは明白なのだが、雲の上で浮世ばなれした生活してる皇族貴族にはわからないんだよね、ブラック企業で働いて四畳半で貯金もなく暮らしてる庶民の気持ちなんか。麻生や安倍だってわかってないだろう。
平群家としては、皇室の正統につらなるもっとも高貴な血筋をもつ女性と結婚して、皇室と一体化すれば、大伴・物部や庶民に対して有無をいわさず(天皇として)君臨できるようになる。ちょうど折よく(?)、允恭宮家は石木王を除けば切れてしまって、履中宮家ともども男性がほぼいない女所帯になってしまった。単に婚姻によって皇室を乗っ取るのが平群の目的なら、允恭家の女性も候補になりそうなものだが、第一に允恭家は履中家と比べて、平群の同族だった葛城家の血が薄くそれだけ親近感もなく感情的に距離があったこと、第二に星川皇子の乱が潰えたことによって平群家と允恭家の関係は破綻して気まずい関係になっていたと思われること(清寧天皇に謀反した星川皇子の首謀者だった平群家に対して、允恭家の後宮はひどく不快感を抱いていたことは間違いあるまい)、第三に、本心から儒教を信奉してた葛城家とは違って、単なる政治的利用にすぎぬとは思うが、葛城家と同様、平群家も建前は儒教派であり(ファッションとしての中華趣味は両家共通)、彼らにとっては長男の家系でかつ先に即位している履中皇統こそが皇室の嫡流・直系・本家なのであり、允恭家などは庶流・傍系・分家にすぎず、飯豊王に比べると允恭家の女性皇族たちは二段も三段も格が落ちると評していたのではないか、むろん仲の悪い允恭家へに対する誹謗という側面もあったのだろうが。
その雲の上の飯豊王だが、次の天皇が不分明な場合、中世では皇太后(先帝の皇后)にお伺いを立てて先帝の遺志を確認することが行われたが、古代でも先帝の喪の期間は外廷(朝廷)が機能停止するので、内廷(=後宮)がすべてを主宰する情況が生まれる。従って時期天皇が誰かという決定には後宮の女性たち、わけても彼女らのリーダーたる皇太后の意向が絶大な力をもったことが、記紀の諸伝承のはしばしから伺われることは先学の指摘するところである。そこで古事記によると「日継しらすべき御子を飯豊王に問ふ」ということになった。このことからわかることは重大だ。なんとなれば、飯豊王を当時の人々が清寧天皇の皇后と同格もしくはそれに準ずる人物、つまり次の天皇を指名する権限をもつ人物とみなしていた、ということだから。独身の天皇が言い寄っていた女性なのだから、彼女を皇后に準ずる扱いとするのは天皇の遺志を重んずることにもなるわけで、允恭家やこれを支持する貴族たちも反対しにくい。しかし「日継しらすべき御子を飯豊王に問ふ」の飯豊王を若井敏明の説では叔母/皇女の方だとする。だがわたしはこの説を支持しない。この頃、飯豊王(若井の説では叔母/皇女だが、実は三世代も前の人なので)とっくに死んでるのである(おそらく目弱王の乱の時、大日下王の落城とともに)。
飯豊王に決めてもらうという方法には平群家も反対したろうが、雄略天皇の申し子みたいな人だから権威と人気は絶大でどうしようもない。その上うまい代案もない。案の定、次の天皇に平群を指名せず、予想外にもよりによって石木王を指名したことだ。

履中宮家の戦略
実は飯豊王は履中家の後胤(つまり意祁王と袁祁王)を密かに隠していた(そもそもこないだまで一緒に潜伏してたんだから当たり前だが)。飯豊王の当初の計画では、この後胤は宿敵である允恭系の天皇が途絶えた場合(つまり清寧天皇が崩御し、かつ石木王の系統も途絶えた場合)に、世に出す計画で、允恭皇統(=雄略皇統)が永続した場合には指名手配も解除されないから、そのまま永久に隠し通すしかない(自分が雄略天皇に公認されたのは女だからであって、男ならどうなったかわからない。逮捕され処刑されていた可能性があったと考えていた)。この後胤=二皇子はまだ幼く、昔は夭折が多かったことと、仮に允恭家と和解できて指名手配が解除されても、平群から暗殺などで狙われる恐れがあった(清寧天皇は前述の通り暗殺ではなかったと推測するが当時も暗殺じゃないのかと疑う者は多かったろう)ことから、不用意に公表などできない。まだまだ長い間、この先も極秘事項とするつもりだったろう。
