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・清寧天皇・補遺

H30年12月29日(土)改稿 H27年10月21日(水)初稿
「大」倭根子か「稚」日本根子か
清寧天皇の名は古事記では「白髪大倭根子命」(しらかのおほやまとねこのみこと)だが日本書紀では「白髪武広国押稚日本根子尊」(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのみこと)。「武広国押」については前にちょいと書いたからいいとして、大倭根子と稚日本根子はどっちが正しいのか。「大〜」と「稚(若)〜」というのは、普通は親子とか兄弟でつける一対の名だから、考えられるのは兄か父が「大倭根子」で清寧天皇は「稚日本根子」(若倭根子)だったのが、のちに息子か弟ができて「若倭根子」の名を譲り、父か兄から「大倭根子」の名を貰い受けたのだ、と考えられないだろうか。そうすれば清寧天皇に二つの名があることが説明できる。石木王は清寧天皇の兄ではなく義理の母の連れ子だが、日本書紀は清寧天皇の異母兄だと勘違いしているのは、雄略天皇一家には一応、(養子ではないが)漠然と養子的な存在として受け入れられ、清寧天皇が生まれてからはその兄弟分として処遇されていたのではないか。だから「大倭根子、若倭根子」の名を対でもつのは、その兄弟分としての地位が与えられたという表現だったのではないかと思う。星川皇子が生まれてからは、星川皇子が「稚宮星川皇子」(わかみやのほしかはのみこ)と書かれてもいるので、この稚宮(わかみや)がつまり稚日本根子命と同じ意味だろう。そこで清寧天皇は「中倭根子」と称してもいいところだったが、石木王は謙虚な人でかつ聡明なので事前に皇位争いの危険を察知して、尊号を固辞して皇太子(白髪王)に大倭根子の名を譲ったものと思う。だから天皇になった時点では古事記の「大倭根子」の方が正しい。日本書紀は、二つの伝承から選ぶ際に、清寧天皇が若くして崩御したので単純にそれに似つかわしい方を選んだまでのことと思う。

星川の乱
雄略天皇崩御の直後、星川皇子が反乱を起こしたことは『日本書紀』に詳しいが『古事記』には書かれていない。この乱の黒幕が平群氏だと推定したことは前に書いた。平群氏と皇室の水面下での対立はこの後もずっと尾を引き、武烈天皇即位までの様々な事件の前提になっている。そのため星川皇子の乱を知らないと、諸々の事件がバラバラな説話にみえてしまい、一貫した歴史の動きとして認識できなくなってしまうのだ。『古事記』は歴史書ではなく、恋愛譚と歌物語を紹介することに主眼を置いているので、この星川皇子の乱についてはスッポリ落としている。が、現代人はどうしても歴史の流れを把握した上で全体を理解したいと思うだろう。
星川皇子の乱の経緯を詳しくやりたいのだが、『古事記』の体裁では、先帝の崩御から新帝の即位までの間に起こったことは、すべて先帝の章の末尾に含む形式になっている。『日本書紀』では逆に新帝の「即位前紀」に含む形式になっていることが多い。当ブログでは『古事記』の体裁にならって、雄略天皇のカテゴリー記事で詳しくやることにする。
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