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邪馬台への行程【その4】~狗奴国は九州か東国か・使訳通ずる30国の数あわせ~

改稿:2679年[R01]10月22日TUE 初稿:2679年[R01]10月21日MON
邪馬台国への行程【その3】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その3】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
実は、魏使は邪馬台国まで行っていた?
「会稽東冶」の問題はまだ半分で、重大な議論が残っているが、その前に片付けておかないとならない話を先にする。
ちょっと話もどるが、それは魏の使者が邪馬台国まで本当に行ってたのかどうか。まぁ邪馬台国論争ではポピュラーなネタの一つではある。
そもそも「邪馬台国までの一万二千里」が「奴国までの距離」ってことに作り直すはめになった根本理由は、魏の使いが邪馬台国へ行かなかった(=北九州から出なかった)からだと一応思われる。その根拠は、第一に魏使は伊都国に常駐するとあること、第二に「不弥国までの里数表示」と「投馬国と邪馬台国への日数表示」という二種類の記述があり、後半の日数表示は倭人からの伝聞記事だとも考えられること、第三に倭の諸国への行程は「至」の字が使われているのになぜか狗邪韓国と伊都国のみ最終地点をあらわす「到」の字が使われていること。これらのことから魏の使いは伊都国より先には実際は行ってないのではないかという、有名な説が大昔からある。これもカタクナな反対論がある一方で、有力視もされてた。だが、これはたして本当にそうか? よく考えるといろいろおかしいと思うのだが…。

広大なシナ大陸を縦横無尽に駆け巡った三国志の武将らにしたら、北九州から畿内大和にいくぐらいたいした距離じゃない。だから物理的に行けなかったとはまったく考えられない。
なので、中には卑弥呼が面会を拒否したと考える人もいるかも知れない。武装親衛隊にガードされ「会う者少なし」とあるから容易なことでは面会できない様子はわかる。しかしこれは平常モードの話であって、ハレの重要な祭儀の時とか、国家の重大な案件の場合でも常にそうだとしたら、この人は女王といっても傀儡で実態はただの監禁された人ってことになる。なんでそんなことがありうるのかというと卑弥呼は宗教上の存在で神に仕える神聖な巫女で、補佐していたという「男弟」が実権を握っていたからというのだ。こういう説を真に受ける人は「ヒメ・ヒコ制」という古い学説に影響うけたままいまだに目が覚めてないんだろう。「ヒメ・ヒコ制」批判は長くなるから省略するが、卑弥呼は王なら誰でもという程度の普通の意味では神に仕えていたろうが、格別に祭司だの巫女だのという存在ではない。「鬼道」の2文字だけからそういう妄想を膨らませる説が多いが、そもそも「鬼道」が原始的な部族宗教でも土着宗教でもアニミズムでもシャーマニズムでもないし、日本の神道でもなければ中国の道教でもなんでもない。「鬼道」の意味については別の記事で詳しく書いたので今回は省略するが、要するに卑弥呼は祭祀王でも巫女王でもなく、高貴な血筋によって王であるところの普通の王なのである。たまたま女性だからって巫女だ祭司だと短絡すべきでない。「会う者すくなし」といっても昔の皇族貴族の女性はみんな奥に隠れており来客にすら襖や屏風を挟み、外出時も庶民に顔を見られないようにイスラム女性みたいに厳重に隠していた。ましてや王ともなれば当たり前ではないか。男でも昔の天皇というのは容易に面会できず、できても簾をはさんで顔はみえない。ましてや女性ともなれば当たり前ではないか。しかも当時は男王国と敵対しており、刺客やテロへの対策もある。
あるいはこう考える人もいるだろう、魏の使いは倭王に要求するであろう臣下としての服属の礼を回避するために会わなかったのだ、と。だがそれも理由じゃないと思う。前にも書いたが、中国人は建前に対してけして四角四面ではない。礼も法もその運用は情況に応じてなんとでも変化すること日本人以上に柔軟で、中国人同士の抗争に生き延びるために異民族に頭を下げるなんてまったく平気だし、派閥のボス(司馬懿)のメンツを立てるためなら土下座でも裸踊りでもなんでもやる。むろん異民族の側も敵対時はともかく和親の相手にまでそこまで失礼な要求もしない。隋の頃、聖徳太子と「どっちが格上か」みたいな建前や形式といったくだらないことで争って追い返された裴世清は「綏遠の才なし」(異民族を手玉にとる才覚がない)と中国人からも酷評されてる。会うこと自体はどっちの側にも問題ないはずで、和親の外交はお互いに利益で結ばれたのだから当然だろう。
別の理由を考える。畿内大和に向かうのになぜ瀬戸内海の穏やかな海を行かず日本海の荒波を行かねばならないのだろうか? 男王国の領域については別の記事で詳しく書いたので省略するが、黒潮文化圏とかなりの程度重なっており、女王国が吉備(の陸上)を押さえていたとしても、男王国の海賊は瀬戸内海に出没しており、女王が制海権をとれなかったのではないか。海賊といっても男王からすれば正規の海軍であり、女王の方こそ海賊なのだが。かといって日本海航路なら安全ともいえない。北九州に大軍を駐留させるような余力が魏にあったとは到底思えないので、魏使の警護は倭国が担当することになる。むろん女王の威信にかけても刺客の類は撃退する用意があったろうが、魏使の安全が守られればよいという問題でもない。倭国の領内で外交使節を襲うような不埒な反逆勢力の存在それ自体が、国使の眼前にあらわになることが問題である。魏も倭国の内部事情は知ってるのだが、だからよいとはならない。魏にしてみれば一万二千里から使いを出してくれて、呉との戦いに力を貸してくれるのならば女王でも男王でもいいわけだ。だが女王国と男王国は、同一民族の同一国民の上で支配階級だけが割れている状態だから、失態をしでかすことは命取りになる。常に敵方より上の力量をみせつけねばならない。そういう中で日本海航路をとった場合でも、魏使への襲撃があっただけで問題になる。だから安全をとって魏使を九州に留めていたのか。しかしそれならなおさら邪馬台国まで強く招いたはずだ。なぜなら会えないのならそれは女王の外交が男王に阻止されたことになるからである。この程度の警護も不安だとすると九州と畿内の連絡は常に男王国の勢力によって揺さぶられていたことになり女王国は成立不可能である。卑弥呼は倭国のすべての国力を結集し、大倭王の名誉にかけても、なんとしても魏の使いを王都邪馬台国へ迎え入れようとしただろう。だからこれも違うな。
あるいは少し似てるが、倭と魏には同盟内容について認識のズレがあり、それが事務レベル、例えば難升米と梯儁が相談して処理しており、中国向けと日本向けの詔書を捏造していた、とか? これはアレだ、豊臣秀吉と明の万暦帝の間で小西行長と沈惟敬がやった欺瞞外交のようなこと。これなら直接女王からあれこれ聞かれるとマズイかもしれない。しかしこれは「郡使倭国、皆臨津搜露。伝送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」とあり通り、卑弥呼から直接派遣されている一大率の厳重な管理下にあったからムリだろう。

倭国の使いもはるばる洛陽までいって魏の皇帝に面会してるのに倭王が魏の使いとの接見を拒否するのは対等でもなく、不自然だ。お互いに会いたかったろうとも思われる。あっちからみれば異民族の女王なんてエキゾチックだし、こっちからみれば三国志の武将だぞw 現代でも女性の三国志オタなんていくらでもいるだろうがw これはね、両思いなの。だから倭国と魏使のどちらが接見を拒否したにしても、やむを得ない理由なの。一方的に拒否したのか、協議のすえ合意してやめたのかはわからないが。
いったい何が問題なのか? 魏使に行けない理由なく、倭王また歓迎せんとすれどもやむなくお流れになったとすれば「やむなく」の真相は何か。ポイントは二つある。一つはさっきから言ってる「本音と建て前」の使い分け。もう一つは呉の存在、これしか考えられない。

呉は西南諸島づたいの航路で倭国と交渉をもったと想像する説も、有力ではないがこれまた昔からある説だ。すでに別記事で書いてるが、狗奴国(男王国)と呉の外交は230年に失敗破綻しており、あせった呉はまだ決裂前だった公孫淵や高句麗にも仲介してもらって、邪馬台国(女王国)との外交になんとかこぎつけた。その証拠が赤烏元年と赤烏七年の紀年銘鏡である(この鏡が男王国=狗奴国のものではありえないことはこのブログでは説明ずみ)。

別の記事にも書いたが、紀年銘鏡の年代が新しいことをもって卑弥呼の時代と無関係とする説は採れない。たとえ時代の下ったものであろうとも、その「年」に特別に銘紀するに値する何らかの特別な年だという知識がなければ「銘」にならないだろう。卑弥呼より後の時代にも「その年が特別な年だ」という歴史の記憶が継承されていたということになる。

赤烏元年(改元は九月)は景初二年だから魏と女王国の国交が開けた年よりも一年早い。238年説だと同年になるが魏への使いは公孫淵征伐のドタバタの中での突発的な事件だったから、そんな最中に呉との新規国交なんてのは考えにくく、これ以前からの長い下ごしらえ期間が想定される。つまり倭国との外交に関しては、呉は魏よりも先輩だったのだ。だから伊都国には魏の使いも常駐していたが、呉の使いもいた。しかし倭国の北九州随一の軍事基地(=伊都国)の中で揉め事は起こしたくても物理的に起こせない。魏使と呉使は表面上はいがみあいながらも裏では情報交換もしていたろう。魏の建前としては女王国は中華皇帝としての魏の正統性を支持したことになっているので、魏使は呉使が女王国にきている事実を公にはできない。しかし中国人らしく現実ともそれなりに付き合っており、いちいち伊都国での許可は要るものの、邪馬台国(畿内大和)へも非公式には何度も行っており、非公式には卑弥呼とも何度も接見していたに違いない。それはもちろん呉使も同じだろう。北九州にも畿内にも、一介の平凡な中国系帰化人を装った間諜や密偵の類は、魏も呉もわんさか放って情報収集はしていたはずだし、倭国側もそれは承知のこと。卑弥呼の宮廷で魏人と呉人が同席することも珍しくなかったろうし、倭国としてはむしろそういう方が賑やかで喜ばれる。しかしそれはあくまで私的な交流であり、公式なセレモニーで同席するのはまた別なこと。公式なセレモニーでは呉使と同席するわけにはいかない。しかし倭国は魏を特別扱いせず、呉を排除するような配慮は拒否した。親魏倭王つったってこっちからおねだりした訳でなくあっち(司馬懿)の都合でくれたわけだろ。239年(238年説もアリ)の朝貢も司馬懿の手下から頼まれたのであってこっちから希望していったわけではない。どこの国でも外国からの使いは見世物(アトラクション)であるとともにそれ以上に自国の徳を示すもので、この上ないアクセサリーなのである。だから王都邪馬台国には魏の客も呉の客も常にそろってないと不揃いで不格好で物寂しいのである。蜀人も非公式にはいなかったとも限らない。

魏人(ぎひと:中国北部の住民)と呉人(ごひと:中国南部の住民)は言語も習俗も顔つきも体格も違っている。記紀を信ずる限り昔の日本人は北方中国人と南方中国人を同一民族とは認めず、前者を「漢人」(あやびと)、後者を「呉人」(くれびと)と呼んで区別していた。

しかしそうはいっても例えば正始四年の件などは会わずに済ませることはできない。そこでどうしたか?

当時の倭王は江戸時代みたいに「禁中並公家諸法度」に縛られてたわけではない。律令時代以前の天皇はその気になれば独裁権力をふるうこともできたし、景行天皇のように西は九州、東は関東と、自由に行幸もできた。かなり時代が下っても近江や吉野、吉備ぐらいはちょくちょく行けたんだから卑弥呼の時代なら九州へ行くぐらいどってことないだろう。おそらく卑弥呼みずから北九州に行幸して、そこで公式なセレモニーとして接見したんだろう。それぐらいのサービスはするよ? 国見(領地の視察)も王の仕事だし、個人的に旅行だってしたかろうし。会場はもちろん奴国である。この場合、外国の使いは伊都国から許可なしには出られないのだから、カドを立てることなく呉人を公式に排除できるというわけよw 完璧だねw

「会稽東冶の東」は男王国であり女王国でない?
ここらで、ようやく宿題にしていた問題に戻ろうw 会稽東冶の話の続きだ。
「会稽東冶の東」は実は行程記事の中には無くて、気候風土や習俗文化、物産などの紹介コーナーに出てくる。そこの中で、倭国の気候や文化が南方系だということを示している中で倭国は「会稽東冶の東」にありの一文も含まれる。つまりこの一文は「距離&方角という地図上の位置」ではなくて、距離や方角は多少は不正確かもしれないが「文化圏」的で「人文地理」的な位置だよ、というニュアンスで受け取るべきだろう。
ところでこの習俗記事は前半の方に「其風俗、不淫」とあるのにだいぶ離れた後ろの方に「婦人不淫、不妒忌。不盜窃、少諍訟」と似たような話がまた出てくる。産物の紹介も前の方では「種禾稲、紵麻、蚕桑緝績。出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。」とあるのに、これもだいぶ離れた後ろの方に「出真珠、青玉。其山有丹。其木有楠、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏号、楓香、其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味。有獮猴、黒雉。」とまた出てくる。なぜ2か所に分かれて別々に出てくるのか。重複記事があるため散漫で粗雑な印象があり、これは複数の資料を陳寿が不用意につなぎあわせたんだろうという見解が多い。

水野祐の説だとこの記事は「所有無、與儋耳朱崖同。」までの前半と、「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。」から始まる後半に分かれているという。確かにこう切り分ければ重複記事はないことになる。また「倭地温暖」というのも文章としてへんだ。倭地の話をしてる途中なんだから「其の地、温暖」となるか、なんだったらいきなり「温暖」でも文意は通る。「倭地」と断りが入ってるのはもともとここが文頭だったことが窺がわれる。
そしてこの記事の直前が「…次有奴国、此女王境界所盡。其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。自郡至女王国万二千余里。」となっているが、「自郡至女王国万二千余里」という文は「女王国の『南境』まで万千里」という意味で、狗奴国は女王国の南にあるんだから、これは「狗奴国の『北境』まで万二千里」というのと意味の上では同じとなる。つまり「自郡至女王国万二千余里」という文はまだ狗奴国の説明の一部なのである。
まぁしかし「狗奴国の『北境』まで万二千里」という解読は苦しい。もしそれが正しいのなら、それならそうともっとわかりやすい書き方をしたはずだ。俺の説としては「自郡至女王国万二千余里」という文は狗奴国の説明の後に入ってるのは妙だからここは錯簡で、「…此女王境界所盡」と「其南有狗奴国…」の間に入っていたのではないかと考える。そうすれば「狗奴国の『北境』まで万二千里」なんていう不自然な解釈しなくても、文意の通りがスッキリしてひじょうによくなる。
ともかく水野祐の説を続けると、習俗物産の記事は狗奴国の直後に続く記事なのだから、前半は狗奴国の習俗の説明だったのではないか。つまり前半パートは邪馬台国の習俗でないが、後半は邪馬台国の習俗や物産であって狗奴国の習俗物産ではない。
で、もしそうだとすると、南方系を示唆する3つの記述、刺青の件も「会稽東冶の東」も「儋耳・朱崖」も、すべて狗奴国の記述であり、邪馬台国は関係なかったことになる、と。
水野祐はさらに重要な指摘をしている。習俗物産記事の前半パートと後半パート、それに『漢書』地理志の「儋耳・朱崖」の記事、この3つを比較対照して、どうも倭人伝は前半パートと後半パートを比較させようという意思がなく、前半パートと『漢書』地理志の共通性を強調しようとしていることを明らかにしている。前半パートは中身の半分は独自記事だがもう半分ぐらいは『漢書』地理志の「儋耳・朱崖」の記事からのそのまま転載(パクリというかほぼコピペ)が混在しており、コピペ部分についてはコピペなんだから個人的にはどうも事実とは認めにくいような気がする。が、具体的にそれぞれの記事を個別に検討すると実際に日本にあったものとして問題ないという説もあり、だとするとコピペなんだけど偶然にも事実と一致したのか、事実を書いたら偶然にもコピペっぽくなっちゃったのか、どっちなのかはわからない。いずれにしろわざわざ「儋耳朱崖と同じ」と念押しするのは書かれてる内容が事実かどうかに関わらず意図するところがあろう。

水野祐は邪馬台国九州説だし、狗奴国も魏に入朝していたという説だったり、昔の学者なので他にもいろいろおかしなことを言っており、司馬懿の都合による政治的歪曲という観点も抜けている。そのため、なぜムリしてまで南方系を強調しているのか説明が不十分な印象があるが、それは現代になってからみてるからで、昔の俺なんかひじょうによくできた秀逸な説だと感心したものだ。
後半パートで南方系を思わせる記事というと、しいていえば「倭地温暖」くらいしかないが、温暖の2文字だけではどの程度の南方なのかつかみどころがない。熱海ぐらいの緯度でも温暖っちゃ温暖なわけで。「皆徒跣」(はだし)というのも江戸時代でも庶民は裸足が多かった。華北の冬は寒さ厳しく野菜など採れないから「冬でも野菜を生食する」のは倭国が温暖だという話の流れだというが、腐敗しやすいはずの夏でも生食だというのだからむしろ北方のイメージだということもできる。つまり後半パートにはハッキリと「南方系だと断定できるような記述は無い」。
確かに南九州の隼人なら南方系と言われて納得できるが、北九州を含む倭国全体の習俗物産がはるか南のはての海南島と同じというのはあまりにも違和感がある。それが、南方系と思わせる記述はすべて狗奴国のみについての説明だというのだから、好都合に思われたのだ。

ところがこれは相当に古い説であるにもかかわらず、あんまり有名でもないし通説化してる様子もない。おそらく学界では反論もいくつか出されていて、あまり支持されてないんだろうな。
そう思って水野説への反論を試みると、狗奴国の習俗だという前半パートはさらに前後に分かれ、刺青の話ばかりしてる前半が「会稽東冶の東に在るべし」で終わり、後半の習俗物産記事は「儋耳・朱崖」と似た習俗物産ばかりを集めたパートで、だから「有無するところ儋耳・朱崖と同じ」で終わってるわけだ。つまり、考えようによっては、狗奴国と邪馬台国の習俗物産を別々に書いてるわけではなくて、やはり全部が倭国全体の習俗物産記事であり、水野祐がいう狗奴国の習俗物産というのは単に「刺青パート」と「儋耳・朱崖との共通点パート」にすぎないのだ、とも考えられる。

では通説と水野説、どちらが正しいの?
どちらが正しいのかわかりにくくなってること自体が一つの大きなヒントだろう。通説が正しいのなら、陳寿はもっと記事を整理して書いたはずで、重複感のある粗雑な編集はしなかっただろうし、水野説が正しければ、こっちは狗奴国の記事、こっからは狗奴国以外の記事として誤解のしようがないようにわかりやすく書くことは造作もないことだったろう。
要するに陳寿は「わざとわかりにくくしてる」のである。出たw「春秋の筆法」だなw 春秋の筆法は、現実が権力者にとって都合が悪い場合にもちだされる筆法だから、通説と水野説のうち、一方が現実の倭国だがそれは権力者(この場合は司馬懿)にとって都合が悪いものであり、もう一方が司馬懿にとって都合よく歪曲した倭国像なのである。

前述のように倭国が「会稽東冶の東」にあるというのは「南方系の習俗と物産がどうのこうのという話とは無関係に」呉越地方の中国人の認識だったのであり、わざわざ捏造した話ではない。それは魏(というか司馬氏)にとっては都合のいい話なのだからそのまま採用すれば済む話であり、採用したからこそ方角を90度まげて呉越地方の中国人の認識に合わせた。
この上、そこからさらに遠い南の海南島の習俗物産をコジツケる意味など本来は無いはずなのである。だが、魏としては女王国が「会稽東冶の東」にあることを期待してるのに、実際は女王国と対立している男王国の方が呉の隣国だった、なんてことでは倭国と魏の同盟が呉への抑止力にならない。事実は「会稽東冶の東」にあったのは、倭国は倭国でも女王国ではなく狗奴国だった。そこに90度まげて邪馬台国を「会稽東冶の東」にもってきた結果、狗奴国のものだった南方系の習俗と物産を邪馬台国も共通していないと筋が通らないことになった。
つまり水野祐の説が現実の倭国を反映している。帯方郡からのレポートによれば倭国は九州から東の方に延びており、呉越地方の中国人の認識と違っていたばかりか、格別に南方系と思われるような習俗も物産もなかった。そこで狗奴国の習俗物産記事に続けて北九州諸国の習俗物産記事を置き、わざと混同を誘う構成になっているのである。普通に読めば通説の読み方で問題ないように感じるのだが、途中に「倭地」という不要の二文字をわざわざ挿入しているのは「春秋の筆法」でいう「文の錯(たが)え」ではあるまいか。「ここでおかしいと気づけ」というシグナルなのである。

狗奴国の「東国説」と「九州説」は矛盾しない
すでに他の記事で詳しく書いたので簡単に済ますが、方角が90度曲がってるんだから「南」というのは実は「東」だ。女王国の南にある狗奴国は、正しくは女王国の東。で、最近の有力説である狗奴国東国説もいろいろだがその中の一つで、狗奴国は今の静岡県だとする説がある。後世に久努国造があったところが遠江国山名郡久努郷と同国周智郡久能郷(ともに静岡県袋井市、ただし和名抄の周智郡に久能郷は無く明治の郡制施行時の久能村が名残り)だが、駿河国安倍郡(会星郡)久能郷(いまの静岡県静岡市)も遺称地だとすると、狗奴国はほぼ伊豆地方を除く静岡県の大部分を占めていたと思える。この場合、狗奴国の官である「狗古智卑狗」の「狗古智」は静岡県の菊川をさす地名「菊」と助詞の「つ」とするのが穏当だが、面白くはないw そうではなく旧来の説に従って肥後国菊池郡(熊本県菊池市)のままでよいと思われる。東国説と九州説は矛盾するものではなく実は両立するからである。
鞠智城跡
※鞠智城(7世紀)の復元された八角形鼓楼。ここは律令制下の菊池郡城野郷に含まれる。3世紀の狗古智国もここかこの近辺にあったろう。一方、めんどくさいから画像は出さないが、静岡県袋井市に久努国造を祀る「七ツ森神社」(山名郡久努郷)あり、そこから1km半(徒歩20分)のところに久野城跡(戦国時代)がある。ここは律令制下では山名郡ではなく周智郡だが、西にすぐ隣接して久能という地名(かつての周智郡久能村)が残り、七ツ森神社からも近い。3世紀の狗奴国も久能城跡かその近辺にあったろう。

