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・女が先に言っちゃダメなのか?

H27年(2015)11月17日(火)改稿 H27年10月27日(火)初稿
女から声かけちゃだめなのか?
蛭子が生まれた原因を『古事記』では「女の方が先に声をかけたのがいけなかった」んだ、といってる。で、これが女性蔑視じゃないのかというので問題にする人がいる。学者の説だとこれはもともとの古伝承ではなく、蛭子が生まれた理由を、中国の男尊女卑思想の影響で説明したものだ、つまり後付けで付加した部分だという説が多いようである。しかし、中山千夏みたいな女権フェミもこれに乗っかって、「昔の日本は女権社会で女の方が強かった、『古事記』のこの部分は中國の儒教思想で歪曲したんだ」みたいなことを力説してるので、本当かどうか、ちょっと検討を加えてみようと思う。

蛭子の誕生は「失敗」ではない
海外の類似の神話だと、最初に出来損ないが生まれた原因は近親相姦だとする例が多い。しかし、その後の続きの話が何パターンもあり、
(1)池や井戸の周りを回る儀式をして産んだら普通にまともな人間が生まれた、または穴をあけた筵(むしろ)を挟んで交接したらまともな人間が生まれた、という「正しいやり方」でやり直したというパターン(日本の西南諸島や台湾の少数民族の神話)
(2)蛭子のようなもの(肉の塊、手足のない子、のっぺらぼう等)が生まれたがそれを切り刻んでバラ撒いたら、それらの破片がみな人間になったというパターン(中国の少数民族の神話)
(3)最初に近親婚になってもいいのかを占って、吉とでたから結婚した。あるいは天神の命令により兄妹で結婚したというパターン(東南アジアや沖縄の神話)
このうちでは(1)が比較的イザナキイザナミの話に近いが、特定の儀式なり特定の性交のやりかたをすれば近親婚は許されるってことになる上、あまりに簡単な方法で、それでは近親婚を禁じている意味がない。この儀式だとか性交のしかたというのが記紀では天之御柱をめぐったり男女で声をかけあうという行為に該当してる。日本ではこの「許されるための儀式」に一度目は失敗したという設定になってるわけだ。
(3)は、近親婚は禁じられていたのではなく最初から不祥の原因でもなかったことを示唆する。記紀も近親婚が原因だとはしていない。
(2)は、結果的にうまくいったことになっており、蛭子の誕生は失敗でも無駄でもない。ただ、ひと手間足りなかったために一見失敗かと思われただけだったことになる。これが元々の形だろう。日本でも記紀では蛭子の誕生に食い違いがあり、古事記は国生みの最初に生まれて、ただの「葦舟」(あしぶね)に乗って流れていったというのに、日本書紀では「蛭児」と書き、神生みの最後、三貴子と一緒に生まれ、三年になっても足が立たなかったので「天磐橡櫲樟船」(あまのいはくすふね)に入れて流したという。この国生みの冒頭で生まれた蛭子と、神生みの最後に三貴子と一緒に生まれた蛭児は同じではないのではないか。最初に生まれた蛭子は肉塊のようなもので足は無かったか、あっても立たなかったので葦舟に入れて流したが、三年後の三貴子の誕生の頃に、成長してまともな神になって帰ってきたから、葦舟にかえて今度は天磐橡櫲樟船を与えたという話が原型だったのではないかと思われる。
もともと失敗ではないのだから、失敗の原因がどうのという話もなかったのだろう。これは失敗を改める話ではなく、よりよい子を生むための算段なのであろう。記紀では蛭子と淡島の二つしかないが、外国の神話では、ミミズ、なめくじ、カエルが次々に生まれたともいう。つまり今のやり方だといつまでも蛭子的なものしか産めないので、違ったやり方を模索しようという話。
と、そこまではいいとして、どうして女が先に声をかけるとよろしくなくて、男が先に声をかけると良いのか? 男尊女卑だから? 中国の男尊女卑に関係づける説では、いわゆる「夫唱婦随」と「牝雞之晨」(ひんけいのしん)という言葉が引き合いに出される。本当に中国の男尊女卑の影響なのかどうか判断するためには、中国思想をちゃんと調べて知る必要がある。