隠し玉の二皇子を活かすには、平群の皇位簒奪を阻止する必要がある。平群天皇なんてものが実現したら二皇子は人畜無害な存在となって晴れて表に出せるかわりに、永久に皇位はやってこない(平群氏には男性が多いため)。かといって、允恭家の天皇=雄略皇統が続く限り、二皇子の指名手配が解除される可能性も低いことにかわりはない。が、しかし平群氏は軍事的に滅ぼしたりしない限り、自然状態では断絶の可能性が限りなく低いのに対し、允恭=雄略宮家はわずかながらその可能性があり、允恭家が断絶した場合は二皇子は継承順位からいって平群よりも上位になるわけだ。よって飯豊王としては痛し痒しな選択ではあるが、石木王を指名する他にやりようがなかったはずだ(これはわたしの個人的な推理であり、記紀には飯豊王が石木王を指名したとは書いてない)。
しかし、石木王は断固として皇位を拒否、平群も猛反対、仲の悪い両者が飯豊王の前で連帯するという奇妙な展開に。石木王は自分が退くのはいいとしても、かといって平群天皇の実現にはなおさら大反対だったろうから何か代案を出したはずで、仲哀系(品夜和気王の子孫、のちの倭彦王の祖先)とか息長系(のちの継体天皇の祖先)を出したろう。息長系は考えようによっては応神天皇の正統ともいっていえなくもないほどで、格式や権威は低からざりしも、当時はまだ越前や尾張に勢力を延ばす前で、この頃は近江の一部を支配する豪族レベルに落ちていた。近江は東西交易の要衝だからそれなりに富強だったと思われるが、そこで取引される物資も外国製品の買い入れとそのための東国の物資の売り出しだから、大財閥である竹内氏(葛城家ついで平群家)の経済的な搾取下(もしくは下請け企業のような状態)にあったも同然だったろう。
仲哀系(品夜和気王の子孫、のちの倭彦王の祖先)は間人連(はしひとのむらじ)氏と蘇宜部首(そがべのおびと)氏の祖先である。おそらくこの頃は間人君(はしひとのきみ)と称する氏族だったと思われる。蘇宜部とは蘇我氏の部曲(かきべ)でありそれを管理したのが蘇宜部首だからこの家系は早くから蘇我氏と婚姻関係で結ばれていたのだろう。そうすると、蘇我氏は平群と同じく竹内系氏族に属し、この頃は平群が総帥だから蘇我はその家臣筋であり、この仲哀系も家柄の格式はともかく、実際の権力関係では平群の配下のようなものだったろう(ただし履中家と仲哀系との間にも婚姻関係が結ばれていた可能性もある。記紀には脱漏しているが)。
このように平群の全盛期においては仲哀系も息長系も物理的なリアリティーはなかった。その上、仲哀系や息長系をもちだすのは、仁徳系に属する履中家や允恭家の全否定になり、その意味では平群(=開化系)をもちだすのと大差ないので、飯豊王が同意するわけもない。まぁ石木王の提案はテーブルをひっくり返すようなもので当時の情況では遠回しに「俺はしらん」といってるのとかわりないものだったろう。

庶民のデモ行進