狗奴国を「春秋の筆法」で読む
対馬国の大官が卑狗といい、一支国の大官も卑狗というとあるのだから、そこまで読んできた中国人は「卑狗」とみれば特定の国を治める大官のことだと理解している。地方統治官は担当地名の下に官名をつけて、例えば上党郡の太守は「上党太守」、楽浪郡の太守は「楽浪太守」というのだから、対馬国の卑狗は「対馬卑狗」、一支国の卑狗は「一支卑狗」だと自然に受容している。ここで「狗古智卑狗」という字の並びを目にしたら、説明など無くとも自然と「あ、狗古智国の大官だな」と直ちに了解されよう。つまり狗奴国とは別に「狗古智国」という国の存在が暗示されている(間接的に示されている)。別々の国なんだから、狗奴国は東海道だけど、狗古智国は九州にあったってことで何の問題もない。魏志倭人伝の文面ををよく見ると、狗古智卑狗は男王の官だとは書いてあるが狗奴国の官だとは書いてない。ゆえに狗奴国にいたとは限らない。
で、菊池郡は北九州の女王国支配下の諸国からみると南であり、畿内からみると西になるので、90度傾けると北九州からは西、畿内からは北になる。西だと倭国と呉の間に女王と敵対する男王国が挟まることになり、女王国が直接呉への脅威とならないので具合が悪い。北だと「南方系の習俗や物産をもった国が北で、そうでない国が南」になってこれまた具合が悪い。なので狗古智国は方角どころか国名すら明記してないのである。一方、東海地方にあった狗奴国は他の国々と同じく90度傾けて、女王国の南にもってきた。そうやって「女王国の南」という同じ場所に狗古智国と狗奴国を重ねあわせた。しかし「狗古智卑狗」という官名から読者は「狗古智国」の存在を想定するのだが、文面上は狗奴国しか出てこないので、読者は不審に思い「文の錯え」に気づく、という寸法よ。

「使訳所通三十国」の謎
冒頭に「使訳所通三十国」(使訳、通ずるところ三十国)とあるのも春秋の筆法で、余とか可とか許とかの概数を示す文字が無く、30国ピッタリであることをにおわせている。「におわせている」というのは概数を示す文字が無くても下一桁がゼロなんだから「いやこれは概数なのだ」と「解釈」で押し通せる余地が残っているからである。これもわざわざどっちとも受け取れるように書いてあるわけだ。30国ピッタリとする説が多いが、はっきりしてるのは28ヶ国であり、従来の説では残り2国は次のA・B・Cの3つの候補から2つ選ばれる。

(A)狗邪韓国、(B)第二の奴国(餘旁遠絶21国説)、(C)狗奴国、

だいたい(AB)を加えて30国として(C)は入れない説か、(A)(B)のどちらかのみ入れて29国とし「三十国というのは概数なのだ」と割り切る説が多い。つまり(C)は人気がないw
しかし(A)を倭国に勘定することはできないのはずっと前の方で説明した通りで除外される。第二の奴国も意図的な国名重出であることは説明済みだから「餘旁遠絶21国」は誤りで「餘旁遠絶20国」が正しい。つまり(A)(B)を加算する訳にはまいらぬ。
(C)が人気ない理由だが、狗奴国は女王国と敵対していて、女王国は魏の友邦なのだから「味方の敵は俺にも敵」の理屈からいえば魏と狗奴国が通交していたはずはない、だから「魏の使訳が通じていた国ではない」という判断だろう。
だが、本当にそうか? 倭人伝には「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」(いにしえより以来、その使いの中国に詣でるやみな大夫と自称す」とある。この一文は刺青パートの中にあり、従って本来は狗奴国の記事だったはず(正確には狗古智国だが)。狗奴国(正確には男王国だが)の使いが中国に行ってると書いてある。ちなみに有名な話だがこの部分は『魏略』逸文では「聞其舊語、自謂太伯之後」(その旧語を聞くに倭人みづから謂ふ呉の太伯の後なりと)になってる。ここは『魏略』が原資料のままで陳寿が書き変えたものだ。魏略の文は倭人の刺青が呉越の習俗と共通してるといいたいだけで、春秋時代の呉も越も刺青文化は共通してるから、なんの忖度もなく呉も越も一緒に出しているわけだ(呉の先祖の太伯も刺青で有名な人)。渡邉義浩は、呉と倭の文化的な親近感を出すと呉が倭を朝貢国とする正統性が出てしまうから陳寿が書き変えたとか訳のわからぬことをいってるが、春秋時代の呉と三国時代の呉ではぜんぜん関係ない国なんだからそんなことある訳ないだろw 表面的なことだけいえば、呉と越とは臥薪嘗胆の故事で有名な通り激戦して最後は越が呉を滅ぼしたわけだから、呉と倭の関係を消して、倭と越の相似性だけを強調し、春秋時代の越が呉を滅ぼしたように三国時代の呉も越に似た倭に気をつけろという脅かしだという解釈なら可能だろう。しかしそれなら「聞其舊語、自謂太伯之後」の10文字を消すだけでいいのであり、わざわざ「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」なんて書きたす必要はない。この文はここだけ刺青の話から浮いており唐突な感じを与えるし、「聞其舊語、自謂太伯之後」と字づらが似ていて明らかに魏略の文を参考にして書いた作文だとわかる。
この部分は春秋の筆法によって狗奴国(実は狗古智国)の習俗だとわかるのだが、倭国全体の習俗であるようにも読めるという二重構造になってるのだから、「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」の一文も通常の解釈では女王国についての説明であり、裏の意味としては男王国についての説明である。

「自稱大夫」のオモテの意味
オモテの意味については簡単だ。卑弥呼と魏との外交で、倭国側の窓口として一切を仕切ったと思われる難升米が「大夫」として出てくる。難升米が大夫であること自体は、だから何だってことでもないのであって、だから自称も糞もない。大夫というのは支配階級、貴族層ぐらいの意味で、一国の外交官なら中国でいう大夫に相当する程度の身分なのは当たり前であり、いちいち話題にすらならない。それなのにあえて「自称」だというには、それなりのニュアンスが込められている。難升米という人はかつての奴国王の直系の子孫であり、卑弥呼から全権を任され、今でも対中国外交の最高責任者としてすべてを采配してるのだから、先祖の奴国王とやってることはほとんど同じなのである。後漢帝国の建前としては「漢委奴國王」にしたつもりで、なおかつ今もその子孫が同じことしてるのだから、中国からみた場合、この人は今でも実質は倭王なのである。にもかかわらず、倭国側では王ではなくて「大夫」だと。大和言葉でいえばキミ(君、王)ではなくてオミ(臣、大夫)なのである、と。中国側の感覚とズレるから、これは倭国側が自称してるんであって、中国としたら難升米が実質倭王みたいなもんだといっている。中国からみたら実務はすべて難升米から出てるから、本当に卑弥呼の意図なのかどうかわかりにくかったんだろう。重要な儀式とかただの親睦会的な場では女王とコミュニケーションできたろうが、肝心の国際政治外交という実務的な議論には「難升米に任せてある」として女王は顔出してくれないし意志の表明もない。本当に女王と外交してるのか、難升米に騙されてるのかもよくわからないし、確かめようがない情況を表わしている。

「自稱大夫」のウラの意味
ウラの意味としては当然、ここの大夫は男王が派遣する大夫ということになる。陳寿は呉と倭の親近性を示す文を削除するかわりに文意を換骨奪胎して、狗奴国(正確には狗古智国だが)もまた中国に朝貢したことがあるとわざわざ念押ししてるのだ。念押しの割には「魏朝への朝貢だ」と明記しているわけでもなく、この場合の中国に魏は入ってるのかどうか、そこはボカしており、解釈次第でどっちとも取れるように書いてある。もし魏へ入朝したことがあるのなら狗奴国もまた「使訳の通じてる諸国」の一つだということになるわけだが、そう明記できないのは実際には狗奴国は魏と通交したことがなかったからではないか。

狗奴国は魏に朝貢した?しない?
水野祐は陳寿の作文を真に受けて「狗奴国もまた帯方郡に朝貢していたのだ」というのだが…。狗奴国でも狗古智国でもいいが、とにかく男王国の使者が相手にされるかどうかはともかく郡までは行っていたというだけならギリギリ認めてくれる人もいるかも知れない。が、帯方郡の使者は男王国(狗奴国でも狗古智国でも可)に行くわけがないと思う人の方が多いだろう。魏の建前では倭の女王が魏を中華における唯一正統の皇帝として認めてくれたことになっており、だから卑弥呼が呉や蜀と交流があるって話はタブーになる。そのような事実はあったとしても記録から抹殺される。しかし実際は紀年銘鏡にある通り、呉と女王国は交流していたという話は別の記事で詳述した。女王国が魏だけに朝貢するのは魏を中華皇帝と認めることであり、これは魏としては親魏倭王(男王国を認めず、卑弥呼を倭国全体を代表する唯一の大倭王として認めること)とバーターのつもりなのである。だから女王の二股外交は魏にしたらひじょうに不愉快な事態で、もし卑弥呼がこの態度を改めないのであれば、対等の原則によって魏もまた卑弥呼の敵である卑弓弥呼(男王)と通交する権利を有するだろう。舐められたら終わりなんや。男王は過去の経緯から魏には興味なかったかもしれないが、魏にしてみたら呉への圧力になるなら女王でも男王でもいい。中国でいう朝貢というのはもちろん公式な使者の方が望ましいが、民間の商人が交易のついでに帯方郡の官僚に手土産を差し出せば、非公式な使者であっても「朝貢」として立派に成立する(岡田英弘の解説による)し、そうであるなら逆に帯方郡からでも交易にこじつけて商人に委託すれば男王の配下の首長に連絡をつけることもできたろう。玄界灘の制海権は女王が握っていたろうが、五島列島の西の海と済州島の間を往復する航路がありうるので伊都国の検問を通らずに韓と通交できるし、仮に通常航路であっても民間人を装ったり帯方郡の魏人に託したりと、一大率の検問を抜けることはできなくはない。

ただしこれは「物理的にはありうる」というだけのことで、やはり狗奴国は(狗古智国も)魏には使いを出してなかったと思われる。実は男王国には中国から公式の使者はきていなくても、中国人はたくさんいたから、魏人がスパイを潜りこませて情報収集するのは容易だったはずだ。亶洲(澶洲)というのは男王国のことだという話は別記事で書いた通りだが『三国志』呉主孫権伝や『後漢書』東夷伝によると亶洲には徐福の子孫がいて数万戸になっているという噂が中国側にはあった。この徐福の子孫というのは実のところ呉の戸籍を離脱して逃げてきた難民(亡命者)だろう。呉は人口不足のため孫権自身がいっているように税と兵役の負担が重い上、戸籍離脱して逃亡する者は重罪だ。亶洲を求めて探検隊を出した理由の一つは、この逃亡民を連れ戻すためでもあったろう。むろん逃げてきた連中は帰りたくないから「我々は呉から逃げてきた呉人ではなく、呉が建国されるよりずっと前に移民した秦人の子孫だ」と嘘をつく必要があった。つまり男王国には呉からの難民が一定数いて、それなりの安定した暮らしを維持していたと推定できる。
伊都国に駐在する魏人は一大率の許可の下で(公式の許可か非公式の黙認かわからぬが)狗古智国に情報収集のためのスパイを送り込んでいたと思われる。一大率としては許可したくないだろうが物理的に阻止できないから、欺かれるぐらいなら先に許可した方がよい。許可はしようがしまいがスパイ活動はお互いやるのが当たり前で、やらないことはあり得ないのだから。そして、呉人たちが本国に帰ったらそれだけ呉の国力が回復するんだから、魏の役人としても当然、帰って欲しくないだろう。だから徐福の子孫だと偽称している呉人たちは魏人に保護を求め、魏人の情報収集に協力するし、魏の公式見解としても「彼らは呉から逃亡してきたのではなく徐福の子孫だ」ということになる。それだけでなく魏人は呉人を男王の使者に仕立てて帯方郡につれていくぐらいのことはしたろう。実際はそんな手のこんだ面倒なことはせず、単に魏人が男王国からも使者が来たと自称しただけかもしれない。「自古以来、其使(男王国からの使者)詣中國、皆自稱大夫」は陳寿の作文であって虚構なのだから後者の方が可能性が高い。重要なことは「魏朝には女王国からも男王国からも朝貢の使者がきた」という「建前」なのである。

建前では男王国もまた「使訳通ずるところ三十国」に含まれるわけがご理解いただけたろうか。(A)狗邪韓国、(B)第二の奴国(餘旁遠絶21国説)、(C)狗奴国の三者のうち、(A)(B)は含まれない(含まれたらおかしい)ことは再三いった通りだが(C)を入れてもまだ29国。しかし前述のように倭人伝の文面には隠れているが、男王国には狗奴国とは別に狗古智国があることが「春秋の筆法」によって示されているので、これを加えてピッタリ三十国となる。三十国という数字自体が「あれ、計算が合わないぞ」と気づかせるための「文の錯え」なのである。
邪馬台への行程【その5】」に続く。
【その5】では「至」と「到」の使い分けの謎を「春秋の筆法」で解きます。
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邪馬台への行程【その3】~方角のズレと「会稽・東冶」の読み~

初稿:2679年[R01]10月21日MON
邪馬台国への行程【その2】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その2】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「方角の傾き」は誤りではなく意図的なもの
日数表示の部分が九州説だと原文のまま南へ、畿内説ではなんだかんだ理屈をつけて東にもっていくわけで、方角が決まらないと気分的に落ち着かないw 方角論で有名な話は、末蘆国・伊都国・奴国の比定地を実際の地理でみると、反時計回りに北に45度傾いている(東の方が北寄りに、西の方が南寄りに傾いてる)というのが通説だ。正確には真東より30度ほど北、つまり東北東になっている。これを魏志の「東南」に比べると75度のズレともいえる。この数値は八分法に当てはめると、どっちかっていうと45度より90度に近く、当然ながら傾きは45度でなく90度だという説もある。ただこれは海岸線を目途にしたもので、奴国を太宰府あたりまで広がってたとして、奴国から不弥国へのコースを嘉麻市や穂波市を通って直方市へ抜ける道を陸行したとすれば、極めて大雑把な話ではあるが45度のズレだともいえるが、ちょい苦しい。あるいは、もともと魏志倭人伝の表記は45度づつにわける八分法なので、22.5度前後は切り捨てか切り上げになって表記上は45度のずれとなるという大雑把なものである、だから45度でいいのだというのだが、これは「75度が切り上げで90度にならず、なぜか切り捨てで45度になってる言い訳」として成立してない。実は日の出の方向がどうしたの夏至の日の出がどうのって理屈でこのズレを説明するには45度が限界で、90度だと説明に困窮するからだ(厳密には45度でも無理だが)。だからって90度説が正しいわけでもない。あと、これまた有名な室賀信夫の説(九州説には評判わるい説だがw)。李氏朝鮮の「混一疆理歴代国都之図」や宋代の「古今華夷区域総要図」をもちだし、中世の中国人や朝鮮人は実際には東に伸びてる日本列島を、南に伸びてると勘違いしていたから、おそらく古代でも同様だったのだ、というあれ。一時期は話題になり、これで畿内説に決定したかのような勢いだったが、古代にまでもそのような地理観が一般的に行われていたという説には実証性が弱く、批判が多い。実際、今では一般に(アマチュアだけでなく学界でも)あまり支持されてないように思う。俺も賛成しないw 中世の中国朝鮮での誤った地理観は魏志倭人伝の影響という説の方が妥当だろう。

この室賀説も古代人の地理観を稚拙なものと決めつけている点で「日の出の方角説」と五十歩百歩といえよう。まさに三国時代に生きた有名な学者、裴秀が作った『禹貢地域図』を読めば当時すでに測量術や地理学が大いに発達していたことがわかる。「指南魚」とか「指南車」という精巧な方位磁針もあって方角を誤ることもない(ただし、現代では磁方位が反時計回りに約7°傾いてるが当時は時計回りに10°傾いていた)。ゆえに昔のことだからどうせこんなもんだろと見くだした舐めプは許されない。高度な技術をもった当時の国家の軍隊が方角を間違えたりめちゃくちゃな里単位を使ったりすることはありえない。そういうことがあったらそれは間違ったのではなく、ある特定の意図の下で、あえて、わざとそうしたのである。一万二千里という現実を無視した途方もない数字も、政治的な都合による誇張であることはもはや定説になっているといってよいだろう。しからば方角もおそらくは政治的な理由で曲げられたのだろうとは誰しも容易に推測できる。45度説と90度説のどちらが正しいかにかかわらず、これはわざとズラして書いてるのである。東西と南北を取り違えた地理観がーとか、日の出が夏至がどうのこうのっていう、古代人が方向音痴だったみたいな与太話はすべて却下すべきだろう。

で、「方角のズラし」も事実の歪曲ではあるのだが、ただの歪曲ではなく「一万二千里」と同じく当然「春秋の筆法」に則っている。だからよく読めば「あれ?これ傾けてるな」って気づくようになっている。「なんのために」わざわざ傾かせているのかという議論は後で詳しくやるとして、まず「方角の傾かせ」が現われている「春秋の筆法」を解いてみよう。

その最初のヒントが韓伝にでてくる「州胡」だ。これは今の済州島のことだというのが定説だが、言い方としては「馬韓の南」か「韓(三韓全体)の西南」のどちらかのはずが、文面上は「馬韓の西」と書かれている。実際の地理を、反時計回りに45度か90度ずらさないと「馬韓の西」にはならない。この角度の問題も私が「春秋の筆法」だと気づいたのは韓伝の記述の謎解きの結果だった。韓伝は韓と倭が海で隔てられてるようにも書いてるし、韓の南は倭で、韓と倭が接壌してるようにも書いてる。だから井上秀雄(この人はもう死んでるが)みたいに韓国の南部に倭があったんだって主張する人が根強く残ってるが、海で隔てられてるともあるせいで有力説になってるとはいえない。こういう矛盾ある記述こそ「文の違え」(ふみのたがえ)で春秋の筆法のツボなんであって「海で隔てられてるのかvs接壌してるのか」の二択じゃない。「南は倭に接す」とあるのだから前回までに説明した「弁辰○○国」と「弁○○国」の使い分けからいえば「弁軍弥国」「弁楽奴国」の2か国だけが倭に接していることになり他の「弁辰○○国」はすべてこの2か国より北に設定されてる。「弁楽奴国」は春秋の筆法によって暗黙に出航地だと示されているので倭ではなく海に面している。しかも倭と接してるのは弁辰瀆盧国だとわざわざ一か国だけあげていて、倭への出航地は表面上は「狗邪韓国」になっている。設定上の位置関係は繰り返しになって恐縮だが、東西四千里の海岸線があってその中央が「弁楽奴国」(東端からも西端からも2000里、郡からは6000里)、東端が「弁辰瀆盧国」(郡から8000里)、その間に「弁辰狗邪国=狗邪韓国」(東端から1000里、隣の楽奴国からも1000里。郡からは七千里)という配置になっている。このうち倭に接しているのは東端の瀆盧国だけで、それ以外の二国は倭と往来する港湾都市だから海に面していることになる。しかし実際には瀆盧国は今の釜山なんだからその南は海しかなく倭と接壌していたとは考えられない。むりにもというならすごく狭小な倭人居留地が半島内にあったとでも考えるしかないがそんなの無いのと同じで特筆する意味はない。倭国内にも韓人の所領はあったろうし韓地にも倭人の領地は当然あったろうが、国として認識されたかってことは別問題だ。だが少なくとも魏志の建前では瀆盧国「だけ」は倭と接壌していたとわざわざ特筆されてる。これは韓伝の冒頭に三韓全体の地勢として「南(の国境は全面)が倭に接してる」ように書かれているのとも矛盾する。冒頭の書き方だと馬韓の南も弁辰の南も一様に倭であり、南側に海があるようには受け取れない。両者に共通してるのは瀆盧国だけ。瀆盧国「だけ」はどっちの説でも倭と接している。

瀆盧国の位置について謎解きをすると、『後漢書』は(三韓全体の中では)辰韓は東北、弁韓は東南だというからこの二韓だけでいうと辰韓が北で弁韓が南なのだが、実際の24国の配置をみると辰韓が東北で、弁韓が西南になってる(だから「辰韓が北で弁韓が南」だといっても、「辰韓が東で弁韓が西」だといっても、どっちも嘘をついたことにはならない)。精密な地図じゃなくて模式図で表わすと、西北の隅から東南の隅へ対角線が引かれ、この対角線を境として弁韓と辰韓に分かれる。
『後漢書』によらずとも、魏志は(三韓全体で)弁韓の位置にふれずただ「東西は海をもって限り(中略)西は馬韓、東は辰韓」としかいってないのだから、東の海には辰韓が面してるのであり、弁韓は東の海に面していない。「南は海なのか倭なのか」を曖昧にしたままではあるがこの条件で弁韓の領域を最大に見積もって境界線を引いても、やはり境界線の東端は韓地の東南の隅になる。
面としてはパッキリ分かれているんだが、この境界線は弁韓と辰韓に共有されている。境界線(対角線)の東南の隅の点も、当然共有していることになる。つまり瀆盧国は弁韓(弁辰)の東南の隅にあってこの「点」の部分を含んでいるのである。瀆盧国は「弁瀆盧国」でなく「弁辰瀆盧国」だから建前上は南の海には面していないし、この模式図(対角線のある図)でも、東の海にも南の海にも面していないことに、ちゃんとなっている。
そして東夷伝の認識では「韓は倭の西北、倭は韓の東南」だといってるのだから、瀆盧国が「倭と接する」というその地は、まさに瀆盧国が保有する「韓の東南の隅の点」のことをさしている。「点」というのはあくまで模式図の上でのこと、魏志の想定上の地理であるが、面でも線でもなく「点」だというのが重要なのだ。
「(三韓全体としてみると)東西は海をもって限り、南は倭と接す(つまり南は海ではない)」という地理認識と「弁辰瀆盧国(だけ)が倭と接す」という矛盾する二つの地理認識から、それぞれの地図を作って比べると、瀆盧国を蝶番(ちょうつがい)として倭国を反時計回りに韓地から引き離すと韓と倭の間に西から海水が流れこんで海になる。州胡(済州島)もあえて倭地と一緒のレイヤーに乗せてあるのは明らかだろう。倭が真南にきて韓とくっつくと州胡も倭と同じレイヤーだから、州胡が韓(三韓全体)の西南にあったのなら時計回りに45度動いて、馬韓の南にあったのなら90度動いて、いずれも馬韓の西になる。韓の南はすぐ倭で、倭と韓は陸でくっついてるのだから済州島が浮かぶ海は南にないのだ。この海が入り込まないで韓と倭がくっついてるのが建前であり、この場合、倭は韓の南へ伸びている配置になり、倭は会稽東冶の東になるのである。この場合、倭と接する国は韓にいくつもあるはずなのに、あえて瀆盧国しかあげてないのが「春秋の筆法」で、瀆盧国以外を倭と切り離すには、瀆盧国の保有する「点」を中心に回転させる他ない。魏志の方角は八分法だから最低限の切り離しで済ませようとしたら45度になるし、前述の通り90度の設定かもしれない。