「夫唱婦随」の本当の意味?
「夫唱婦随」は『千字文』に出てくる言葉で、たった4文字なので何通りも解釈できるが、注には夫が正しいことをいえば婦はついてくる意だという。しかし、間違ったことをいってるのに賛成されても困るし、正しいことに賛成されるのは当たり前なような気がする。この直前の句が「上和下睦」で、これは聖徳太子の十七条憲法にもでてくる。で『千字文』は前の句とセットで8文字づつ読むものらしい。なるべく広く解釈すると「上に立つ者が和すれば下位の者たちも仲良くなる、だんなが何かいえばよめさんが従うようになる」の意味かな? だんなが上位でよめさんが下位という前提のように受け取れるのが気になるという人もいるだろうが、その問題はさておくと、だんなが和(柔和)ならよめと睦(仲良し)になる、といってるわけで、毒にも薬にもならないような、さしたる問題もないような言葉に思える。ただし『千字文』の夫唱婦随は『関尹子』の「天下之理、夫者唱、婦者随。牡者馳、牝者逐。雄者鳴、雌者応。是以聖人制言行。而賢人拘之」からきているという。試みに訳してみよう。「天下の道理は、人間では夫が先に提案して婦が後から従う。獣ではオスが先に走ってメスが追いかける。鳥ではオスが鳴いてメスが後から応じる。この道理をもって聖人(りっぱな人)はおのれの言葉と行いをコントロールするが、賢人(聖人に及ばない猪口才なやつ)はこれに拘る(形式に拘る)」。これみると「夫唱婦随」に形式的に拘るのはよろしくないといってる。おそらくここの聖人とは男性を想定しているだろうから、女性に対しては男の方から提案したり話題を振ったりすべきだといってるようだ。なんだか男尊女卑とは話が違ってきてないか? 獣や鳥が例にでているから「自然から学べ」という趣旨でもある。自然界の現実みると、牝獣が追いかけてくれるとは限らないが牡獣は先ず走ってみせねばならないし、雌鳥が応じてくれるとは限らないが雄鳥はまず鳴いてみせねばならない。自然界では交尾の相手を選ぶ決定権はメスがもってることが多く、これは人間にも当てはまるのは皆様ご存知の通り。夫唱婦随は男尊女卑どころかよめの機嫌取りに四苦八苦するだんなの絵が浮かぶ。夫が唱えたからって婦が従うとは限らないから、どうすればいいのかってことで『千字文』の「上和下睦」ってことになるのかな。

「牝雞之晨」(ひんけいのしん)
夫唱婦随とはまた別に「めんどり時を告げれば国滅ぶ」という諺(ことわざ)もある。四字熟語で「牝雞之晨」(ひんけいのしん)ともいう。原典は『書経』牧誓篇で 「牝雞は晨(とき)する無し。牝雞の晨するは惟(こ)れ家の索(つ)くるなり」 とあり、訳せば「めんどりは夜明けを告げて鳴くことはない。もしそういうことがあったらそのめんどりを飼ってる農家は財産が底をつく」という占いみたいな話(?)。これは周の武王が殷王朝を滅ぼす時の言葉で、妲己(だっき)という悪女が殷の紂王をたぶらかしていたことをさすといい、後世一般的には女性が権勢をふるってろくでもないことになる喩えに使われる。女性が政治に口を出すことをめんどりが夜明けを告げることに喩えているわけだから、女は政治するなというのがもとの趣旨。中国では夏の末喜、殷の妲己、周の褒姒、漢の呂后、唐の則天武后、清の西太后など権力とむすびついた悪女が多いイメージがあるが、統計的なものでもなく公平でない。日本や西洋にも女性権力者は多いが格別それで世が乱れたということもない。「牝雞之晨」夜明けを告げる鳴き声というのは高らかに宣言するイメージがあり、女性が政治的なリーダーシップを取ることは当然あっていいだろう。狼の群れでもメス狼が群れのボスになることもちょいちょいあるそうな。
しかし国家の政治指導者の話と夫婦の話はこれまた違うのではないか。周の武王がこの諺を作ったわけではなくて、もとからあった諺をもちだしたものだろう。で、政治に当てはめたからややこしいことになったが、もとの諺の趣旨はあくまで家庭内の夫婦の話の暗喩だろう。よめが何かだんなの代理をしてるのか男の役割を担って、それがなぜか家財の浪費につながるような例をいってるらしいが、何の事だかよくわからない。現実には、夜明けを告げるという役目が重要であるのならば、時刻通りに鳴いてくれさえすればおんどりだろうとめんどりだろうと、いっそのことニワトリ以外の何かでも一向に差し支えはないはずだし…。何かの喩えではあるんだろうが謎だ。