これで事態は膠着したが天皇が決まらなくては政治が停滞する。そこで朝は飯豊王の坐す「葛城の角刺宮」で連日の新帝擁立会議がダラダラ続き、昼は平群邸に主だった貴族が集まって平群氏を天皇に擁立するための相談を行うようになったろう。古事記に「貴族たちは朝は朝廷に集うが昼は平群邸に集まっている」と書かれている情況が始まったのがこれだ。そうなると当然、アンチ平群派の貴族は、角刺宮にしか行かないから、二重政府の様相を呈してくる。これに最も危機感を抱いたのは一般庶民だろう。庶民にしてみれば、天皇は平群以外ならもう誰でもいいので、他の貴族たちに飯豊王を支援するように訴える意味で、国民運動が起こった。書紀には「時の詞人」(一般庶民の無名の歌手)が「すばらしい宮殿だという角刺宮を見物に行きたいものだ」という歌を詠んだという話が出てくる。これは一般人が積極的に角刺宮へお参りに出かけることで、平群派の貴族が売国奴であり庶民の敵であることをアピールするデモ行進みたいなもの。(竹内系の葛城や平群が、今でいう経団連とマスコミと左翼文化人がごっちゃになったようなものであることは以前に別の記事で詳しく書いた)

飯豊王の交際
書紀によると、清寧三年の秋七月のこととして、飯豊青王女が、角刺宮においてある男と性交して(與夫初交)「やってみたらなんてこともない。もう男に興味なし」と言ったという妙な記事がある。

飯豊王の「謎の男」?なぜこんなへんな記事があるのか古来議論されてきた。現在の学界では記紀の伝承にある程度は史実の反映を認めつつも基本的にお伽噺として受け取る理解が主流なので、この伝承にもあまり歴史的な意味での解釈はなされず放置され気味である。一方、民間在野の古代史マニア業界では、愛することを禁じられた悲劇の巫女王の淫猥なスキャンダルとして面白おかしく論じたり、具体的に相手の男を詮索する説がある。一例としては、相手の男性は、皇后がいなかったとされる清寧天皇だったと推測する説もある(竹内睦泰)。しかし清寧天皇と飯豊王の結婚には「実は同母兄妹だった」というような系譜伝承を無視した設定でも仮構しない限り、障害となるような原因が考えにくい(系図が改竄されているなら晴れて二人の関係を明記しても問題ないことになるのにそうなってはいない)。清寧天皇と飯豊王は独身同士であるから関係をもったとしてもそのこと自体は不倫でもない。また巫女に処女性を要求するようになるのははるか後世の風習にすぎず、昔に溯るほど夫婦で神官(男巫・女巫)だったり、孫のいる老婆が巫女だったりする例が多いことは、関口裕子や義江明子らによって究明されてきた(いうまでもないが当時婚前交渉が禁じられていたわけでもない)。

飯豊王が「ある男」と性交に及んだのは『日本書紀』では清寧天皇在世中のように書かれているが二皇子発見の後になっており、『古事記』に照らしてみれば清寧天皇崩御の後になる。なので清寧天皇が春正月に崩御したその年の秋七月のことだろう。今時の芸能人でもいちいち自分の性生活をマスコミに公表したりはしない。無意味だから。これが歴史書に載るのは、当時これが政治的な意味をもったからで、いったいこの男が誰なのかというと、こんなことを公表して政治的な意味をもつ相手というと、流れからして平群鮪(志毘)しかいないだろう。庶民の猛反対に驚いた志毘(鮪)は既成事実を作ろうとして飯豊王に迫った。ただし二人の関係は、二皇子の存在が公表される以前の、まだ飯豊王も将来の皇位をどうすべきか迷っていた頃の話だろう。
庶民の大騒ぎ(=庶民の意思表示)に、平群家は驚いたが、罪もない庶民を武力で鎮圧しようとすれば、アンチ平群派の大伴氏や物部氏が黙ってない。あせった志毘(鮪)は既成事実を作ろうとして飯豊王に肉体関係を迫った。つまり夜這いをかけた。これは当時の上流階級でも婚姻の申し込みに該当する行為である。