「会稽の東」と「東冶の東」は別?
で、方角のズレが当時の人々の誤認ではなく、意図的なものだとしたら、目的があるはずだ。なんのために方角が45度(または90度)傾かせられたのか?
旧来の誤認説の場合は、倭国が「会稽東冶の東」にあると誤解されていた、という話とセットになっていた。しかしそこで意図的に方角を傾けていることが明らかになったのだから、要するに会稽東冶の東には無い倭国を会稽東冶の東にむりやりもってくるために方角を傾けた、ということになる。ということは魏志の原資料では倭国は南ではなく東か東南に伸びていたのである。
…のはずなのだが、しかし、本当に当時の中国人の認識では倭国は「会稽東冶の東」では無かったのかというと、それがそうでもない。

倭人伝には「計其道里、當在會稽東冶之東」(その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし)とある。地名としての会稽は今の浙江省の紹興、東冶は今の福建省の福州。この解釈は3つの説がある。

(1)「会稽郡の中の東冶県」の意味。
(2)「会稽東治」で会稽での禹王の統治の伝説をさすという説。
(3)「会稽」と「東冶」二つの地名の並記。


(1)と(3)は東冶(とうや)、(2)は東治(とうち)で字が違う。

(2)は東冶はないことになって会稽だけが問題となり、(1)は東冶だけが問題となるのに対し、(3)は会稽と東冶の二ヶ所をあげているという解釈になる。
当時は東冶県は会稽郡でなく建安郡に属していたので(1)はないという説もあるし、必ずしも正規の郡県にとらわれず「広義の会稽地方の中の東冶」という解釈もできないことはないともいう。東冶(とうや)の原文は東治(とうち)になっているのでこれは誤写というのが通説だが、(2)は東治(とうち)のままで正しいとする。だが「…の東」とあるのだからその直前は地名でないといささか不自然だろう。「会稽東冶」は四字熟語のようになんども出てくるのに「会稽東治」は例がないので誤写説の方が自然ではある。しかし、会稽(紹興)東冶(福州)をつなぐ線はほぼ今の浙江省の海岸線で、北緯でいうと紹興は屋久島(北緯30度ぐらい)、福州は沖縄(北緯26度ぐらい)に近く、その中間は奄美大島のあたり。だから地図でみると倭国は東というよりかなり東北になるんで、(2)の説の方がいくらか正確になるように見える。

東冶については『三国志』呉主伝に亶洲の人が会稽に交易にくるといい、「東県」(たぶん東冶県の脱字)の住民がまれに亶洲に辿りつくという。『後漢書』東夷伝では亶の字が澶になってるが同じことが書いてあり「東県」が「東冶県」になっている。倭国が「会稽東冶の東」だというのは要するに亶洲も倭国も同じ国だということを暗示している。ここで亶洲から来る時には東冶といわず会稽に来るといい、亶洲へ行く者は会稽からといわず東冶から流れていくと言っていることに注意。「会稽の東」は亶洲からくる方角であり、「東冶の東」は亶洲へいく方角である。東冶は『三国志』にもちょくちょく登場する当時の海上交通のターミナルである重要な港湾都市だった。東冶県がそうなった理由を推測するに、その東がすぐ台湾の北端で、そこから西南諸島を伝って鹿児島へいくルート(南航路)が開けており、交易物資の大陸側における収積場だったからではないかと思われる。つまり中国から亶洲へいくなら、会稽でなく東冶が出港地になる。倭人が五島列島や済州島から東シナ海を横断して会稽に行くことはあっても、中国人はこのルート(北航路)は使わない。そういう訳で『三国志』呉主伝や『後漢書』東夷伝をみれば会稽と東冶の二ヶ所をあげることに意味があるのは明らかであって、「会稽の中の東冶」の意味でもなければ東治(とうち)でもないことがよくわかるだろう。

で、倭人伝の方角が実際の方角とズレて傾いてる理由だが「会稽東冶からは東でなく東北だから、東になるように45度傾けてある」のだろうか、と言うと、そうではなくて、傾けた理由は別にあると思われる。
倭人伝に書かれた南方系の習俗が南九州に及んでいたのならば、中国人からみてその習俗は「儋耳・珠崖」(海南島)と同じというのだから、中国人の目には海南島から九州までの間に存在したはずの台湾人も沖縄人もすべて同じに見えていた可能性が高い。あるいは、違って見えていたのにあえて同一視しようとしたか。そのどっちであるにしろ、「その習俗は倭人の習俗」という認識なのだから魏志は会稽東冶の東に広がる同じ習俗圏を広く倭と呼ぼうとしているとも見える。その場合は、会稽東冶の「真東」に該当する西南諸島もまた「倭の一部」と認識されていたことになるので、「九州は会稽東冶の東じゃなくて東北だ」という議論は意味がなくなる。
そうではなくて、あくまで倭国は九州であり、西南諸島は含まないとすると(そんな仮定は不可能だと思うがとりえずそう仮定すると)、厳密な方角からいえば確かに東でなく東北なのだが、四分法で90度の広がり(会稽からは八分法で45度の広がりでもよい)をもってみれば、航路の説明としては大雑把にいって間違いとはいえない。とくに南航路では台湾、石垣島、宮古島を伝っていったろうから一旦は東南へ進んだのであり、出港地からみると「亶洲が東北にある」という印象は薄かったろうし「物の言い方」としては「東のほう」で問題ない。してみれば「東北でなく東」というのは会稽東冶の現地情報だった。
ここまでは当時の中国人の普通の認識であって、魏志に特有の意図的な誇張や方角の歪曲は入ってない。渡邉義浩なんか『魏志倭人伝の謎を解く』(中公新書)の中で「本当は会稽の東なのに倭国の位置をさらに南に引き下げるために東冶をくっつけた」みたいなことを言ってるが本当に三国志の専門家なのかね?

「会稽東冶」の政治的背景
倭国を「会稽東冶の東」にもってったのは倭国の風土、自然環境についての情報から中国人が本当にそう信じていたという説もあるが、上述の通り、現地の中国人は風土や自然環境の情報とは無関係に、航路の方角によって漠然と「会稽東冶の東」と言っていただろう。しかし魏が使節を交換する中で得られた実際の情報では、倭国は北九州から東(または東南)に伸びており、会稽東冶の東になっていなかった。これは倭国が「会稽東冶の東」にあると考えていた中国人にとっては新発見だった。

だが魏の公式見解(というか司馬懿の意向)では、倭国は呉からそんなに離れてるのではなくぜひとも会稽東冶の(つまり呉の)すぐそばにあってほしい。そこで90度(または45度)意図的に傾けた地理が想定された。魏志や魏略の原資料は誤ったわけではなく、司馬懿の功績を大きくするために意図的に方角を傾かせて呉の近くに倭があるように繕ったのだと思う。それ以外に、わざわざこんなことする理由は思いつかない。

大月氏は一万里の彼方だけど、魏と蜀が涼州を奪い合って死闘を繰り広げたその涼州には月氏系を含めた有名な遊牧民の残党が盤踞しており、魏も蜀も彼らを味方につけようとしていた。もっともこの頃の大月氏は中国が勝手にそう呼んでいただけで別系統の民族(クシャナ朝)だし、涼州の月氏人がインドの大月氏の動向を気にしたものかかなり疑問もあるが、魏は政治宣伝としての効果を期待したからこそ「貴霜」と呼ばずあえて「大月氏」と呼び続けたとも考えられる。親魏大月氏王と親魏倭王は同等で一対だからこそ曹真の功績に匹敵する司馬懿の功績としての意味があるわけで、当然、同様に呉への威圧という効果が期待されていた。

ただし呉に向けての宣伝ではなく魏の国内向けの宣伝で、司馬懿が呉を威圧しているという功績を称揚するものだ。夷州や亶州(澶州)の人間が会稽に交流にきていたことは後漢書に書かれている(この夷州・亶州が日本のことだというのは別のページに詳しくかいた)通り、倭国が本来の正しい位置にあっても呉に対する威圧としては十分で、それは海洋事情については魏より詳細な情報をもっていたであろう呉の方がよくしっていただろう。だが内陸にすむ中国人には東シナ海が大きすぎて呉への抑止力になるのか疑問に思うだろう。それでは司馬懿の功績も半分に聞こえてしまう恐れがある。

倭人伝の行程つまり五倍里のまま「一万二千里」だとはるか南のはて、それこそインドネシアのボルネオ島やスラウェシ島のあたりになる。これじゃ「会稽東冶」もクソったれもあったもんじゃないw 『石刻禹跡図』は1137年だからかなり後世のものだが三国時代の司馬氏に仕えた裴秀が作った『禹貢地域図』の影響で作られたという。これによると高麗(今の韓国)の南端から瓊州(今の海南島)まで約五千里というから、朝鮮半島の南端から台湾の北端までその半分で約2500里。これを北にずらすとだいたいソウル(帯方郡)から福州(東冶)までと同じぐらい(約2500里)にみえる。渡邉義浩は上述の著作の中で「『石刻禹跡図』は朝鮮半島南部から海南島まで約五千里とあるから、『禹貢地域図』では朝鮮半島南部から会稽の背後まで約五千里としていたことになる」と書いてるが、正気で言ってるのかね? まさか海南島を「会稽の背後」とは言わないだろうから「周旋五千里」に目が眩んで錯乱してるんだろう。海南島は遠くて、台湾だの会稽東冶だのは朝鮮と海南島の間ぐらいにある。だから目分量で半分の約2500里になるのは世界地図に照らせば誰がやっても明瞭にわかる。概数だから2600里でも2400里でもいい。『後漢書』郡国志によると洛陽から遼東郡まで三千六百里、玄菟郡まで四千里、楽浪郡まで五千里という。これを目安にしてみると帯方郡から会稽東冶の東の海上まではアバウトに2500里前後にみえる。前述の渡邉義浩の見立て(約五千里)は半分にしないと合致しない。上記の禹貢図から察しても、中国人は中国本土の地理については正確な情報を当然もってるから、これぐらいは容易に推定できる。「一万二千里に誇張しなければならない」という課題が発生した時には、一万二千里を五で割って、実測2400里と設定すれば実際の数値に近いと目算したのではないか。
ただし初期のシンプルプランだと方角が変わるのは不弥国から先の3000里分であり、十分意味のある変化といえるが、改訂された現状プランでは方角が傾いてるのは末蘆国から先だから先端のわずか600里にすぎず、これだと方角が変わっても変化が無いから日数表示の分も距離に加算されていると考えられる。つまり北九州と邪馬台国の間は、方角を変えることで邪馬台国を「会稽東冶の東」にもってこれる程度には離れているということだ。邪馬台国を含む倭国のおもな領域が九州内に収まっているのなら、南への距離の延長だけで済むのであり、わざわざ方角をかえる意味がない。

それと「一万二千里」に誇張した段階でインドネシアまでぶっ飛んでしまってんので、これでは「呉に対して脅威を与える魏の同盟国」にもならない。「会稽東冶」にもってくるためには5倍誇張では大きすぎ、1.5倍と2倍の間ぐらいでいい。しかしそんな倍率は魏志に出てこないし、会稽東冶については距離の誇張でなく方角ズラシで対処したことは明らかだ。そうするとこの二つの歪曲は両立しない。距離が誇張されてると知る人で初めて倭国が呉の近くなんだと騙されることができ、一万二千里を真に受ける人は会稽東冶の東には馬韓があると考えるか、さもなければ会稽東冶の東はるかハワイのあたりに倭国があると考えるはめになる。しかし一万二千里は数字の上だけのことなのに会稽東冶は習俗文化の具体的でふんだんな記事とともに考察された文なので、どちらが嘘でどちらが本当かは容易に判断がつくだろう。おそらく「会稽東冶の東」をみて「一万二千里は嘘なんだな、誇張されてるんだな」と気づかせる意味もあるんだろう。肝心なのは「倭国は会稽東冶の東である」ということである。

一万二千里を真に受けるとインドネシアになっちゃうから、実際に邪馬台国インドネシア説というのはあった。有名だから知ってる人も多いだろう。それは北アジア史の権威で遊牧民族の歴史について数々の名著のある内田吟風の唱えた説で、ジャワかスマトラにあった「耶婆提国」を邪馬台国とする。耶婆提はヤヴァドヴィーパ[yava-dvipa]の音訳で、AD411年にここを訪れた法顕が『仏国記』で紹介している。この説は素人ではなく学界の大物が主張したのが珍しい。しかし残念なことに後年撤回している。
この他に南方説としては小林恵子の奄美説(電波古代史学者の小林恵子と同一人物で本人の最初期の若き日の著作)、加瀬禎子のフィリピン・ルソン島説(耶婆提国とみるのは内田吟風と同じだがジャワ・スマトラでなくルソンとする)、木村政昭の沖縄説(琉球大の海洋地質学者。今も地震研究そのほかで活躍中)がある。いずれもジャワ・スマトラ説の前では迫力不足。
倭人伝の「其の道里を計るに当に会稽東冶の東に在るべし」を真に受けると奄美大島や沖縄、「投馬国(台湾?)まで水行二十日そこから邪馬台国まで水行十日陸行一月」を真に受けるとルソン島の南端あたりになるので、これら南方説の論者はだいたい「真に受ける系」の人が多いと言い得る。
この中で木村政昭はさらに「ムー大陸沖縄説」を言い出したところが面白い。戦前の日本人のインドネシアへの思い入れといい、ムー大陸と竹内文献一派との関係といい、邪馬台国とムー大陸は日本人にとって魂の故郷とか失われたルーツとかを象徴するという意味で深層心理的には似たような面がありそうである。
普通のオタクならここでモスラの歌やインファント島の土人の踊りの動画だすところ。そっちじゃなくて、こっちってのがツウでっしゃろw
ちなみに章炳麟(明治〜戦前、中国の政治家)がこの耶婆提国を南米エクアドル(漢字表記:耶科陀爾)とする説を唱えた。その説自体は邪馬台国に絡まないのだが、これとは別に幸田露伴が耶婆提国なら耶科陀爾(エクアドル)より日本の邪馬台国のほうが似てるだろうと突っ込んだ。この両説を都合よくくっつければ「邪馬台国南米説」もたちどころに組み立てることができる。

45度説と90度説での邪馬台国の位置関係
では、方角が傾いてるのは意図的なものだとして、それは45度なのか、それとも90度なのか? 90度説より45度説の方が若干ややこしいので、まず90度説から検討してみる。

90度説
90度説だと順次式でも放射式でも方角は日本海航路より瀬戸内海航路の方が自然にみえる。順次式だと邪馬台国までの水行と陸行が「and」なら投馬国は中間地点で広島県福山市鞆町鞆か。「or」なら邪馬台国までの3分の2ぐらいの距離で岡山県玉野市玉か。順次式で「or」の場合「陸行」が説明しづらくなってしまう。大きくは日本海航路でも角度の広がりからいって投馬国が出雲だとしても但馬だとしてもそこへの南(実は東)はだいたいそういえる範囲ではある。が、投馬国がもし但馬だとすると邪馬台国への南は「西南」(実は東南)の誤りだとでもしないと苦しい。だとすると投馬国は出雲が妥当か。水行陸行の具体的な距離がどのぐらいなのかは詳しくは後でやるとして、ともかく順次式の場合「水行・陸行」の距離をむちゃくちゃ短かめにとっている。
放射式だと特になんの問題もない。が、問題なさすぎて邪馬台国も投馬国も、候補が多すぎて絞れないw しいて言えば邪馬台国を畿内大和とすると順次式ほど酷くはないが放射式でも「水行・陸行」の距離をかなり短くとってる。だいたい北九州から畿内大和までは陸行だけで半月ぐらいが適正だから「陸行一月」とは倍もの差がある。この、水行陸行の具体的な距離がいったいぜんたいどのぐらいなのかの考察は後の方でやります。

なお、日本海航行説の場合なぜ瀬戸内海を通らないのかという説明も必要だが、それは後の方で「魏の使いが邪馬台国に行ったか行かなかったか論争」のとこで一緒にやるからここではやらない。
それと畿内説か九州説か問わず、投馬国と邪馬台国の水行陸行は郡から直接いくルートなんだという説もあるが唐突で受け入れ難い。張明澄も「そんな漢文の読み方はない」と一蹴していた。ここまでガイドしてきてなんで急に郡から説明しなおしになるのか? そもそも邪馬台国への案内なのだから不弥国までのルート説明は邪馬台国につながってないことになって意味不明になる。日数は一万二千里の日数だという説も方角を傾けた分の里数が少なすぎて方角をかえる意味がなくなるので採れない。

邪馬台国と投馬国がどこなのかという話は水行陸行の日数の問題のところで検討する。それまでお預け。

45度説
45度説の場合、放射式は成り立たないので順次式のみが考察の対象になる。
模式図的には邪馬台国は北九州(不弥国)からみて「はるか東南」ということになる。不弥国から投馬国へいく南というのは東南ということになり、畿内説の場合は九州東北部から瀬戸内海へ向かう方角となる。九州説の場合でも放射説を使わず順次式で不弥国から九州東北部の岸に沿って進み、豊後や日向の方向へ行けばよい。放射説だと伊都国から南にしろ東南にしろ二十日も水行できるような大きな川がない。まぁ2日も歩けば有明海に出ちゃうので何とでも言いようはあるが…。畿内説の場合、波の荒い日本海より瀬戸内海の方がよさそうだが、玄界灘に比べれば日本海もたいしたことないし、行きの場合は日本海の方が潮の流れに乗って高速で行ける。帰りは瀬戸内海航路を使ったろうが、行きは日本海と両方ありうる。ただ、瀬戸内海航路だと、投馬国を周防にしても吉備にしても方角的に邪馬台国=大和との位置関係が難しくなる。神戸市須磨区を投馬国とすればなんとかなりそうではあるが、投馬が須磨(すま)になったってのはもしかしたらやや厳しいかもしれない。
日本海航路だと、南は実は東南なのだから、投馬国が但馬だとすると実に都合がいいのだが、不弥国から投馬国への南(東南)が整合しないのが難点。
そこで、不弥国から投馬国への「南」は誤字があるのではないかという、九州説からは評判の悪いいつものアレ。一応、3通り考えられる。

(A)「東」(実は東北)の誤りとする説
(B)「東南」(実は東)の誤りとする説
(C)「東而南」(東北に行ってから東南に折れる)の誤脱だという説

(A)の場合、不弥国から東北に進んで投馬国=出雲に到着、そこから東南に向きを変えて邪馬台国へ向かうことになる。
投馬国が出雲だろうが但馬だろうが「邪馬台国への南」とあるのは実際は東南のこと。
(C)の場合、はじめ東行(つまり北東)して出雲沖あたりで南(つまり東南)に方向転換して投馬国をめざす、と。この場合、模式図の方角では邪馬台国は北九州からはるか東南にある。

以上、45度説の根本的な問題は、日本列島が北九州から東南方向に伸びている、という地理観を魏人がもっていたという前提があるわけで、これは実際の日本地理とはずいぶん乖離している。前述のように当時の中国人はすぐれた測量技術や発達した地理学があったのに、そこまで間違った地理観をもっていたとは、どうも考えにくいようにも思われる。
だが、陸行水行の日数をどう考えるかによっては、上記の(A)説をもとにして、45度説でありながら邪馬台国を真東にもってくることもできるのだ。日数を距離に換算する話は後回しにしてここでは詳しくはしないが、冒頭の「韓地では内陸をジグザグに陸行しようが、海沿いを水行しようが、同じく七千里」という話を思い出そう。あれは水行も陸行も同じ距離だということを暗示したのではないだろうか。そうすると不弥国から投馬国までの「水行二十日」と、投馬国から邪馬台国までの「水行十日プラス陸行一月」が等距離になり、投馬国は不弥国と邪馬台国とのちょうど中間点にあたるので、出雲の方が但馬説よりよさそうにも見える。出雲説の場合、出雲から水行十日で但馬に上陸し、そこから陸行一月で邪馬台国に到着。ちょうど良い。
投馬国が出雲なのか但馬なのかという議論は後回しにして、なにが言いたいのかというと理念上は不弥国と邪馬台国との間の中間点では直角に曲がってるんだからこの航路は直角二等辺三角形を描き、邪馬台国は不弥国からみて真東に当たることになる。北九州から真東ではどんなに長距離を行っても「会稽東冶の東」にはならないが、これを45度傾けると、真東が「東南」になり、「会稽東冶の東」を延長した先と交わる。ただ、2000里か3000里も離れた「はるか東方」になり、呉への牽制になるのかという問題はあるが、一応、理論上は「会稽東冶の東」に違いない。
邪馬台への行程【その4】」に続く。
【その4】では狗奴国の謎に迫る! そして使訳通ずるところ三十国の「30国」のリストはの謎を解明!?
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邪馬台への行程【その2】~女王国と周旋五千里の謎~

改稿:2679年[R01]10月20日SUN (初稿:2679年[R01]10月10日THU)
邪馬台への行程【その1】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その1】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「女王国」という言葉
女王国という言葉は本来は男王国の対語で、倭国が男王派と女王派にわかれていたという情況を反映していた。女王国は「女王が支配する諸国=女王を支持する諸国」、男王国は「男王が支配する諸国=男王を支持する諸国」の意味。だから理屈だけいえば、邪馬台国も女王国だけど、奴国も女王国(の一部)ではあるわけだ。倭人伝に出てくる「女王国」という言葉を、読者は邪馬台国のことだと錯覚して読んでるが、実は奴国のことだったりする。しかし言葉の定義上、嘘をついてるわけではない。実際、倭人伝には「女王国」という言葉は5回でてくるが、文脈から判断するに、そのうち4回は単に奴国をさしている。

魏志倭人伝にでてくる「女王国」と「女王」のリスト


(A)「皆統屬女王國」◎
(B)「自女王國以北其戸数道里可得略載」 ◎
(C)「自郡至女王國萬二千餘里」 ◎
(D)「自女王國以北特置一大率檢察諸國」 ◎
(E)「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」 ●

(1)「南至邪馬壹國女王之所都」
(2)「次有奴國此女王境界所盡」 △
(3)「其南有狗奴國其官有狗古智卑狗不屬女王」△
(4)「傳送文書賜遣之物詣女王」
(5)「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」●
(6)「倭女王遣大夫難升米等」
(7)「其年十二月詔書報倭女王曰」
(8)「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」

【魏略】「女王之南又有狗奴國女男子爲王」▲
(魏志では「女王之南」が「其南」になってる)