男女の性差とコミュニケーションギャップ
「夫唱婦随」にしろ「牝雞之晨」にしろ中国の特定の文化の枠組みでの話なので、現代の男女平等を前提にいくら好意的に解釈しても「でも、それって男女いれかえても成り立つんじゃね?」って話になってしまう。これはこの諺を現代人に都合よく歪曲してるだけで、正しく解釈しているとはいえない。しかしいずれにしろ、『古事記』のこの部分は中国の男尊女卑思想の影響だという通説は受け入れがたいと思う。既述のように、後から言う方に決定権があるともいえるわけで、「先に言う」のが優位で「後に言う」のが劣位だとはいえないからだ。
『古事記』の該当個所は「性差はある」って前提での話だから、現代人にも実感として理解できる性差の話からしたほうがいいのかもしれない。
女性は左右の大脳をつなぐ脳梁の情報交換量が多いため、男からみると異常にカンが鋭く、男は女からなんでも見抜かれてしまうような気になる。男は女の機嫌が悪いとなぜかあたふたしてしまうので、どういうわけか本能的に女の機嫌をとってしまいがちじゃないだろうか。コミュニケーション能力の性差があるから平等にすると男の方が不利なように思う。先回りして男を誘導してしまう女性の力を、カタカムナの関係者は「前駆流」といってる。言葉ってのはコミュニケーションのごく一部で、水面下の氷山のように、言葉以外の、態度とか表情とか仕草とか、なにげないやりとりが日常的コミュニケーションが9割をしめている。「言葉」に出る時にはすでにいろんなことが決まった後で、女はその9割を理解してるけども、男は言葉や理屈だけで生きてるので、先に「言葉」をかけてるといっても、実は女が敷いたレールの上を走ってるだけだったりするんだよな。

性差と役割
別に男女の役割が逆転してようと、役割なしに完全平等だろうと、なんでもアリだろう。それはそれぞれのカップルが自分たちの個性にあうように、好きにすればいいわけだが、「なんでもあり」というのは、野生の獣や鳥のように本能に従ったパターンだけで生きてるのと違って、人間は知性による補正で個性のまま生きることができる程度には高等生物だからだ。だが性差はあるんで、以上に述べた性差の話も、以下に述べる性差の話も、ともに個別の話ではなくあくまでも平均値や一般論として聞いてくれないと困る。
女は概して保守的で安全牌を選ぼうとする。男はバカだから冒険するんで、「天才とバカ、英雄と敗残者は紙一重」ということと、「天才と英雄は男しかいない」ってのは実は同じことを意味している。すべてお見通しの、わかってる利口なやつは危ないことはやらない。しかし冒険や挑戦がなければ進歩もない。女が先に何か言えば、男は余計な苦労したくないから何のアイディアも出さず喜んで女に追従してしまうので、平和で安寧な道がひらけはするが、その先には男を窒息させる退屈があるだけで、危険も進歩もない。蛭子の誕生は失敗ではなかった、と書いたが、確かに失敗ではない。が、永遠に蛭子だけ生んでればいいのか。それでは世界は創造されなかったろう。半端にかしこい者はユートピアを作ろうとしてデストピアを作ってしまうのだが、バカは歴史を作るのである。
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