飯豊王は二皇子の存在を極秘事項にしていたが、具体的にどこにいるのかもむろん知っていただろう。だから彼女は平群を天皇にする気などさらさらないしかし現状では石木王・仲哀系・息長系には可能性が低そうで、このまま何もしなければ、(あるいは二皇子のプロデュースに失敗すれば)平群天皇の実現は時間の問題、それなら「保険として」だが、未来の皇后も悪くないかという判断だろう。実は当時は、現代人が考えるような一夫多妻制はなく、多夫多妻制というと誤解があるが、そもそも現代人が思い浮かべるようなきっちりした婚姻制度が、概念からして無かった。ただでさえそうなのに飯豊王は奥州の蝦夷たちと一緒に暮らしてきた田舎育ち(詳細は当ブログ内の他ページで)。ところが鮪臣は中華趣味の財閥の御曹司で儒教倫理にふれる機会の多い環境で育っている。当時はまだ彼のようなのは少数派ではあっても、ともかく性行為と「制度としての結婚」の直結という考えを現代人以上に(儒教的に)持ってたんだろう。
かくして志毘(鮪)は角刺宮にも押し入って肉体関係まで結び、事実上の天皇然として振る舞った。
これに驚いたのは飯豊王だ。予想外の展開に頭を抱えたろうが、自分のせいだからどうしようもないない。二皇子の件を公表するのはまだまだ先の予定だったが、こうなってはそんな悠長なことは言ってられなくなった。ただちに履中皇統の後胤が生存し、密かに匿ってきたことを告げ、志毘臣とは交際をやめ、絶縁したということだろう。

福井県の「青海神社」今の福井県高浜町の青海神社の境内には飯豊王が禊したという池がある。飯豊王は平群鮪とつきあったのを後悔してこんな遠方まで禊にいったのだろうか。ちなみにこの神社の所在地の旧称は若狭国大飯郡青郷村で、「飯」「青」の字が飯豊青尊(いひとよあをのみこと)、または青海娘女(あをみのいらつめ)という名と関係ありそう。またこの地は「海部」(あまべ)で飯豊王の部民だったとも伝わる。
こんな遠くまで出かけた理由の一つには、その頃の都(難波〜奈良盆地とその周辺)は葛城氏や平群氏に象徴される大陸文化が全盛で、純和風な文化が衰退しており、平群に嫌気をさしていた飯豊王は、古めかしく素朴な文化を訪ねる旅に出たのではないかとも考えたくなる。また、このついでに、日本海を挟んだ大陸との交流も視察したのではないか。当時の日本は朝鮮半島の南部を支配して、北朝鮮を領土とする高句麗と対立していた。瀬戸内海と並んで日本海沿岸にも軍港や帰化人集団が多かったろう。これがのちのち、履中家の勝利と平群氏の滅亡に、意外なところでつながってくるのだが、それはまたあとで。

二皇子の発見
この間、仁賢・顕宗の兄弟を確保していた志自牟(しじむ)という人は、『日本書紀』では細目(ほそめ)という名でこの地の忍海部(おしぬみべ)の管理人であることと明記されている。この事実は重い。忍海部は全国に散らばる所領でその領主は飯豊王。これを根拠に若井敏明という先生は最初から飯豊王が兄弟を隠していたという説を出しており、俺も賛同する。百歩譲ってそこまで勘繰らずとも、発見が公表される前に秘密裏に極秘情報の第一報が朝廷の誰よりも先に忍海部の主人である飯豊王に入った可能性は著しく高かったであろうことは否定のしようがない。兄弟発見の情報を得た飯豊王は一旦は二人に秘密の護衛をつけて世に隠したまま、前述のように戦略を練り上げ、安全な時が来るのを待ったってことになるが、飯豊王はもっとずっと前から、というか最初から把握しているのである、自分も逃亡しながら連絡は取りあってたんだから。
清寧天皇崩御の後、石木王を新帝に指名したが、それに反対する平群氏が飯豊王と結婚して履中皇統の乗っ取りに出てきたので、もはや二皇子を公表するしか平群の野望を阻止する手立てはない。
兄弟が発見されなかったならば、飯豊王が志毘(鮪)を拒絶しようがしまいが、後々の皇位継承者がいない情況なのだから遅かれ早かれ平群氏の天下はやってくるのであり、真鳥・志毘の父子は反主流派の皇族貴族の動向にさえ目を光らせていれば枕を高くして寝ていられたことであろう。あとは二皇子の身柄を安全に確保すること(平群による暗殺がありうる)と、政界に地味にこっそりデビューさせることは不可能(「あんた誰?」ということになる)だから、庶民に知らせるという意味でも、芝居がかった華々しいデビューが演出された。これは平群の裏をかくために企画された演出と思う。