無印(1)(4)(6)(7)(8)の女王は、「卑弥呼という人物」を指し「王の地位にある女性」そのまま。
△(2)(3)は「女王の勢力圏」、お前らの好きな言葉でいえば「女王国連合」、つまり本来の「女王国」という言葉の使い方。 女王の二文字だけでも文脈上は女王国の意味。例えば「ロシア皇帝が宣戦布告した」といっても「ロシア帝国が宣戦布告した」といっても同じこと。
◎(A)(B)(C)(D)の「女王国」はまさに「奴国」の誤記、いや奴国をあえて女王国と書いた例。(C)だけが意図的なもので他は誤記かもしれないが。
●(5)はもし誤写がないとするとなぜ「女王」と人間を出してるのか不可解だから「女王国」か「奴国」の誤写だろう。「女王国」だったとするとその意味は卑弥呼の勢力範囲(=諸国の範囲、女王国の本来の意味、「女王国連合」の全体)か邪馬台国か奴国かの三つありうる。卑弥呼の勢力圏の意味だとすると、範囲が広すぎて起点が漠然としてしまうので、「奴国」なり「邪馬台国」なりと書かれてあるのがもっとも自然であり、女王国とか女王とあるのはへんだ。へんではあるが距離や方角の起点を示す時は「女王」とあろうが「女王国」とあろうがすべて「奴国」か「邪馬台国」のいずれかを指すと解釈せざるをえない。この場合、もと奴国とあったのを女王なり女王国なりに誤写したのだとはいえても、もと邪馬台国とあったのを誤写したというのは字づらからいって苦しいから、「女王之都」とあったのが誤脱したんだといった方がいくらかマシだが、あえて邪馬台国と書かず女王とか女王国とか漠然とさせてるのはやはり普通でなく、奴国を意識してるのではないか。奴国を女王に誤写した可能性もあるし、誤記ではなくわざと「女王国」と書いてあったのに国の字が誤脱した可能性もある。詳しくは後述。
●(E)も「奴国」のこと。だが、△印と同じく女王国連合の全体と受け取りたい人が多いかも知れない、俺もそう思ってた時期がある。もと「魏略」の冒頭で半島から海を渡った先にも倭があるという趣旨の文だったが、陳寿が切り‏離して遠く離れた末尾に置いた時に、ある目的をもって「女王国東」と補い、もともと無かったはずの倭国の領域を文章の上だけで東に想定したもの。詳しくは章を改めて以下に述べる。
▲【魏略】の女王は魏志では「其の南」になってて『魏志』の文脈からは「奴国の南、女王国全体の南、邪馬台国の南」の三通りの解釈がありうる。魏略の方が原形なら邪馬台国を女王国と誤記することは考えにくいし、女王国全体の南では広すぎて起点が定まりにくい。そうするとここの女王は奴国のことだと一見思われる。狗奴国は肥後菊池郡としても南は後述するように45度(別説で90度)傾いて東南のことだから奴国から東南では菊池郡にならない。東国説の場合は邪馬台国から東(90度説だと表記上は南)だから、こっちの方が合ってるが、ならば邪馬台国とあるべきでこれを女王とは書かないだろう。邪馬台国を女王と誤記することも考えにくい。ともかく邪馬台国は字づらからありえず、かつ、奴国の線も消えるなら、文面上は「女王国」だったとしか考えられないが、女王国(の全体、勢力範囲)は普通は広すぎて方位や距離の起点とはされない。苦肉の策だが、「女王国」が例外的に方位や距離の起点になりうる場合が一つだけある。それは対象が特定の国邑(=点)ではなく、女王国と同程度の広がりをもっている(=面)場合だ。つまりここには文字の誤脱があり「女王国之南、男王国あり」もしくは「男王国は女王国之南にあり」という文章だったのではないか。

「周旋五千余里」の謎
●(E)の原資料は『魏略』で冒頭の「倭在帯方東南大海中依山島為国」の後にすぐ続けて「度海千里復有国皆倭種」とあり。前の文はもちろん『漢書』地理志の「夫樂浪海中有倭人為百餘國㠯歳時來獻見云」に基づいた文だが、ここの「海中」は「海を渡った先」の意味ではない。『山海経』海内南経にに「甌居海中、閩在海中」(甌越(今の浙江省)は海中にいて閩越(今の福建省)は海中にあり)、『漢書』天文志に「朝鮮在海中」(朝鮮は海中にあり)と。『戦国策』にも用例があったが検索しても出てこないな。朝鮮も甌越も島ではなく中国と陸続きである。この場合の「海」は "sea","ocean" ではなく「晦」(かい)と同義で「暗い」の意味。「暗い」というのは中華文明の光が届かない化外の地、異民族の世界ということ。陸続きか島なのかはぜんぜん関係ない。逆にこの「海」に囲まれた内側が文明世界でありこれを「海内」という。義満が明の皇帝に送った国書に「某、幸に国鈞を秉り、海内虞(おそれ)なし」とあったあの「海内」も同じ。もし "sea","ocean" の意味なら「海中」でなく「海上」と書けば間違いがないが、「海中」でも "sea","ocean" の意味の場合も当然あるから文脈をよくみて判断しなければならない。『漢書』地理志の「楽浪海中」は楽浪(今の北朝鮮)の海中というのだからそれは今の韓国の地をさしている。もし日本列島をさすのなら楽浪ではなく「真番海中」でなければおかしい。真番は今の韓国の地で、半島南部を「韓」というのは後漢になってからで、前漢の頃は真番郡が廃止されても「韓」という呼称はまだ発生する前で「真番」と呼び続けていた。真番の住民が倭人ってことになる。ところが「真番海中、倭人あり」ではなくて「楽浪海中、倭人あり」なのだから、今の韓国の地の住民は当時は倭人と呼ばれていたことになる。だから『魏略』冒頭の「倭在帯方東南大海中依山島為国、度海千里復有国皆倭種」をそのまま読めば表面上は「倭は朝鮮半島にあるが、海を渡った先の日本列島も倭国だ」っていう意味にしか取りようがない(さらに詳しくはいずれ解説します。いつか任那日本府についての議論で扱うだろう)。つまり『魏略』は朝鮮半島の南部も倭だっていう前提の文章だった。これは「魏志では半島に倭があったとは書かれてない」という前述の俺の主張とは矛盾しない。時代が違うのだ。

※なお「山島」は通常なら「山がちの島」とか「平地の少ない島」ぐらいにとるのが普通だろうが、鈴木貞一によると「山島」には「半島」の意味があるという。「半島」は西洋語を翻訳して作った現代語で漢文にはない言葉。「崎」は険しい山、「岬」は細長い谷間のことで、どちらも半島の意味に使うのは日本で始まった転用(もしくは誤用)で、本来の漢文にはない。ただ「埼」の字は未確認で、もしかしたら半島の意味があるかもしれない。「山島」で半島を表わし得るというのは、上に突き出た土地が「陸にあるのが山で、海にあるのが島」だから、「山島」とくっつけると「陸側に半分くっつき、海側に半分でている地形」で半島のこととなる、という理屈だろうか? もし鈴木貞一の説が本当なら『魏略』のいう「倭在…依山島為国」の文は「倭が半島にあった」と解釈することが可能になる。ただ、この場合でも「山島」は「半島の意味しかない」というわけではないので、絶対の根拠にはならない。

韓も倭も「百餘国」だが、三国志の三韓合計78国と宋書の倭(東55国、西66国)合計121国を加算すると199国で、これを倭韓で平均すれば「百餘国」でぴったり合ってるともいえる。「三韓」の諸国が三世紀に計78国、五世紀に海北95国だから、前漢代に「百餘国」といってるのは半島南部の諸国の概数として不適とはいえない。国造本紀(144国)や隋書(120国)や五世紀の121国から推定して三世紀日本列島も「百餘国」だったというのも概数として問題はない。精密な数字が一致することは偶然で考えにくいが、四捨五入したおおまかな概数が一致するのはよくあることで何の問題もない。誤解ないように念押しするが、これは前漢の頃は倭国が半島を支配してたのに後漢になってから半島が独立したということではない。半島の原住民(倭人)が日本へ引き上げて別の人種(韓人)に入れ替わったという意味でもない。「中国人側からの呼び名」が変わっただけ。三国時代にはすでに半島の「韓」と列島の「倭」に呼び分けることが起こっていたので、この部分は誤解ないように切り捨てるべき部分だったが、陳寿はこの前漢代の知識に基づく文章を切り離し、「ある目的をもって」末尾に移動したのである。その時に「女王国東」と補った。陳寿の意図については後述する。原文の『魏略』では「女王国の東」だとも書いてないし単に「東」だとも書いておらず「千里の海を渡った先にも倭」としかいってない。これは半島の倭と対馬の倭の関係をいってるにすぎない。だから冒頭に書いてあるわけなのだ。
東千里の倭種は女王国じゃないんだから、じゃそれは男王国=狗奴国だろうと『後漢書』は解釈しているが、誤りに誤りを重ねるものだ。実際、狗奴国は東にあったんだが、范曄が正確な情報をもっていたわけでは全然ない。二度まちがいを重ねた結果、偶然ただしくなっただけ。
陳寿としてはこの「倭種」なるものは女王国でも男王国でもない倭国のつもりだったろう。
なぜそんなことがわかるのか?
上記の●(E)と●(5)の文は問題の「周旋五千里」とくっついたひとまとまりの文になっている。
倭人伝には

参問倭地、絶在海中洲嶋之上、或絶或連、周旋可五千餘里


倭の地を参問するに海中洲島の上に絶えて在り、あるいは絶えあるいは連なり周旋五千余里ばかり

という文がある。「周旋」はうっかりすると「ぐるっとめぐる」って意味だから一つの陸地の周囲か複数の島々を囲む距離(ぐるっと回って同じ所に戻る)と思われやすく、実際プロの学者からアマチュアまでそういう解釈の人が多い。しかし三国志の「周旋」の用例を調べた人のレポでは20件ぐらいあるうちのほぼすべてで「転々としながらあっちに寄りこっちに寄りして進む」の意味で使われているという(ネットで見たけどアドレスは忘れましたw)。つまりくねってはいるが一本の道だとも受け取れる。だから、国語学者の山田孝雄は「周旋とはみずからが旋転(めぐりまわる)する意味」であるといっているけどこの場合の「みずからめぐる」というのはフィギュアスケートやバレエダンサーみたいに自分の身体を回転させるということでなく「めぐりながら(あちこち寄りながら)歩く」ってことだろう。だが、辞書レベルでも丁寧に調べたら「同じ場所に戻るようにぐるっと回る」という意味も絶対に無いという訳でもなさそうだ。
ともかくこの前提で、例えばこの「五千余里」を一万二千里から韓地の七千里を引いたもので機械的な計算で出した数字にすぎないという説も有力なのだが、簡潔を尊ぶ漢文において、そんなわかりきった数字をわざわざ明示する意味はない。
小人国1侏儒国(小人国)
そもそもこの記事の該当文面は●(E)の「女王の東千里に国名不詳の国があり」、●(5)の「その南に侏儒国があり女王から四千里。裸国と黒歯国がうんたら」にすぐ続いて「周旋五千里」で閉めている。「習俗記事の後、歴史事件記事の前」に置かれており、行程記事から遠く離れていて、本筋の行程記事とは関係ないようだ。●(E)は前述したように『魏略』の倒錯した文だから切り捨ててしかるべきだったが、行程記事とは別のこんなところにもってきて原文になかった「女王の東千里」を補ってる。なんでこんな余計なことをしてるのか? おそらく「周旋五千里」は初期モデルでのコースで対馬国から邪馬台国までの5000里のことだったと思われる。これは最初に「一万二千里」と一緒に広報されてしまっていて引っ込みつかない情報だったんだろう。ところが改訂モデルだと対馬国から奴国まで4000里なのだから、1000里不足する。だから1000里分、水増ししなければならない。そこで先ほどの廃棄されるべきだった『魏略』の文を都合よく再利用したのだが、無いものを有るといっただけだから国名が無いのである。その名無し国から四千里も行った先のこと(侏儒国)まで情報あるのに、そのずっと手前の国の名前がわからないっておかしいだろう。存在しない国をあるように見せかけるために、わざと侏儒国とか裸国、黒歯国といった『山海経』に出てくる神話上の国、当時の中国人にとっても実在かどうか半信半疑な国と一緒に書いてるわけなのだ。「参問」というのは魏の使いが自分で確認したわけではなく倭人から聞いた話だという意味。数あわせのため追加した千里分の「名無し国」は詳しいことは書けないので伝聞ってことにしてある。本当にそんな国があるのならストレートに書けばいいんでわざわざ「参問」などと断りを入れたりはしない。

なぜ里程でなく日数になってるのか
さて。次には、なんで投馬国からは里程でなく日数で書かれているのかという問題。
一万二千里にするため誇張したにしても、それならそれで邪馬台国までの区間も里数で示せばよく、なぜそこだけ日数なのか? よくいわれる説としては魏使は投馬国と邪馬台国には行ってないので倭人からの伝聞で書いた、隋書倭国伝に

夷人、不知里數、但計以日。


夷人、里數を知らず、ただ計るに日をもってす。

とあるから里数の情報は得られなかったんだ、という説。しかしなんで隋代というずっと後になってそんなことがわかるんだ? 隋といえば推古天皇、聖徳太子の時代で「里」の単位を知らないなんてことはありえない。そもそも隋の使者である裴世清が倭国にきたことも隋書に書かれてるんだからその時代の倭国の文化情況もよく見聞してたはずだろう。卑弥呼の時代の話だというなら三国志の段階で書かれたはずで隋になってやっと確認とれたなんてことはありえない。これは倭国の大きさを「東西五月行、南北三月行」と説明する直前の文だから、なぜ里数で書かないのかを言い訳するための前置きなのである。現代の我々が「魏の使いは投馬国と邪馬台国へは行ってないんだな」と推理するのと同じく、隋書の編集部も三国志の倭人伝をみて「日数表記に変わったところは魏の使いは行ってないんだな」と理解したからこそ、言い訳に利用できたんだが、なぜ理解できたのかというとそれこそ孫栄健のいう「春秋の筆法」で、普通に読めば邪馬台国までいくと一万二千里を超えてしまうからだ。「邪馬台国まで一万二千里」を「奴国までが一万二千里」に書き換えたため、奴国を経由して邪馬台国まで行ってしまうと「1万5100里」になってしまう(奴国から不弥国まで百里、不弥国から投馬国経由で邪馬台国まで3000里)。現代人からするとどうせ誇張ならそれでも別によさそうに思うかもしれないが、それならなぜ最初から「1万5100里」だと宣伝しないのか、「一万二千里」という話はなんだったのか、そんないい加減でいいのかってことになる。「一万二千里」という数字はすでに景初三年(239年)のイベントで大々的に宣伝されてるので今さら引っ込みつかない、だから「1万5100里」は隠してしまいたい。そこで実際に行ってない行程はわざわざ日数換算に置き換えて里数に単純に合算できないように阻止してあるわけ。
日数表示というのは別に当時の倭人が里という単位をしらなかったからではない。当時の倭人だけでなく、当時の中国人も、現代の中国人も、現代の日本人もみんな日常的に使ってる物差しなのだ。考えてもみろ、自宅から会社までとか、大学から新宿とか渋谷までとか距離を聞かれてキロメートルで答えるやついないだろ? 地下鉄で30分とか山手線で15分とかと答えるはずだ。その方が体感でわかりやすく、実用的で便利だから。里数の方は役人が測量担当者を引き連れて、測量して回る。そのデータを地元の役所(例えば帯方郡)に保管したり中央に送ったりする。だから理論上は実際に行ってないと測量できない。むろん実際は伝聞で里数も把握してたろう。自分で測量しなくても倭国に聞けば教えてくれたはずだ。「軍事機密なんだから教えるわけないだろ」という人もいるが、そんなこたぁないんだよ。当時は邪馬台国だろうがどこだろうが中国系の移民(合法移民も不法難民も含む)もいれば帰化人系の下級貴族だってそれなりにいたのは魏志倭人伝に倭国の使者の中に中国人の名前の者がいるのでわかる。だから、魏の使いも部下を邪馬台国のすぐそばまで派遣したって何も不自然なことはない。ただ合法的にそこらの景色見て歩いてこさせるだけで大雑把な里数ぐらい把握できてしまう。むろん測量しなければ正確なものではないが、大雑把な情報でもさしあたり無いよりずっとマシのはずだ。そんなこと当然、倭国の側もわかってるから、軍事機密だなぞと仰々しくもったいぶって教えない、なんてことはありえない。「ハイハイ、どうぞ」と2秒で差し出すに決まってる。

むろんそれで得た結果が「水行二十日」「水行十日陸行一月」に反映してるかどうかは別だよ。日本書紀の推古朝での隋使裴世清の旅程日数から、ほぼ妥当だという説もあるが、裴世清の旅程は最短最速で進んだわけでもなさそうだし、日数から距離に換算できる性質のものじゃないだろう。むしろ推古朝の朝廷(聖徳太子?)が魏志倭人伝の記述にあわせてわざわざ日数かけて移動させ、もったいぶって見せたんだろう。三国志にでてくる倭国は超大国であるように誇張されている上、当時の隋でも推古朝廷でもその三国志の倭国がこの倭国だと思ってたわけだから、これに便乗して大国に見せかけるぐらいのことは当然やる。

それに前述のように「邪馬台国まで一万二千里」が中国側の都合で先に決まっていたんだから、倭人から聞いた実際の里数とは無関係に、機械的に「郡から楽奴国まで6000里、渡海に3000里で、上陸地の不弥国から投馬国経由で邪馬台国まで3000里」と割り振られたという想像は前の方で書いた通り。それがずっと後になって「奴国まで一万二千里」に改定されたから、この余分な3000里の部分が里程に合算されないように日数表示に変更されたのだろうと容易に理解できる。
で、魏の使いがはたして伊都国までしか行かず卑弥呼に会ってないのか、それともちゃんと邪馬台国まで行って卑弥呼に会ってるのかという問題と、日数表記の「水行二十日」「水行十日陸行一月」が具体的にどれだけの距離なのかという問題。この二つの問題については後の方で必ずやりますから、その前に「方角」の問題を片付けないといけない。
邪馬台への行程【その3】」に続く。
【その3】では方角が傾いちゃってる謎を解きます。日の出の方角を東としたからではないし日本の地理を古代人が誤解してたからでもありません。「会稽東冶」についての議論、そして「狗奴国」が東海地方なのか熊本県なのか、どっちなんだって話も。
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邪馬台への行程【その1】~一万二千里と春秋の筆法~

改稿:2679年[R01]10月19日SAT (初稿:2679年[R01]10月03日THU)
※【その8】までありますが、内容がつながってるので一気読みして下さい。
前置き
今回は邪馬台国問題の中でもいちばんくだらない、じゃなかった、いちばんメジャーな「帯方郡から邪馬台国へ」のコースをどう解読するかって問題に挑戦してみる。

韓地七千里の謎

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里

最初のこの文からもう謎だらけw
「循海岸水行」の意味は海岸にそって航行するんだから韓地の西海岸を南下し一回東に折れてから韓地の南海岸にそって東行するとしか読めない。よって「歴韓國」は韓国の海岸を経ていく意味になる。それなのに「乍南乍東」とあり、小刻みに南いったり東いったりすることだから、これだと「歴韓國」は北西から南東に向かって韓国の内陸をジグザグに進んだように読める。この文の解釈はこの二つの説が対立しているが決着はつかないと思う。なぜならどっちもその通りに書いてあるわけだから。
※これを途中まで沿岸航路で行って、途中から上陸してジグザグコースを陸行するような地図を作ってる人がいるけど実際にはそんな不便なコースはありえない。内陸の場合、南韓江と洛東江の水運を使うからだが、後述の魏略逸文には「乍南乍東」が無くこれが元ネタと思われるというのもある。

また「歴韓國」が上陸せず海沿いを水行する意味と、ジグザグに陸行する意味のどちらもありうるのならば、物理的にいって「韓国を歴ず」しては倭国に行けないわけだから、この三文字は要らないのではないか。簡潔を尊ぶ漢文においては無駄な文字は極力排される。ゆえに、なぜこの三文字が挿入されたのか、何らかの意味がなければならない。「韓国を歴て」は2つの解釈があり、「韓国を通過して」の意味であって海路は該当せず、「乍南乍東」と繋がって「陸行」を表わす言葉だという説と、上陸せず海岸に沿って進むんでも「韓国を歴て」という漢文は問題ないんだという説とがある。単語レベルの正否は俺には決められないし、これだけなら何とでも言えそうだ。その一方で、内陸ジグザグコースの場合、南漢江を最上流まで遡上し峠を歩いて越して洛東江を川下りしたんだから「乍南乍東」の方もたとえ内陸であっても「水行」なのだという説もあり、中国での水行といえば川をいうことが多いぐらいだから、それもありだと一見思える。が、本文には純粋な陸路なのか川を使ったのか明示がない。実際には川を使ったとしてもあえて水行だとはいってないのは、編者の陳寿としては内陸の川なので海路に対する陸路だということにしたいのだろう。そうすると、あくまで「この文脈では」という条件つきだが、「歴韓国」は陸行を示すという説の方がよさそうだ。つまり「循海岸水行」の「水行」と「歴韓国乍南乍東」の「陸行」を対称的に並べているのだ。
帯方郡から狗邪韓国までの行き方が海路と陸路の両方あるのは、まぁ別にそりゃそうだろってだけのことで問題はないし、狗邪韓国に着くことにはかわりないのでどっちでもいいっちゃいいんだが、なぜか魏志は二つの行き方をごっちゃに書いてる。これは普通ではない。おかしい。
あえてこう書いてる理由は、これから倭国への道を書くに当たって「二つの行き方をごっちゃにして書くよ」という前ふりなのではないだろうか?

二つめの問題は「其の北岸の狗邪韓国」。この「北岸」は

(1)「倭の北部にある沿岸部」と解釈する説
(2)「倭からみて北の方にある岸」と解釈する説
(3)「南の倭の海」と「北の韓の岸」が接してる意味とする説

がある。これ単なる地理情報としては「南岸」でないとおかしい(この場合「其の」は「韓の」の意味になる)。「韓の北岸」ではなく「倭の北岸」という意味ならあってるというのが上記の3つの説だが、そうか?「其の」が「韓の」の意味だろうが「倭の」の意味だろうが、普通は北側が海で南側が陸の状態を「北岸」というのであり、倭の北岸なら九州北部の沿岸部しか該当しないし、韓の北岸はそもそも地形上存在しない。このことは明治初期の学者から言われてることで、当時の人ほど漢文に精通してるとは到底思えない現代人が「いや北岸のままで問題ないんだ」といくらいっても説得力がない。だから現代人でも問題ありと認めて解釈説を立てるのが普通で、上記のような3つの説があるわけだ。北岸は「南岸」の誤記だとすれば話は簡単だが、そういう説はない。ということは、解釈で切り抜けられると思われているわけだが、実際うまくいってる訳ではない。(1)の場合「狗邪韓国」はつまり倭の領地(もしくは倭人居留地?)で(3)は韓地には倭の領地はないが海は倭の領分(領地?勢力圏?)だとみているわけだが、どちらもなぜそんなわかりにくい書き方をするのか、意味がわからない。もっとわかりやすく明示する書き方はいくらでもあったろうに、自然な解釈で切り抜けに成功しているとは思われない。(2)が明治以来の有力説だが、他が文章表現として不自然すぎるから比較的マシというだけのことで、なぜとつぜん「倭から見て」なんて視点をかえなければならないのか?
「倭からみて」ってことは韓から倭にいく時の視点とは逆に、倭から韓へ帰る時の視点だ。つまり往路と復路、二つの行き方がごっちゃになってる。これ先に「循海岸水行」と「乍南乍東」の併記によって「二つの行き方をごっちゃにして書くよ」とお知らせあったわけだが、その二つの行き方というのが実は「往路と復路」のことだと暗示しているのではないだろうか?w
ちなみに魏志の原資料になったともいわれる『魏略』には「乍南乍東」も無ければ「其の北岸」も無くて実にすっきりしている。

『魏略』 從帯方至倭 循海岸水行 暦韓國      到   拘耶韓國 七十餘里 
『魏志』 從郡 至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

あきらかに陳寿が「わけのわからない謎かけ」を意図して文字を追加しているのだ。

第三の問題は出港地である狗邪韓国はどこなのか?
狗邪韓国は韓の東南といい、通説では慶尚南道の金海とされる。金海は釜山の西に隣接してるので確かにパッと見、東南の隅にあるように見える。だが魏志は「東南だ」とはいってるが「東南の隅だ」とは言ってない。
帯方郡から韓の東南「狗邪韓国」まで七千里。このコースは西海岸を南下すること4000里、そこから東に折れて南海岸を東行すること3000里で計七千里とみる説にしろ、内陸をジグザグに進むという説にしろ、どっちのコースでも狗邪韓国は東南は東南なのだが「東南の隅」ではなく東南の隅から1000里てまえの地点になる(内陸ジグザグコースの場合も同じ、定規で図面つくってみればわかる)。韓地は方四千里だから「東南の隅」なら七千里ではなく8000里になる。「狗邪韓国」が金海なら東南の隅で8000里になりそうなものだが。そこで「狗邪韓国」は「弁辰狗邪国」と同じものというのが通説なのだが、両者を別の国だとして、今の金海は「弁辰狗邪国」であり「狗邪韓国」はそこより1000里ほど西にあったのではないかという説も出てくる。別の国だという説では「弁辰狗邪国」は弁韓の中の一国だが、「狗邪韓国」は馬韓・弁韓・辰韓のどれでもなく、魏志に「其の北岸狗邪韓国」とあるのは「倭の北岸」で倭国の領土だという。国名に韓とはっきりついてるのに倭だというのはちょっとどうなのかと思うが…。ともかく仮にこの説でいくとどうなるか。

魏志には「弁辰瀆盧国は倭に接す」とあり、まるで瀆盧国だけが倭と国境を接しているかのような書きぶりだ。上記の前提でいくとこの場合の倭は海の向こうではなく韓地内の倭だろうから、「狗邪韓国」のことだと考えるのが普通の流れだろう、あくまで狗邪韓国と弁辰狗邪国を別とする説の場合だが。で、瀆盧国は今の釜山市東莱区という津田左右吉の説が通説になっており、他に巨済島説があるがこっちは有力でない。

『三国史記』地理志によると巨済島には東西南北4つの郡県があり、うち北が「裳郡」、西が「買珍伊県」というのが知り得る最古の古地名とわかる。李朝末期の儒学者丁若鏞(丁茶山)は『我邦疆域考』の中で「鏞案、瀆盧國者、今之巨濟府也。本裳郡、方言裳曰斗婁技。與瀆盧聲近」(自分が思うに瀆盧国は今の巨済府である。もと裳郡で、朝鮮語で裳を「斗婁技」という。瀆盧と発音が近い)といっている。裳(呉音:じゃう/現韓:san)の訓斗婁技は "tu-lu-ki" だというがグーグルで現代韓国語の発音を調べたら "dulugi" という。これはローマ字表記の問題で同じ発音だろう。裳は韓国語でチマ(チマチョゴリのチマ)というのではないかと思うんだが、 "dulugi" で通じるのかどうか俺は知らない。やはり裳郡の裳は普通に考えると土着語の音写であって漢字に意味はないと思うのだが。これに対し、任那日本府の研究で有名な末松保和は買珍伊(呉音:めちんい/現韓:mae-jin-i/古韓:mai-tor-i/古和:めとり?)が瀆盧と同音だという。

東莱だと「倭であるところの狗邪韓国」との間に「倭ではない弁辰狗邪国」が挟まり、倭と接することができない。巨済島だとすると「倭であるところの狗邪韓国」が北でその南に「倭ではない弁辰瀆盧国」があることになり、「東西は海をもって限り南は倭と接す」という韓の地勢にあわない。そもそも島だからどこにも接してない。東莱説にしろ巨済島説にしろ「倭と接す」というのは土地が繋がってるって意味じゃなく海を隔てて交通していることだという説もあるが、それなら瀆盧国に限る意味はないし、語彙としてもむりやりな解釈で学界の中でも外でもほとんど相手にされてないと思う。現実の地形はそりゃそうだろうが、それを魏志が正しく認識してたなら「接する」とは書かないはずで、なんの謎解きにもなってない。巨済島説に対し、釜山市東莱区(新羅時代の「東莱郡」)の東莱が瀆盧の地名の痕跡だという通説の方がはるかに説得力があり、瀆盧国は今の釜山市のうち洛東江の東側の大部分を占めていたと思われる。狗邪国は釜山の近くではあるが釜山でなく、釜山の西にある金海というところであって、釜山とは別である(洛東江の河口を挟んで東が釜山、西が金海)。さてそこで「弁辰狗邪国」はどこか内陸にあって、金海にあったのは「倭であるところの狗邪韓国」だとすれば、瀆盧国問題だけは一応辻褄があう。しかしこの場合は「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」が通説どおり同じ国だとしても結局その位置つまり倭への出航地は金海ということに変わりはない。
この話は「出航地が今の金海なのかそれとも他のどこかの場所なのか」という問題なわけだが、なんでそんな問題があるのかというと以下の対馬海峡での謎解きに続く。

倭人伝のありえない逆行コース
まず韓の東南の狗邪国から渡海して対馬国、一支国(壱岐)を経て、九州の北西にあたる末盧国(松浦、場所は諸説あるがとにかく九州の西北部)に上陸、そこからまた行程は続くわけだが、実際にはこんなコースを取ったはずがない。対馬海峡は強い潮が西から東へ流れており、船が流されてしまう。なので古代では(前近代では)、韓国から九州に南下する時は、もっとずっと西寄りの港から出て、対馬、壱岐を経て、九州の東北部に入港するし、逆に九州から韓国へ北上する場合には九州北西部(松浦郡のあたり)から出発して、壱岐、対馬を経て韓国の東南部(それこそ狗邪国、今の金海、釜山)に着岸する。これがお決まりのコースなのだが、魏志倭人伝では奇妙なことに潮の流れに逆らって、本来なら九州から韓国へ行く時のコースを逆行している。当時はこれは物理的に不可能なんで、これを知ってる人は狗邪韓国を釜山よりずっと西の方だと考える人もいて、あるサイトでは慶尚南道の固城半島だといってるが、さしたる根拠はあげられてない。また別のサイトではさらに西の、全羅南道の光陽だという説を主張している。

光陽(クヮンヤン)は狗邪と発音が似てるが百済時代に「馬老」といったのを統一新羅の時代に「晞陽」(きよう)と改名したもの。現代韓国語だと晞陽はシーヤン、馬老はマーナオ、狗邪はクサに聞こえる。古い発音は、狗邪は日本語読みの方が近く、馬老は正確な発音は不明だが子音をみるかぎりとても狗邪と似てるとは思われない。

また船舶考古学や航海術に詳しい人は、上陸地の末蘆国は九州の東北部にあったという珍説をいう羽目になる。例えば坂田隆『卑弥呼と邪馬台国』は福岡県遠賀郡岡垣町の波津、吉木あたりとし、小説家の高木彬光や東京商船大学名誉教授の茂在寅男も宗像市神湊だとする。

茂在寅男は、壱岐対馬の現在にも伝わる船の下に帆を張るという変わった帆の使い方=潮帆(しおぼ)に注目して、当時の帆船もそうであったと推定する。潮帆は、潮夕と海流が強いための工夫から生み出された帆船であり、壱岐からの黒潮の分派の流れに乗って辿り着くところを比定すれば「神湊」は自然推力で辿りつく事のできる場所になるという。

こういうふうに理系の人は文献に物理的にありえないことが書かれていれば文献を否定して物理的にありえる方を採る。しかし俺は文系なんで、物理的にありえなくても、地名比定の上からは末蘆国は松浦郡でしかありえないと思うし、宗像あたりにもってくのは史料に現われた残存古地名の分布からして無理矢理な違和感を抱く。
このコース逆行は明らかに現地の実情を知らない者が簡単な地図だけ見ながら頭の中で組み立てたコースだ。もとの資料には正しくコースを進んだという記述があったろうが、わざと距離数をかせぐためにこんなことをしたんだろうとはすぐ気づく。帯方郡は北西にあり、倭国は南東にあるんだから、この対馬海峡を渡るところでは行きは「\」だが帰りは「Z」字型になる。渡海だけなら「\」でも「/」でも距離に大差ないが「Z」の場合、九州側の陸行と韓国側の陸行「二」の部分が加算され、それだけ距離が余計に長くなるわけだ。行きは「\」だけ。帰りは「/」+「二」=「Z」。普通に考えると「\」のコースだと邪馬台国まで一万二千里に不足したので「Z」コースを採用して数字を水増ししたのだろうと考えやすい。実測ではそんなに遠くないのだが、曹真の「親魏大月氏王」に対抗するという司馬懿の政治的な都合で「一万二千里」という数字が要請されたってのは、ほぼ通説で、もう超有名なネタなので詳しい説明は省略する。
つまり魏志は「わかっててあえて逆コースを進んだかのように書いてる」。
ここであの「其の北岸」問題ですよw 普通は「南岸」とあるべきに「倭からみて北にある岸」だと書いてる。視点が倭からの視点になってるのは、いうまでもなく韓地から倭に渡る時の視点ではなく「倭から韓に渡る時の視点」なわけで「其の北岸狗邪韓国」と書かれている段階で「これは実は韓から倭へいくコースじゃなくて倭から韓にくる時のコースなんですよ」とさりげなく示していたのだとわかる。これも「春秋の筆法」ですなw(「春秋の筆法」については後述)

【壱岐の西南】倭からの出航地点
では「Z」の四隅(「\」と「/」を重ね合わせた「X」の四隅)は具体的に今のどこなのかというと、左下の出航地点である末盧国は『古事記』に末羅県(まつらのあがた)、『日本書紀』に松浦県、『先代旧事本紀』では末羅国造(まつらのくにのみやつこ)として出ており、穂積氏の流れという。穂積氏は饒速日系の物部氏の分流という系譜伝承があって一般にはこれが信じられてるが、カバネが連でなく臣なので、饒速日系の物部ではなく和邇氏系の物部だろう。国造に昇格したのはかなり後で、県主(あがたぬし)だったと思われる。倭人伝では対馬国・一支国・末蘆国の3ヶ国だけが「海洋民族」であると強調していることは中世の倭寇を思い出させる。16世紀に松浦党の倭寇は長江の上流まで攻め上り、対馬・壱岐・松浦は中国と朝鮮から「海上の三島」と呼ばれて怖れられた。倭寇の本拠地だったからである。3世紀においても倭国の水軍の先鋒はこの3ヶ国だったとみて間違いない。末蘆国の場所は遺跡がいくつかある唐津説が有力だが、西彼杵半島説、佐世保説、伊万里説、呼子説、名護屋説もある。潮流から考えるとおそらく平戸のあたり(陸でつながってないといけないというなら対岸の田平町)が末盧国だと思うが、領域の広がりを考えれば唐津の遺跡地帯が中心で港はそこから離れていたとしてもいいし、さしあたり九州西北部の沿岸地方なら他のどの説でもよい。

【壱岐の東南】倭への着岸地点はどこか
次に右下の着岸地点だが、これはおそらく不弥国だろう。人口の説明に「戸」を使ってるのに一支国と不弥国だけが「家」の字を使ってる。これを社会構造とか家族制度がこの二国だけ他と違ってたとか言ってる説もあるがいくらなんでも深読みのしすぎだろw 確かに、「戸」と「家」の使い分けも漢文にはちゃんとあって、例えば現代中国語での話だが、一人の男性がかかえてる自分の全家族が「戸」だとすると、その男性に三人の奥さんがいた場合「三家」という場合があるそうだ。これから推定すると「戸」と「家」を使い分ける場合には「戸」の方が大きな単位で「家」はそれを構成する下位の単位のようだ。律令時代の日本では平均25人からなる「郷戸」とそれを構成する平均5~10人の「房戸」の二層構造があった。それはあくまで律令時代のことで三世紀には関係ないという説もあるが、三世紀にすでにそのような社会構造の原形があったことが倭人伝から推測できる。すなわち魏志倭人伝には

有屋室、父母兄弟、臥息異處。

とあり。考古学でわかってる弥生時代の普通の民家というのはせいぜい5~6人しか住めない。当然、家屋(建築物)は核家族のためのものと考えざるをえない。魏志がいってる「父母兄弟」とは既婚の成人男性からの視点だから、核家族は「屋室」(独立した建築物)に住んでいたという意味。複数の「屋室」が集まって大家族を構成してるわけだろう、つまり律令時代の「房戸」が倭人伝でいう「屋室」にあたる。わざわざ「屋室あり」と断ってるのは倭人伝でいう「戸」とは別の話をしてる。倭人伝でいう人口単位の「戸」が中国の戸(これは郡県の平均から5人くらいと判明してるので核家族でしかありえない)と似たような核家族なら「有屋室、父母兄弟、臥息異處」(住宅ごとに、自分の親夫婦や自分の兄弟の家族がそれぞれ分かれて住む)なんて当たり前のことはわざわざ書かれるはずがない。つまり中国の「戸」は核家族だが倭国の「戸」は大家族であり、律令時代でいえば「房戸」ではなく「郷戸」にあたる。これを漢文の「戸」と「家」の使い分けにあてはめれば郷戸が「戸」で房戸が「家」になるが、先にいったように中国領内の郡県(中国人居住地域)では「戸」は核家族の単位であるから、「家」と同じで変わりはない。つまり漢文では「戸」と「家」を使い分けることもあるが、同じように「戸」と「家」をまったく同義に使うこともちゃんとある。意味のある使い分けの時はその使い分けの意味が表面的に読んでもわかるように書かれる。だが、漢文によくありがちな、ただの同語の言い換え、別表現の場合も当然ある。今回は根拠のない勝手な深読みをしない限り、意味の違いが読み取れないのだから「ただの同語の言い換え」に該当する。しかしその上で(それに反してでなく)これは一支国から直接に不弥国に渡ったことを示すのではないか、という説も昔からある。一方、末盧国には官名が出てない。伊都国と隣接して伊都国の一部だから実際に役人がいなかったんだという説もあるが、五百里とあるんだから末盧国は伊都国とかなり離れてないとおかしいし、人口が伊都国の4倍もあるんで、役人はいたはずだろう。中世には対馬、壱岐、松浦は倭寇の本拠地で「海上の三島」といわれセットにされてた。なので末盧国も対馬国や一支国と同じく「卑狗」と「卑奴母離」がいただろう、これが省略されたのは実際には魏使が立ち寄らなかったことを示すのだ、という昔からある説が妥当。「家」の字と末蘆国に官名が出てないのはどちらも「文(ふみ)の錯(たが)え」であり、両方セットで一つの「春秋の筆法」なのである。官名が無いのは官に会わなかったから、なぜ会わなかったかといえば行ってないから。通常「戸」で人口を表わすのに一支国と不弥国だけ「戸」でなく「家」になってるのは、この二国が密接な特別の関係にあることを示すため、それは一支国から渡航して末蘆国に向かわず直接に不弥国に上陸することを示す。つまり「行き」の正しいコースを暗示してるのである。
これで「\」コースの右下の着岸地は不弥国だとわかる。
潮流から考えるとおそらく遠賀川の下流、遠賀町にあったとされる「岡県」(をかのあがた)が不弥国だろう。『日本書紀』に出てくる岡県主熊鰐(をかのあがぬし・くまわに)が周防の海から筑紫の海までを采配していた話があり、遠賀町のみならず北九州市の全域が岡県だったと思われる。この岡県主はおそらく、安曇氏と並んで古代の「2大総合商社」といわれる宗像氏の一族で、当時は遠賀郡と宗像郡は分離せず一つの圏域だったろう。当時は遠賀町は海の底で遠賀川は深い入江というか南北に長い巨大な内湾だった。これは地質学者は「古遠賀潟」といっている。これの東隣りの洞海湾は今は埋め立てで細長くなってるが昔は「クキの海」と言ってやはり巨大な内湾だった。神武天皇が立ち寄った「岡田宮」の旧跡地も洞海湾のすぐそば。「古遠賀潟」と「クキの海」は奥の方では江川と堀川という二つの川で繋がっており往来も可能。この二つの巨大な湾内に、本州から韓に渡る船と韓から本州へ行く船とのターミナルとして大量の船が停泊していただろう。まさに「海の国」だから不弥国は于弥国の誤記なのである(馬韓の不弥国とはコジつかない。つか馬韓の不弥国は「不弥支国」の誤記というのが定説だから「于弥」と「不弥支」ではぜんぜん別になる。もし「不」の字を活かすなら古遠賀潟と洞海湾の「二つの海」だから「二海」(ふみ)の国といったのかもしれないが、まぁ「不」は「于」の誤写とする方が穏当だろう)。于弥国の長官は「多模」(たも)、これをタマ(玉?魂?)あるいはトモ(伴)と解する説もあるが、船を泊める意味の動詞「とむ」(泊)、物資を確保、保管する意の「たもつ」(保)、支給する意味の「たまふ」(給)、ものを運ぶ意味の動詞「たむ」(回・運)、蓄積する意味の動詞「たむ」(留・蓄)等と関係ありそう。これらの動詞の名詞形の古い形で、物資の流通を管掌する長官の意味ではないか。以上の北九州市説は、于弥国の範囲が西は宗像、東は洞海湾まで含み巨大な2つの湾を「海の国」と称したのだという説。

日本書紀の岡県主(をかのあがたぬし)の関係する神社が洞海湾側には岡田宮、古遠賀潟には岡湊神社があり、古代の岡県は二つの海を包括していたことが想像できる。ヲカは陸地をいう一般的な言葉で、浜田遺跡のある若松区などは、洞海湾と古遠賀潟に挟まれた巨大な中洲だったんだろう。船から降りることを「ヲカにあがる」というように、陸からみれば不弥国(海)、海からみれば岡県(陸)なのである。東の洞海湾と西の古遠賀潟をつなぐ北の江川と南の堀川に囲まれた八幡西区大字浅川のあたりが不弥国の中心と目される。ここに日ノ峯山という火山があり、頂上には三つの巨石と、宗像の沖ノ島遺跡と同系の5世紀に遡る祭祀遺構が発見されており、巨石信仰はそれよりさらに古くに遡る。付近の日峯神社に伝わる伝説ではここの神が火を灯して遭難船を導いたという。日ノ峯山の3つの巨石のうち一つは付近の神社に移されて今は2つ‌になってしまっているが、3つの巨石は宇佐神宮の奥宮である御許山の山頂の3つの巨石と共通し、あきらかに宗像三女神の神籬だろう。不弥国の多模(=岡県主:をかのあがたぬし)は宗像氏だと推定する理由の一つがこれ。上臈岩日峯神社の境内に移された「上臈岩」。あとの2つ「琵琶岩」と「国見岩」は日ノ峯山山頂に残されている。写真は神社公式ページより。

他の説で日本海沿岸部にみる説では、博多湾説、津屋崎町説もある。北九州市説でなくても、さしあたりは九州東北部の沿岸地方なら他のどの説でもよい。ダメなのは宇美町や穂波、太宰府など内陸にみる説や、国東市とか行橋市とかの瀬戸内海沿岸にもってくる説で、これらは不弥国が対馬海峡を往来する通常航路における北九州への常用の上陸地点だということに考慮が及んでないのでアウト。

【対馬の西北】韓からの出港地点
で、次に左上の出港地だが、「春秋の筆法」で邪馬台国業界に一世を風靡した孫栄健の説で、魏志韓伝の馬韓・辰韓・弁韓に重出国名がそれぞれ2回づつあるのは「春秋の筆法」であり、倭人伝に国名重出する「奴国」に注意を払えという合図なのだという。ちょい正確にいうと、弁韓の国名重出というのは弁韓と辰韓に一つづつ跨っており、「三韓それぞれに一つづつ」とキレイにまとまってない。これは孫栄健の理論でいうと「春秋の筆法」であり「文の錯(たが)え」であって、特別な意味があるはずなんだが、なぜか孫栄健氏はそこまで指摘しながらスルーして、特に意味のあることは何も言ってない。まず馬韓では

有、01爰襄國 02牟水國 03桑外國 04小石索國 05大石索國 06優休牟涿國 07臣濆沽國 08伯済國 09速盧不斯國 10日華國 11古誕者國 12古離國  13怒藍國 14月支國 15咨離牟盧國 16素謂乾國 17古爰國 18莫盧國 19卑離國 20占離卑國 21臣釁國 22支侵國 23狗盧國 24卑彌國 25監奚卑離國 26古蒲國 27致利鞠國 28冉路國 29兒林國 30駟盧國 31内卑離國 32感奚國 33萬盧國 34辟卑離國 35臼斯烏旦國 36一離國 37不彌國 38支半國 39狗素國 40捷盧國 41牟盧卑離國 42臣蘇塗國 43莫盧國 44古臘國 45臨素半國 46臣雲新國 47如来卑離國 48楚山塗卑離國 49一難國 50狗奚國 51不雲國 52不斯濆邪國 53爰池國 54乾馬國 55楚離國、凡五十餘國


※わかりやすく番号ふりました

とあり「莫盧国」が18番目と43番目に重出している。合計が「五十余国」とボカされてるので、この重出が同名の別国なのか、誤って2回書かれたのか、これだけではわからない。仮に重出だとすると54ヶ国。不弥国のところで言ったように「37不彌國 38支半國 39狗素國 40捷盧國」のところは「不弥支国 半狗国 素捷盧国」と改訂する内藤湖南の説が定説で、こうすると不弥支が『日本書紀』の布弥支(ほむき:忠清南道の新豊)、半狗が『日本書紀』の「半古」(はんこ:全羅南道の羅州)と現地比定できる。なので1国へってしまうが、李丙濤の説では「48楚山塗卑離國」を「楚山国」と「塗卑離国」にわけるので合計の国数はかわらないことになる(楚山国は全羅北道の井邑)。次に辰韓をみると