かくして仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟が登場したことで事情が一変してしまった。鮪(志毘)が、天皇をも恐れぬような権勢を奮っていた最中であったことと、にもかかわらず顕宗天皇のために突然に計画が無効にされてしまったこと、これらの背後事情があって始めて、記紀の伝える顕宗天皇と志毘臣の歌垣における激突が理解しうるのである(歌垣伝承の主人公を『日本書紀』が顕宗天皇でなく武烈天皇のことだと誤ってしまった理由は別に考察あり。別記事を参照)。

飯豊王の執政が始まる
二皇子が発見されたのは書紀では清寧二年の冬十一月のことになっているが、清寧天皇の崩御後とする『古事記』の方が正しいので、清寧天皇が春正月に崩御したその年の冬十一月、つまり飯豊王と鮪の結婚交渉が破談になった七月から4ヶ月後と推定する。この4ヶ月はさまざまな仕掛けや演出、段取りを極秘にすすめた期間と思う。平群にしてみれば驚いたを通り越して、開いた口がふさがらなかったろう。二皇子はまだ子供だったので、いきなり即位というわけにもいかないが、これには応神天皇と神功皇后の先例がある。そこで、飯豊王は兄の意祁王(=仁賢天皇)を皇太子に指名して、自らは摂政に就任した。摂政というか「垂簾の政」だよな。また履中天皇自身が長男で儒教に基づいて仁徳帝の皇太子になったので、履中皇統は代々長子相続をアイデンティティーとした。当然、兄の意祁王が継嗣であり、袁祁王(=顕宗天皇)が即位するという発想はこの段階ではまだぜんぜんなかったと思われる。
ところで、履中皇統は母系では葛城氏であるが、この頃はすでに世代を経て遠縁になっており、飯豊王の執政が実現したのは、平群真鳥にしてみれば苦々しく思いながらやむなく黙認したにすぎない。このへんは後世の推古天皇と蘇我氏の協力関係とは全然似ていない。推古朝は蘇我の専横の時代であるということはまったく否定のしようがないが、その一方で推古天皇が単なる傀儡だったわけでもなく、蘇我の権力は女帝の権威に依存していたため、女帝の筋を通すべきところでは蘇我が手出しをできないことが度々あった。このことは平群氏と飯豊王の関係でも同じことがいえるだろう。ただし、相違の方が大きい。蘇我氏の場合は、推古天皇を立てているのは聖徳太子を即位させるためだった。聖徳太子が早逝したためこの計画は潰れてしまったが。そして蘇我は田村王(=のちの舒明天皇)を擁立する方針にかわる。ともかく自派にとって都合のいい天皇候補を即位させるための前フリ、下準備が女帝擁立だった。だから推古天皇が次期天皇として山背大兄王を指名した時には、蘇我蝦夷は遺詔を歪曲して田村王を擁立するという力技に訴えざるをえなかった。ところが平群氏と飯豊王の場合には、次の天皇候補について同一目的で一致しているわけではない。意祁王・袁祁王には平群の同族の葛城の血は入っているが、平群の血は入ってないし、こないだまで平群氏自身が次の天皇だという話だったのだからむしろ意祁王・袁祁王は横から出てきた邪魔者でしかない。飯豊王は、蘇我を翻弄した推古天皇のような複数のカードは持ってなかった。従って、一応皇太子が決まってしまった以上は、表面的には平穏を装う他ないが、この情況では飯豊王と平群氏は協力者という要素はほとんどなく、潜在的に敵同士に近いのである。
「袁祁王と平群氏の激斗!」に続く
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