有、01-01s巳柢國 02-02s不斯國 03-01b弁辰彌離彌凍國 04-02b弁辰接塗國 05-03s勤耆國 06-04s難彌離弥凍國 07-03b弁辰古資彌弥凍國 08-04b弁辰古淳是國 09-05s冉奚國 10-05b弁辰半路國 11-06b樂奴國 12-06s軍彌國 13-07s軍彌國 14-07b弁辰彌烏邪馬國 15-08s如湛國 16-08b弁辰甘路國 17-9s戸路國 18-10s州鮮國 19-11s馬延國 20-09b弁辰狗邪國 21-10b弁辰走漕馬國 22-11b弁辰安邪國 23-12s馬延國 24-12b弁辰瀆盧國 25-13s斯盧國 26-14s優由國、弁辰韓合二十四國

とある。国名に「弁辰」とついてるのが弁韓の諸国、ついてないのが辰韓の諸国。で、数えると計26ヶある。馬延国が19番目と23番目に重出、軍弥国が12番目と13番目に重出している。馬延国は慶尚北道の孝令と杞渓で2ヶ所に比定地があるから重出でなく同名の二ヶ国あったんだともできるし、孝令と杞渓は割りと近いので両地域にまたがる一つの大国だったともできる。13番目は「弁」の字がついてるから弁韓だとすると、弁韓の軍弥国は慶尚南道の泗川で、12番目の辰韓の軍弥国は慶尚北道の金泉と、これも両所に比定地がある。なので現代の読者からすると26ヶ国でも良さそうに思われるのだが「辰韓も弁韓もきっちり12ヶ国づつで弁辰韓あわせて24ヶ国」と本文で念押ししてるんだから著者としては同一国の重出だとわかってほしいに違いない。少なくとも陳寿の意図はそうだ。馬延国が辰韓の重出分だから、軍弥国の方は弁の字もついてるし弁韓の重出分かな、と思ってしまうが、そうすると辰韓がまだ1国不足するので、軍弥国も辰韓に入れざるを得ない。これで、重出分を省いて「弁韓・辰韓それぞれ12国づつ」になる。「春秋の筆法」を最初にもちだした孫栄健が言うには、「馬韓・辰韓・弁韓」にそれぞれ一回づつ「国名重出」が出てくるのは、次の倭人伝にまたも出てくる「国名重出」の国、つまり「奴国」に注目しろというシグナルだというのだが、俺はそれだけじゃないと思うんだよねw 孫栄健はここまでしか言ってないが、これで解決したと思うと「春秋の筆法」を読みそこねてしまう。
数合わせの上では軍弥国は辰韓のはずなのに重出分はなぜ「弁」の字がつくのか? 軍弥国はあくまで辰韓の国だとすると「三韓それぞれひとつづつ重出」ではなく「辰韓にふたつあって、弁韓には無い」という偏ったことになってるんだから、これぞ「文の錯え」で「義例」を示すものだ。これは孫栄健の主張する理屈からいえば「軍弥国と弁軍弥国に注目しろ、注意を払え」というシグナルであるはずだ。そうすると不思議なことに気づく。弁韓の諸国は頭に「弁辰」とつくことになってるのに、2ヶ国だけ「弁」一字だけになってるのがある。それが「弁楽奴国」と「弁軍弥国」だ。弁1字の国も2ヶ国だから「重出」だ。そうするとこの「重出」現象というのは、最後にでてきた「弁楽奴国」に注目しろ、という意図なんだろう。昔の説ではこの2ヶ国が「弁韓」で後は辰韓と「弁辰」が11ヶ国づつ、つまり弁韓と弁辰は違うのだという説もあったが、それも誤りで、魏志の説明に従う限り、弁韓も弁辰も同じものと解釈せざるを得ない。かつてはなぜ魏志が「弁韓」と「弁辰」を書き分けているのか意味不明だったのだ。
魏志は辰韓と弁辰は雑居してて地域を分けられないようなことを言っており、だから国名も「二十四国」ごちゃまぜに並べている。岡田英弘なんかこれを真に受けて弁韓と辰韓はモザイク状に混在しているようなことを言ってるが、プロの学者にも素人マニアにも賛同者はいない。実際の諸国の比定地を地図でみると、多少の例外はあるが大雑把にいって洛東江の東北側には辰韓、西南側には弁韓とわかれており、なんらかの理由で意図的に魏志韓伝が嘘をついてるのが明らかだ。『後漢書』東夷伝では「西が馬韓、東北が辰韓、東南が弁韓」と修正されておりこれが正しい。なのに魏志では「西が馬韓、東が辰韓」とだけ言って、弁韓の地は辰韓に含ませている。だから「弁辰」という用語は「辰韓の中の一部であるところの弁韓」という意味で、ここだけの独自用語なのである。ところが例外的に「弁辰○○国」ではない「弁○○国」があったらどうなるか。それは辰韓に含まれない・辰韓からは独立した区域としての弁韓、ということになるだろう。『後漢書』の「西が馬韓、東北が辰韓、東南が弁韓」という正しい地理認識でいえば弁韓は辰韓の南にあり、従って弁韓のさらに南は、海に面しているか、倭と接しているかのいずれかでしかない。つまりこの「弁韓の楽奴国」というのは狗邪国と同様、南の海に面した港なのではないか、倭国への出航地なのではないか。弁辰瀆盧国ただ1国だけが格別に倭に接していると特筆されながら「弁辰」であって「弁」でないのは、建前上は海に面していないことになり、陸地でつながってる(接壌している)と言いたいのだろう。そうすると海に面しているのは「弁」の2国、弁楽奴国と弁軍弥国しかない。が、弁軍弥国は辰韓の軍弥国の重出であり、前述の通り、軍弥国が弁韓だと数があわなくなるからこの国は辰韓であり、従って弁韓の軍弥国というのは国名重出によってみえた幻、名前だけの虚構の国だ。すると弁韓つまり南の海に面してるのは弁楽奴国ただ1国だけとなる。
楽奴国を楽浪郡にあった楽都県にコジツケる説はぜんぜんダメ。「楽」の字は朝鮮語では古くから[ak]と[rak]の両方あり、前者は日本や中国では滅びてしまった古い発音の名残りと認められ、楽奴は「アナ」と読める。慶尚南道と全羅南道の境界でもある蟾津江の東沿いに岳陽という地名がある。新羅時代の岳陽県で、この岳陽(旧字体で「嶽」陽)は現代韓国語で[ag-yang]、[ag]の[-g]は鼻濁音[-ng]に近く、古代日本人の耳にはアヤかアナに聞こえたろう。岳陽県に改名する前は「少多沙県」といい、蟾津江に沿って南下するとすぐ南が慶尚南道の河東。ここは新羅時代には「韓多沙郡」があった。この「韓」は「大」の意味のカンという新羅語をあらわすための当て字であり韓国の「韓」ではない。「大多沙郡」というに同じ。県は郡の下部区域で「少多沙県」は「大多沙郡」に含まれる。楽奴(=岳陽)という名も、弁韓の全体を12ヶ国に分けたのなら少多沙も大多沙も「楽奴国」に含まれていたろう。ここは『日本書紀』では「滯沙」(たさ)と書いて、継体天皇の時に任那から百済に割譲した「四県二郡」の「二郡」が「己汶」(こもん)と「滯沙」。この時、加羅の諸国は「滯沙の津」は任那から日本へ貢ぎを運ぶための港だからといって百済への割譲に猛反対した。それほど重要な港があった。
※なおネットでみたある論文では魏略逸文の引用の中で弁韓を弁辰としているから、この春秋の筆法は陳寿の仕込みではなく『魏略』の段階ですでにあったことになる。しかし維基の中國哲學書電子化計劃で翰苑の全文を確認したところ魏略韓伝では弁韓となっており弁辰という語彙は出てこない。翰苑以外の引用魏略で弁辰となってる例があるのか、当該論文の誤植なのか不明。

以上、「国名重出」を手がかりにした「春秋の筆法」によって「楽奴国」に辿りついたわけだが、これは孫栄健の中途半端な与太話を俺が完成させてあげただけだから付き合う必要がなく、国名重出じたいがただの誤記で「春秋の筆法」なんてものははじめから無いんだという立場であってもよい。それでも『日本書紀』によって出港地は「滯沙の津」だと最初に推定できれば、『三国史記』地理志の古地名から魏志韓伝の「弁楽奴国」は簡単に導き出せる。陳寿が魏志東夷伝を書いてた時には『日本書紀』だの『三国史記』だのという便利な書物はない。本文の中にヒントを隠したという説は昔からあったが、たいていは妄想半分のパズルごっこにすぎず、学者が相手にするようなものではなかった。1982年の孫栄健の『邪馬台国の全解決』はそれを漢文解読に必須な「春秋の筆法」であって、これを認めないやつは学者として失格だという脅かしで補強したところが新しかったw

【対馬の東北】韓への着岸地点
四隅のうち最後に残った右上の着岸地点だが、もちろん狗邪韓国のことだ。狗邪韓国は現在の金海(釜山の隣)という通説のままで異論ない。「其の北岸」という言い方が倭から韓にむかう時の視点であることも既述。すでに述べたごとく瀆盧国が巨済島とは考えにくく、瀆盧国は釜山つまり「東南の隅」(郡から8000里)の地点にあたる。そこより西の手前1000里(郡から七千里)の「狗邪韓国」が金海。「楽奴国」は河東。他に弁一字の「軍弥国」も辰韓の軍弥国とは別にあったとすると弁韓12国が13国になってしまうが、別に13国になってもいいとすれば軍弥国もまた弁の1字がついてる以上、南が海に面してたのは上述の通りで、既述だが今の泗川。楽奴国と軍弥国の、魏志の脳内設定での距離の離れ具合はわからぬが、西から順に「楽奴・軍弥・狗邪・瀆盧」と並んでいたと想像される。そうではなく、軍弥国は辰韓の方だけが実在で弁韓の軍弥国は存在しなかったと考えるのが穏当だろうが、まぁさしあたりどっちでもいい。(瀆盧国の位置問題については後半、「方角」のズレの議論で詳しく解析する、ここではやらない)
以上で韓側と倭側の、出港地と入港地、あわせて4ヶ所が確定した。

倭へ韓からの往路 … 弁楽奴国→対馬国→一支国→不弥国
倭から韓への復路 … 狗邪韓国←対馬国←一支国←末盧国

次に伊都国と奴国についてだが、その話にいく前に、「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」は同じか別かという問題を片付けよう。(それとなぜか瀆盧国だけが「倭と接する」という問題もあるがそれはずっと後の方で方角についての議論で一緒にやります)

「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」は同じか別か
「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」が別だとする説には、半島内に倭の領地(支配圏)があったという説と密接に結びついてる。この説の何が気に入らないかといって、半島内に倭領を想定する説の場合、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の外部に倭領(=狗邪韓国)があったようなことをいう。これは記紀の伝承と異なっておる。皇国史観に反するから却下w 高句麗も百済も新羅も大日本帝国の属国であり藩屏だろw 韓における倭国の勢力圏の議論した方が面白い話がたくさんあるのだが、ちょっと今回の話とズレるので、いつか任那日本府について議論する時にまとめてやりたいとは思ってます。ただ、「狗邪韓国と弁辰狗邪国は通説どおり同一国なのだがその国は倭国の一部だったのだ」という人もいるのだから、「狗邪韓国と弁辰狗邪国が同一国なのか別の国なのか」という問題と、「狗邪韓国が倭国の領土だったかどうか」という問題は一応は別の議論として分けなければならない。同一国だったからって「倭国の一部だ説」が不利になるわけではないから安心しろw
狗邪韓国と弁辰狗邪国が別の国だという人々は、「弁辰狗邪国」は弁韓(弁辰)の中の一国だが、「狗邪韓国」は馬韓・弁韓・辰韓のどれでもなく、馬韓・弁韓・辰韓とならぶ4つめの狗邪韓なのだ、そして魏志に「其の北岸狗邪韓国」とあるのは「倭の北岸」の意味で、4つめの狗邪韓は倭国の領土だから三韓の中に入ってないのだ、というのだが、本当かね?w
狗邪韓国の「狗邪」は韓国の中の一部で小名(下位区分)もしくは都市名、「韓」は広い範囲をいう大名もしくは民族名。こういう構造は他にも、魏の正始八年(247年)に冊封された「不耐濊王」という有名な県王がある。不耐は不耐県という一つの県城の名、濊は民族名でもあり広域名でもある。不耐城にいて周辺の濊族の王でもあった。江原道にいた「東濊」も東の方にいる濊の意味ではなく「東暆濊」の略だろう。臨屯郡の郡治所「東暆県の濊」だから「東暆濊」。沃沮も住民は濊人だったというから「夫租穢」の意味だろう。玄菟郡の最初の郡治所「夫租県の濊」ということ。高句麗も「高句驪県の濊侯」。これらの例では中心部の名が、それが仕切る圏域の全体の名に転化していくことに注意。もう一つ有名な例では、魏志韓伝では二郡に反乱をおこした国を「臣幘沾韓」(しんさくてん韓)といってる。これは馬韓の中の「臣濆沽国」(しんふんこ国)の誤記というのが通説で同じ国(今の京畿道の陽城)。これも「都市名+民族名」になっており、「臣幘沾韓」は「狗邪韓」と同じ表記法なのがわかる。では「臣幘沾韓」は馬韓・弁韓・辰韓・狗邪韓とならぶ「第5の韓」なのか? どうなんだ? そこのところどうなのよ? 漢籍史書を原文で読みなれた人は直感的にわかると思うけど、現代語のセンスで漢字みてる人はここまで説明してもまだ自分がへんな読み方してたって気づかないかもしれんね。だがここで狗邪韓国は弁辰狗邪国と同じもので「韓の一部であって倭ではない」ということをしっかり腑に落としてもらわないと、後々の謎解きが行き詰まってしまう。理屈がわかっても感覚的に納得できないという人の中には、あるいは「半島に倭国の勢力圏があった」って話を否定されたように感じるから直感的に納得できないって人もいるだろう。うんうんわかる、俺もウヨだものw しかし、そういうことには全然ならないってことを【その2】か【その3】でちゃんと説明するので安心してくれw つかむしろ期待してこのまま読み進んでくれw

さらにいえば、実は「馬韓・弁韓・辰韓」も同じ理屈でできている。「馬韓・弁韓・辰韓」の語源は大昔の古い説をいまだにふりまわしてる人がいるが、これは「乾馬韓・半跛韓・斯蘆韓」の略だ。馬韓の「乾馬国」(全羅南道の金馬堵)を中心とした諸国だから「乾馬韓国」=「馬韓」というともされるが、そうじゃなくて「乾馬韓国」も「乾馬韓」も「馬韓」もただ「乾馬国」のことで、後にこの名で54国を代表させるようになった。そのことは濊の諸例からも推測がつく。中心部の地名が全体の総名に転化していく。辰は「斯蘆」(シラ)を別の当て字で書いただけで同じもの、斯蘆国を中心とした韓の諸国が「辰韓」だというが正確にいうと「辰韓の斯蘆国」といっても「斯蘆韓」(=辰韓)といっても同じもので「斯蘆国」のこと。これが辰韓十二国の全体をさすというのは順序が逆で、「斯蘆国」で全体を代表させているのである。辰韓は12国全体の名になったのは後のこと、もとは「斯蘆国」=「斯蘆韓国」=「辰韓国」なのである。弁韓は「半跛国」の半だから半韓とあるべきだが『魏略』で王莽の頃の話として辰韓と牟韓というのが出てくる。この牟韓が普通は弁韓の誤記だろうとされてるのだが、もと半韓だったのを牟韓に誤記したのではないか。その牟韓をさらに弁韓に誤記した。半も弁も偶然にも発音がほとんど同じだが、うるさくいえば「半韓」がただしい。これは日本書紀にでてくる「伴跛国」とおなじ国でもともと弁韓とは「伴跛国」のことなのであり、これが代表する12か国をのちに弁韓というようになった。

これらの例から「都市名+民族名」という構成の方が一般的で、「弁辰○○国」というのは魏志の特有なへんな言い方なのがわかる。むろんなんでそんなへんな言い方をしてるのかという訳はすでに述べた通りで、弁韓を辰韓の中に含めなければならない事情があったから。すると、邪馬台国へのルート説明の中でなぜ「弁辰狗邪国」でなく「狗邪韓国」になってるのか、どっちでもいいなら同じ東夷伝の中なんだから「弁辰狗邪国」で押し通せばいいのに、と何もしらない人は思うだろうが、もちろんそれはできない。「弁辰○○国」という言い方はそもそも無いので、ただ魏志東夷伝の中でのみ、国名重出の「文の錯え」によって楽奴国を出港地だと気づかせるためだけに、一回こっきり使われた表現だから。「弁辰○○国」というのは辰韓に含まれる弁韓のことだから南の海に面してちゃマズイわけ。弁辰瀆盧国は理論上(設定上)海に面してない(海にではなく倭に接してることになってる)から弁辰でかまわないが、狗邪国は「現実の入港地」兼「仮想上の出港地」だから海がある、だから「弁○○国」ならいいが「弁辰○○国」とは書けない。「弁○○国」も楽奴国を導き出すための道具として使用済みで二ヶ国しかないから楽奴国を導きだせるようになってるんで、三ヶ国になったらパズルが解けなくなる。だからここだけ突然ノーマルな「狗邪韓国」という書き方に直ってるのだ。逆にいえばなんで他のところは「弁辰○○国」なんて書き方してるのか、それに気づけとサインを送ってるのだともいえる。
さらにいうと、馬韓の方はともかく辰韓と弁韓については二十四国すべて比定地があって、慶尚南北道の全域に24国が散在しており、この南に倭地が入るようなスペースが無い。土地の配分からみても「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」は同じ国とした方がよさそう。井上秀雄の著作『古代朝鮮』に入ってる東夷伝の地図でネットで拡散されて有名なのがあるが(まちがいだらけで有名な?w)これなんかでは弁韓と馬韓の南にやけに細長く倭地を設定しているがそのせいで弁韓の領域が不自然に狭くなってる。まるで弁韓諸国の南部のかなりの国を倭地に入れないと無理だぞこれw

往路と復路の里数の差は?
さて本題に戻ろう。韓と倭それぞれの出航地点と着岸地点、あわせて4つの港が確定した。そこで、だ。往路「\」と帰路「Z」の差「二」の分は、倭人伝の設定では何里に相当するのか、それがわからないと何里分が水増しされて一万二千里になったのかがわからない。これについて、韓国側の方は説明ずみで、狗邪韓国と弁楽奴国の間は1000里。
で、倭国側だが。伊都国と奴国の位置については諸説に大差なく、通説のとおりでいいと思うが、末蘆国から不弥国までの実際の配置みると方角が45度傾いている。この方角の件については後述するとして今は触れない。末盧国と不弥国の間は順次式(連続直行式。以下「順次式」とよぶことにする)でも合計700里(末盧と伊都の間が500里、伊都と奴国の間が100里、奴国と不弥の間が100里)、放射説の場合は600里しかない。実際の地形からいうと奴国と不弥国の間が詰まりすぎてるから順次式で「四百里」の「四」、放射説で「五百里」の「五」の字が誤脱したんだろう。それなら合計1000里で、韓国側の長さと一致する。軍事センターである伊都国は両端(末盧国と不弥国の間、1000里)の真ん中にあったことになってちょうど良い。まぁ、さしあたり一致させないで順次連続式700里、放射説600里のままでもかまわないが。

あともう一つ、「家」の字からみて、倭人伝が一支国から不弥国への直行を示唆してるのは間違いないのに一支国から不弥国までの里数が明示されてない。建前上は末盧国にいってることになってるのだから明示のしようがないのだが、「楽奴国」と「対馬国」の間もそうだ。このへんの「渡海」にかんする里数はぜんぶ千里で統一されてるように思える。韓国と対馬の間、対馬と壱岐の間、壱岐と九州の間は地図でみると明らかにバラバラであって等距離にはまったくみえない。なのに倭人伝ではどれも千里で等距離だと言い張っている。とにかく海は等距離で一律に千里だってのが倭人伝での「設定」「お約束」になっている。そんなに大雑把でいいのかと言われそうだが、里程の誇張は平均して5倍。10倍説や短里説もあるが何にしろ、一定の倍率から実際の里数を割り出せるかといえば、それがそうならない。明治時代の白鳥庫吉から言われてることだが、平均して5倍といっても、平均偏差がデカすぎて拡大率が一定になってないのだ。だから一律に5分の1にしたからって実際の地形に合うわけではない。しかし方角はズレ方に一定の規則がありそうだ。これも明治時代から言われてること。そうするとこの話は「方角のおかしさ」は修正すれば正しいという話にもなるがその話は後回しにして、まずは、この行程はどうやって書かれたのかというと、明らかに実際の地図を見ながらではない。距離が適当だが方角が正しい、というのはシンプルな概念図とか模式図みたいなものが想定できる。

最初に設定された「一万二千里」
前の話に戻るが、本来なら普通に邪馬台国までの道のりを説明するためだけには自然と「\」コースになるわけで、帯方郡から「楽奴国」まで6000里、楽奴国から対馬、一支をへて不弥国まで3000里。あと残り3000里しかないから、仮に放射説を前提にすると伊都国まで200里、伊都国から邪馬台国まで2800里となる。順次式の場合は不弥国から投馬国を経て邪馬台国まで3000里に設定されていたと推定できる。6+3+3、合計一万二千里。今仮に方角の話は抜いてるが里数だけみるとこうなる。簡単である。至ってシンプル。単位が「千里」になっていて端数がないのは、この「千里」は単位とは別の漠然と「遠いこと」を表現する言葉でもあって、実測数値ではないことを暗示する。だから手を加える前の、もとの記録は末蘆国と伊都国間の五百里とか伊都国奴国間の百里ももともと記載なく「伊都国は末蘆国と不弥国の間にあり」「奴国は伊都国のそばにあり」ぐらいの書き方だったろう。手を加える前というか、最初に「一万二千里」にあわせて誇張した里程を作ったのがこれ。地理的な最短距離を示すだけなら不弥国以外の北九州諸国への行程など加算する必要もないし、だから伊都国を起点とした放射状の読み方も成立する余地がない。むろん伊都国についての説明がもともと原史料に無かったとも決めつけられないし、個人的には放射説を必ずしも否定はしない。「地理的な最短距離を示すだけなら」という仮定の話である(ただし放射説の根拠の一つ「至」と「到」の使い分けの件は放射説の根拠にはならない。別の意味がある。「至」と「到」の件は面白いので後でとりあげます)。この段階では距離の「日数での表示」なども無かったと思われる。みえみえの政治宣伝用の捏造なんだからあんまり複雑なもの作る意味もない。複雑な嘘は足がつきやすくボロが出やすい。実測地図は機密事項として当然、司馬懿のもとにあがってたはずだが、司馬懿は政治宣伝のため「一万二千里」の世間向けの報告書を創作させた。岡田英弘は上司の張華のために陳寿が誇張したようにいってるが、一万二千里は魏略の段階で出てるので岡田英弘の説は間違い。公孫淵を滅ぼして卑弥呼の使者が帯方郡にきてすぐ、司馬懿の命令で当時幽州刺史だった毌丘倹が手下の文官、たぶん当時帯方太守だった劉夏にでもやらせたんだろう。

「一万二千里」は奴国まで?
ところが、現状の倭人伝の行程はそうなっていない。ありえない逆行コースを使って韓地七千里、渡海3000里、末蘆国から伊都国と奴国を経て不弥国まで700里。ここまでで1万700里だから残り日数表示の部分は1300里しかない。放射式に読むと伊都国まで1万500里だから残り1500里。だから「邪馬台国は不弥国から1300里にあるはずだ」あるいは「伊都国から1500里にあるはずだ」といまだに主張する人がいる。ところで、奴国までは1万600里だから、対馬国の方四百里と一支国の方三百里の半周づつ計1400里を加算すると奴国がちょうど一万二千里になる。これ孫栄健がはじめて発見したようなこと自称してるけど、ホントかね? 似たようなことはそれ以前から何人か言ってたような気がするがなw しかし奴国までと邪馬台国まで、どちらも一万二千里で等距離、なんて偶然あるかね? ないよねw だから孫栄健は奴国を中心とした女王国連合の名が邪馬台国だと言い出したし、もっと昔は(あるいは今もか)女王国と奴国が同じ国か別のかはともかく「一万二千里という数字は邪馬台国とは関係ないんだ」として、九州の女王国(一万二千里の国)と畿内の邪馬台国(日数表示の国)が同時に別々に並立していたという「二王国並立説」や、九州の女王国が東遷して畿内の邪馬台国になったのだという「東遷説」もあったし、俺も何十年も前から女王国とは邪馬台国のことじゃなくて奴国のことではないかと疑っていた。というのは魏略や広志、三国志の別写本などで時々「奴国」を「女国」と誤記した例や、「女王国」の王の字が抜けて「女国」になっちゃってる例が散見されるんで、これはもしや「奴国」を「女国」に誤まり、それを不可解に思った人が字を補って「女王国」になったのではないか、と。個人的にはそれがほぼ確信だったんだが、細かいところでいくつか矛盾が残り、その時は結論でなかった。今思えば女王国は奴国を誤写したもので、女王国はもともと奴国と書かれていたはずだと思い込んでいたのが混迷の原因だった。原文では奴国になっていたとすると魏使が邪馬台国に行ってない(卑弥呼に会ってない)ことが丸わかりな文章になってしまうので、どうもおかしい。これは誤写などではなく、最初から意図的に女王国と書いてるのである。
女王国と邪馬台国が並立していた(もしくは女王国が東遷して邪馬台国になった)とかの事実があったのなら、それならそうと、ストレートにそう書いてあるのが普通だろう。一部の学者は、陳寿もよくわからないまま原資料を適当に綴り合せただけだというようなことをいうが、史書の編纂は歴史を崇拝する漢民族の名誉ある仕事であり、万世不朽に残るかも知れない一世一代の大業だろう、修史官の面目にかけて訳わからない文章をそのまま放置はしないと思うんだよね。例えば『後漢書』のように切り貼りして筋が通るようにリライトしちゃうか、さもなくば倭人伝の他の箇所にもあるように「詳細知るべからず」とか一言付け加えるとか、なんかかなんかあってしかるべきだろう。わざわざ分かりにくく書いたとすればそれなりの理由もなければならない。そう考えるとやはり女王国と邪馬台国の二つの勢力があったわけではなく、一万二千里はもともと邪馬台国までの里程だったものを、政治的な事情により、奴国までの里程としても読めるように、後から書き換えたのでわかりにくくなったんだと思われる。

改訂された「一万二千里」
まず前述のような韓地6000里、渡海3000里、上陸地の不弥国から投馬国経由で邪馬台国まで3000里、計一万二千里というシンプルモデルがあったのに、その後ずっと経ってから、ある事情で、一万二千里の地点を邪馬台国よりもずっと手前にもってこなければならなくなった。その事情はもちろんアレだよ、魏の使いは実は邪馬台国まで行ってないってことがバレそうになったんだろう。なぜ行ってなかったのかって理由は後の方で詳しくやるとして、ともかく行ってなかったって前提で話を進める。不弥国は着任する時の通り道、末盧国は任務終了して帰る時の通り道、奴国にも何かの用事で行くことはあるが普段は伊都国に駐留しているのであって、九州内の諸国は実際にぜんぶ行ったことがあるが、投馬国と邪馬台国には実は行ってない(だからって物理的・論理的には必ずしも卑弥呼に会ってないってことにはならないが、邪馬台国に行ってないなら普通は卑弥呼に会ってないと解釈されちゃうのはやむを得ない)。このことは役所の建前からはあっちゃならないことなんだが(だからいまだに魏の使いは卑弥呼にあったはずだと言い張る学者もいる)、本音と建前の使い分けなら日本人以上にうまいのが中国人で、普通の中国人なら大昔から建前は軽んぜられてるのでどうでもいい。だが司馬懿は政治家なのでそうもいかない、当時の中国では建前違反をスキャンダルに仕立ててライバルの追い落としに使うこともあった。陳寿も葬式のやり方だか喪の服し方だかがちょっと違っただけで失脚させられたからな。おそらく司馬懿も不本意ながら魏使の実態は承知はしていて、一応秘密にしていたんだろう。ところが正始五年(AD244年)に曹爽と司馬懿が不仲になってから、安心できなくなってきた。互いのは派閥にスパイが入り込んでるし、万が一にも情報が漏洩してしまい、司馬氏を誹謗するネタに使われたら困る。むろん公式には魏の使いが邪馬台国まで行ってない(卑弥呼に会ってない)なんてことは絶対に認めない。が、理屈もなくやみくもに認めないというよりは、できればウマい説明がつくに越したことはない。
そこで第一には奴国までしか行ってなくても一万二千里に達してはいること、第二に、その事が「以前から公表されてる情報とも矛盾がない」ように仕立てること。この両方をいっぺんに辻褄あわせた「最新レポート」を捏造せざるを得なくなった。どうやってそんなことが可能なのかというと、「女王国」という概念を使えばよい。当時の倭国は女王国と男王国に分かれて争っていた。女王国ってのは女王の傘下の国々(邪馬台オタクの好きな言葉でいえば女王国連合)のことなので広い範囲をさすものではあるが、当時にそれを構成する国々一つ一つも女王国には違いない。北九州の諸国も邪馬台国もすべて女王国なので、邪馬台国へはいってなくても極端な話、対馬国にいっただけでも理屈の上では女王国に行ったことにはなるのである。
魏の使いが実際に行った北九州の中での、政治経済文化の中心地は奴国だから、奴国までで一万二千里ってことにした。だがこれだけだと「奴国にしかいってない。邪馬台国に行ってない」のが丸わかりなので、奴国を「女王国」に書き変えてある。だから、そういう原資料に基づいた魏志倭人伝は読みようによっては奴国まででちょうど一万二千里になるようにも出来てるのである。邪馬台国論争に詳しい人は、有名な例の「伊都国までしか行ってない説」を思い浮かべて「奴国じゃなくて伊都国だろ」と言うだろうが、ちょっと違う。なぜ末盧国でも于弥国でもなく、伊都国でもなく、奴国なのかというと、伊都国は軍事基地ではあっても田舎であり、「人口・経済・文化・政治」の中心(民意が集約される都会)というわけではない。卑弥呼から派遣されてる一大率も、奴国から出向してる奴国王(現代人は伊都国王と誤解してるが)も、魏からの国使も、みな普段は、機密漏洩防止の都合上、警備の容易な伊都国で日常的な外交事務を行ってるが、公式の会議や儀式の時は奴国に移動して派手な政治宣伝をかねたイベントとしてやったに決まってるだろう。奴国が当時の北九州の中心なのである。
最初の設定のままだと、奴国までは韓地6000里、渡海三千里、于弥国から百里で計9100里(于弥国と奴国の間を400里とする説の場合でも9400里)しかない。そこで本来なら帰路であるはずのコースを逆行したというありえない設定にすると、韓地七千里、渡海三千里、末盧国から伊都国まで五百里、伊都国から奴国まで百里で計1万600里。まだ不足する1400里は対馬の「方四百里」と壱岐の「方三百里」から二辺を足して埋め合わせ、一万二千里とした。こういう場合の距離とは、A国の中心点とB国の中心点との間での距離をいうのであって、領土の半周を数え込むなんておかしな計算は中国の史書にも前例がなく、「普通は」しない。それをあえてやってるのはもちろん情況が「普通でない」からである。後になってからの辻褄合わせだからこんなことをやってるのである。だから「対馬国」と「一支国」の間は「南」と方角があるが、狗邪韓国から対馬国への航路と、一支国から末盧国までの航路は方角が書いてない。仮想上の方角を書くと「西南」で「東から西へ」逆行してることになり、事情を知らない中国人には不審に見えるだろう。ただでさえ捏造なんだから不信感をもたれるようには書きたくない。かといって実際の方角を書くと「東南」(西から東へ)になり狗邪韓国と末蘆国の位置に合わない。方角を書こうにも実際の方角と仮想上の方角がバッティングしてしまうから書くに書けないのだ。
なお、改訂前のプランでは放射説だとシンプルさに欠けてすっきりしないので順次式が正しいと思われるんだが、改訂後の現状プランでは順次式でも放射式でもどちらでも行けそうだと一見、思われる。放射式の読み方がもし正しいとした場合、この改訂の時に伊都国中心の行程に書き直されたんだろうが、さて…。順次式か放射式かで邪馬台国と投馬国の位置は違ってくるので、ここは大事なところだが、その前に「女王国」という概念について整理しておこう。
邪馬国への行程【その2】」に続く。
【その2】では「女王国」という概念について解析し、周旋五千里の数字に隠された意味を展開します。
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なぜ推古天皇で終わってるのか

2679(R01).09.19 THU 改稿 H28.4.10修正 H26.10.16-17初稿
なぜ推古天皇で終わってるのか
このことは本来は推古天皇の章で扱うべきかとも一見思われなくもないが、これは推古天皇からしてみれば知ったことではなく、あくまでも古事記の編纂者側の見方や考え方の問題なのでやはり別に扱うのがいいだろう。

「儒教時代」説
よくいわれるのは、「中巻は儒教も仏教もなかった時代で、下巻は儒教(というか論語)が伝来してからの時代だが仏教以前だと。なので仏教国家が始まった推古朝で区切ったのだ」と。
だがこれはおかしいのではないか。儒教(というか論語)が伝来したのは応神朝であって仁徳朝でない。むろん、本格的に儒教時代が始まったのが仁徳朝だ、というのは、そこまではまぁ理解できる。しかしそれなら本格的に仏教国家になった推古朝は次ぎの時代の始まりであり、下巻は崇峻天皇で終わらねばならないのではないか。いや、儒教時代と仏教時代とに、もし、わけるのであれば、物部守屋が滅ぼされて蘇我氏の権勢が確立した崇峻天皇から仏教時代を始めるのが適格であり、下巻は用明天皇で終わるのが妥当、とも考えられる。そういうわけで「中巻と下巻の境は応神天皇と仁徳天皇で分かれ、下巻の最後は推古天皇になっている理由」として、儒教時代と仏教時代にわけたからだという説には釈然としないし納得できない。
ちなみに平安時代の偽書『先代旧事本紀』(十巻本)は、古事記中巻にあたる「天皇本紀」が神功皇后で終わっており、古事記下巻にあたる「神皇本紀」は応神天皇から始まり武烈天皇で終わり、「帝皇本紀」が継体天皇から推古天皇まで、となっている。同じ『先代旧事本紀』でも江戸時代の偽書である七十二巻本(『大成経』)では、この後にさらに「聖皇本紀」として聖徳太子の伝記がついている。聖徳太子の活躍したのは推古朝だから、ある意味、崇峻朝と推古朝の間で区切りを置き直したような構成ともいえる。『先代旧事本紀』は「あくまでも聖徳太子リスペクトであって仏教リスペクトではない」ので、聖徳太子の時代に該当する推古天皇で終わるのはわかる。が、その前の時代の区切りを神功皇后と応神天皇の間にしたこととは何の関係もないので、一貫性がない。『先代旧事本紀』が聖徳太子をリスペクトしている理由は、「聖徳太子と蘇我馬子が編纂した『天皇記』『国記』『臣連国造伴造百八十部并公民等本記』が、実は焼失したのではなく、この書物がそれだ」、という趣旨で捏造したのが『先代旧事本紀』だから。もしそれが本当ならこれらの書物(『天皇記』など)は推古天皇の前の崇峻天皇で終わってないとおかしい。にもかかわらず『先代旧事本紀』が推古天皇まである理由は、聖徳太子を顕彰するためにその事績を述べると、当然推古天皇の時代のことを書くことになってしまうからであって、『古事記』が推古天皇で終わっていることとは本来は関係ない。
では『古事記』が推古天皇で終わっている理由と聖徳太子とは関係ないのだろうか。もし関係あるのなら、そのことがわかるような記事、例えば聖徳太子についてもう少し何かのエピソードや物語があってもよさそうだが、『古事記』には何もない。それどころか、後述のように、聖徳太子よりずっと後の、舒明天皇の即位や皇極天皇の時代のことまで書かれているのだから、「ちょうど聖徳太子の活躍した時代をもって区切りとする」という意志があったとは考えられない。

「仁徳王朝」という区切り
ただここで『先代旧事本紀』が武烈天皇と継体天皇の間に区切りを置いてるのは一つのヒントではある。つまり、もし古事記下巻のように仁徳天皇から始まり、神皇本紀のように武烈天皇で終わっていたなら、それは明解に「仁徳王朝」の歴史という一つのまとまりになってるってことだ。しかしそれは「もし」の話であって、現実はそうなっていないのであるから、現実がこうなっている理由を考えねばならぬ。これは何も、後世からの歪曲した見方でもなんでもなく、継体天皇が即位した当時の人々が誰しも容易に思い描いた「一つの区切り」だろう。現に、系譜の部分を除外して物語の部分だけでみると、顕宗天皇で終わっているが、これは実は武烈天皇の事績を誤って顕宗天皇の事績にしているのだということは別の記事で詳しく書いた。つまり物語の部分だけでみると仁徳天皇から始まって武烈天皇で終わっているのであって、『先代旧事本紀』の神皇本紀と同じく、『古事記』下巻はまさしく仁徳王朝の歴史なのである。
それはそれでまぁ良いとしても、それは系譜の部分を除外した場合のことであって、継体天皇以降の系譜が『古事記』下巻に書かれていることの説明にはならない。継体天皇で始まった新王朝の時代を推古天皇で区切ってる理由はあいかわらず不明であり、もし下巻の終わりと中下巻の境とに何か一貫した理論だか歴史観だかあるのでは、という考え方にこだわった場合には、仁徳王朝説では却って一貫性を壊すことになる。これは解決の直接の糸口ではなく、まだ「ヒント」にすぎない。

「伝説時代」説
中巻と下巻の区切りについてよくいわれるのは、応神天皇までの中巻はまだ神々と人間が交渉をもった時代で、半分は神代(かみよ。神々の時代)で、もう半分は歴史時代(人間の世界)であり、両者が混在しており、いわば神話から歴史への移行期だ、と。それに比して、仁徳天皇からの下巻は現代にもありそうなリアリティーあふれ人間味あふるる現実の人間の物語である、と。神話時代でもなく歴史時代でもなく、両者の混在してる段階があるとして、それを「伝説時代」とよぶならば、古事記中巻はまさに伝説時代なのであり、純粋な歴史時代になってからが下巻なのである、と。これは前述の中巻を儒教時代とみなす説とは一体の、上巻を神道の時代(≒神々とともに暮らしていたアニミズムの時代)とみる説の変奏曲ともいえるだろう。
この手の説には中巻を「純粋の歴史だ」といわないところに邪念を感ずる。純粋でないのだからつまるところ「歴史ではまったく無く、史実と認められないことでは神話と同じ」と言いたいわけだろ。そもそも神話と歴史はまったく別次元のもので、中間形態だの移行期だのってのは論理的にありえない。中間形態だの移行期だのってのは、要するに巧く説明つかないから(「どうせ全部デタラメだから」といったら史実(=自説)を組み立てるための素材に使えなくなるので)適当にお茶を濁してるわけだろ。前述の儒教倫理が導入された時代(下巻)の人々の思考が現代人からみて比較的わかりやすいのは当たり前であって、それ以前の純粋にアニミズム的な多神教の世界観で生きていた人々から見えていた世界(中巻)とは違ってみえて当然ではないだろうか。そしてこの説の場合「なぜ推古朝で終わってるのか」の説明はないので、それについての別に独立した巧い説明と組み合わさればまだしも、そうでない場合には素人騙しのもっともらしい言葉遊びとしか思えない。

古事記記載の最新記事は舒明帝即位ではない
つまり、いずれの説も巧い説明としては成り立ってないのである。「中下巻の境と、下巻の終わりが何か関係してる」という説は、一種の思い込みであり、実は関係ないって可能性のほうが高そうに思えてくる。逆に、実は重大な関係があるのだ、という主張をするためには、如上の二説とはまったく別な新説を提示しなければならない。
ところで古事記に書かれた最後の天皇は実は推古帝ではない。舒明天皇は推古帝の次の天皇で、本名は「田村」だが、敏達天皇の段に諸皇子女の一人として名が列挙されてる中の舒明天皇は「田村王」ではなく「坐岡本宮治天下天皇」と書かれている。角川文庫版の『古事記』はこれをもって「古事記の記事中もっとも新しい事実である」と注釈している。考えてみれば、ある天皇が崩御した後というのは「よほどのすぐ直後」でもない限り次の天皇はほぼ決まっているし、曖昧な場合でも二、三ヶ月後にはもう次の天皇が即位しているのが常識なので、推古女帝崩御とあれば自動的に読者の脳内では田村王が即位して天皇になっていることもただちに想起されることだろう。ここまでは格別なんの問題もない。
ところが実はさらにその後の記事までもあるのだ。それが推古天皇の御陵が「大野岡の上」になったのを『のちに』「科長大陵」に遷したという記事。これは通説では皇極天皇即位後から大化改新の前までの間にあったことだとされている。つまりこの推古天皇陵の移転が『古事記』全文の中での最新記事ということになる。この段階では舒明天皇も崩御して皇極天皇の御世だったことになる。なぜ舒明天皇の御世にはふれずに推古天皇で終わらせているのか?

現在に近いと政治的に支障が…。
一つの有力な説として、『古事記』の原資料になっている帝紀(帝皇日継)が推古天皇までしかなかったのではないか、そのために、帝紀に基づいて編纂した古事記も自動的に推古天皇までということになってのではないかという説がある。だが、それでは帝紀はなぜ推古天皇までしかなかったのかという新たな問題が生じる。
帝紀がいつから存在したのかはわからない(個人的には武烈天皇の時にはじめて文字化されたものと思うが今はそれに触れない)が、写本の類がたくさんあって、天武十年(681年)に川島皇子らに命じて帝紀の異同を校合、統一させて決定版を作らせようとした(この時稗田阿礼28歳)、これがのちに『古事記・日本書紀』として結実する。歴史書は普通は先代の君主の代までだから、この段階では形式的に考えると「天智天皇までで終わる書物」になりそうなもの。(大友皇子が即位していた場合には弘文天皇で終わりそうなもの)
現実には、完成が延び延びになって天武天皇から何代も経ってしまった。古事記は元明天皇、書紀は元正天皇の時だから、古事記なら文武天皇まで、書紀なら元明天皇まで書かれていても、物理的にはありえた話である。むろん物理的に可能だからといってギリギリ直前の天皇まで書かねばならないという理由も必ずしもないのであって、書紀が持統天皇で終わりにした理由もあれば、古事記が推古天皇で終わりにした理由もあったはずであろう。あくまでも天武天皇の企画という趣旨を尊重する限り、やはり天智天皇(か弘文天皇)で終わりにするのが自然である。
だが、壬申の乱の敵軍だった天智天皇の歴史を書くと天武天皇の正統性の問題が出てくるのでなかなか書けない。当時の政府の立場としては弘文天皇の即位を認められないのはわかるとしても、天智天皇で終わらせても、当時も天智統と天武統の対立という構図で捉えられていて、弟天武が兄天智の事業を継承したと宣伝しようにもあまりにしらじらしく受け取られて逆効果になりかねない空気があったと思われる。壬申の乱はそれほどの大事件だろう。なにしろ天智天皇の正統な後継者を殺しちゃったんだから。大化改新以降の歴史を描くとすると、皇極天皇時代も孝徳天皇時代も中大兄皇子(天智天皇)がなるべく目立たないように書くのは難しい。中大兄皇子は大化改新のヒーローでありその後は皇極朝後期・孝徳朝・斉明朝・天智朝を通じて本人が崩御するまでずっと歴史の主役だったのだから、ここらの歴史は現在(天武朝)に近すぎて政治的に扱いにくい。
そこで日本書紀は壬申の乱で大友皇子の即位を認めずその部下の5人の貴族と一緒に悪役として、天武帝は悪を倒して天智天皇の事業を引き継いだという側面を強調している。天武帝は天智天皇の娘(持統天皇)を皇后かつ共同統治者としていたのだから女系では天智天皇の後継者ともいえ、実際に天武帝崩御の後は持統天皇が即位し天智系に復帰したような演出となる。日本書紀が持統天皇まで扱っている理由は、壬申の乱のすったもんだの結末として、現在(奈良時代)の皇室が天武系ではあるけれども、正統な天智系を排除したものではなく、持統天皇を通じて天智系でもあるのだ、だから持統天皇の血を引く現在の皇室は正統であり、問題ないのだ、という主張なのである(当時、大友皇子が正統で天武帝は簒奪者ではないかという疑いの声があったため。現に日本書紀には天武天皇を謗ったために刑罰を受けた者が何人もいる)。従って、日本書紀は天智・弘文・天武のうちどの天皇で終わらせても格好がつかず、なんとしても持統天皇まで書かないと具合が悪かったということがわかるだろう。
古事記もまた、日本書紀と同時代の編纂であるから、普通に考えれば天智・弘文・天武のうちどの天皇で終わらせても都合が悪いという点は同じであるが、そもそも継体天皇以降は系譜しか載せてないのだから、どこで終わらせても政治的な問題は生じないのではないかと思われる。あるいは政治的な問題を回避するために系譜しか載せてないのだという説もありうる。しかし系譜だけにすれば問題ないのなら、編纂命令を出した天武帝の直前の代であるところの天智天皇で終わらせておけば歴史書の体裁としては完璧だったのであって、それがなぜか推古帝で終わっている理由は相変わらず判明しない。
万が一、この「政治的な差し障り」が厳重なもので系譜すら書けないということだったとしても、「都合の悪い時代」とは前述の通り、中大兄皇子(天智天皇)が活躍した時代のことで、皇極天皇以降の時代のことである。とすると舒明天皇までは書かれていてもよかったはずである。舒明天皇崩御の時、中大兄皇子はまだ16歳だったからさすがに舒明朝で大活躍したということはないだろう。だから舒明天皇までの歴史書なら、当時の政治情況においてもだいたい当たり障りなかったと思われる。
だが、舒明天皇がなくてその一つ前の推古天皇で古事記が終わってるのだから「政治的に差し障りのある時代だから書かれなかった」という説は成り立たない。そういう理由なら、古事記は舒明天皇で終わっていたはずであろう。なぜ舒明天皇がなく推古帝で終わっているのか?

聖徳太子編纂『天皇記』は原資料ではない
一説に、天武十年(681年)に編纂された帝紀(帝皇日継)の、そのまた原資料となったのは前述の聖徳太子と蘇我馬子が編纂した『天皇記』だったという説もあるが、間違った説である。これは聖徳太子が薨去してしまったため未完成の草稿のうちに中断してしまっていたのが皇極天皇の時に焼失してしまった。焼失してしまったのだからこれが原資料になった可能性はまったくない。聖徳太子が薨去したのは推古朝だから、未完成の草稿ではあるにせよ、崇峻天皇までは扱われていた可能性が高い。
ついでにいうと、この『天皇記』の焼失が、その後の帝紀に様々な異本が生じた原因でもあろう。それで天武帝が帝紀の内容を統一しようとしたのが天武十年の詔勅で、それが後に『古事記』『日本書紀』として結実したわけだ。

なぜ舒明天皇がはずされているのか
以上のように、政治的な事情としては舒明天皇まではOKで、系譜だけなら舒明天皇以降ですらOKなのだから、もし様々な帝紀の異本のうち、どれか一つでも舒明天皇以降までの部分があったなら、『古事記』の最後も舒明天皇までは余裕で含まれたと思われる。帝紀は初めは「ある特定の役割の者」が天皇代替わりの度に代々書き足してゆくものだったろうが、何らかの理由で推古天皇で打ち切られ、後は完成した一つの書物として写本が作られるだけになったものと推測する。この謎を解くにはこれ以外に考えようがない。で、なぜ帝紀が推古天皇で終わっていたのかだが、次の舒明天皇の時に、「天皇代替わりの度にされていた帝紀への書き足し」が停止されたからということになる。ではなぜ舒明天皇の時にそんなことになったのか。

帝紀は「いわゆる書物」ではない?
帝紀(帝皇日継)とは本来なんだったのかというと、もちろんそれは語部(かたりべ)の記録である。語部の記録という言い方は矛盾に聞こえるかもしれないが、語部は宮中の重大な祭儀や儀礼の際に、舞台上で儀式の由来譚を「語る」のが仕事であって、稗田氏が猿女(歌舞で仕える巫女)の氏族でもあるようにその語りには歌舞や演劇が付随したろう。従って語部には「台本」のようなものがあったと考えられる。現代の演劇でも台本はあるが役者はそれを「暗唱」するわけである。「語部は『暗唱する者』だから文字記録は関係ない」という思い込みは誤りである。だからこそ天武十年、帝紀(帝皇日継)の記定に語部の稗田阿礼28歳が召しだされたのだろう。古くは文字化されず、それこそ語部の脳内記憶として伝承されたんだろうが、漢字が伝来してからは文字化もされて、代々書き継がれて推古天皇に至った。ただし、文字化されたといっても、基本的には語部の台本なので真の原本は語部の脳内にあり、文字化する際には文字化する人の語り癖や書き癖などの個性がかなり反映されることになる。これは書物にみえても本質的には「書物」なのではなく、文字を介しての「口承」であって、書かれたものが本体ではなく文字を読みあげたその声が本体だからである。そのため、書物としてみた場合にはかなり差異のある様々な写本ができてしまっただろう。また語部というのはライブで聞かせるものだから、同じ歴史を語るにも、客層に応じて毎回語る部分と略する部分が違ってくる。別の話を脇から挿入すると細部で矛盾が出ることが多いが、それも適宜辻褄あわせしてると、同じ帝紀といってもいろいろな違いが出来てくるわけだ。

語部(かたりべ)の廃止と史官(記録官)の創設
語部は古伝承を伝えるのが本業で神道と結びついており、現在の日本のように神仏儒が和合するようになる以前の日本では、語部は神祇派に属しておって、仏教派とは相性がよくない。他にも儒教派がいた。仏教伝来以前にも、儒教をめぐっての対立が仁徳天皇の頃からずっとあって、皇位継承の争いや貴族の謀反などにも絡んでいる(儒教派が漢文を広めるために語部と対立したことは他の記事で書いた)。日本人全般に儒教が受け入れられるようになったのは雄略天皇の頃からと思われる。仏教も同じく、日本人全般に許容されたのは大化改新からだろう。それまでは神道派と仏教派で血みどろの戦いがあったんで、物部と蘇我の戦いの後も負けたからといっていきなり改宗するわけもなく、ますます仏教徒を憎んだだけだろう。最初からいきなり日本人が仏教徒になったわけではない。現代ですら、一般論ではキリスト教を悪いものだとは誰も思ってないだろうが、それでも皇族がミッション系の大学に進学すると苦言を呈する人はいくらでもいるじゃないか。ましてや当時は儒教も仏教も「日本に根付く前」の話であり、儒教や仏教に熱心な天皇や皇族がいると必ずそれに反対する勢力が形成されたのである。
雄略天皇以降は儒教は日本に根付いたので「儒教派」と「神道派」の対立というのはなくなったが、欽明天皇以降は「神道派」と「仏教派」というのができていた。仏教派にとっては語部というのは神道派の巣窟であるから何とかこれを弱めたい。それで舒明天皇の時に「語部」の職掌のかなりの部分が廃止されたのだろう。天皇の御世の記録は歴史として後世に伝えるために語部が暗唱し、漢字伝来以降は記録もしていたと思われる。漢文の得意な帰化人系の氏族が古くから下っ端の書記係を務め、これを史(ふびと)といって政治機関の各所で活躍していたが、語部の言葉は漢文に翻訳すると意味がないので、史(ふびと)は使われず語部が独自に記録していたと思われる。つまり、当初は歴史編纂の仕事は語部の専権事項であった。
ところが、早ければ欽明天皇か敏達天皇の時に、遅くても推古天皇の時に、史(ふびと)にも語部の記録とは別に歴史の記録をさせるようになったと思われる(詳しいことは後述)。敏達天皇は儒教と中国式の歴史書を好んだ人で、欽明天皇の後半から皇太子として政治に参加していたらしい。中国では昔から歴史編纂のために日々記録している役人がおり、この記録に基づいて歴史書が編纂されたという。
敏達天皇は仏教を信じなかったと明記されており、崇峻天皇はよくわからないが蘇我と仲悪かったからあまり仏教に好意もなかったかも知れず、この二人は神道派だった可能性が高い。用明天皇と推古天皇は神仏両方を尊崇していた。だから史官(中国式の記録官)のような係が存在したとしても、敏達・用明・崇峻・推古の4代間は語部を廃止したりはせず併用していたのだろう。
だが次の舒明天皇は推古天皇の遺詔を蘇我氏の力で捻じ曲げて皇位にありついたために蘇我べったりで、そのため公卿百官も天皇を畏れず政務が滞ってしまった。大派王(おほまたのみこ)が「近頃は公卿百官がろくに朝廷に出勤してこない。ちゃんと出勤時間を守らせるように」と大臣(蘇我蝦夷)にいったが、大臣は従わなかったとある。政治がガタガタになればちょっと日照りがあったぐらいでも飢饉になるし、朝廷がユルいなと思って奥羽の蝦夷族が反乱を起こす有り様。にもかかわらず舒明天皇は有馬温泉やら四国の道後温泉やら遊びにでかけ、しかもそのために大嘗祭を延期したりしている。そしてこんな情況なのに、西国の民を徴発して大宮殿(百済宮)を、東国の民を徴発して大寺院(大安寺)を建造した。

国家の非常時だというのに壮大な建築にうつつをぬかして浪費するのは外国によくあるダメ君主の典型例である。他には九重の塔を建てたり設斎(仏教行事)はしている。暗君な上に仏教には熱心な人だったらしい。大宮と大寺の建造のための費用捻出のため、語部は冗官(無駄な役所)として切り捨てられたのだろう。舒明天皇としては語部に興味はないかわりに恨みもないのだが、むろん舒明帝をおだてあげて操っている黒幕は蘇我蝦夷であり、語部の廃止は仏教を布教するための蘇我氏の一手なのである。語部に代わる漢文式の帰化人記録官は早ければすで4代にわたる試用期間があり、遅くても推古朝の途中から試用されてきているので、問題ないこともわかっており、語部サイドもこの頃はすでに猿女氏・稗田氏が弱小氏族ということもあり、命令を受け入れるしかなかったのである。

「史官」の沿革
中国では周王朝の昔から王や諸侯の両脇に「右史」「左史」という記録官がいて、『礼記』によると「右史」は主君の言葉を、「左史」は主君の行動を記録したという(右史が行動で左史が言葉と逆になっている説もあるが時代や国によるのか単なる誤りか不明)。とすると右史は左脳を使うから右手で書き、左史は右脳を使うから左手で書いたんだろうか。そんなわけないかw
img_0.jpg(←右脳と左脳の画像)
右史の記録は『尚書』となり、左史の記録は『春秋』となった。時代がくだると、皇帝の日常の記録は「起居注」といい、皇帝が崩御すると「実録」という皇帝一代の歴史が書かれる。起居注はこの実録を編纂する時の資料に使われる。そして王朝交代があると、前王朝の歴代の皇帝の実録を連ねて「正史」が編纂される。日本の律令時代では右史・左史にあたるものは「内記」「外記」で、起居注にあたるものは「内記日記」という。「外記日記」というのもあるがこっちは天皇の言動の記録ではなく、役人の仕事の記録である。ちなみに、律令時代には「大学寮」という役所が官僚養成機関で今の東大みたいなもの。で、そこの学生になれるのは五位以上の貴族の子と孫、東西史部の子と孫が優先されていた。東西史部というのは、史(ふびと)というカバネをもつ約70ぐらいの帰化人系の氏族を二つに分けたもので、「東史部」は東漢(やまとのあや)氏が統括し、「西史部」は西文(かはちのふみ)氏が率いていた(西文氏は西書氏とも書く)。東漢氏は後漢の霊帝の子孫という阿知使主(あちのおみ)の子孫で、西文氏は大雀皇子(のちの仁徳天皇)やその弟の宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)の家庭教師だった王仁の子孫。阿知使主も王仁も応神天皇の時に渡来してきた人で歴史が古く、従って一族の人数も多い。この両氏の族名はヤマト(今の奈良県)を東と書き、カハチ(今の大阪府)を西と書いているわけで、これは、この両氏が並び称されてセットであることを表わしている。が、古くは倭漢(やまとのあや)・川内文(かはちのふみ)と書いていたのであり、始めの頃はセットでもなんでもなかったのである。『古語拾遺』によると履中天皇の時、「内蔵」(うちつくら)を創立し、阿知使主と王仁の二人を出納記録係にしたという。この記事が正しければ、東漢氏と西文氏がセットになった最初の例で、両氏族の始祖である二人がすでにコンビになっている。だが、まだこの段階では財宝や物資の出納記録係であって歴史記録係ではない。阿知使主は住吉中津王が反乱を起こした時に、履中天皇を救い出した三人の功臣のうちの一人だから、論功行賞の意味もあったのかもしれない。また雄略天皇の時に「大蔵」を設立して、蘇我氏を検校(管理者・責任者)として、秦氏に出納事務を管掌させ、東漢氏と西文氏を記録係としたという。ここでもセットになっている。雄略天皇は身狭村主青(むさのすぐり・あを)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみつかひ・はかとこ)を抜擢・寵愛した。この二人は江戸時代でいえば「側用人」みたいな立場だったらしい。この身狭村主氏(牟佐氏)というのは呉の孫権の息子、孫高の子孫で、東漢氏の配下の氏族だった。檜隈民使氏も東漢氏の分流。書紀にはこの二人は「史部」(ふびとべ)だとも書いてある。この二人は成り上がりだから手足になる配下が少なく、同族の東漢氏の人員や人脈、つまり史(ふびと)仲間が頼みだったろう。ところが西文氏の活躍はみえない。それで東漢氏と西文氏に差がついた。允恭天皇は「君・臣・連・直(あたへ)・造(みやつこ)・首(おびと)」の6階のカバネを制定したが、その子の雄略天皇は帰化人枠としてさらに「史(ふひと)・伎(てひと)」を追加した。これは最下級の「首」と同格と思われる。これまでの「史」は単に記録係の意味しかなかったが、これをカバネの一つとしたわけで、多くの帰化系氏族が下級とはいえ貴族に列することになった(正確には「直」までが貴族で、「造」から下は戦前でいう士族階級とか西洋でいう騎士階級とかに近いが、貴族と庶民に二分割した時の大雑把な意味で下級貴族)。この時、二氏だけが特例扱いで東漢氏は「直」、西文氏は「首」のカバネを賜った。東漢氏の方が2段階も格上の扱いになっているが、東漢氏が「直」になったのはおそらく推古朝になってからで、もともとは秦氏と同格の「造」か西文氏と同じ「首」のいずれかだったのではないかと思う。
継体天皇の頃から、百済から上番(交代)で五経博士がやってくるようになった。五経博士というのは本来は五経のそれぞれを担当する五人の博士だが、書紀には一人しかいないように書いている。むろん五経のすべてに通じている一人の博士を五経博士という言い方もあるのだろうが、おそらく多くの博士たちの首長、リーダー、トップ、代表というような地位の人物をあげているのだろう。その部下だか弟子だかの中に、五経それぞれを専門とする人々が5つのグループとしていたんだろう。偉い先生がたった一人だけで来てもしょうがないわけで。彼ら(=博士)は教師であって実務家ではない。誰に教えるのかというと、皇族貴族の師弟も本人たちが希望すれば受講できただろうが、おもな生徒は秦氏・漢氏・文氏(西文氏)といった書記官を職業とする人々だろう。だから五経それだけの能力をもった弟子たちだか部下たちだかをおおぜい率いつれてきたに違いない。朝廷(=皇室)とは別に、皇族や貴族も個人的に史(ふひと)として帰化人を召し抱えることも増えていっただろう。だから遅くても継体天皇の治世末期までには、どこの氏族でも漢字で書かれた家系の記録のようなものはもっていたと思われる。
その後、欽明天皇の頃は、五経博士と医博士と暦博士の7博士があったうちで医博士・暦博士と五経博士の中の易博士の3博士が重んじられたようであり、五経博士のうち易を除く4博士はあまり重んじられなかった(つまり儒教思想は二の次で実用的なものが重視された)。この博士たちは建前上は交代して百済に帰るはずが実際にはそのまま日本に帰化することも多かったようだが、先生稼業で実務家ではないためか、在来の史(ふびと)たちの存在意義を脅かすものではなかった。が、欽明天皇・敏達天皇の二代間に、百済系の帰化氏族で船史(ふねのふびと)の祖・王辰爾、白猪史(しらゐのふびと)の祖・胆津(いつ)、津史(つのふびと)の祖・牛が大きな功績をあげて屯倉(みやけ)の田令(監督官)や船長(港湾税務官)など各種の管轄権限を獲得し、東漢氏や西文氏の立場は微妙になってきた。特に敏達帝の元年に高句麗からの国書を王辰爾だけがみごとに解読し、東西史部は「数ばかり多くて役立たず」と天皇から叱責されたことは、東漢氏と西文氏にはこの上ない打撃となったろう。敏達帝の六年に日祀部(ひまつりべ)が創設された。これは旧来の日置部(ひおきべ)が縄文以来の原始的な手法で春分・秋分・夏至・冬至等の太陽観測をしていたのに対し、最近の中国の天文学の知識で太陽観測を始めたものだろう。これと同時に「史部」(ふひとべ)に中国式の歴史官僚としての役割も与えられた可能性はきわめて高い。しかし、敏達天皇がもし歴史官の役割を特定氏族を負わせたとしたら、その氏族は船・白猪・津の3氏から出たに相違なく、東漢氏や西文氏が採用されたとは思えないから、古代中国における「右史・左史」のような修史官の役目を特定氏族に負わせたのではなく、既存の「史部」つまり不特定の「史」(ふひと)系の諸氏族たちに自由に書かせて任意に提出させたのではないか、敏達天皇からみるとこれは実験期間、試用期間のようなものであり、任意の自由行動だから守旧派の抵抗勢力(「語部」など)からの抗議もある程度かわすことができる。
その後、用明天皇の時には押坂部史毛屎(おさかべのふひと・けくそ)が物部守屋のついていたことが書かれている。押坂部史は東漢氏の末流で、蘇我氏は白猪史らを重用していたから東漢氏は物部について挽回を狙っていたらしい。大蔵や内蔵の管理を通じてみた場合もともと東漢と西文は蘇我の配下のようなものだから、なんとか蘇我の下からの脱却の機会を狙っていたのかもしれない。しかしご存知の通り、蘇我vs物部の戦争で物部氏は滅亡してしまう。いよいよ追い詰められた東漢氏は、今度は蘇我への忠誠を再び示すため汚れ役を負わされる。東漢直駒(やまとのあやのあたへ・こま)が蘇我馬子の命令で崇峻天皇暗殺に手を下してしまったのだ。この後、ますます栄えていく蘇我氏に、東漢氏はべったりくっついて完全に忠実な配下になっていく。推古女帝の頃、隋に留学僧を派遣しているが、それに東漢氏系の人物が何人も含まれていたのは蘇我氏の口利きがあったからだろう。つまりこの頃には朝廷第一の書記官としてのかつての地位を取り戻していた。これがやがて東漢氏が朝廷の政治に直接関与していくきっかけとなるのだが、それはまた後の話。しかし西文氏は東漢氏のような挽回運動に邁進するようなたくまさしさが無く相変わらず衰退の途上にあったのではないか。東漢氏が「直」で西文氏が「首」と2段階もの格差ができたのはこの頃だろう。そして推古女帝の頃は聖徳太子の活躍した時期でもあり、『天皇記』『国記』『臣連国造伴造百八十部并公民等本記』の編纂事業の下働きとして東漢氏も駆りだされ、喜んで参加しただろう。この時東漢氏は西文氏をも仲間に誘って、格下の氏族として形式はともかく事実上の配下にしてしまったのではないかと思われる。倭漢坂上直(やまとのあやのさかのうへのあたへ)が欽明天皇陵に大柱を建立して名をあげたのは、まさに聖徳太子の編纂事業が始まったのと同年(推古二八年)の十月のことであった(敏達六年よりも、推古二八年の方が「史部」の一部を歴史官僚とした、つまり歴史官僚が始めて創設された年である可能性が高いが、敏達朝の可能性も少しはある)。聖徳太子の死去によって、歴史編纂事業は頓挫したが、東漢氏と西文氏は、そのまま名目上の歴史編纂官として蘇我邸内に職場を持ち続けたのだろう。
さて、前述の通り、舒明天皇になって、帝は西国の民を徴発して大宮殿(百済宮)を建築し、東国の民を徴発して大寺院(大安寺)を建立したが、この時、書直県(ふみのあたへ・あがた)という人が「大匠」(工事監督者・責任者)となったという。書直氏はこれまた東漢氏の分流。日本書紀の原文は「造作大宮大寺。則以百済川側為宮処。是以、西民造宮、東民作寺。便以書直県為大匠」となっている。これだと大宮と大寺の両方の大匠を兼ねているように読めるが、西文氏が出てこない。西の民は大宮、東の民は大寺となっていてその直後に書直県を大匠となす、とあるから、ここは「西民造宮」と「東民作寺」の間に脱文があり、「是以、西民造宮、便以西書某為大匠。東民作寺、便以書直県為大匠」だったのではないか(日本書紀は西文氏を西書氏と書く)。川内文氏を西文氏と書き、倭漢氏を東漢氏と書いて、あわせて東西史部というようになったのはこの頃からと思われる。

皇極朝の記事が紛れ込んでるわけ
というわけで、帝紀が推古天皇で終わっていて舒明天皇が書かれてない理由はわかるわけだが、しかし今度はそうするとなぜ「推古天皇陵の移転」という皇極天皇の時代のことが書かれているのか。ここは単に後世の追記だ、で済ませてしまうこともできるが、それだとやや面白味がない。御陵の移転先の「科長」は蘇我氏の基盤で、この移転も蘇我の全盛期のこととされている。恐らく、皇極天皇の頃に作られた写本の一つに、末尾に「なぜ推古天皇で終わっているのか」を説明する簡単な「あとがき」のようなものをつけた写本があったのではないかと想像する。蘇我氏の繁栄と横暴を述べて語部側の恨み節も少々まぜながら。『古事記』編纂の時に、そんな個人的な恨みだの関係のない蘇我氏の話だのを太安万侶が削除していったら、御陵の移転の部分だけが残ったのではないか。

舒明天皇以降の公式記録はどうなったか
以上の通り、本質的に語部資料であるはずの帝紀に推古天皇までしか載ってない理由はわかった、としよう。が、帝紀とは別に、早ければ敏達天皇以降、遅くても推古天皇以降の歴史は漢文史官「右史」「左史」ならぬ「東史」「西史」の手にまとめられていたはずではないか。それはどこにいったのか。聖徳太子が『天皇記』を編纂するための資料として持ちだされて焼失したとしても、持ちだしたのが推古朝のことだから帝紀とはもとから重複した部分であり、舒明天皇以降の分ではない。が、聖徳太子が薨去した後もその未完成草稿が蘇我邸にありつづけたということは、おそらく歴史編纂局は聖徳太子の遺業を継ぐという名目で、朝廷でなくずっと蘇我邸内に置かれていたのだろう。従って舒明天皇から大化改新までの公式記録は「乙巳の変」で蘇我邸もろとも『天皇記』と同時に焼失してしまったものと思われる。大化改新以降の分はまた公式記録が再開されただろうが、壬申の乱で近江朝の首都が戦場になったため大津宮にあったであろう公式記録も焼失・散逸してしまったのではないか。壬申の乱の後から再開された公式記録はその後、日本書紀を始めとする六国史に活用されたはずである。だから舒明天皇から壬申の乱までの記録は多くの皇族・貴族・豪族らがたまたま持ち合わせた公式記録の断片的な写本を寄せ集めて歴史を復元しなければならなかったと思われる。

結論
舒明天皇以降の帝紀はそもそも最初から存在せず、諸々の貴族・豪族たちがもっていたという各種の帝紀はすべて推古天皇までしかなかったのであろう。もとになった帝紀がそうだから『古事記』も自動的に推古天皇で終わっているのである。
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